久世湊と連絡先を交換してから、最初に困ったのは、何を送ればいいのかわからないことだった。
夜十一時十八分。
ベッドの上でスマホを持ったまま、僕は十分くらい同じ画面を眺めていた。
最後のやり取りは図書室で送った、
『よろしく』
『よろしく』
だけ。
付き合っていた相手との会話とは思えない。
いや。
僕にとっては付き合っていた相手ではない。
今日、連絡先を交換したばかりのクラスメイトだ。
そう考えると、むしろこれくらいが普通だ。
でも久世にとっては違う。
昨日まで。
いや、昨日の朝まで。
僕たちは恋人だった。
正確には五時四十三分かららしいけれど。
「……何送るんだよ」
自分で呟く。
眠い?
宿題やった?
明日何時に来る?
どれもおかしい。
僕は友達にメッセージを送るとき、こんなに悩まない。
松岡なら、
『明日の英語小テストだっけ』
で終わる。
なのに久世相手だと、一行送るだけで妙に緊張する。
これも。
前の僕の名残なのだろうか。
考えた末、僕は入力した。
『起きてる?』
送信。
三秒で既読。
『起きてる』
早い。
『何してた?』
『本』
『何読んでる?』
『昨日の続き』
『タイトルは?』
そこで返事が止まった。
一分。
二分。
『それ聞いてどうする』
僕は笑った。
『知り合い直すから』
また既読。
しばらくして、
『面接みたいだな』
『じゃあ質問します。好きな食べ物は?』
『特にない』
『嫌いな食べ物』
『しいたけ』
『意外』
『何が』
『何でも黙って食べそう』
『どういうイメージだよ』
『久世湊、十七歳。無口。成績優秀。しいたけが嫌い』
『最後いらない』
指が軽くなる。
普通に話せる。
画面越しだと、教室で向かい合うより少し楽だった。
『じゃあ次。趣味』
『読書』
『知ってる』
『知り合い直すんじゃなかったのか』
『プロフィールじゃなくて、もっと久世のこと知りたい』
送ったあと。
しまったと思った。
重い。
削除しようとした時には、もう既読がついていた。
返事は来ない。
「最悪」
枕に顔を埋める。
何で僕はこういう言い方しかできないんだ。
数分後、スマホが震えた。
『じゃあ明日、一個教える』
顔を上げる。
『何?』
『明日』
『今教えて』
『嫌だ』
『けち』
『寝ろ』
『まだ眠くない』
『嘘』
指が止まった。
『なんで?』
『眠い時のお前、句読点なくなる』
画面を見た。
自分の送った文章。
『今教えて』
『けち』
確かに句読点はない。
でも。
『そんなの前から知ってたの?』
『ああ』
『僕、自分でも知らなかった』
返事が少し遅れた。
『そういうの多い』
『何が?』
『お前が知らないお前を、俺は知ってる』
胸の奥がざわついた。
僕はしばらく、その一文を見つめた。
『それ、ちょっと怖い』
既読。
『ごめん』
すぐに来た。
僕は慌てた。
『嫌って意味じゃない』
『わかってる』
『本当に?』
『ああ』
『右手どうなってる?』
返事が止まる。
笑ってしまった。
『親指握ってるだろ』
数秒後。
『寝ろ』
僕は声を殺して笑った。
スマホを胸の上に置く。
こんな感じだったんだろうか。
前も。
夜。
同じように。
久世とくだらないやり取りをして。
笑って。
眠くなって。
おやすみと言って。
その全部を。
僕は忘れた。
スマホがもう一度震えた。
『おやすみ、律』
胸が跳ねた。
画面を二度見する。
名前。
昨日、教室で呼ばれて嫌だと言った名前。
なのに今日は。
嫌じゃなかった。
むしろ。
妙にしっくりきた。
僕は少し迷ってから返した。
『おやすみ、湊』
送ってしまってから、自分で驚いた。
初めて名前で呼んだ。
少なくとも。
今の僕にとっては。
既読はついた。
でも返事はなかった。
代わりに数秒後、
『……寝る』
とだけ来た。
点が多い。
僕はまた笑った。
*
翌朝。
教室へ入ると、久世――湊はすでに席にいた。
昨日までと違って、僕は迷わずそちらへ向かった。
「おはよう」
「おはよう」
顔を見た途端、昨夜の『おやすみ、律』を思い出した。
少し恥ずかしい。
「何」
湊が聞く。
「いや」
「顔赤い」
「赤くない」
「赤い」
「うるさい」
言い返してから。
妙な既視感。
このやり取り。
したことがある気がする。
湊も同じことを感じたのか、一瞬だけ目を細めた。
でも何も言わなかった。
「昨日言ってたやつ」
「何」
「今日一個教えるって」
「ああ」
「何?」
「放課後」
「また?」
「嫌ならいい」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ放課後」
湊は教科書を開いた。
「今じゃ駄目?」
「駄目」
「何で」
「今教えたら、お前授業聞かなくなるから」
「何それ」
「昨日も午前中、全然聞いてなかっただろ」
「見てたの?」
「見てなくてもわかる」
「どうして」
「お前、授業聞いてない時はノートの右上に四角描くから」
「は?」
慌てて数学のノートを開く。
昨日のページ。
右上。
小さな四角が三つ描いてあった。
「……怖っ」
「また言った」
「だって怖いよ」
「無意識だから仕方ないだろ」
「僕が知らないことをいちいち知ってるの、何なの」
「知るか」
湊は少し不機嫌そうに言った。
「見てたら覚えただけ」
見ていた。
その言葉が胸に残った。
僕のことを。
ずっと。
*
三時間目の体育はバスケットボールだった。
僕は運動が嫌いではない。
得意でもないけれど、普通くらい。
松岡と同じチームになり、湊は相手チーム。
「朝倉、こっち!」
パスを受ける。
ゴール下。
シュート。
外れた。
「下手!」
「うるさい!」
