告白されたら、君を忘れる

 久世湊と連絡先を交換してから、最初に困ったのは、何を送ればいいのかわからないことだった。

 夜十一時十八分。

 ベッドの上でスマホを持ったまま、僕は十分くらい同じ画面を眺めていた。

 最後のやり取りは図書室で送った、

『よろしく』

『よろしく』

 だけ。

 付き合っていた相手との会話とは思えない。

 いや。

 僕にとっては付き合っていた相手ではない。

 今日、連絡先を交換したばかりのクラスメイトだ。

 そう考えると、むしろこれくらいが普通だ。

 でも久世にとっては違う。

 昨日まで。

 いや、昨日の朝まで。

 僕たちは恋人だった。

 正確には五時四十三分かららしいけれど。

「……何送るんだよ」

 自分で呟く。

 眠い?

 宿題やった?

 明日何時に来る?

 どれもおかしい。

 僕は友達にメッセージを送るとき、こんなに悩まない。

 松岡なら、

『明日の英語小テストだっけ』

 で終わる。

 なのに久世相手だと、一行送るだけで妙に緊張する。

 これも。

 前の僕の名残なのだろうか。

 考えた末、僕は入力した。

『起きてる?』

 送信。

 三秒で既読。

『起きてる』

 早い。

『何してた?』

『本』

『何読んでる?』

『昨日の続き』

『タイトルは?』

 そこで返事が止まった。

 一分。

 二分。

『それ聞いてどうする』

 僕は笑った。

『知り合い直すから』

 また既読。

 しばらくして、

『面接みたいだな』

『じゃあ質問します。好きな食べ物は?』

『特にない』

『嫌いな食べ物』

『しいたけ』

『意外』

『何が』

『何でも黙って食べそう』

『どういうイメージだよ』

『久世湊、十七歳。無口。成績優秀。しいたけが嫌い』

『最後いらない』

 指が軽くなる。

 普通に話せる。

 画面越しだと、教室で向かい合うより少し楽だった。

『じゃあ次。趣味』

『読書』

『知ってる』

『知り合い直すんじゃなかったのか』

『プロフィールじゃなくて、もっと久世のこと知りたい』

 送ったあと。

 しまったと思った。

 重い。

 削除しようとした時には、もう既読がついていた。

 返事は来ない。

「最悪」

 枕に顔を埋める。

 何で僕はこういう言い方しかできないんだ。

 数分後、スマホが震えた。

『じゃあ明日、一個教える』

 顔を上げる。

『何?』

『明日』

『今教えて』

『嫌だ』

『けち』

『寝ろ』

『まだ眠くない』

『嘘』

 指が止まった。

『なんで?』

『眠い時のお前、句読点なくなる』

 画面を見た。

 自分の送った文章。

『今教えて』

『けち』

 確かに句読点はない。

 でも。

『そんなの前から知ってたの?』

『ああ』

『僕、自分でも知らなかった』

 返事が少し遅れた。

『そういうの多い』

『何が?』

『お前が知らないお前を、俺は知ってる』

 胸の奥がざわついた。

 僕はしばらく、その一文を見つめた。

『それ、ちょっと怖い』

 既読。

『ごめん』

 すぐに来た。

 僕は慌てた。

『嫌って意味じゃない』

『わかってる』

『本当に?』

『ああ』

『右手どうなってる?』

 返事が止まる。

 笑ってしまった。

『親指握ってるだろ』

 数秒後。

『寝ろ』

 僕は声を殺して笑った。

 スマホを胸の上に置く。

 こんな感じだったんだろうか。

 前も。

 夜。

 同じように。

 久世とくだらないやり取りをして。

 笑って。

 眠くなって。

 おやすみと言って。

 その全部を。

 僕は忘れた。

 スマホがもう一度震えた。

『おやすみ、律』

 胸が跳ねた。

 画面を二度見する。

 名前。

 昨日、教室で呼ばれて嫌だと言った名前。

 なのに今日は。

 嫌じゃなかった。

 むしろ。

 妙にしっくりきた。

 僕は少し迷ってから返した。

『おやすみ、湊』

