久世湊は、僕のスマホの中に存在していなかった。
連絡先。
メッセージ。
写真。
SNS。
検索履歴。
全部調べた。
それでも、どこにもいない。
昨夜、ベッドに寝転がりながら一時間以上スマホをいじった。
久世。
湊。
KUZE。
MINATO。
思いつく限りの言葉を入れた。
何も出てこない。
唯一あるのはクラスの集合写真くらいだ。
二年三組、三十六人。
当然、久世も写っている。
でもそれだけだった。
昨日まで付き合っていた。
そう本人は言う。
それどころか、僕は三回も久世を忘れているらしい。
なのに。
証拠がない。
まるで最初から、僕と久世の間には何もなかったみたいに。
午前零時を過ぎても眠れなかった。
検索をやめる。
ホーム画面に戻る。
またメッセージアプリを開く。
同じことの繰り返し。
僕は自分でも馬鹿みたいだと思いながら、今度は去年のトーク履歴を一つずつ遡った。
松岡。
母さん。
部活を辞めた先輩。
中学の友達。
クラスのグループ。
図書委員。
知らない広告アカウント。
久世はいない。
でも。
一つだけ変なものがあった。
昨年十一月三日。
午後九時十四分。
僕は誰かとのトークを削除していた。
削除した履歴そのものは残らない。
ただ、その日のスクリーンタイムを見ると、メッセージアプリを二時間四十七分も使っている。
僕にしては長い。
普段は多くても一時間程度だ。
その日は文化の日で学校は休みだった。
何をしていた?
思い出す。
午前中は家にいた。
午後は図書館へ行った。
たぶん。
いや。
本当に?
記憶を辿ろうとすると、霧の向こうを見るみたいに輪郭がぼやける。
その日のことだけじゃない。
去年の秋。
十月。
十一月。
十二月。
ところどころ、妙に薄い。
覚えていることはある。
テスト。
文化祭。
冬休み前の面談。
でも、その間をつなぐものがない。
毎日学校へ行って、帰って、飯を食って、寝た。
そういう普通の日々の記憶が、ごっそり抜けている。
それ自体は珍しくないのかもしれない。
半年前の水曜日に何をしていたかなんて、普通は覚えていない。
でも。
もし、その日に誰かを好きだったなら?
その人と何度も話していたなら?
手をつないだり。
笑ったり。
喧嘩したり。
そういうことまで、全部忘れるものなんだろうか。
画面が暗くなる。
そこに自分の顔が映った。
「……僕、本当に久世のこと好きだったのかな」
口に出してみた。
誰も答えない。
当然だ。
なのに胸だけが、妙にざわついた。
*
翌朝。
教室へ入った瞬間、僕は無意識に窓際を見た。
久世はもう来ていた。
自分の席で本を読んでいる。
昨日と同じ。
僕には目も向けない。
なんだ。
と思った。
何が「なんだ」なのか、自分でもわからなかった。
「おはよ」
松岡が後ろから来た。
「おはよう」
「顔死んでるぞ」
「寝不足」
「ゲーム?」
「違う」
僕は鞄を机に置いた。
「松岡」
「ん?」
「僕と久世って、いつ頃から仲良かった?」
松岡が露骨に嫌そうな顔をした。
「まだそれやってんの?」
「大事なんだよ」
「本人に聞けばいいだろ」
「本人はあんまり話してくれない」
「そりゃそうだろ」
「なんで」
「お前があんな態度だったら俺でもへこむわ」
「僕、そんな悪かった?」
「かなり」
松岡は椅子を引いて座った。
「久世、お前のこと好きなんだろ」
「知ってたの?」
「知らねえよ」
「今言ったじゃん」
「見てりゃわかるって意味」
僕は思わず久世を見る。
目が合った。
久世は一瞬だけこちらを見て、すぐ本へ視線を落とした。
「どこが?」
「全部」
「雑すぎる」
「じゃあ逆に聞くけど」
松岡が僕を指差した。
「お前、久世相手だと明らかに態度違ったぞ」
「どう違った」
「距離近い」
「僕、誰とでもこんな感じじゃない?」
「違う」
「例えば?」
「久世が机に突っ伏して寝てたら、勝手に前髪触ってた」
「……僕が?」
「あと昼休みになると毎回久世の席行ってた」
「何しに」
「知らん。喋ってた」
「どんなこと」
「そこまで覚えてねえ」
「役に立たないな」
「うるせえ」
松岡は僕の肩を叩いた。
「それより本人に聞けよ」
「聞いても教えてくれないって」
「じゃあ思い出さなくていいんじゃね?」
「え?」
「だってさ」
松岡が何でもないことみたいに言った。
「昔仲良かったとしても、今のお前は覚えてないんだろ。だったら、また仲良くなればいいじゃん」
僕は答えなかった。
簡単に言う。
でも、それが妙に引っかかった。
また仲良くなる。
それならできるのかもしれない。
昨日まで付き合っていたとか。
三回忘れたとか。
そんなのはいったん置いておいて。
僕は今、久世を知らない。
だったら知ればいい。
それだけだ。
「松岡」
「何」
「たまにいいこと言うね」
「たまに余計だよ」
*
昼休み。
僕はクリームパンを二つ買った。
牛乳も二本。
昨日と同じ組み合わせ。
久世の席へ行く。
「これ」
机の上に置いた。
久世が本から顔を上げる。
「何」
「昨日のお返し」
「百八十六円だったけど」
「細かいこと言わない」
