知らない男が、僕の席に座っていた。
朝の八時十二分。
二年三組の教室には、まだ半分ほどしか生徒が来ていない。窓際では誰かが昨日のサッカーの試合について騒ぎ、廊下側では女子がスマホを囲んで笑っている。
いつもの朝だ。
なのに、自分の席だけがおかしい。
黒い髪。長めの前髪。制服のシャツは一番上のボタンまで留められている。机に片肘をつくこともなく、背筋を伸ばして座っている。
そいつは僕の机の上に置かれたペットボトルを見ていた。
炭酸水。
未開封。
僕は教室の入口で立ち止まった。
誰だっけ。
見たことはある。
同じ制服なのだから当たり前だ。
しかもたぶん、同じクラスだ。
顔と名前が結びつかないだけなら珍しくない。僕は人の顔を覚えるのが特別得意なわけじゃないし、四月にクラス替えをしてまだ二か月しか経っていない。
でも、妙だった。
知らないというより。
そこだけ、記憶に穴が開いている感じがした。
「律、おはよ」
背中を叩かれた。
「うわっ」
「何その反応」
振り向くと、松岡が笑っていた。
「朝からぼーっとしすぎ」
「いや」
僕は自分の席を指した。
「あれ誰?」
松岡の笑顔が止まった。
「は?」
「あそこ」
「……久世だけど」
「久世」
口の中で名前を転がす。
すると、不思議なことに名字だけは知っていた。
久世湊。
二年三組。
出席番号十三番。
確か数学が得意。
運動はそこそこ。
友達は少ない。
必要以上に喋らない。
そこまで一気に頭に浮かんだのに、僕と久世の間にあるはずの具体的な記憶は、ひとつも出てこなかった。
「何。喧嘩でもした?」
松岡が聞いた。
「なんで?」
「だってお前ら――」
「朝倉」
低い声に呼ばれた。
久世がこちらを見ていた。
近くで見ると、やっぱり妙だった。
目が合っただけなのに、胸の奥がざわつく。
知っている。
身体のどこかがそう言っている。
なのに頭は知らないと言っている。
久世は僕の顔を数秒見つめた。
そして、ひどく慎重な声で尋ねた。
「俺のこと、わかる?」
「え?」
松岡を見る。
松岡は僕と久世を交互に見ている。
冗談の振りなのだろうか。
だったら合わせたほうがいい。
「同じクラスの久世だろ」
そう答えた瞬間、久世の肩からわずかに力が抜けた。
安心したように見えた。
だから僕は笑った。
「でも、僕たち話したことあったっけ?」
久世の顔から、何かが消えた。
表情、と言えばいいのだろうか。
もともと愛想のいいタイプではない。
それでも今の一瞬だけは、はっきりわかった。
傷ついた。
僕の言葉で。
「……そっか」
久世が立ち上がった。
「悪い。席使ってた」
自分の席へ戻っていく。
教室の後ろから二列目。窓側。
僕はその背中を見送った。
「何?」
松岡に聞いた。
「僕、なんか変なこと言った?」
「お前さ」
松岡は声を落とした。
「マジで言ってる?」
「何が?」
「久世と話したことないって」
「ないだろ」
「いやいやいや」
松岡が笑う。
でも、その笑い方は明らかに困っていた。
「お前ら、めちゃくちゃ一緒にいたじゃん」
「誰と誰が?」
「お前と久世」
「いつ?」
「いつって……昨日も」
僕は笑い返そうとした。
でも、うまく口角が上がらなかった。
「昨日?」
「放課後。一緒に帰ってただろ」
「帰ってないよ」
「俺、校門で見たって」
昨日。
思い出す。
六時間目は現代文。
放課後は図書室へ行った。
借りていた本を返却して、それから駅前のコンビニに寄った。
新発売のプリンを買った。
家に帰ったのは六時半。
一人だった。
誰かと帰った記憶なんてない。
「人違いじゃない?」
「制服まで同じ人違いがいるかよ」
「いや制服はみんな同じだけど」
「そういう話じゃねえ」
松岡は頭を掻いた。
「久世に聞けよ」
「何を」
「知らねえよ。何があったのか」
チャイムが鳴った。
担任が入ってくる。
僕は席についた。
机の上には、久世が見ていた炭酸水が残っていた。
僕はペットボトルを持ち上げた。
買った覚えがない。
ラベルにはレモンの絵。
炭酸は苦手だ。
喉が痛くなるから、小学生の頃からほとんど飲まない。
なんで僕の机にあるんだろう。
横を見る。
久世は黒板を見ていた。
一度もこちらを見ない。