 送ってしまってから、自分で驚いた。

 初めて名前で呼んだ。

 少なくとも。

 今の僕にとっては。

 既読はついた。

 でも返事はなかった。

 代わりに数秒後、

『……寝る』

 とだけ来た。

 点が多い。

 僕はまた笑った。

     *

 翌朝。

 教室へ入ると、久世――湊はすでに席にいた。

 昨日までと違って、僕は迷わずそちらへ向かった。

「おはよう」

「おはよう」

 顔を見た途端、昨夜の『おやすみ、律』を思い出した。

 少し恥ずかしい。

「何」

 湊が聞く。

「いや」

「顔赤い」

「赤くない」

「赤い」

「うるさい」

 言い返してから。

 妙な既視感。

 このやり取り。

 したことがある気がする。

 湊も同じことを感じたのか、一瞬だけ目を細めた。

 でも何も言わなかった。

「昨日言ってたやつ」

「何」

「今日一個教えるって」

「ああ」

「何?」

「放課後」

「また?」

「嫌ならいい」

「嫌とは言ってない」

「じゃあ放課後」

 湊は教科書を開いた。

「今じゃ駄目?」

「駄目」

「何で」

「今教えたら、お前授業聞かなくなるから」

「何それ」

「昨日も午前中、全然聞いてなかっただろ」

「見てたの?」

「見てなくてもわかる」

「どうして」

「お前、授業聞いてない時はノートの右上に四角描くから」

「は?」

 慌てて数学のノートを開く。

 昨日のページ。

 右上。

 小さな四角が三つ描いてあった。

「……怖っ」

「また言った」

「だって怖いよ」

「無意識だから仕方ないだろ」

「僕が知らないことをいちいち知ってるの、何なの」

「知るか」

 湊は少し不機嫌そうに言った。

「見てたら覚えただけ」

 見ていた。

 その言葉が胸に残った。

 僕のことを。

 ずっと。

     *

 三時間目の体育はバスケットボールだった。

 僕は運動が嫌いではない。

 得意でもないけれど、普通くらい。

 松岡と同じチームになり、湊は相手チーム。

「朝倉、こっち!」

 パスを受ける。

 ゴール下。

 シュート。

 外れた。

「下手!」

「うるさい!」

 ボールを拾った湊が、そのまま速攻をかける。

 意外と速い。

 昨日聞いたプロフィールの「運動はそこそこ」は訂正したほうがいいかもしれない。

 湊がシュートを決める。

「久世って運動できるんだ」

 松岡に言う。

「今さら?」

「今さらなんだよ」

「ああ、そうだった」

 松岡が苦笑した。

 次のプレー。

 僕がボールを持つ。

 湊が前に来る。

「抜けると思う?」

「無理」

「即答かよ」

「右に行く」

「行かない」

「じゃあ左」

「何で両方潰すんだよ」

 僕はフェイントを入れた。

 右。

 湊は動かない。

 左。

 また動かない。

「何でわかるの!」

「知ってるから」

「ずるい!」

「何が」

「僕の癖!」

 湊が少し笑う。

「お前、フェイントの時だけ左肩上がる」

「それ先に言えよ!」

「敵に教える馬鹿いるか」

 僕は無理やり突破しようとして。

 足が滑った。

「うわっ」

 床が近づく。

 その前に腕を掴まれた。

 強く引かれる。

 身体が湊の胸にぶつかった。

 汗の匂い。

 体温。

 近い。

 一瞬、体育館の音が消えた。

「大丈夫?」

 耳元で声がした。

 僕は固まった。

 湊の手が、僕の腰に回っている。

 右手は腕。

 左手は腰。

 転ばないよう支えているだけ。

 わかっている。

 なのに。

 心臓が変な音を立てた。

「律?」

 名前を呼ばれた。

 その瞬間。

 何かが光った。

 雨。

 駅。

 濡れた制服。

 誰かの手。

 同じ声。

『律』

「朝倉?」

 松岡の声で戻った。

 僕は湊から離れた。

「大丈夫」

「顔白いぞ」

「平気」

 湊が僕の腕を掴む。

「座れ」

「いいって」

「座れ」

 低い声。

 逆らえなかった。