ボールを拾った湊が、そのまま速攻をかける。
意外と速い。
昨日聞いたプロフィールの「運動はそこそこ」は訂正したほうがいいかもしれない。
湊がシュートを決める。
「久世って運動できるんだ」
松岡に言う。
「今さら?」
「今さらなんだよ」
「ああ、そうだった」
松岡が苦笑した。
次のプレー。
僕がボールを持つ。
湊が前に来る。
「抜けると思う?」
「無理」
「即答かよ」
「右に行く」
「行かない」
「じゃあ左」
「何で両方潰すんだよ」
僕はフェイントを入れた。
右。
湊は動かない。
左。
また動かない。
「何でわかるの!」
「知ってるから」
「ずるい!」
「何が」
「僕の癖!」
湊が少し笑う。
「お前、フェイントの時だけ左肩上がる」
「それ先に言えよ!」
「敵に教える馬鹿いるか」
僕は無理やり突破しようとして。
足が滑った。
「うわっ」
床が近づく。
その前に腕を掴まれた。
強く引かれる。
身体が湊の胸にぶつかった。
汗の匂い。
体温。
近い。
一瞬、体育館の音が消えた。
「大丈夫?」
耳元で声がした。
僕は固まった。
湊の手が、僕の腰に回っている。
右手は腕。
左手は腰。
転ばないよう支えているだけ。
わかっている。
なのに。
心臓が変な音を立てた。
「律?」
名前を呼ばれた。
その瞬間。
何かが光った。
雨。
駅。
濡れた制服。
誰かの手。
同じ声。
『律』
「朝倉?」
松岡の声で戻った。
僕は湊から離れた。
「大丈夫」
「顔白いぞ」
「平気」
湊が僕の腕を掴む。
「座れ」
「いいって」
「座れ」
低い声。
逆らえなかった。
体育館の端へ移動する。
「本当に平気?」
「うん」
「頭打った?」
「打ってない」
「じゃあ何」
「わからない」
胸に手を置く。
「何か」
言うべきか迷った。
「一瞬、思い出しそうになった」
湊の顔が変わった。
「何を」
「雨」
「……」
「駅みたいな場所」
湊が黙る。
「何?」
「それ以上は?」
「わからない」
「誰かいた?」
「たぶん」
「俺?」
「顔は見えなかった。でも」
僕は湊を見る。
「声はお前だった気がする」
湊の右手。
親指を握っている。
「知ってる?」
「知らない」
「嘘」
「知らない」
「親指」
湊が手を開いた。
「癖だって言っただろ」
「何かあるんだ」
「授業戻れ」
「今体育」
「じゃあ試合戻れ」
「話そらすなよ」
「朝倉」
名字。
わざと距離を置かれた気がした。
「今はやめろ」
昨日と同じだ。
兄の話をした時と。
湊は何かを隠している。
僕のためだと言う。
でも。
僕には、それが少しずつ腹立たしくなっていた。
*
昼休み。
僕は湊の机の前に座った。
「質問」
「また?」
「今日は僕が昼飯買ってきた」
袋を置く。
クリームパン。
牛乳。
それから。
「しいたけパン」
湊が無言になる。
「購買にあった」
「嫌がらせか」
「知り合い直す記念」
「帰れ」
「食べてみたら好きになるかも」
「ならない」
「一口」
「嫌だ」
「子ども」
「お前が言うな」
僕は笑う。
その時。
湊が僕の牛乳を取った。
「何」
「こっち」
僕の手元にあった紙パックと、自分のものを交換する。
「同じじゃん」
「違う」
見る。
僕のほうは低脂肪乳。
湊のほうは普通の牛乳。
「何が違うの」
「お前、低脂肪飲むと腹痛くなる」
「え?」
「前に二回なった」
「そんなことある?」
「ある」
「僕、知らなかった」
「だから毎回俺が見てた」
「毎回?」
「購買で買う時」
「そこまで?」
湊は気まずそうに視線を逸らす。
僕は牛乳を持ったまま、急に笑えなくなった。
「ねえ」
「何」
「僕さ」
一度言葉を切る。
「久世――じゃなくて、湊に、何してた?」
湊が僕を見る。
「何って」
「僕のことはいっぱい知ってるじゃん」
「……」
「眠い時の文章とか、パンの袋とか、授業聞いてない時の癖とか、牛乳とか」
「だから?」
「僕は」
胸が少し苦しくなった。
「湊のこと、何知ってたの」
沈黙。
「僕もちゃんと知ってた?」
自分でも。
なぜこんなことが気になるのかわからない。
もし湊だけが一方的に僕を見ていたのだとしたら。
それは。
ひどく申し訳ない気がした。
「知ってたよ」
湊が言った。
「本当?」
「ああ」
「例えば」
「しいたけ嫌い」
「昨日聞いた」
「コーヒーはブラック」
「知らない」
「朝は弱い」
「意外」
「目覚まし三つ」
「もっと意外」
「猫好き」
「アイコン海じゃん」
「猫の写真にしたらお前が笑うから」
「何で」
「顔に似合わないって」
「言いそう」
「言った」
少し嬉しくなった。
「ほかは?」
「映画館では端の席がいい」
「何で」
「途中で出られるから」
「出るの?」
「出ない」
「意味ないじゃん」
「安心する」
「変なの」
「お前もそう言った」
会話の端々に。
僕がいる。
知らない僕が。
「ほか」
「まだ聞くのか」
「聞く」
湊は少し考えた。
「左耳」
「何?」
「触られるの嫌い」
「耳?」
「ああ」
「何で」
「昔、ピアス開けようとして失敗した」
「高校生?」
「中二」
「不良じゃん」
「友達に無理やり」
「穴残ってる?」
「少し」
「見せて」
「嫌だ」
「何で」
「近い」
言われて初めて気づいた。
僕は椅子から身を乗り出していた。
湊の左耳を見る。
髪に隠れてよく見えない。
「ちょっとだけ」
「やめろ」
「見たい」
「律」
名前。
低い声。
僕の手が止まる。
湊も固まった。
数秒。
近い距離で見つめ合う。
「……ごめん」
僕が先に離れた。
「いや」
湊の耳が赤い。
左だけじゃない。
両方。
「赤い」
「うるさい」
「照れてる?」
「違う」