その日の午前中、僕は授業をほとんど聞いていなかった。
気になって、スマホを何度も確認した。
メッセージアプリを開く。
久世湊。
検索。
出てこない。
連絡先にもない。
SNSのフォロー欄にもいない。
写真フォルダも検索してみる。
四月以降の写真。
クラスの集合写真。
体育祭の準備。
松岡が購買の焼きそばパンを三つ抱えている写真。
夕焼け。
猫。
プリン。
久世はいない。
正確には、集合写真の端にはいる。
でも僕と一緒に写ったものは一枚もない。
やっぱり松岡の勘違いじゃないか。
そう思いかけた。
昼休み。
僕は購買へ行こうとして、財布を忘れたことに気づいた。
「あー」
机の中を探す。
ない。
朝、鞄から出した覚えもない。
「何探してんの」
松岡が弁当を開きながら聞く。
「財布」
「また?」
「またって何」
「先週も忘れて久世にパン買ってもらってたじゃん」
「……は?」
そのとき、机の横に何かが置かれた。
クリームパン。
牛乳。
顔を上げる。
久世だった。
「食え」
「え」
「朝から何も食ってないだろ」
「なんで知ってるの」
久世の目が止まった。
しまった、という顔をしたように見えた。
「……さっき腹鳴ってた」
「鳴ってないけど」
「鳴ってた」
「僕、自分の腹の音くらいわかるよ」
「いいから食え」
「いや、お金」
「百八十六円」
「細かいな」
「明日返せ」
「ありがとう」
受け取ろうとしたとき、指が触れた。
久世が、ものすごい勢いで手を引いた。
「何」
「いや」
まるで熱いものに触ったみたいだった。
僕はクリームパンを見る。
「これ、僕が好きなやつ」
「そうだな」
「なんで知ってるの?」
久世は何も言わない。
「久世」
「購買でいつも買ってるから」
「僕、購買でクリームパン買ったことないと思うけど」
「ある」
「いつ?」
「何度も」
松岡が会話に入ってきた。
「あるぞ。ていうか久世と半分こしてたじゃん」
僕はパンを持ったまま固まった。
「いつ?」
「先週とか」
「先週の何曜日?」
「知らねえよ、そこまで」
僕は先週を思い出す。
月曜。
火曜。
水曜。
木曜。
金曜。
記憶はある。
授業も、放課後も。
でも久世はいない。
一度も。
「朝倉」
久世が呼んだ。
「今日、放課後空いてる?」
「空いてるけど」
「話したい」
「今じゃ駄目?」
「駄目」
それだけ言って、自分の席へ戻った。
僕はクリームパンを見下ろした。
袋の端が、きれいに半分に折られている。
なんとなく。
本当になんとなくだけれど。
この折り方を、僕は知っている気がした。
*
放課後。
教室から最後の生徒が出ていった。
窓の外から、野球部の掛け声が聞こえる。
西日が机を長く照らしている。
僕と久世だけが残った。
「で?」
僕は前の席の椅子を借りて、久世の正面に座った。
「話って?」
久世は黙っている。
「今日ずっと変だよ、久世」
「どっちが」
「僕?」
「そう」
「僕は普通だよ」
「普通じゃない」
即答だった。
「俺のことを知らない」
「知らないっていうか、同じクラスだとは知ってる」
「それだけ?」
「数学得意」
「それはプロフィールだろ」
「じゃあ何を知ってれば正解なの」
久世は口を閉じた。
僕は机に肘をつく。
「松岡は、僕たちが昨日一緒に帰ったって言ってた」
「ああ」
「本当?」
「本当」
「僕にはその記憶がない」
「……うん」
「先週、一緒にパン食べた?」
「食べた」
「何回?」
「三回」
「三回も?」
「月曜と水曜と金曜」
「よく覚えてるね」
「覚えてる」
声が少しだけ強くなった。
僕は笑えなくなった。
「じゃあ聞くけど」
「何」
「僕たち、友達だった?」
久世が僕を見る。
長い沈黙。
「そういう言い方なら」
「なら?」
「友達だった」
「変な答え」
「そうだな」
「親友?」
「違う」
「じゃあ何」
久世は目を逸らした。
「それを言ったら、また駄目かもしれない」
「また?」
聞き返す。
久世は唇を噛んだ。
僕はだんだん苛立ってきた。
「さっきから何なんだよ」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