「二つある」
「一個は久世の」
「なんで」
「一緒に食べようと思って」
久世の眉がわずかに動いた。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ食べよう」
「ここで?」
「ここで」
向かいの席の椅子を借りる。
久世はしばらく僕を見ていた。
「何」
「いや」
「言いたいことあるなら言えば」
「それ昨日も聞いた」
「昨日?」
「……忘れて」
僕はパンの袋を開けた。
端を折る。
一回。
二回。
三回。
きれいな三角になる。
何気なくやっただけだった。
すると久世の手が止まった。
「何?」
「その折り方」
「これ?」
「誰に教わった」
「誰って」
僕は袋を見る。
「知らない。昔からこうしてる」
「昔から?」
「たぶん」
久世は何も言わない。
「何なの」
「俺が教えた」
指が止まった。
「……いつ」
「去年」
まただ。
僕が知らない僕の習慣。
「久世はどう折るの」
「こう」
久世も自分の袋を折る。
僕とまったく同じ。
「すご」
「何が」
「揃ってる」
「前も毎回そう言ってた」
「僕が?」
「ああ」
「何か気持ち悪いね」
「お前が言うな」
初めて少しだけ、普通の会話になった。
僕はクリームパンをかじる。
甘い。
「聞いていい?」
「何」
「僕と久世、どこで知り合った?」
「図書室」
「去年の?」
「ああ」
「何月?」
「六月」
「僕、一年の時は三組だった」
「俺は五組」
「図書委員でもない」
「俺も違う」
「じゃあ何で図書室?」
「お前が寝てた」
「図書室で?」
「窓際の席」
「最悪」
「口開いてた」
「嘘」
「写真あるぞ」
「あるの?」
僕は身を乗り出した。
久世が固まる。
「見せて」
「消した」
「またそれ?」
「お前に言われたから」
「僕、何でそんなに消させてるの」
「知らない」
「本当に?」
「本当」
「昨日も言ってたよね。僕が消してって言ったから写真もメッセージも消したって」
「ああ」
「どうして僕は消してって言ったの」
久世は牛乳のストローを刺した。
「聞かないほうがいい」
「なんで」
「知らないほうがいいこともある」
「それ、知ってる側の人間しか言えない台詞だよ」
久世は黙った。
「僕のスマホに、久世がいないんだ」
彼の指が止まった。
「昨日ずっと探した」
「探した?」
「うん」
「なんで」
「なんでって」
逆に聞かれて困った。
どうしてだろう。
付き合っていたと言われたから?
自分の記憶がおかしいから?
それとも。
「気になるから」
正直に答えた。
久世は僕を見た。
「久世のこと」
一瞬、空気が変わった。
まずい。
そう思った。
昨日の話を考えれば、こういう言い方は誤解を招く。
「違う。そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
久世はすぐに言った。
その早さが、逆に胸に刺さった。
「僕と久世の間に本当に何かあったなら、痕跡くらい残っててもいいだろ」
「消したから」
「全部?」
「ああ」
「写真も?」
「全部」
「メッセージも?」
「全部」
「SNSも?」
「外した」
「何でそこまで」
久世の目がわずかに揺れた。
「二回目のあと」
「僕が久世を忘れた二回目?」
「ああ」
「その時?」
「お前が言った」
「何て」
久世は少し迷った。
「次また忘れたら、俺が苦しくなるから」
胸が詰まった。
「俺のほうにだけ思い出が残るのはずるいって」
僕は言葉を失った。
それは。
僕が言いそうな気がした。
「だから全部消した」
「久世のスマホも?」
「ああ」
「一枚もない?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
「後悔した?」
久世は答えない。
でも。
その沈黙だけで十分だった。
「ごめん」
また謝っていた。
「だから何でお前が謝るんだよ」
「だって僕が言ったんだろ」
「覚えてないだろ」
「覚えてなくても」
「それなら」
久世が僕を見る。
「お前は何も悪くない」
その言葉が妙に優しくて、苦しかった。
「久世」
「何」
「どうしてそこまで僕の言うこと聞いたの」
答えなんてわかっている。
昨日聞いた。
それでも聞いた。
久世は答えなかった。
好きだから。
そう言えばいいのに。
でも彼はもう言わないと決めている。
僕に忘れられないために。
その事実に気づいた瞬間。
僕はなぜか、少しだけ寂しくなった。
*
放課後、図書室へ行った。
久世はいない。
一人で。
去年、僕たちが初めて会ったという場所。
窓際の席。
どこだろう。
久世は窓際と言っていた。
図書室の東側には四人掛けの机が三つ並んでいる。
僕は順番に座ってみた。
一番奥。
違う気がする。
真ん中。
これも違う。
一番手前。
椅子を引く。
座った瞬間。
妙な感覚がした。
知っている。
机の傷。
窓から見える体育館の屋根。
午後になると差し込む光。
何度もここに座った。
そのことは覚えている。
僕は去年、よくこの席で本を読んでいた。
でも。
一人だった?