「右手」
「握ってない」
本当に握っていなかった。
僕は笑った。
でも。
自分の顔も熱かった。
*
放課後。
湊は約束通り、僕を連れ出した。
「どこ行くの」
「昨日聞いたろ」
「一個教えるってやつ?」
「ああ」
学校を出る。
駅とは反対方向。
住宅街を十分ほど歩く。
古い商店街。
その端に、小さな喫茶店があった。
木の看板。
曇ったガラス。
『喫茶アオ』
「ここ?」
「ああ」
「僕、来たことある?」
「何回も」
中へ入る。
カウンター五席。
テーブル四つ。
古いレコードが流れている。
「いらっしゃい」
白髪の男性がカウンターから顔を上げた。
そして僕を見る。
「あれ」
目を細める。
「久しぶりだね、朝倉くん」
身体が固まった。
「僕のこと」
「忘れた?」
店主は笑った。
「冬から来てなかったもんな」
僕は湊を見る。
「来てたの?」
「ああ」
「二人で?」
「ああ」
「いつから」
「去年の夏」
店主が水を運んでくる。
「いつもの?」
湊を見る。
「俺は」
それから僕を見る。
少し迷った。
「律は?」
店主が笑う。
「朝倉くんは固いプリンだろ」
僕は息を呑んだ。
「覚えてるんですか」
「そりゃ覚えてるよ。毎回同じもの頼むんだから」
「毎回?」
「久世くんがコーヒー、朝倉くんがプリン。たまに二人でホットサンド」
知らない。
僕の知らない二人が。
ここにいた。
「それでお願いします」
湊が言った。
窓際のテーブルへ座る。
僕は店内を見回した。
「全然思い出さない」
「無理するな」
「でも、変な感じ」
「何が」
「知らない場所じゃない気がする」
壁の時計。
古いポスター。
窓際の観葉植物。
レジ横に積まれたマッチ箱。
初めて見る。
なのに。
落ち着く。
「ここで何してた?」
「話してた」
「何を」
「いろいろ」
「またそれ」
「本読んだり」
「二人で来て本読むの?」
「お前が勝手に読んでた」
「湊は?」
「見てた」
「本を?」
「お前を」
さらっと言われた。
心臓が止まりそうになる。
「……そういうの急に言うのやめて」
「質問したのそっちだろ」
「普通、本って答えるだろ」
「嘘になる」
「真面目か」
湊は目を逸らした。
やっぱり耳が赤い。
プリンが運ばれてくる。
銀色の脚付き皿。
見るからに固そうだ。
「うまそう」
「同じこと言ってた」
「また?」
「ああ」
一口食べる。
卵が濃い。
カラメルはかなり苦い。
「好き」
「知ってる」
「それ禁止」
「何が」
「『知ってる』」
湊が眉を上げる。
「だって知ってる」
「僕が何か言うたびにそれ言われると悔しい」
「じゃあ忘れなきゃいいだろ」
言った直後。
湊の顔が固まった。
僕のスプーンも止まる。
「……悪い」
「ううん」
「今のは」
「いいよ」
でも。
空気が少し重くなった。
湊はコーヒーを飲む。
僕はプリンを食べる。
「湊」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「僕に」
「怒ってない」
「本当に?」
「ああ」
「一回も?」
湊は答えなかった。
「忘れられた時」
「……」
「怒らなかった?」
「怒った」
少し驚いた。
「どういうふうに」
「一回目は」
コーヒーカップを見つめる。
「ふざけるなって思った」
「僕に?」
「自分に」
「何で」
「嫌われたんだと思ったから」
胸が痛む。
「二回目は?」
「怖かった」
「三回目は?」
「……」
「昨日」
湊はゆっくり息を吐いた。
「やっぱりなって思った」
「それだけ?」
「ああ」
「嘘」
右手を見る。
親指は握られていない。
じゃあ。
本当なのか。
「諦めてたから」
「何を」
「お前に忘れられること」
苦い。
プリンのカラメルが。
さっきまでおいしかったのに。
「そんな言い方するなよ」
「事実だろ」
「僕だって好きで忘れたわけじゃない」
「わかってる」
「じゃあ」
「だから怒ってない」
「それが嫌だ」
自分でも意外な声が出た。
「何で全部受け入れるの」
湊が僕を見る。
「僕が忘れても。写真消せって言っても。思い出させるなって言っても」
「……」
「湊は全部言うこと聞いて」
「律」
「何?」
「俺は」
彼は言葉を選ぶように黙った。
「お前が思ってるほど優しくない」
「どういう意味」
「俺は自分のためにやってる」
「何を」
「そばにいること」
胸が鳴った。
「好きって言わなければ、お前は忘れないかもしれない」
「……」
「だったら言わない」
「でもそれ」
「俺がそうしたいだけだ」
湊は僕を見る。
「お前のためじゃない」
それはたぶん。
優しくない言葉のふりをした。
すごく優しい言葉だった。
僕は視線を落とす。
「ずるい」
「何が」
「そういうこと言うの」
「言わせたのはお前」
「そうだけど」
プリンをもう一口。
やっぱり苦い。
*
店を出た頃には、外は薄暗くなっていた。
「これが教えるって言ってた一個?」
「ああ」
「喫茶店?」
「違う」
「じゃあ何」
湊が足を止める。
商店街の端。
古い街灯の下。
「ここ」
「ここ?」
「去年」
湊は地面を見る。
「初めてお前が俺の名前呼んだ」
息が止まる。
「湊って?」
「ああ」
「いつまで久世だったの」
「知り合って二か月くらい」
「長いな」
「お互いな」
「湊は僕を?」
「朝倉」
「ずっと?」
「……いや」
「いつから律?」
聞くと。
湊が黙った。
「何」
「言わなくていいだろ」
「気になる」
「もっと後」
「いつ」
「秋」
「何があったの」
沈黙。
「湊」
「雨の日」
体育館で見えたもの。
雨。
駅。
声。
僕は思わず彼を見る。
「それ」
「何」