「僕だけ何も知らなくて、久世は全部知ってるみたいな顔して。松岡も変なこと言うし。僕がおかしいみたいじゃん」
「おかしいなんて言ってない」
「じゃあ説明して」
「できない」
「なんで」
「信じないから」
「聞いてから決めるよ」
「……朝倉」
「何」
「右膝」
突然言われた。
「は?」
「七針」
息が止まる。
小学校四年の夏。
自転車で転んで、ガードレールの金具に膝を引っかけた。
病院で七針縫った。
今も細い傷が残っている。
「なんで知ってるの」
「お前が話した」
「いつ?」
「去年」
「去年は同じクラスじゃないだろ」
「図書室で会ってた」
知らない。
「雨の日は頭痛がする」
「……」
「眠いと左目だけ二重になる」
「久世」
「考え事すると左の袖口を触る」
僕は自分の左手を見た。
制服の袖口をつまんでいた。
慌てて離す。
「プリンは固いやつが好き。カラメルは苦いほう。苺は先に食う。炭酸は嫌い。コーヒーは砂糖を二本入れるくせに、甘党って言われると否定する」
「やめろ」
「犬は苦手」
「やめて」
「小学一年のとき追いかけられたから」
「なんで」
「お前が話したから」
知らない。
そんな話をした記憶はない。
「それから」
「もういい」
「兄貴のこと」
身体が固まった。
「……何」
「朝倉には、兄貴がいた」
喉の奥が乾く。
そこだけは他人に触られたくなかった。
「やめて」
「五つ上」
「やめろって」
「名前は――」
僕は椅子を蹴って立ち上がった。
大きな音が教室に響いた。
「誰に聞いた」
久世も立つ。
「お前から」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「僕はそんなこと話さない」
「俺には話した」
「なんでお前に!」
声が震えた。
兄のことを知っている人は少ない。
中学からの友達にさえ、ほとんど話していない。
家族の中でも、もう積極的に話題にはしない。
僕の兄は、僕が九歳のときに死んだ。
事故だった。
それ以上は。
考えたくない。
「どうして知ってるんだよ」
「律」
その呼び方に、胸が痛んだ。
名字ではない。
名前。
こんなふうに呼ばれたことなんてないはずなのに。
耳が覚えている。
声が。
音が。
久世湊の声で名前を呼ばれることを。
「俺を見ろ」
「嫌だ」
「律」
「名前で呼ぶな」
久世の顔が歪んだ。
ほんの少し。
「……わかった」
「説明して」
僕は机に両手をついた。
「僕とお前、何だったんだよ」
久世はしばらく黙った。
校庭から笛の音がした。
一度。
二度。
やけに遠く聞こえる。
「昨日」
久世が言った。
「放課後、一緒に帰った」
「それは聞いた」
「駅の近くの公園に寄った」
「なんで」
「話があったから」
「何の」
久世は僕を見る。
「俺が、お前に言った」
「何を」
また沈黙。
「好きだって」
意味を理解するまで時間がかかった。
「……は?」
「俺がお前に告白した」
「待って」
「それで」
「待ってって」
「お前も」
久世の声がかすれた。
「俺のことが好きだって言った」
頭の中が真っ白になった。
笑うところなのかと思った。
でも久世は笑っていない。
「冗談だろ」
「違う」
「罰ゲーム?」
「違う」
「じゃあ何」
「本当の話」
「僕が?」
「うん」
「お前を?」
「ああ」
「好き?」
「そう」
「ありえない」
言った瞬間。
久世が目を伏せた。
「そうだよな」
声が小さかった。
胸の奥が、また痛んだ。
どうして僕が傷ついたみたいになっているんだ。
「昨日、俺が告白した」
久世は続けた。
「お前は、俺も同じだって言った」
「……」
「それで俺たちは」
一度言葉を切る。
それから、まっすぐ僕を見た。
「お前、俺と付き合ってたんだけど」
「……昨日から?」
「正確には、昨日の五時四十三分から」
「細かすぎるだろ」
「時計見たから」
思わずそう返してしまった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、久世の口元が緩んだ。
その顔を見た途端、胸の奥が熱くなった。
知っている。
この笑い方。
僕は。
知っている。
気がした。
「じゃあ」
僕は自分のスマホを出した。
「メッセージは?」