本当に?
机の向かい側を見る。
空席。
そこに誰かがいたような気がする。
黒い髪。
本を読む横顔。
低い声。
顔までは見えない。
頭の奥が痛む。
「っ……」
額を押さえた。
思い出そうとするほど痛む。
やめた。
深呼吸する。
そのとき。
机の裏に何か書いてあるのが見えた。
落書き?
椅子から少し身体をずらして覗く。
シャープペンで、小さく文字が書かれていた。
『飲めないなら買うな』
その下に別の字。
『新商品だったから』
さらに下。
『炭酸だって書いてある』
『見てなかった』
『馬鹿』
『うるさい』
僕は息を止めた。
二人分の筆跡。
片方。
見覚えがある。
僕の字だった。
「……何これ」
指でなぞる。
消えかけている。
かなり前に書かれたものだ。
飲めないなら買うな。
新商品だったから。
炭酸だって書いてある。
見てなかった。
馬鹿。
うるさい。
昨日の朝。
僕の机に炭酸水があった。
久世はそれを見ていた。
偶然?
違う。
たぶん。
これは僕と久世だ。
僕たちはここで話していた。
こんなくだらないことを。
何度も。
胸の奥が熱くなった。
証拠。
初めて見つけた。
スマホにはない。
久世のスマホにもない。
でも。
消し忘れたものがあった。
僕はすぐスマホを出した。
久世の連絡先はない。
だからクラスのグループから探す。
久世湊。
プロフィールを開く。
個別メッセージ。
指が止まる。
何て送ればいい。
少し考えてから打った。
『図書室にいる』
送信。
既読はすぐについた。
『何してる』
『来て』
『なんで』
『いいから』
一分。
二分。
返事がない。
五分後。
図書室の入口に久世が現れた。
走ってきたのか、少し息が切れている。
「何」
僕は机の下を指差した。
「これ」
久世がしゃがむ。
文字を見る。
表情が変わった。
「……残ってたのか」
「やっぱり僕たち?」
「ああ」
「どっちが僕」
「『新商品だったから』」
「その下も?」
「『見てなかった』と『うるさい』」
「子どもだな」
「お前がな」
「久世も馬鹿って書いてるじゃん」
「馬鹿だったから」
「ひど」
僕は笑った。
久世も少しだけ笑った。
その瞬間。
また。
胸の奥が動いた。
この人の笑顔を知っている。
はっきりそう思った。
「久世」
「何」
「ここで何してたの」
「本読んでた」
「毎日?」
「だいたい」
「二人で?」
「ああ」
「どんな話してた?」
「本の話」
「ほかは」
「くだらない話」
「例えば」
「お前が朝飯食わないとか」
「それは昨日も聞いた」
「犬が嫌いとか」
「それも」
「兄貴の話とか」
僕の身体が固まった。
久世も気づいた。
「悪い」
「いや」
「無理に聞かなくていい」
「……兄の話、僕からしたんだよね」
「ああ」
「どんなふうに」
「それは」
「聞きたい」
久世は僕の顔を見る。
「本当に?」
「うん」
「後悔するかもしれない」
「それでも」
しばらくして、久世は向かいの椅子に座った。
「お前、兄貴のこと」
一度言葉を切る。
「自分のせいで死んだって言ってた」
心臓が強く鳴った。
「……え?」
「ずっとそう思ってるって」
「僕が?」
「ああ」
「そんなこと」
知らない。
そんなふうに考えたことなんて。
いや。
本当に?