 体育館の端へ移動する。

「本当に平気?」

「うん」

「頭打った?」

「打ってない」

「じゃあ何」

「わからない」

 胸に手を置く。

「何か」

 言うべきか迷った。

「一瞬、思い出しそうになった」

 湊の顔が変わった。

「何を」

「雨」

「……」

「駅みたいな場所」

 湊が黙る。

「何?」

「それ以上は?」

「わからない」

「誰かいた?」

「たぶん」

「俺?」

「顔は見えなかった。でも」

 僕は湊を見る。

「声はお前だった気がする」

 湊の右手。

 親指を握っている。

「知ってる?」

「知らない」

「嘘」

「知らない」

「親指」

 湊が手を開いた。

「癖だって言っただろ」

「何かあるんだ」

「授業戻れ」

「今体育」

「じゃあ試合戻れ」

「話そらすなよ」

「朝倉」

 名字。

 わざと距離を置かれた気がした。

「今はやめろ」

 昨日と同じだ。

 兄の話をした時と。

 湊は何かを隠している。

 僕のためだと言う。

 でも。

 僕には、それが少しずつ腹立たしくなっていた。

     *

 昼休み。

 僕は湊の机の前に座った。

「質問」

「また?」

「今日は僕が昼飯買ってきた」

 袋を置く。

 クリームパン。

 牛乳。

 それから。

「しいたけパン」

 湊が無言になる。

「購買にあった」

「嫌がらせか」

「知り合い直す記念」

「帰れ」

「食べてみたら好きになるかも」

「ならない」

「一口」

「嫌だ」

「子ども」

「お前が言うな」

 僕は笑う。

 その時。

 湊が僕の牛乳を取った。

「何」

「こっち」

 僕の手元にあった紙パックと、自分のものを交換する。

「同じじゃん」

「違う」

 見る。

 僕のほうは低脂肪乳。

 湊のほうは普通の牛乳。

「何が違うの」

「お前、低脂肪飲むと腹痛くなる」

「え?」

「前に二回なった」

「そんなことある?」

「ある」

「僕、知らなかった」

「だから毎回俺が見てた」

「毎回?」

「購買で買う時」

「そこまで?」

 湊は気まずそうに視線を逸らす。

 僕は牛乳を持ったまま、急に笑えなくなった。

「ねえ」

「何」

「僕さ」

 一度言葉を切る。

「久世――じゃなくて、湊に、何してた?」

 湊が僕を見る。

「何って」

「僕のことはいっぱい知ってるじゃん」

「……」

「眠い時の文章とか、パンの袋とか、授業聞いてない時の癖とか、牛乳とか」

「だから?」

「僕は」

 胸が少し苦しくなった。

「湊のこと、何知ってたの」

 沈黙。

「僕もちゃんと知ってた?」

 自分でも。

 なぜこんなことが気になるのかわからない。

 もし湊だけが一方的に僕を見ていたのだとしたら。

 それは。

 ひどく申し訳ない気がした。

「知ってたよ」

 湊が言った。

「本当?」

「ああ」

「例えば」

「しいたけ嫌い」

「昨日聞いた」

「コーヒーはブラック」

「知らない」

「朝は弱い」

「意外」

「目覚まし三つ」

「もっと意外」

「猫好き」

「アイコン海じゃん」

「猫の写真にしたらお前が笑うから」

「何で」

「顔に似合わないって」

「言いそう」

「言った」

 少し嬉しくなった。

「ほかは?」

「映画館では端の席がいい」

「何で」

「途中で出られるから」

「出るの?」

「出ない」

「意味ないじゃん」

「安心する」

「変なの」

「お前もそう言った」

 会話の端々に。

 僕がいる。

 知らない僕が。

「ほか」

「まだ聞くのか」

「聞く」

 湊は少し考えた。

「左耳」

「何?」

「触られるの嫌い」

「耳?」

「ああ」

「何で」

「昔、ピアス開けようとして失敗した」

「高校生?」

「中二」

「不良じゃん」

「友達に無理やり」

「穴残ってる?」

「少し」

「見せて」

「嫌だ」

「何で」

「近い」

 言われて初めて気づいた。