「今日、思い出しかけた」
湊の顔が強張った。
「雨の日って」
「……」
「駅?」
「律」
「そうなんだ」
「違う」
「嘘」
右手。
親指を握っている。
「何があったの」
「今日はもう帰れ」
「教えてよ」
「駄目だ」
「何で!」
「お前が忘れたがってたから!」
初めて。
湊が声を荒げた。
通りを歩いていた人がこちらを見る。
僕たちは黙った。
湊が顔を伏せる。
「……悪い」
「いや」
「でも、駄目だ」
「それ、兄のことと関係ある?」
湊は答えない。
答えないことが答えだった。
「やっぱり」
「律」
「僕、何を忘れてるの」
「今は知らなくていい」
「またそれ」
「思い出すなら、自分で思い出せ」
「無茶言うなよ」
「俺の口から聞くのは違う」
「何が違うの」
湊はしばらく黙った。
それから。
「お前が泣いたから」
僕は言葉を失った。
「いつ」
「雨の日」
「僕が?」
「ああ」
「何で」
「言えない」
「僕、泣いたの?」
「ああ」
「湊の前で?」
彼は小さく頷いた。
信じられなかった。
僕は人前で泣くのが嫌いだ。
兄が死んだ時だって。
葬式では泣かなかった。
母さんにさえ。
泣いているところを見せた記憶はない。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「僕、人前で泣かないよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「あの日だけだ」
湊の目が僕を見た。
「俺も一回しか見てない」
その声が。
あまりにも静かで。
逆に本当だとわかった。
「その時」
僕の喉が乾く。
「僕、何て言った?」
湊は迷った。
「それくらいなら」
やがて口を開く。
「何」
「忘れてほしいって」
「……何を」
「その日のこと全部」
胸の奥で。
何かがひび割れた。
「それで?」
「俺は約束した」
「忘れるって?」
「ああ」
「でも湊は覚えてる」
「忘れられるわけないだろ」
初めて聞いた。
責めるような声。
怒ったような声。
僕は何も言えなかった。
「悪い」
湊が先に謝った。
「帰ろう」
歩き出す。
僕はその背中を見る。
少し離れてついていく。
知り合い直したいと思った。
湊を知りたいと思った。
でも。
知れば知るほど。
僕の知らない僕が出てくる。
パンの袋の折り方。
授業中の落書き。
眠い時の文章。
低脂肪乳。
好きなプリン。
泣き方。
僕よりずっと。
湊のほうが僕を知っている。
「湊」
呼ぶと。
彼が振り向いた。
「何」
少し迷ってから聞いた。
「僕、本当に湊のこと好きだった?」
彼の顔から表情が消えた。
「……何で聞く」
「だって」
僕は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「僕、自信なくなってきた」
「何の」
「僕は自分のことすら全然知らないのに」
声が少し震える。
「そんな僕が、誰かを好きだったって言われても」
「律」
「本当に好きだった?」
湊は長い間、答えなかった。
街灯が灯る。
車が一台、僕たちの横を通り過ぎた。
「好きだったよ」
ようやく。
湊が言った。
「どうしてわかるの」
「言われたからじゃない」
「じゃあ何で」
湊は僕を見た。
「俺の前でだけ」
一度息を吸う。
「お前、嫌なやつだったから」
「……は?」
予想外すぎて声が出た。
「何それ」
「他のやつには笑ってた」
「普通だろ」
「嫌なことされても、大丈夫って言ってた」
「それも普通」
「俺には言わなかった」
「何を」
「嫌なら嫌。腹立ったら腹立つ。帰りたくなかったら帰りたくない」
湊の声が少し柔らかくなる。
「眠かったら勝手に寝るし、俺のコーヒー飲んで苦いって文句言うし、本読んでるのに邪魔するし」
「最低じゃん」
「最低だった」
「そこ否定しろよ」
「でも」
湊が笑った。
「俺の前でだけ、ちゃんとわがままだった」
胸が。
痛いくらい鳴った。
「だからわかった」
「何が」
「お前が俺を好きだったこと」
僕は何も言えない。
知りすぎている。
この人は。
僕が自分で知らないことまで。
僕が誰にも見せなかった自分まで。
知っている。
そしてたぶん。
僕は。
そんな自分を。
この人にだけ見せていた。
「……ずるい」
「また?」
「僕は覚えてないのに」
「ああ」
「湊だけそんなの持ってるの」
「だから消そうとした」
「消えてないじゃん」
「頭の中までは無理だった」
僕は俯いた。
それから。
ほんの少しだけ。
湊の制服の袖をつまんだ。
「律?」
「何でもない」
「何でもないなら離せ」
「嫌」
自分で言って。
驚いた。
湊も驚いている。
でも。
手を離さなかった。
なぜか今は。
こうしていたかった。
「……前もやってた?」
聞く。
「ああ」
「本当に?」
「帰りたくない時」
僕は袖をつまんだまま言った。
「じゃあ今日も」
「何」
「もう少しだけ、帰りたくない」
湊は何も言わなかった。
ただ。
右手の親指だけは。
強く握られていた。
夜十一時十八分。
ベッドの上でスマホを持ったまま、僕は十分くらい同じ画面を眺めていた。
最後のやり取りは図書室で送った、
『よろしく』
『よろしく』
だけ。
付き合っていた相手との会話とは思えない。
いや。
僕にとっては付き合っていた相手ではない。
今日、連絡先を交換したばかりのクラスメイトだ。
そう考えると、むしろこれくらいが普通だ。
でも久世にとっては違う。
昨日まで。
いや、昨日の朝まで。
僕たちは恋人だった。
正確には五時四十三分かららしいけれど。
「……何送るんだよ」
自分で呟く。
眠い?