頭の奥。
何かが動く。
雨。
道路。
赤い傘。
誰かの声。
律。
目を閉じた。
「朝倉」
「大丈夫」
「顔色悪い」
「大丈夫だから」
額に汗が滲む。
思い出せない。
兄の事故の日。
僕は九歳だった。
兄は十四歳。
そこまでは知っている。
事故だった。
雨の日だった。
でも。
どういう事故だった?
どこで?
兄はなぜそこにいた?
僕は?
僕はそのとき何をしていた?
「久世」
「何」
「兄が死んだ日のこと、僕、話した?」
返事がない。
「久世?」
「ああ」
「知ってる?」
「少し」
「教えて」
「今日はやめろ」
「なんで」
「顔見ればわかる」
「平気だって」
「平気じゃない」
「久世」
「駄目」
きっぱり言われた。
腹が立った。
「僕の話だろ」
「だからだよ」
「僕が知りたいって言ってる」
「今のお前に話していいかわからない」
「何それ」
立ち上がる。
「久世は全部知ってるくせに」
「全部じゃない」
「僕より知ってるだろ!」
図書室に声が響いた。
司書の先生がこちらを見る。
僕は声を落とした。
「自分のことなのに、僕だけ何も知らない」
「朝倉」
「久世のことも。兄のことも」
唇が震えた。
「僕の記憶なのに」
久世は黙っていた。
やがて、静かに言った。
「だから怖いんだよ」
「何が」
「お前が知らなくていいって決めたことを、俺が勝手に戻すのが」
「僕が決めた?」
「ああ」
「いつ」
「二回目に俺を忘れたあと」
胸がざわつく。
「そのとき、お前は言った」
「何て」
久世の目が僕を捉える。
「忘れるのには理由があるかもしれないって」
「……」
「だから、無理に思い出させないでくれって」
僕は椅子に座り直した。
「そんなこと言ったの」
「ああ」
「それで久世は」
「約束した」
「僕に?」
「ああ」
僕は机の下の落書きを見た。
消えかけた会話。
たぶん。
この程度のものなら大丈夫だった。
でも写真は消した。
メッセージも消した。
全部。
僕が望んだから。
「じゃあ」
声がかすれた。
「久世が僕との写真を持ってないのも」
「ああ」
「メッセージがないのも」
「ああ」
「全部僕のせい?」
「せいじゃない」
「でも僕が頼んだ」
「俺が決めてやった」
「同じだよ」
「違う」
久世の声が強くなった。
「お前だけのせいにするな」
初めて怒られた気がした。
でも不思議と怖くなかった。
「俺も納得した」
「なんで」
「そのほうがいいと思ったから」
「本当に?」
「ああ」
「嘘」
久世の右手を見る。
親指。
握っている。
「またそれ」
「癖だから仕方ないだろ」
「じゃあ本当は?」
久世は黙る。
「本当は消したくなかった?」
答えない。
「写真」
「……」
「メッセージ」
「……」
「僕とのやつ」
「やめろ」
「久世」
「やめてくれ」
その声で、ようやく気づいた。
僕は。
またこの人を傷つけている。
「ごめん」
「だから謝るな」
「でも」
「覚えてないお前に謝られるのが一番きつい」
何も言えなくなった。
図書室にページをめくる音がする。
遠くで椅子が動いた。
「帰る」
久世が立つ。
「待って」
「今日はもういい」
「一個だけ」
僕も立ち上がった。
「何」
「連絡先」
久世が振り返る。
「教えて」
「……クラスのグループから送れるだろ」
「そうじゃなくて」
スマホを出す。
「ちゃんと登録したい」
久世は動かない。
「僕のスマホに」
画面を差し出す。
「久世がいないから」
ほんの少し。
彼の目が揺れた。
「また消すかもしれない」
「その時はその時」
「朝倉」
「今の僕は消さない」
「でも」
「過去の僕が何を決めたか知らないけど」
自分でも、こんなことを言うとは思わなかった。
「今の僕は、久世を知りたい」
久世はしばらく何も言わなかった。
やがてスマホを取り出す。
「QR出せ」
「うん」
読み取る。
画面に表示された。
久世湊。
シンプルな名前。
アイコンは夜の海。
僕は連絡先に追加した。
ただそれだけ。
それなのに。
何か大事なことをした気がした。
「できた」
「ああ」
「送る」
『よろしく』
既読。
久世が僕を見る。
「何、その文章」
「初めてだから」
「何が」
「今の僕たちは」
少し迷ってから言った。
「今日から知り合い直すんだろ」
久世の顔が固まった。
それから。
笑った。
本当に少しだけ。
「……そうだな」
僕のスマホが震えた。
久世から。
『よろしく』
たった四文字。
僕はそれを何度も見た。
久世湊。
初めて。
僕のスマホの中に、彼がいた。
連絡先。
メッセージ。
写真。
SNS。
検索履歴。
全部調べた。
それでも、どこにもいない。
昨夜、ベッドに寝転がりながら一時間以上スマホをいじった。
久世。
湊。
KUZE。
MINATO。
思いつく限りの言葉を入れた。
何も出てこない。
唯一あるのはクラスの集合写真くらいだ。
二年三組、三十六人。