「消した」
「写真」
「消した」
「なんで」
「お前が消してくれって言ったから」
「いつ」
「前に」
「前って何」
久世は黙った。
「それじゃ証拠ないじゃん」
「ない」
「だったら信じろって無理だよ」
「わかってる」
「僕がお前を好きだったっていう証拠もない」
「ない」
「なんでそんな落ち着いてるんだよ!」
久世の手が机の下で握られた。
「落ち着いてない」
「じゃあ何で――」
「これが初めてじゃないから」
教室の空気が止まった。
「何が」
「お前が俺を忘れるの」
理解できない。
「前にもあった」
久世は言った。
「同じことが」
「……いつ」
「二回」
「二回?」
「今日で三回目」
頭が追いつかない。
「僕が」
「ああ」
「お前を忘れた?」
「ああ」
「三回?」
「そう」
「なんで」
「わからない」
「病院は?」
「行った」
「僕が?」
「俺と一緒に」
「そんな記憶ない」
「だろうな」
「何て言われた」
「異常なし」
「じゃあ何なんだよ」
「俺が知りたい」
久世の声が初めて揺れた。
「一回目は偶然だと思った」
彼は机を見つめた。
「二回目は、俺のせいかもしれないと思った」
「なんで」
「どっちも同じだったから」
「何が」
久世は顔を上げた。
「俺がお前に好きって言った翌朝、お前は俺を忘れた」
僕は何も言えなかった。
「だから昨日、ずっと言わないつもりだった」
「でも言った」
「ああ」
「なんで」
「お前が言わせた」
「僕が?」
「『言いたいことあるなら言え』って」
少しだけ想像できた。
僕なら言いそうだった。
「それで言った」
久世が笑った。
笑ったというより、自分を嘲った。
「馬鹿だった」
「久世」
「三回目なら大丈夫かもしれないって思った」
「……」
「お前も俺が好きだって言ってくれたから」
その言葉に、胸が締めつけられる。
僕は久世を知らない。
今日までほとんど話したこともないと思っている。
なのに。
目の前でこんな顔をされるのが、耐えられなかった。
「ごめん」
口から勝手に出た。
久世が目を見開く。
「なんでお前が謝るんだよ」
「わからないけど」
本当にわからなかった。
「なんか、ごめん」
久世はしばらく僕を見ていた。
それから目を伏せる。
「大丈夫」
その言い方が、全然大丈夫じゃなかった。
「もういい」
「何が」
「俺のこと、無理に思い出さなくていい」
「でも」
「今まで通りでいい」
「今まで通りって」
僕にとっての今までは、久世とほとんど話さない毎日だ。
それでいいのか。
昨日まで恋人だったという相手と。
「本当にそれでいいの?」
「ああ」
「久世は?」
「俺は平気」
「嘘だ」
思わず言った。
久世が黙る。
「僕、お前のことよく知らないけど」
「うん」
「嘘つくとき、右手の親指を握るんだな」
二人とも同時に、久世の右手を見る。
親指が、他の四本の指の中に隠れていた。
「……なんで知ってんだよ」
久世が呟いた。
僕にもわからなかった。
今日初めて気づいた。
そう思う。
なのに、違うような気もする。
ずっと前から知っていたみたいな。
「とにかく」
久世は手をポケットに入れた。
「明日からは普通にする」
「普通って?」
「クラスメイト」
「それだけ?」
「ああ」
「昨日までは付き合ってたのに?」
「お前にとっては、付き合ってない」
「でも久世にとっては?」
返事がない。
僕はなぜこんなことを聞いているんだろう。
「好きなんだろ。僕のこと」
久世の喉が動いた。
けれど答えない。
「今も?」
「それは」
彼は僕から目を逸らした。
「言わない」
「なんで」
「言ったら、また忘れるかもしれない」
「そんなの偶然だろ」
「二回ならそう思えた」
「三回目だから?」
「ああ」
久世は鞄を持ち上げた。
窓の外はもうオレンジ色だった。
「帰る」
「待って」
「何」
「僕はどうすればいい?」
久世の足が止まった。
「何もしなくていい」
「でも」
「大丈夫」
まただ。
全然大丈夫じゃない声。
それでも久世は笑った。
今度はさっきより、ちゃんと笑った。
その笑顔を。
僕は知っている気がした。
「もう言わないから」
「何を?」
久世は教室のドアに手をかけた。
振り向かないまま答えた。