宿題やった?
明日何時に来る?
どれもおかしい。
僕は友達にメッセージを送るとき、こんなに悩まない。
松岡なら、
『明日の英語小テストだっけ』
で終わる。
なのに久世相手だと、一行送るだけで妙に緊張する。
これも。
前の僕の名残なのだろうか。
考えた末、僕は入力した。
『起きてる?』
送信。
三秒で既読。
『起きてる』
早い。
『何してた?』
『本』
『何読んでる?』
『昨日の続き』
『タイトルは?』
そこで返事が止まった。
一分。
二分。
『それ聞いてどうする』
僕は笑った。
『知り合い直すから』
また既読。
しばらくして、
『面接みたいだな』
『じゃあ質問します。好きな食べ物は?』
『特にない』
『嫌いな食べ物』
『しいたけ』
『意外』
『何が』
『何でも黙って食べそう』
『どういうイメージだよ』
『久世湊、十七歳。無口。成績優秀。しいたけが嫌い』
『最後いらない』
指が軽くなる。
普通に話せる。
画面越しだと、教室で向かい合うより少し楽だった。
『じゃあ次。趣味』
『読書』
『知ってる』
『知り合い直すんじゃなかったのか』
『プロフィールじゃなくて、もっと久世のこと知りたい』
送ったあと。
しまったと思った。
重い。
削除しようとした時には、もう既読がついていた。
返事は来ない。
「最悪」
枕に顔を埋める。
何で僕はこういう言い方しかできないんだ。
数分後、スマホが震えた。
『じゃあ明日、一個教える』
顔を上げる。
『何?』
『明日』
『今教えて』
『嫌だ』
『けち』
『寝ろ』
『まだ眠くない』
『嘘』
指が止まった。
『なんで?』
『眠い時のお前、句読点なくなる』
画面を見た。
自分の送った文章。
『今教えて』
『けち』
確かに句読点はない。
でも。
『そんなの前から知ってたの?』
『ああ』
『僕、自分でも知らなかった』
返事が少し遅れた。
『そういうの多い』
『何が?』
『お前が知らないお前を、俺は知ってる』
胸の奥がざわついた。
僕はしばらく、その一文を見つめた。
『それ、ちょっと怖い』
既読。
『ごめん』
すぐに来た。
僕は慌てた。
『嫌って意味じゃない』
『わかってる』
『本当に?』
『ああ』
『右手どうなってる?』
返事が止まる。
笑ってしまった。
『親指握ってるだろ』
数秒後。
『寝ろ』
僕は声を殺して笑った。
スマホを胸の上に置く。
こんな感じだったんだろうか。
前も。
夜。
同じように。
久世とくだらないやり取りをして。
笑って。
眠くなって。
おやすみと言って。
その全部を。
僕は忘れた。
スマホがもう一度震えた。
『おやすみ、律』
胸が跳ねた。
画面を二度見する。
名前。
昨日、教室で呼ばれて嫌だと言った名前。
なのに今日は。
嫌じゃなかった。
むしろ。
妙にしっくりきた。
僕は少し迷ってから返した。
『おやすみ、湊』
送ってしまってから、自分で驚いた。
初めて名前で呼んだ。
少なくとも。
今の僕にとっては。
既読はついた。
でも返事はなかった。
代わりに数秒後、
『……寝る』
とだけ来た。
点が多い。
僕はまた笑った。
*
翌朝。
教室へ入ると、久世――湊はすでに席にいた。
昨日までと違って、僕は迷わずそちらへ向かった。
「おはよう」
「おはよう」
顔を見た途端、昨夜の『おやすみ、律』を思い出した。
少し恥ずかしい。
「何」
湊が聞く。
「いや」
「顔赤い」
「赤くない」
「赤い」
「うるさい」
言い返してから。
妙な既視感。
このやり取り。
したことがある気がする。
湊も同じことを感じたのか、一瞬だけ目を細めた。
でも何も言わなかった。
「昨日言ってたやつ」
「何」
「今日一個教えるって」
「ああ」
「何?」
「放課後」
「また?」
「嫌ならいい」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ放課後」
湊は教科書を開いた。
「今じゃ駄目?」
「駄目」
「何で」
「今教えたら、お前授業聞かなくなるから」
「何それ」
「昨日も午前中、全然聞いてなかっただろ」
「見てたの?」
「見てなくてもわかる」
「どうして」
「お前、授業聞いてない時はノートの右上に四角描くから」
「は?」
慌てて数学のノートを開く。
昨日のページ。
右上。
小さな四角が三つ描いてあった。
「……怖っ」
「また言った」
「だって怖いよ」
「無意識だから仕方ないだろ」
「僕が知らないことをいちいち知ってるの、何なの」
「知るか」
湊は少し不機嫌そうに言った。
「見てたら覚えただけ」
見ていた。
その言葉が胸に残った。
僕のことを。
ずっと。
*
三時間目の体育はバスケットボールだった。
僕は運動が嫌いではない。
得意でもないけれど、普通くらい。
松岡と同じチームになり、湊は相手チーム。
「朝倉、こっち!」
パスを受ける。
ゴール下。
シュート。
外れた。
「下手!」
「うるさい!」
ボールを拾った湊が、そのまま速攻をかける。
意外と速い。
昨日聞いたプロフィールの「運動はそこそこ」は訂正したほうがいいかもしれない。
湊がシュートを決める。
「久世って運動できるんだ」
松岡に言う。
「今さら?」
「今さらなんだよ」
「ああ、そうだった」
松岡が苦笑した。
次のプレー。
僕がボールを持つ。
湊が前に来る。