当然、久世も写っている。
でもそれだけだった。
昨日まで付き合っていた。
そう本人は言う。
それどころか、僕は三回も久世を忘れているらしい。
なのに。
証拠がない。
まるで最初から、僕と久世の間には何もなかったみたいに。
午前零時を過ぎても眠れなかった。
検索をやめる。
ホーム画面に戻る。
またメッセージアプリを開く。
同じことの繰り返し。
僕は自分でも馬鹿みたいだと思いながら、今度は去年のトーク履歴を一つずつ遡った。
松岡。
母さん。
部活を辞めた先輩。
中学の友達。
クラスのグループ。
図書委員。
知らない広告アカウント。
久世はいない。
でも。
一つだけ変なものがあった。
昨年十一月三日。
午後九時十四分。
僕は誰かとのトークを削除していた。
削除した履歴そのものは残らない。
ただ、その日のスクリーンタイムを見ると、メッセージアプリを二時間四十七分も使っている。
僕にしては長い。
普段は多くても一時間程度だ。
その日は文化の日で学校は休みだった。
何をしていた?
思い出す。
午前中は家にいた。
午後は図書館へ行った。
たぶん。
いや。
本当に?
記憶を辿ろうとすると、霧の向こうを見るみたいに輪郭がぼやける。
その日のことだけじゃない。
去年の秋。
十月。
十一月。
十二月。
ところどころ、妙に薄い。
覚えていることはある。
テスト。
文化祭。
冬休み前の面談。
でも、その間をつなぐものがない。
毎日学校へ行って、帰って、飯を食って、寝た。
そういう普通の日々の記憶が、ごっそり抜けている。
それ自体は珍しくないのかもしれない。
半年前の水曜日に何をしていたかなんて、普通は覚えていない。
でも。
もし、その日に誰かを好きだったなら?
その人と何度も話していたなら?
手をつないだり。
笑ったり。
喧嘩したり。
そういうことまで、全部忘れるものなんだろうか。
画面が暗くなる。
そこに自分の顔が映った。
「……僕、本当に久世のこと好きだったのかな」
口に出してみた。
誰も答えない。
当然だ。
なのに胸だけが、妙にざわついた。
*
翌朝。
教室へ入った瞬間、僕は無意識に窓際を見た。
久世はもう来ていた。
自分の席で本を読んでいる。
昨日と同じ。
僕には目も向けない。
なんだ。
と思った。
何が「なんだ」なのか、自分でもわからなかった。
「おはよ」
松岡が後ろから来た。
「おはよう」
「顔死んでるぞ」
「寝不足」
「ゲーム?」
「違う」
僕は鞄を机に置いた。
「松岡」
「ん?」
「僕と久世って、いつ頃から仲良かった?」
松岡が露骨に嫌そうな顔をした。
「まだそれやってんの?」
「大事なんだよ」
「本人に聞けばいいだろ」
「本人はあんまり話してくれない」
「そりゃそうだろ」
「なんで」
「お前があんな態度だったら俺でもへこむわ」
「僕、そんな悪かった?」
「かなり」
松岡は椅子を引いて座った。
「久世、お前のこと好きなんだろ」
「知ってたの?」
「知らねえよ」
「今言ったじゃん」
「見てりゃわかるって意味」
僕は思わず久世を見る。
目が合った。
久世は一瞬だけこちらを見て、すぐ本へ視線を落とした。
「どこが?」
「全部」
「雑すぎる」
「じゃあ逆に聞くけど」
松岡が僕を指差した。
「お前、久世相手だと明らかに態度違ったぞ」
「どう違った」
「距離近い」
「僕、誰とでもこんな感じじゃない?」
「違う」
「例えば?」
「久世が机に突っ伏して寝てたら、勝手に前髪触ってた」
「……僕が?」
「あと昼休みになると毎回久世の席行ってた」
「何しに」
「知らん。喋ってた」
「どんなこと」
「そこまで覚えてねえ」
「役に立たないな」
「うるせえ」
松岡は僕の肩を叩いた。
「それより本人に聞けよ」
「聞いても教えてくれないって」
「じゃあ思い出さなくていいんじゃね?」
「え?」
「だってさ」
松岡が何でもないことみたいに言った。
「昔仲良かったとしても、今のお前は覚えてないんだろ。だったら、また仲良くなればいいじゃん」
僕は答えなかった。
簡単に言う。
でも、それが妙に引っかかった。
また仲良くなる。
それならできるのかもしれない。
昨日まで付き合っていたとか。
三回忘れたとか。
そんなのはいったん置いておいて。
僕は今、久世を知らない。
だったら知ればいい。
それだけだ。
「松岡」
「何」
「たまにいいこと言うね」
「たまに余計だよ」
*
昼休み。
僕はクリームパンを二つ買った。
牛乳も二本。
昨日と同じ組み合わせ。
久世の席へ行く。
「これ」
机の上に置いた。
久世が本から顔を上げる。
「何」
「昨日のお返し」
「百八十六円だったけど」
「細かいこと言わない」
「二つある」
「一個は久世の」
「なんで」
「一緒に食べようと思って」
久世の眉がわずかに動いた。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ食べよう」