 僕は椅子から身を乗り出していた。

 湊の左耳を見る。

 髪に隠れてよく見えない。

「ちょっとだけ」

「やめろ」

「見たい」

「律」

 名前。

 低い声。

 僕の手が止まる。

 湊も固まった。

 数秒。

 近い距離で見つめ合う。

「……ごめん」

 僕が先に離れた。

「いや」

 湊の耳が赤い。

 左だけじゃない。

 両方。

「赤い」

「うるさい」

「照れてる?」

「違う」

「右手」

「握ってない」

 本当に握っていなかった。

 僕は笑った。

 でも。

 自分の顔も熱かった。

     *

 放課後。

 湊は約束通り、僕を連れ出した。

「どこ行くの」

「昨日聞いたろ」

「一個教えるってやつ?」

「ああ」

 学校を出る。

 駅とは反対方向。

 住宅街を十分ほど歩く。

 古い商店街。

 その端に、小さな喫茶店があった。

 木の看板。

 曇ったガラス。

『喫茶アオ』

「ここ?」

「ああ」

「僕、来たことある?」

「何回も」

 中へ入る。

 カウンター五席。

 テーブル四つ。

 古いレコードが流れている。

「いらっしゃい」

 白髪の男性がカウンターから顔を上げた。

 そして僕を見る。

「あれ」

 目を細める。

「久しぶりだね、朝倉くん」

 身体が固まった。

「僕のこと」

「忘れた?」

 店主は笑った。

「冬から来てなかったもんな」

 僕は湊を見る。

「来てたの?」

「ああ」

「二人で?」

「ああ」

「いつから」

「去年の夏」

 店主が水を運んでくる。

「いつもの?」

 湊を見る。

「俺は」

 それから僕を見る。

 少し迷った。

「律は?」

 店主が笑う。

「朝倉くんは固いプリンだろ」

 僕は息を呑んだ。

「覚えてるんですか」

「そりゃ覚えてるよ。毎回同じもの頼むんだから」

「毎回?」

「久世くんがコーヒー、朝倉くんがプリン。たまに二人でホットサンド」

 知らない。

 僕の知らない二人が。

 ここにいた。

「それでお願いします」

 湊が言った。

 窓際のテーブルへ座る。

 僕は店内を見回した。

「全然思い出さない」

「無理するな」

「でも、変な感じ」

「何が」

「知らない場所じゃない気がする」

 壁の時計。

 古いポスター。

 窓際の観葉植物。

 レジ横に積まれたマッチ箱。

 初めて見る。

 なのに。

 落ち着く。

「ここで何してた?」

「話してた」

「何を」

「いろいろ」

「またそれ」

「本読んだり」

「二人で来て本読むの?」

「お前が勝手に読んでた」

「湊は?」

「見てた」

「本を?」

「お前を」

 さらっと言われた。

 心臓が止まりそうになる。

「……そういうの急に言うのやめて」

「質問したのそっちだろ」

「普通、本って答えるだろ」

「嘘になる」

「真面目か」

 湊は目を逸らした。

 やっぱり耳が赤い。

 プリンが運ばれてくる。

 銀色の脚付き皿。

 見るからに固そうだ。

「うまそう」

「同じこと言ってた」

「また?」

「ああ」

 一口食べる。

 卵が濃い。

 カラメルはかなり苦い。

「好き」

「知ってる」

「それ禁止」

「何が」

「『知ってる』」

 湊が眉を上げる。

「だって知ってる」

「僕が何か言うたびにそれ言われると悔しい」

「じゃあ忘れなきゃいいだろ」

 言った直後。

 湊の顔が固まった。

 僕のスプーンも止まる。

「……悪い」

「ううん」

「今のは」

「いいよ」

 でも。

 空気が少し重くなった。

 湊はコーヒーを飲む。

 僕はプリンを食べる。

「湊」

「何」

「怒ってる?」

「怒ってない」

「僕に」

「怒ってない」

「本当に?」

「ああ」

「一回も?」

 湊は答えなかった。

「忘れられた時」

「……」

「怒らなかった?」

「怒った」

 少し驚いた。

「どういうふうに」

「一回目は」