「抜けると思う?」
「無理」
「即答かよ」
「右に行く」
「行かない」
「じゃあ左」
「何で両方潰すんだよ」
僕はフェイントを入れた。
右。
湊は動かない。
左。
また動かない。
「何でわかるの!」
「知ってるから」
「ずるい!」
「何が」
「僕の癖!」
湊が少し笑う。
「お前、フェイントの時だけ左肩上がる」
「それ先に言えよ!」
「敵に教える馬鹿いるか」
僕は無理やり突破しようとして。
足が滑った。
「うわっ」
床が近づく。
その前に腕を掴まれた。
強く引かれる。
身体が湊の胸にぶつかった。
汗の匂い。
体温。
近い。
一瞬、体育館の音が消えた。
「大丈夫?」
耳元で声がした。
僕は固まった。
湊の手が、僕の腰に回っている。
右手は腕。
左手は腰。
転ばないよう支えているだけ。
わかっている。
なのに。
心臓が変な音を立てた。
「律?」
名前を呼ばれた。
その瞬間。
何かが光った。
雨。
駅。
濡れた制服。
誰かの手。
同じ声。
『律』
「朝倉?」
松岡の声で戻った。
僕は湊から離れた。
「大丈夫」
「顔白いぞ」
「平気」
湊が僕の腕を掴む。
「座れ」
「いいって」
「座れ」
低い声。
逆らえなかった。
体育館の端へ移動する。
「本当に平気?」
「うん」
「頭打った?」
「打ってない」
「じゃあ何」
「わからない」
胸に手を置く。
「何か」
言うべきか迷った。
「一瞬、思い出しそうになった」
湊の顔が変わった。
「何を」
「雨」
「……」
「駅みたいな場所」
湊が黙る。
「何?」
「それ以上は?」
「わからない」
「誰かいた?」
「たぶん」
「俺?」
「顔は見えなかった。でも」
僕は湊を見る。
「声はお前だった気がする」
湊の右手。
親指を握っている。
「知ってる?」
「知らない」
「嘘」
「知らない」
「親指」
湊が手を開いた。
「癖だって言っただろ」
「何かあるんだ」
「授業戻れ」
「今体育」
「じゃあ試合戻れ」
「話そらすなよ」
「朝倉」
名字。
わざと距離を置かれた気がした。
「今はやめろ」
昨日と同じだ。
兄の話をした時と。
湊は何かを隠している。
僕のためだと言う。
でも。
僕には、それが少しずつ腹立たしくなっていた。
*
昼休み。
僕は湊の机の前に座った。
「質問」
「また?」
「今日は僕が昼飯買ってきた」
袋を置く。
クリームパン。
牛乳。
それから。
「しいたけパン」
湊が無言になる。
「購買にあった」
「嫌がらせか」
「知り合い直す記念」
「帰れ」
「食べてみたら好きになるかも」
「ならない」
「一口」
「嫌だ」
「子ども」
「お前が言うな」
僕は笑う。
その時。
湊が僕の牛乳を取った。
「何」
「こっち」
僕の手元にあった紙パックと、自分のものを交換する。
「同じじゃん」
「違う」
見る。
僕のほうは低脂肪乳。
湊のほうは普通の牛乳。
「何が違うの」
「お前、低脂肪飲むと腹痛くなる」
「え?」
「前に二回なった」
「そんなことある?」
「ある」
「僕、知らなかった」
「だから毎回俺が見てた」
「毎回?」
「購買で買う時」
「そこまで?」
湊は気まずそうに視線を逸らす。
僕は牛乳を持ったまま、急に笑えなくなった。
「ねえ」
「何」
「僕さ」
一度言葉を切る。
「久世――じゃなくて、湊に、何してた?」
湊が僕を見る。
「何って」
「僕のことはいっぱい知ってるじゃん」
「……」
「眠い時の文章とか、パンの袋とか、授業聞いてない時の癖とか、牛乳とか」
「だから?」
「僕は」
胸が少し苦しくなった。
「湊のこと、何知ってたの」
沈黙。
「僕もちゃんと知ってた?」
自分でも。
なぜこんなことが気になるのかわからない。
もし湊だけが一方的に僕を見ていたのだとしたら。
それは。
ひどく申し訳ない気がした。
「知ってたよ」
湊が言った。
「本当?」
「ああ」
「例えば」
「しいたけ嫌い」
「昨日聞いた」
「コーヒーはブラック」
「知らない」
「朝は弱い」
「意外」
「目覚まし三つ」
「もっと意外」
「猫好き」
「アイコン海じゃん」
「猫の写真にしたらお前が笑うから」
「何で」
「顔に似合わないって」
「言いそう」
「言った」
少し嬉しくなった。
「ほかは?」
「映画館では端の席がいい」
「何で」
「途中で出られるから」
「出るの?」
「出ない」
「意味ないじゃん」
「安心する」
「変なの」
「お前もそう言った」
会話の端々に。
僕がいる。
知らない僕が。
「ほか」
「まだ聞くのか」
「聞く」
湊は少し考えた。
「左耳」
「何?」
「触られるの嫌い」
「耳?」
「ああ」
「何で」
「昔、ピアス開けようとして失敗した」
「高校生?」
「中二」
「不良じゃん」
「友達に無理やり」
「穴残ってる?」
「少し」
「見せて」
「嫌だ」
「何で」
「近い」
言われて初めて気づいた。
僕は椅子から身を乗り出していた。
湊の左耳を見る。
髪に隠れてよく見えない。
「ちょっとだけ」
「やめろ」
「見たい」
「律」
名前。
低い声。
僕の手が止まる。
湊も固まった。
数秒。
近い距離で見つめ合う。
「……ごめん」
僕が先に離れた。
「いや」
湊の耳が赤い。
左だけじゃない。
両方。
「赤い」
「うるさい」
「照れてる?」
「違う」
「右手」
「握ってない」
本当に握っていなかった。