「ここで?」
「ここで」
向かいの席の椅子を借りる。
久世はしばらく僕を見ていた。
「何」
「いや」
「言いたいことあるなら言えば」
「それ昨日も聞いた」
「昨日?」
「……忘れて」
僕はパンの袋を開けた。
端を折る。
一回。
二回。
三回。
きれいな三角になる。
何気なくやっただけだった。
すると久世の手が止まった。
「何?」
「その折り方」
「これ?」
「誰に教わった」
「誰って」
僕は袋を見る。
「知らない。昔からこうしてる」
「昔から?」
「たぶん」
久世は何も言わない。
「何なの」
「俺が教えた」
指が止まった。
「……いつ」
「去年」
まただ。
僕が知らない僕の習慣。
「久世はどう折るの」
「こう」
久世も自分の袋を折る。
僕とまったく同じ。
「すご」
「何が」
「揃ってる」
「前も毎回そう言ってた」
「僕が?」
「ああ」
「何か気持ち悪いね」
「お前が言うな」
初めて少しだけ、普通の会話になった。
僕はクリームパンをかじる。
甘い。
「聞いていい?」
「何」
「僕と久世、どこで知り合った?」
「図書室」
「去年の?」
「ああ」
「何月?」
「六月」
「僕、一年の時は三組だった」
「俺は五組」
「図書委員でもない」
「俺も違う」
「じゃあ何で図書室?」
「お前が寝てた」
「図書室で?」
「窓際の席」
「最悪」
「口開いてた」
「嘘」
「写真あるぞ」
「あるの?」
僕は身を乗り出した。
久世が固まる。
「見せて」
「消した」
「またそれ?」
「お前に言われたから」
「僕、何でそんなに消させてるの」
「知らない」
「本当に?」
「本当」
「昨日も言ってたよね。僕が消してって言ったから写真もメッセージも消したって」
「ああ」
「どうして僕は消してって言ったの」
久世は牛乳のストローを刺した。
「聞かないほうがいい」
「なんで」
「知らないほうがいいこともある」
「それ、知ってる側の人間しか言えない台詞だよ」
久世は黙った。
「僕のスマホに、久世がいないんだ」
彼の指が止まった。
「昨日ずっと探した」
「探した?」
「うん」
「なんで」
「なんでって」
逆に聞かれて困った。
どうしてだろう。
付き合っていたと言われたから?
自分の記憶がおかしいから?
それとも。
「気になるから」
正直に答えた。
久世は僕を見た。
「久世のこと」
一瞬、空気が変わった。
まずい。
そう思った。
昨日の話を考えれば、こういう言い方は誤解を招く。
「違う。そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
久世はすぐに言った。
その早さが、逆に胸に刺さった。
「僕と久世の間に本当に何かあったなら、痕跡くらい残っててもいいだろ」
「消したから」
「全部?」
「ああ」
「写真も?」
「全部」
「メッセージも?」
「全部」
「SNSも?」
「外した」
「何でそこまで」
久世の目がわずかに揺れた。
「二回目のあと」
「僕が久世を忘れた二回目?」
「ああ」
「その時?」
「お前が言った」
「何て」
久世は少し迷った。
「次また忘れたら、俺が苦しくなるから」
胸が詰まった。
「俺のほうにだけ思い出が残るのはずるいって」
僕は言葉を失った。
それは。
僕が言いそうな気がした。
「だから全部消した」
「久世のスマホも?」
「ああ」
「一枚もない?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
「後悔した?」
久世は答えない。
でも。
その沈黙だけで十分だった。
「ごめん」
また謝っていた。
「だから何でお前が謝るんだよ」
「だって僕が言ったんだろ」
「覚えてないだろ」
「覚えてなくても」
「それなら」
久世が僕を見る。
「お前は何も悪くない」
その言葉が妙に優しくて、苦しかった。
「久世」
「何」
「どうしてそこまで僕の言うこと聞いたの」
答えなんてわかっている。
昨日聞いた。
それでも聞いた。
久世は答えなかった。
好きだから。
そう言えばいいのに。
でも彼はもう言わないと決めている。
僕に忘れられないために。
その事実に気づいた瞬間。
僕はなぜか、少しだけ寂しくなった。
*
放課後、図書室へ行った。
久世はいない。
一人で。
去年、僕たちが初めて会ったという場所。
窓際の席。
どこだろう。
久世は窓際と言っていた。
図書室の東側には四人掛けの机が三つ並んでいる。
僕は順番に座ってみた。
一番奥。
違う気がする。
真ん中。
これも違う。
一番手前。
椅子を引く。
座った瞬間。
妙な感覚がした。
知っている。
机の傷。
窓から見える体育館の屋根。
午後になると差し込む光。
何度もここに座った。
そのことは覚えている。
僕は去年、よくこの席で本を読んでいた。
でも。
一人だった?