「好きって」
朝の八時十二分。
二年三組の教室には、まだ半分ほどしか生徒が来ていない。窓際では誰かが昨日のサッカーの試合について騒ぎ、廊下側では女子がスマホを囲んで笑っている。
いつもの朝だ。
なのに、自分の席だけがおかしい。
黒い髪。長めの前髪。制服のシャツは一番上のボタンまで留められている。机に片肘をつくこともなく、背筋を伸ばして座っている。
そいつは僕の机の上に置かれたペットボトルを見ていた。
炭酸水。
未開封。
僕は教室の入口で立ち止まった。
誰だっけ。
見たことはある。
同じ制服なのだから当たり前だ。
しかもたぶん、同じクラスだ。
顔と名前が結びつかないだけなら珍しくない。僕は人の顔を覚えるのが特別得意なわけじゃないし、四月にクラス替えをしてまだ二か月しか経っていない。
でも、妙だった。
知らないというより。
そこだけ、記憶に穴が開いている感じがした。
「律、おはよ」
背中を叩かれた。
「うわっ」
「何その反応」
振り向くと、松岡が笑っていた。
「朝からぼーっとしすぎ」
「いや」
僕は自分の席を指した。
「あれ誰?」
松岡の笑顔が止まった。
「は?」
「あそこ」
「……久世だけど」
「久世」
口の中で名前を転がす。
すると、不思議なことに名字だけは知っていた。
久世湊。
二年三組。
出席番号十三番。
確か数学が得意。
運動はそこそこ。
友達は少ない。
必要以上に喋らない。
そこまで一気に頭に浮かんだのに、僕と久世の間にあるはずの具体的な記憶は、ひとつも出てこなかった。
「何。喧嘩でもした?」
松岡が聞いた。
「なんで?」
「だってお前ら――」
「朝倉」
低い声に呼ばれた。
久世がこちらを見ていた。
近くで見ると、やっぱり妙だった。
目が合っただけなのに、胸の奥がざわつく。
知っている。
身体のどこかがそう言っている。
なのに頭は知らないと言っている。
久世は僕の顔を数秒見つめた。
そして、ひどく慎重な声で尋ねた。
「俺のこと、わかる?」
「え?」
松岡を見る。
松岡は僕と久世を交互に見ている。
冗談の振りなのだろうか。
だったら合わせたほうがいい。
「同じクラスの久世だろ」
そう答えた瞬間、久世の肩からわずかに力が抜けた。
安心したように見えた。
だから僕は笑った。
「でも、僕たち話したことあったっけ?」
久世の顔から、何かが消えた。
表情、と言えばいいのだろうか。
もともと愛想のいいタイプではない。
それでも今の一瞬だけは、はっきりわかった。
傷ついた。
僕の言葉で。
「……そっか」
久世が立ち上がった。
「悪い。席使ってた」
自分の席へ戻っていく。
教室の後ろから二列目。窓側。
僕はその背中を見送った。
「何?」
松岡に聞いた。
「僕、なんか変なこと言った?」
「お前さ」
松岡は声を落とした。
「マジで言ってる?」
「何が?」
「久世と話したことないって」
「ないだろ」
「いやいやいや」
松岡が笑う。
でも、その笑い方は明らかに困っていた。
「お前ら、めちゃくちゃ一緒にいたじゃん」
「誰と誰が?」
「お前と久世」
「いつ?」
「いつって……昨日も」
僕は笑い返そうとした。
でも、うまく口角が上がらなかった。
「昨日?」
「放課後。一緒に帰ってただろ」
「帰ってないよ」
「俺、校門で見たって」
昨日。
思い出す。
六時間目は現代文。
放課後は図書室へ行った。
借りていた本を返却して、それから駅前のコンビニに寄った。
新発売のプリンを買った。
家に帰ったのは六時半。
一人だった。
誰かと帰った記憶なんてない。
「人違いじゃない?」
「制服まで同じ人違いがいるかよ」
「いや制服はみんな同じだけど」
「そういう話じゃねえ」
松岡は頭を掻いた。
「久世に聞けよ」
「何を」
「知らねえよ。何があったのか」
チャイムが鳴った。
担任が入ってくる。
僕は席についた。
机の上には、久世が見ていた炭酸水が残っていた。
僕はペットボトルを持ち上げた。
買った覚えがない。
ラベルにはレモンの絵。
炭酸は苦手だ。
喉が痛くなるから、小学生の頃からほとんど飲まない。
なんで僕の机にあるんだろう。
横を見る。
久世は黒板を見ていた。
一度もこちらを見ない。