 コーヒーカップを見つめる。

「ふざけるなって思った」

「僕に?」

「自分に」

「何で」

「嫌われたんだと思ったから」

 胸が痛む。

「二回目は?」

「怖かった」

「三回目は?」

「……」

「昨日」

 湊はゆっくり息を吐いた。

「やっぱりなって思った」

「それだけ?」

「ああ」

「嘘」

 右手を見る。

 親指は握られていない。

 じゃあ。

 本当なのか。

「諦めてたから」

「何を」

「お前に忘れられること」

 苦い。

 プリンのカラメルが。

 さっきまでおいしかったのに。

「そんな言い方するなよ」

「事実だろ」

「僕だって好きで忘れたわけじゃない」

「わかってる」

「じゃあ」

「だから怒ってない」

「それが嫌だ」

 自分でも意外な声が出た。

「何で全部受け入れるの」

 湊が僕を見る。

「僕が忘れても。写真消せって言っても。思い出させるなって言っても」

「……」

「湊は全部言うこと聞いて」

「律」

「何?」

「俺は」

 彼は言葉を選ぶように黙った。

「お前が思ってるほど優しくない」

「どういう意味」

「俺は自分のためにやってる」

「何を」

「そばにいること」

 胸が鳴った。

「好きって言わなければ、お前は忘れないかもしれない」

「……」

「だったら言わない」

「でもそれ」

「俺がそうしたいだけだ」

 湊は僕を見る。

「お前のためじゃない」

 それはたぶん。

 優しくない言葉のふりをした。

 すごく優しい言葉だった。

 僕は視線を落とす。

「ずるい」

「何が」

「そういうこと言うの」

「言わせたのはお前」

「そうだけど」

 プリンをもう一口。

 やっぱり苦い。

     *

 店を出た頃には、外は薄暗くなっていた。

「これが教えるって言ってた一個?」

「ああ」

「喫茶店?」

「違う」

「じゃあ何」

 湊が足を止める。

 商店街の端。

 古い街灯の下。

「ここ」

「ここ?」

「去年」

 湊は地面を見る。

「初めてお前が俺の名前呼んだ」

 息が止まる。

「湊って?」

「ああ」

「いつまで久世だったの」

「知り合って二か月くらい」

「長いな」

「お互いな」

「湊は僕を?」

「朝倉」

「ずっと?」

「……いや」

「いつから律?」

 聞くと。

 湊が黙った。

「何」

「言わなくていいだろ」

「気になる」

「もっと後」

「いつ」

「秋」

「何があったの」

 沈黙。

「湊」

「雨の日」

 体育館で見えたもの。

 雨。

 駅。

 声。

 僕は思わず彼を見る。

「それ」

「何」

「今日、思い出しかけた」

 湊の顔が強張った。

「雨の日って」

「……」

「駅?」

「律」

「そうなんだ」

「違う」

「嘘」

 右手。

 親指を握っている。

「何があったの」

「今日はもう帰れ」

「教えてよ」

「駄目だ」

「何で!」

「お前が忘れたがってたから!」

 初めて。

 湊が声を荒げた。

 通りを歩いていた人がこちらを見る。

 僕たちは黙った。

 湊が顔を伏せる。

「……悪い」

「いや」

「でも、駄目だ」

「それ、兄のことと関係ある?」

 湊は答えない。

 答えないことが答えだった。

「やっぱり」

「律」

「僕、何を忘れてるの」

「今は知らなくていい」

「またそれ」

「思い出すなら、自分で思い出せ」

「無茶言うなよ」

「俺の口から聞くのは違う」

「何が違うの」

 湊はしばらく黙った。

 それから。

「お前が泣いたから」

 僕は言葉を失った。

「いつ」

「雨の日」

「僕が?」

「ああ」

「何で」

「言えない」

「僕、泣いたの?」

「ああ」

「湊の前で?」

 彼は小さく頷いた。

 信じられなかった。

 僕は人前で泣くのが嫌いだ。

 兄が死んだ時だって。

 葬式では泣かなかった。

 母さんにさえ。

 泣いているところを見せた記憶はない。