本当に?
机の向かい側を見る。
空席。
そこに誰かがいたような気がする。
黒い髪。
本を読む横顔。
低い声。
顔までは見えない。
頭の奥が痛む。
「っ……」
額を押さえた。
思い出そうとするほど痛む。
やめた。
深呼吸する。
そのとき。
机の裏に何か書いてあるのが見えた。
落書き?
椅子から少し身体をずらして覗く。
シャープペンで、小さく文字が書かれていた。
『飲めないなら買うな』
その下に別の字。
『新商品だったから』
さらに下。
『炭酸だって書いてある』
『見てなかった』
『馬鹿』
『うるさい』
僕は息を止めた。
二人分の筆跡。
片方。
見覚えがある。
僕の字だった。
「……何これ」
指でなぞる。
消えかけている。
かなり前に書かれたものだ。
飲めないなら買うな。
新商品だったから。
炭酸だって書いてある。
見てなかった。
馬鹿。
うるさい。
昨日の朝。
僕の机に炭酸水があった。
久世はそれを見ていた。
偶然?
違う。
たぶん。
これは僕と久世だ。
僕たちはここで話していた。
こんなくだらないことを。
何度も。
胸の奥が熱くなった。
証拠。
初めて見つけた。
スマホにはない。
久世のスマホにもない。
でも。
消し忘れたものがあった。
僕はすぐスマホを出した。
久世の連絡先はない。
だからクラスのグループから探す。
久世湊。
プロフィールを開く。
個別メッセージ。
指が止まる。
何て送ればいい。
少し考えてから打った。
『図書室にいる』
送信。
既読はすぐについた。
『何してる』
『来て』
『なんで』
『いいから』
一分。
二分。
返事がない。
五分後。
図書室の入口に久世が現れた。
走ってきたのか、少し息が切れている。
「何」
僕は机の下を指差した。
「これ」
久世がしゃがむ。
文字を見る。
表情が変わった。
「……残ってたのか」
「やっぱり僕たち?」
「ああ」
「どっちが僕」
「『新商品だったから』」
「その下も?」
「『見てなかった』と『うるさい』」
「子どもだな」
「お前がな」
「久世も馬鹿って書いてるじゃん」
「馬鹿だったから」
「ひど」
僕は笑った。
久世も少しだけ笑った。
その瞬間。
また。
胸の奥が動いた。
この人の笑顔を知っている。
はっきりそう思った。
「久世」
「何」
「ここで何してたの」
「本読んでた」
「毎日?」
「だいたい」
「二人で?」
「ああ」
「どんな話してた?」
「本の話」
「ほかは」
「くだらない話」
「例えば」
「お前が朝飯食わないとか」
「それは昨日も聞いた」
「犬が嫌いとか」
「それも」
「兄貴の話とか」
僕の身体が固まった。
久世も気づいた。
「悪い」
「いや」
「無理に聞かなくていい」
「……兄の話、僕からしたんだよね」
「ああ」
「どんなふうに」
「それは」
「聞きたい」
久世は僕の顔を見る。
「本当に?」
「うん」
「後悔するかもしれない」
「それでも」
しばらくして、久世は向かいの椅子に座った。
「お前、兄貴のこと」
一度言葉を切る。
「自分のせいで死んだって言ってた」
心臓が強く鳴った。
「……え?」
「ずっとそう思ってるって」
「僕が?」
「ああ」
「そんなこと」
知らない。
そんなふうに考えたことなんて。
いや。
本当に?