その日の午前中、僕は授業をほとんど聞いていなかった。
気になって、スマホを何度も確認した。
メッセージアプリを開く。
久世湊。
検索。
出てこない。
連絡先にもない。
SNSのフォロー欄にもいない。
写真フォルダも検索してみる。
四月以降の写真。
クラスの集合写真。
体育祭の準備。
松岡が購買の焼きそばパンを三つ抱えている写真。
夕焼け。
猫。
プリン。
久世はいない。
正確には、集合写真の端にはいる。
でも僕と一緒に写ったものは一枚もない。
やっぱり松岡の勘違いじゃないか。
そう思いかけた。
昼休み。
僕は購買へ行こうとして、財布を忘れたことに気づいた。
「あー」
机の中を探す。
ない。
朝、鞄から出した覚えもない。
「何探してんの」
松岡が弁当を開きながら聞く。
「財布」
「また?」
「またって何」
「先週も忘れて久世にパン買ってもらってたじゃん」
「……は?」
そのとき、机の横に何かが置かれた。
クリームパン。
牛乳。
顔を上げる。
久世だった。
「食え」
「え」
「朝から何も食ってないだろ」
「なんで知ってるの」
久世の目が止まった。
しまった、という顔をしたように見えた。
「……さっき腹鳴ってた」
「鳴ってないけど」
「鳴ってた」
「僕、自分の腹の音くらいわかるよ」
「いいから食え」
「いや、お金」
「百八十六円」
「細かいな」
「明日返せ」
「ありがとう」
受け取ろうとしたとき、指が触れた。
久世が、ものすごい勢いで手を引いた。
「何」
「いや」
まるで熱いものに触ったみたいだった。
僕はクリームパンを見る。
「これ、僕が好きなやつ」
「そうだな」
「なんで知ってるの?」
久世は何も言わない。
「久世」
「購買でいつも買ってるから」
「僕、購買でクリームパン買ったことないと思うけど」
「ある」
「いつ?」
「何度も」
松岡が会話に入ってきた。
「あるぞ。ていうか久世と半分こしてたじゃん」
僕はパンを持ったまま固まった。
「いつ?」
「先週とか」
「先週の何曜日?」
「知らねえよ、そこまで」
僕は先週を思い出す。
月曜。
火曜。
水曜。
木曜。
金曜。
記憶はある。
授業も、放課後も。
でも久世はいない。
一度も。
「朝倉」
久世が呼んだ。
「今日、放課後空いてる?」
「空いてるけど」
「話したい」
「今じゃ駄目?」
「駄目」
それだけ言って、自分の席へ戻った。
僕はクリームパンを見下ろした。
袋の端が、きれいに半分に折られている。
なんとなく。
本当になんとなくだけれど。
この折り方を、僕は知っている気がした。
*
放課後。
教室から最後の生徒が出ていった。
窓の外から、野球部の掛け声が聞こえる。
西日が机を長く照らしている。
僕と久世だけが残った。
「で?」
僕は前の席の椅子を借りて、久世の正面に座った。
「話って?」
久世は黙っている。
「今日ずっと変だよ、久世」
「どっちが」
「僕?」
「そう」
「僕は普通だよ」
「普通じゃない」
即答だった。
「俺のことを知らない」
「知らないっていうか、同じクラスだとは知ってる」
「それだけ?」
「数学得意」
「それはプロフィールだろ」
「じゃあ何を知ってれば正解なの」
久世は口を閉じた。
僕は机に肘をつく。
「松岡は、僕たちが昨日一緒に帰ったって言ってた」
「ああ」
「本当?」
「本当」
「僕にはその記憶がない」
「……うん」
「先週、一緒にパン食べた?」
「食べた」
「何回?」
「三回」
「三回も?」
「月曜と水曜と金曜」
「よく覚えてるね」
「覚えてる」
声が少しだけ強くなった。
僕は笑えなくなった。
「じゃあ聞くけど」
「何」
「僕たち、友達だった?」
久世が僕を見る。
長い沈黙。
「そういう言い方なら」
「なら?」
「友達だった」
「変な答え」
「そうだな」
「親友?」
「違う」
「じゃあ何」
久世は目を逸らした。
「それを言ったら、また駄目かもしれない」
「また?」
聞き返す。
久世は唇を噛んだ。
僕はだんだん苛立ってきた。
「さっきから何なんだよ」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
「僕だけ何も知らなくて、久世は全部知ってるみたいな顔して。松岡も変なこと言うし。僕がおかしいみたいじゃん」