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「僕、人前で泣かないよ」

「知ってる」

「じゃあ」

「あの日だけだ」

 湊の目が僕を見た。

「俺も一回しか見てない」

 その声が。

 あまりにも静かで。

 逆に本当だとわかった。

「その時」

 僕の喉が乾く。

「僕、何て言った?」

 湊は迷った。

「それくらいなら」

 やがて口を開く。

「何」

「忘れてほしいって」

「……何を」

「その日のこと全部」

 胸の奥で。

 何かがひび割れた。

「それで?」

「俺は約束した」

「忘れるって?」

「ああ」

「でも湊は覚えてる」

「忘れられるわけないだろ」

 初めて聞いた。

 責めるような声。

 怒ったような声。

 僕は何も言えなかった。

「悪い」

 湊が先に謝った。

「帰ろう」

 歩き出す。

 僕はその背中を見る。

 少し離れてついていく。

 知り合い直したいと思った。

 湊を知りたいと思った。

 でも。

 知れば知るほど。

 僕の知らない僕が出てくる。

 パンの袋の折り方。

 授業中の落書き。

 眠い時の文章。

 低脂肪乳。

 好きなプリン。

 泣き方。

 僕よりずっと。

 湊のほうが僕を知っている。

「湊」

 呼ぶと。

 彼が振り向いた。

「何」

 少し迷ってから聞いた。

「僕、本当に湊のこと好きだった?」

 彼の顔から表情が消えた。

「……何で聞く」

「だって」

 僕は笑おうとした。

 うまく笑えなかった。

「僕、自信なくなってきた」

「何の」

「僕は自分のことすら全然知らないのに」

 声が少し震える。

「そんな僕が、誰かを好きだったって言われても」

「律」

「本当に好きだった?」

 湊は長い間、答えなかった。

 街灯が灯る。

 車が一台、僕たちの横を通り過ぎた。

「好きだったよ」

 ようやく。

 湊が言った。

「どうしてわかるの」

「言われたからじゃない」

「じゃあ何で」

 湊は僕を見た。

「俺の前でだけ」

 一度息を吸う。

「お前、嫌なやつだったから」

「……は?」

 予想外すぎて声が出た。

「何それ」

「他のやつには笑ってた」

「普通だろ」

「嫌なことされても、大丈夫って言ってた」

「それも普通」

「俺には言わなかった」

「何を」

「嫌なら嫌。腹立ったら腹立つ。帰りたくなかったら帰りたくない」

 湊の声が少し柔らかくなる。

「眠かったら勝手に寝るし、俺のコーヒー飲んで苦いって文句言うし、本読んでるのに邪魔するし」

「最低じゃん」

「最低だった」

「そこ否定しろよ」

「でも」

 湊が笑った。

「俺の前でだけ、ちゃんとわがままだった」

 胸が。

 痛いくらい鳴った。

「だからわかった」

「何が」

「お前が俺を好きだったこと」

 僕は何も言えない。

 知りすぎている。

 この人は。

 僕が自分で知らないことまで。

 僕が誰にも見せなかった自分まで。

 知っている。

 そしてたぶん。

 僕は。

 そんな自分を。

 この人にだけ見せていた。

「……ずるい」

「また?」

「僕は覚えてないのに」

「ああ」

「湊だけそんなの持ってるの」

「だから消そうとした」

「消えてないじゃん」

「頭の中までは無理だった」

 僕は俯いた。

 それから。

 ほんの少しだけ。

 湊の制服の袖をつまんだ。

「律?」

「何でもない」

「何でもないなら離せ」

「嫌」

 自分で言って。

 驚いた。

 湊も驚いている。

 でも。

 手を離さなかった。

 なぜか今は。

 こうしていたかった。

「……前もやってた?」

 聞く。

「ああ」

「本当に?」

「帰りたくない時」

 僕は袖をつまんだまま言った。

「じゃあ今日も」

「何」

「もう少しだけ、帰りたくない」

 湊は何も言わなかった。

 ただ。

 右手の親指だけは。

 強く握られていた。