僕は笑った。
でも。
自分の顔も熱かった。
*
放課後。
湊は約束通り、僕を連れ出した。
「どこ行くの」
「昨日聞いたろ」
「一個教えるってやつ?」
「ああ」
学校を出る。
駅とは反対方向。
住宅街を十分ほど歩く。
古い商店街。
その端に、小さな喫茶店があった。
木の看板。
曇ったガラス。
『喫茶アオ』
「ここ?」
「ああ」
「僕、来たことある?」
「何回も」
中へ入る。
カウンター五席。
テーブル四つ。
古いレコードが流れている。
「いらっしゃい」
白髪の男性がカウンターから顔を上げた。
そして僕を見る。
「あれ」
目を細める。
「久しぶりだね、朝倉くん」
身体が固まった。
「僕のこと」
「忘れた?」
店主は笑った。
「冬から来てなかったもんな」
僕は湊を見る。
「来てたの?」
「ああ」
「二人で?」
「ああ」
「いつから」
「去年の夏」
店主が水を運んでくる。
「いつもの?」
湊を見る。
「俺は」
それから僕を見る。
少し迷った。
「律は?」
店主が笑う。
「朝倉くんは固いプリンだろ」
僕は息を呑んだ。
「覚えてるんですか」
「そりゃ覚えてるよ。毎回同じもの頼むんだから」
「毎回?」
「久世くんがコーヒー、朝倉くんがプリン。たまに二人でホットサンド」
知らない。
僕の知らない二人が。
ここにいた。
「それでお願いします」
湊が言った。
窓際のテーブルへ座る。
僕は店内を見回した。
「全然思い出さない」
「無理するな」
「でも、変な感じ」
「何が」
「知らない場所じゃない気がする」
壁の時計。
古いポスター。
窓際の観葉植物。
レジ横に積まれたマッチ箱。
初めて見る。
なのに。
落ち着く。
「ここで何してた?」
「話してた」
「何を」
「いろいろ」
「またそれ」
「本読んだり」
「二人で来て本読むの?」
「お前が勝手に読んでた」
「湊は?」
「見てた」
「本を?」
「お前を」
さらっと言われた。
心臓が止まりそうになる。
「……そういうの急に言うのやめて」
「質問したのそっちだろ」
「普通、本って答えるだろ」
「嘘になる」
「真面目か」
湊は目を逸らした。
やっぱり耳が赤い。
プリンが運ばれてくる。
銀色の脚付き皿。
見るからに固そうだ。
「うまそう」
「同じこと言ってた」
「また?」
「ああ」
一口食べる。
卵が濃い。
カラメルはかなり苦い。
「好き」
「知ってる」
「それ禁止」
「何が」
「『知ってる』」
湊が眉を上げる。
「だって知ってる」
「僕が何か言うたびにそれ言われると悔しい」
「じゃあ忘れなきゃいいだろ」
言った直後。
湊の顔が固まった。
僕のスプーンも止まる。
「……悪い」
「ううん」
「今のは」
「いいよ」
でも。
空気が少し重くなった。
湊はコーヒーを飲む。
僕はプリンを食べる。
「湊」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「僕に」
「怒ってない」
「本当に?」
「ああ」
「一回も?」
湊は答えなかった。
「忘れられた時」
「……」
「怒らなかった?」
「怒った」
少し驚いた。
「どういうふうに」
「一回目は」
コーヒーカップを見つめる。
「ふざけるなって思った」
「僕に?」
「自分に」
「何で」
「嫌われたんだと思ったから」
胸が痛む。
「二回目は?」
「怖かった」
「三回目は?」
「……」
「昨日」
湊はゆっくり息を吐いた。
「やっぱりなって思った」
「それだけ?」
「ああ」
「嘘」
右手を見る。
親指は握られていない。
じゃあ。
本当なのか。
「諦めてたから」
「何を」
「お前に忘れられること」
苦い。
プリンのカラメルが。
さっきまでおいしかったのに。
「そんな言い方するなよ」
「事実だろ」
「僕だって好きで忘れたわけじゃない」
「わかってる」
「じゃあ」
「だから怒ってない」
「それが嫌だ」
自分でも意外な声が出た。
「何で全部受け入れるの」
湊が僕を見る。
「僕が忘れても。写真消せって言っても。思い出させるなって言っても」
「……」
「湊は全部言うこと聞いて」
「律」
「何?」
「俺は」
彼は言葉を選ぶように黙った。
「お前が思ってるほど優しくない」
「どういう意味」
「俺は自分のためにやってる」
「何を」
「そばにいること」
胸が鳴った。
「好きって言わなければ、お前は忘れないかもしれない」
「……」
「だったら言わない」
「でもそれ」
「俺がそうしたいだけだ」
湊は僕を見る。
「お前のためじゃない」
それはたぶん。
優しくない言葉のふりをした。
すごく優しい言葉だった。
僕は視線を落とす。
「ずるい」
「何が」
「そういうこと言うの」
「言わせたのはお前」
「そうだけど」
プリンをもう一口。
やっぱり苦い。
*
店を出た頃には、外は薄暗くなっていた。
「これが教えるって言ってた一個?」
「ああ」
「喫茶店?」
「違う」
「じゃあ何」
湊が足を止める。
商店街の端。
古い街灯の下。
「ここ」
「ここ?」
「去年」
湊は地面を見る。
「初めてお前が俺の名前呼んだ」
息が止まる。
「湊って?」
「ああ」
「いつまで久世だったの」
「知り合って二か月くらい」
「長いな」
「お互いな」
「湊は僕を?」
「朝倉」
「ずっと?」
「……いや」
「いつから律?」