頭の奥。
何かが動く。
雨。
道路。
赤い傘。
誰かの声。
律。
目を閉じた。
「朝倉」
「大丈夫」
「顔色悪い」
「大丈夫だから」
額に汗が滲む。
思い出せない。
兄の事故の日。
僕は九歳だった。
兄は十四歳。
そこまでは知っている。
事故だった。
雨の日だった。
でも。
どういう事故だった?
どこで?
兄はなぜそこにいた?
僕は?
僕はそのとき何をしていた?
「久世」
「何」
「兄が死んだ日のこと、僕、話した?」
返事がない。
「久世?」
「ああ」
「知ってる?」
「少し」
「教えて」
「今日はやめろ」
「なんで」
「顔見ればわかる」
「平気だって」
「平気じゃない」
「久世」
「駄目」
きっぱり言われた。
腹が立った。
「僕の話だろ」
「だからだよ」
「僕が知りたいって言ってる」
「今のお前に話していいかわからない」
「何それ」
立ち上がる。
「久世は全部知ってるくせに」
「全部じゃない」
「僕より知ってるだろ!」
図書室に声が響いた。
司書の先生がこちらを見る。
僕は声を落とした。
「自分のことなのに、僕だけ何も知らない」
「朝倉」
「久世のことも。兄のことも」
唇が震えた。
「僕の記憶なのに」
久世は黙っていた。
やがて、静かに言った。
「だから怖いんだよ」
「何が」
「お前が知らなくていいって決めたことを、俺が勝手に戻すのが」
「僕が決めた?」
「ああ」
「いつ」
「二回目に俺を忘れたあと」
胸がざわつく。
「そのとき、お前は言った」
「何て」
久世の目が僕を捉える。
「忘れるのには理由があるかもしれないって」
「……」
「だから、無理に思い出させないでくれって」
僕は椅子に座り直した。
「そんなこと言ったの」
「ああ」
「それで久世は」
「約束した」
「僕に?」
「ああ」
僕は机の下の落書きを見た。
消えかけた会話。
たぶん。
この程度のものなら大丈夫だった。
でも写真は消した。
メッセージも消した。
全部。
僕が望んだから。
「じゃあ」
声がかすれた。
「久世が僕との写真を持ってないのも」
「ああ」
「メッセージがないのも」
「ああ」
「全部僕のせい?」
「せいじゃない」
「でも僕が頼んだ」
「俺が決めてやった」
「同じだよ」
「違う」
久世の声が強くなった。
「お前だけのせいにするな」
初めて怒られた気がした。
でも不思議と怖くなかった。
「俺も納得した」
「なんで」
「そのほうがいいと思ったから」
「本当に?」
「ああ」
「嘘」
久世の右手を見る。
親指。
握っている。
「またそれ」
「癖だから仕方ないだろ」
「じゃあ本当は?」
久世は黙る。
「本当は消したくなかった?」
答えない。
「写真」
「……」
「メッセージ」
「……」
「僕とのやつ」
「やめろ」
「久世」
「やめてくれ」
その声で、ようやく気づいた。
僕は。
またこの人を傷つけている。
「ごめん」
「だから謝るな」
「でも」
「覚えてないお前に謝られるのが一番きつい」
何も言えなくなった。
図書室にページをめくる音がする。
遠くで椅子が動いた。
「帰る」
久世が立つ。
「待って」
「今日はもういい」
「一個だけ」
僕も立ち上がった。
「何」
「連絡先」
久世が振り返る。
「教えて」
「……クラスのグループから送れるだろ」
「そうじゃなくて」
スマホを出す。
「ちゃんと登録したい」
久世は動かない。
「僕のスマホに」
画面を差し出す。
「久世がいないから」
ほんの少し。
彼の目が揺れた。
「また消すかもしれない」
「その時はその時」
「朝倉」
「今の僕は消さない」
「でも」
「過去の僕が何を決めたか知らないけど」
自分でも、こんなことを言うとは思わなかった。
「今の僕は、久世を知りたい」
久世はしばらく何も言わなかった。
やがてスマホを取り出す。
「QR出せ」
「うん」
読み取る。
画面に表示された。
久世湊。
シンプルな名前。
アイコンは夜の海。
僕は連絡先に追加した。
ただそれだけ。
それなのに。
何か大事なことをした気がした。
「できた」
「ああ」
「送る」
『よろしく』
既読。
久世が僕を見る。
「何、その文章」
「初めてだから」
「何が」
「今の僕たちは」
少し迷ってから言った。
「今日から知り合い直すんだろ」
久世の顔が固まった。
それから。
笑った。
本当に少しだけ。
「……そうだな」
僕のスマホが震えた。
久世から。
『よろしく』
たった四文字。
僕はそれを何度も見た。
久世湊。
初めて。
僕のスマホの中に、彼がいた。