「おかしいなんて言ってない」
「じゃあ説明して」
「できない」
「なんで」
「信じないから」
「聞いてから決めるよ」
「……朝倉」
「何」
「右膝」
突然言われた。
「は?」
「七針」
息が止まる。
小学校四年の夏。
自転車で転んで、ガードレールの金具に膝を引っかけた。
病院で七針縫った。
今も細い傷が残っている。
「なんで知ってるの」
「お前が話した」
「いつ?」
「去年」
「去年は同じクラスじゃないだろ」
「図書室で会ってた」
知らない。
「雨の日は頭痛がする」
「……」
「眠いと左目だけ二重になる」
「久世」
「考え事すると左の袖口を触る」
僕は自分の左手を見た。
制服の袖口をつまんでいた。
慌てて離す。
「プリンは固いやつが好き。カラメルは苦いほう。苺は先に食う。炭酸は嫌い。コーヒーは砂糖を二本入れるくせに、甘党って言われると否定する」
「やめろ」
「犬は苦手」
「やめて」
「小学一年のとき追いかけられたから」
「なんで」
「お前が話したから」
知らない。
そんな話をした記憶はない。
「それから」
「もういい」
「兄貴のこと」
身体が固まった。
「……何」
「朝倉には、兄貴がいた」
喉の奥が乾く。
そこだけは他人に触られたくなかった。
「やめて」
「五つ上」
「やめろって」
「名前は――」
僕は椅子を蹴って立ち上がった。
大きな音が教室に響いた。
「誰に聞いた」
久世も立つ。
「お前から」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「僕はそんなこと話さない」
「俺には話した」
「なんでお前に!」
声が震えた。
兄のことを知っている人は少ない。
中学からの友達にさえ、ほとんど話していない。
家族の中でも、もう積極的に話題にはしない。
僕の兄は、僕が九歳のときに死んだ。
事故だった。
それ以上は。
考えたくない。
「どうして知ってるんだよ」
「律」
その呼び方に、胸が痛んだ。
名字ではない。
名前。
こんなふうに呼ばれたことなんてないはずなのに。
耳が覚えている。
声が。
音が。
久世湊の声で名前を呼ばれることを。
「俺を見ろ」
「嫌だ」
「律」
「名前で呼ぶな」
久世の顔が歪んだ。
ほんの少し。
「……わかった」
「説明して」
僕は机に両手をついた。
「僕とお前、何だったんだよ」
久世はしばらく黙った。
校庭から笛の音がした。
一度。
二度。
やけに遠く聞こえる。
「昨日」
久世が言った。
「放課後、一緒に帰った」
「それは聞いた」
「駅の近くの公園に寄った」
「なんで」
「話があったから」
「何の」
久世は僕を見る。
「俺が、お前に言った」
「何を」
また沈黙。
「好きだって」
意味を理解するまで時間がかかった。
「……は?」
「俺がお前に告白した」
「待って」
「それで」
「待ってって」
「お前も」
久世の声がかすれた。
「俺のことが好きだって言った」
頭の中が真っ白になった。
笑うところなのかと思った。
でも久世は笑っていない。
「冗談だろ」
「違う」
「罰ゲーム?」
「違う」
「じゃあ何」
「本当の話」
「僕が?」
「うん」
「お前を?」
「ああ」
「好き?」
「そう」
「ありえない」
言った瞬間。
久世が目を伏せた。
「そうだよな」
声が小さかった。
胸の奥が、また痛んだ。
どうして僕が傷ついたみたいになっているんだ。
「昨日、俺が告白した」
久世は続けた。
「お前は、俺も同じだって言った」
「……」
「それで俺たちは」
一度言葉を切る。
それから、まっすぐ僕を見た。
「お前、俺と付き合ってたんだけど」
「……昨日から?」
「正確には、昨日の五時四十三分から」
「細かすぎるだろ」
「時計見たから」
思わずそう返してしまった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、久世の口元が緩んだ。
その顔を見た途端、胸の奥が熱くなった。
知っている。
この笑い方。
僕は。
知っている。
気がした。
「じゃあ」
僕は自分のスマホを出した。
「メッセージは?」
「消した」
「写真」