聞くと。
湊が黙った。
「何」
「言わなくていいだろ」
「気になる」
「もっと後」
「いつ」
「秋」
「何があったの」
沈黙。
「湊」
「雨の日」
体育館で見えたもの。
雨。
駅。
声。
僕は思わず彼を見る。
「それ」
「何」
「今日、思い出しかけた」
湊の顔が強張った。
「雨の日って」
「……」
「駅?」
「律」
「そうなんだ」
「違う」
「嘘」
右手。
親指を握っている。
「何があったの」
「今日はもう帰れ」
「教えてよ」
「駄目だ」
「何で!」
「お前が忘れたがってたから!」
初めて。
湊が声を荒げた。
通りを歩いていた人がこちらを見る。
僕たちは黙った。
湊が顔を伏せる。
「……悪い」
「いや」
「でも、駄目だ」
「それ、兄のことと関係ある?」
湊は答えない。
答えないことが答えだった。
「やっぱり」
「律」
「僕、何を忘れてるの」
「今は知らなくていい」
「またそれ」
「思い出すなら、自分で思い出せ」
「無茶言うなよ」
「俺の口から聞くのは違う」
「何が違うの」
湊はしばらく黙った。
それから。
「お前が泣いたから」
僕は言葉を失った。
「いつ」
「雨の日」
「僕が?」
「ああ」
「何で」
「言えない」
「僕、泣いたの?」
「ああ」
「湊の前で?」
彼は小さく頷いた。
信じられなかった。
僕は人前で泣くのが嫌いだ。
兄が死んだ時だって。
葬式では泣かなかった。
母さんにさえ。
泣いているところを見せた記憶はない。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「僕、人前で泣かないよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「あの日だけだ」
湊の目が僕を見た。
「俺も一回しか見てない」
その声が。
あまりにも静かで。
逆に本当だとわかった。
「その時」
僕の喉が乾く。
「僕、何て言った?」
湊は迷った。
「それくらいなら」
やがて口を開く。
「何」
「忘れてほしいって」
「……何を」
「その日のこと全部」
胸の奥で。
何かがひび割れた。
「それで?」
「俺は約束した」
「忘れるって?」
「ああ」
「でも湊は覚えてる」
「忘れられるわけないだろ」
初めて聞いた。
責めるような声。
怒ったような声。
僕は何も言えなかった。
「悪い」
湊が先に謝った。
「帰ろう」
歩き出す。
僕はその背中を見る。
少し離れてついていく。
知り合い直したいと思った。
湊を知りたいと思った。
でも。
知れば知るほど。
僕の知らない僕が出てくる。
パンの袋の折り方。
授業中の落書き。
眠い時の文章。
低脂肪乳。
好きなプリン。
泣き方。
僕よりずっと。
湊のほうが僕を知っている。
「湊」
呼ぶと。
彼が振り向いた。
「何」
少し迷ってから聞いた。
「僕、本当に湊のこと好きだった?」
彼の顔から表情が消えた。
「……何で聞く」
「だって」
僕は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「僕、自信なくなってきた」
「何の」
「僕は自分のことすら全然知らないのに」
声が少し震える。
「そんな僕が、誰かを好きだったって言われても」
「律」
「本当に好きだった?」
湊は長い間、答えなかった。
街灯が灯る。
車が一台、僕たちの横を通り過ぎた。
「好きだったよ」
ようやく。
湊が言った。
「どうしてわかるの」
「言われたからじゃない」
「じゃあ何で」
湊は僕を見た。
「俺の前でだけ」
一度息を吸う。
「お前、嫌なやつだったから」
「……は?」
予想外すぎて声が出た。
「何それ」
「他のやつには笑ってた」
「普通だろ」
「嫌なことされても、大丈夫って言ってた」
「それも普通」
「俺には言わなかった」
「何を」
「嫌なら嫌。腹立ったら腹立つ。帰りたくなかったら帰りたくない」
湊の声が少し柔らかくなる。
「眠かったら勝手に寝るし、俺のコーヒー飲んで苦いって文句言うし、本読んでるのに邪魔するし」
「最低じゃん」
「最低だった」
「そこ否定しろよ」
「でも」
湊が笑った。
「俺の前でだけ、ちゃんとわがままだった」
胸が。
痛いくらい鳴った。
「だからわかった」
「何が」
「お前が俺を好きだったこと」
僕は何も言えない。
知りすぎている。
この人は。
僕が自分で知らないことまで。
僕が誰にも見せなかった自分まで。
知っている。
そしてたぶん。
僕は。
そんな自分を。
この人にだけ見せていた。
「……ずるい」
「また?」
「僕は覚えてないのに」
「ああ」
「湊だけそんなの持ってるの」
「だから消そうとした」
「消えてないじゃん」
「頭の中までは無理だった」
僕は俯いた。
それから。
ほんの少しだけ。
湊の制服の袖をつまんだ。
「律?」
「何でもない」
「何でもないなら離せ」
「嫌」
自分で言って。
驚いた。
湊も驚いている。
でも。
手を離さなかった。
なぜか今は。
こうしていたかった。
「……前もやってた?」
聞く。
「ああ」
「本当に?」
「帰りたくない時」
僕は袖をつまんだまま言った。
「じゃあ今日も」
「何」
「もう少しだけ、帰りたくない」
湊は何も言わなかった。
ただ。
右手の親指だけは。
強く握られていた。