「消した」
「なんで」
「お前が消してくれって言ったから」
「いつ」
「前に」
「前って何」
久世は黙った。
「それじゃ証拠ないじゃん」
「ない」
「だったら信じろって無理だよ」
「わかってる」
「僕がお前を好きだったっていう証拠もない」
「ない」
「なんでそんな落ち着いてるんだよ!」
久世の手が机の下で握られた。
「落ち着いてない」
「じゃあ何で――」
「これが初めてじゃないから」
教室の空気が止まった。
「何が」
「お前が俺を忘れるの」
理解できない。
「前にもあった」
久世は言った。
「同じことが」
「……いつ」
「二回」
「二回?」
「今日で三回目」
頭が追いつかない。
「僕が」
「ああ」
「お前を忘れた?」
「ああ」
「三回?」
「そう」
「なんで」
「わからない」
「病院は?」
「行った」
「僕が?」
「俺と一緒に」
「そんな記憶ない」
「だろうな」
「何て言われた」
「異常なし」
「じゃあ何なんだよ」
「俺が知りたい」
久世の声が初めて揺れた。
「一回目は偶然だと思った」
彼は机を見つめた。
「二回目は、俺のせいかもしれないと思った」
「なんで」
「どっちも同じだったから」
「何が」
久世は顔を上げた。
「俺がお前に好きって言った翌朝、お前は俺を忘れた」
僕は何も言えなかった。
「だから昨日、ずっと言わないつもりだった」
「でも言った」
「ああ」
「なんで」
「お前が言わせた」
「僕が?」
「『言いたいことあるなら言え』って」
少しだけ想像できた。
僕なら言いそうだった。
「それで言った」
久世が笑った。
笑ったというより、自分を嘲った。
「馬鹿だった」
「久世」
「三回目なら大丈夫かもしれないって思った」
「……」
「お前も俺が好きだって言ってくれたから」
その言葉に、胸が締めつけられる。
僕は久世を知らない。
今日までほとんど話したこともないと思っている。
なのに。
目の前でこんな顔をされるのが、耐えられなかった。
「ごめん」
口から勝手に出た。
久世が目を見開く。
「なんでお前が謝るんだよ」
「わからないけど」
本当にわからなかった。
「なんか、ごめん」
久世はしばらく僕を見ていた。
それから目を伏せる。
「大丈夫」
その言い方が、全然大丈夫じゃなかった。
「もういい」
「何が」
「俺のこと、無理に思い出さなくていい」
「でも」
「今まで通りでいい」
「今まで通りって」
僕にとっての今までは、久世とほとんど話さない毎日だ。
それでいいのか。
昨日まで恋人だったという相手と。
「本当にそれでいいの?」
「ああ」
「久世は?」
「俺は平気」
「嘘だ」
思わず言った。
久世が黙る。
「僕、お前のことよく知らないけど」
「うん」
「嘘つくとき、右手の親指を握るんだな」
二人とも同時に、久世の右手を見る。
親指が、他の四本の指の中に隠れていた。
「……なんで知ってんだよ」
久世が呟いた。
僕にもわからなかった。
今日初めて気づいた。
そう思う。
なのに、違うような気もする。
ずっと前から知っていたみたいな。
「とにかく」
久世は手をポケットに入れた。
「明日からは普通にする」
「普通って?」
「クラスメイト」
「それだけ?」
「ああ」
「昨日までは付き合ってたのに?」
「お前にとっては、付き合ってない」
「でも久世にとっては?」
返事がない。
僕はなぜこんなことを聞いているんだろう。
「好きなんだろ。僕のこと」
久世の喉が動いた。
けれど答えない。
「今も?」
「それは」
彼は僕から目を逸らした。
「言わない」
「なんで」
「言ったら、また忘れるかもしれない」
「そんなの偶然だろ」
「二回ならそう思えた」
「三回目だから?」
「ああ」
久世は鞄を持ち上げた。
窓の外はもうオレンジ色だった。
「帰る」
「待って」
「何」
「僕はどうすればいい?」
久世の足が止まった。
「何もしなくていい」
「でも」
「大丈夫」
まただ。
全然大丈夫じゃない声。
それでも久世は笑った。
今度はさっきより、ちゃんと笑った。
その笑顔を。
僕は知っている気がした。
「もう言わないから」
「何を?」
久世は教室のドアに手をかけた。
振り向かないまま答えた。
「好きって」



