告白されたら、君を忘れる

 知らない男が、僕の席に座っていた。

 朝の八時十二分。

 二年三組の教室には、まだ半分ほどしか生徒が来ていない。窓際では誰かが昨日のサッカーの試合について騒ぎ、廊下側では女子がスマホを囲んで笑っている。

 いつもの朝だ。

 なのに、自分の席だけがおかしい。

 黒い髪。長めの前髪。制服のシャツは一番上のボタンまで留められている。机に片肘をつくこともなく、背筋を伸ばして座っている。

 そいつは僕の机の上に置かれたペットボトルを見ていた。

 炭酸水。

 未開封。

 僕は教室の入口で立ち止まった。

 誰だっけ。

 見たことはある。

 同じ制服なのだから当たり前だ。

 しかもたぶん、同じクラスだ。

 顔と名前が結びつかないだけなら珍しくない。僕は人の顔を覚えるのが特別得意なわけじゃないし、四月にクラス替えをしてまだ二か月しか経っていない。

 でも、妙だった。

 知らないというより。

 そこだけ、記憶に穴が開いている感じがした。

「律、おはよ」

 背中を叩かれた。

「うわっ」

「何その反応」

 振り向くと、松岡が笑っていた。

「朝からぼーっとしすぎ」

「いや」

 僕は自分の席を指した。

「あれ誰?」

 松岡の笑顔が止まった。

「は?」

「あそこ」

「……久世だけど」

「久世」

 口の中で名前を転がす。

 すると、不思議なことに名字だけは知っていた。

 久世湊。

 二年三組。

 出席番号十三番。

 確か数学が得意。

 運動はそこそこ。

 友達は少ない。

 必要以上に喋らない。

 そこまで一気に頭に浮かんだのに、僕と久世の間にあるはずの具体的な記憶は、ひとつも出てこなかった。

「何。喧嘩でもした?」

 松岡が聞いた。

「なんで?」

「だってお前ら――」

「朝倉」

 低い声に呼ばれた。

 久世がこちらを見ていた。

 近くで見ると、やっぱり妙だった。

 目が合っただけなのに、胸の奥がざわつく。

 知っている。

 身体のどこかがそう言っている。

 なのに頭は知らないと言っている。

 久世は僕の顔を数秒見つめた。

 そして、ひどく慎重な声で尋ねた。

「俺のこと、わかる?」

「え?」

 松岡を見る。

 松岡は僕と久世を交互に見ている。

 冗談の振りなのだろうか。

 だったら合わせたほうがいい。

「同じクラスの久世だろ」

 そう答えた瞬間、久世の肩からわずかに力が抜けた。

 安心したように見えた。

 だから僕は笑った。

「でも、僕たち話したことあったっけ?」

 久世の顔から、何かが消えた。

 表情、と言えばいいのだろうか。

 もともと愛想のいいタイプではない。

 それでも今の一瞬だけは、はっきりわかった。

 傷ついた。

 僕の言葉で。

「……そっか」

 久世が立ち上がった。

「悪い。席使ってた」

 自分の席へ戻っていく。

 教室の後ろから二列目。窓側。

 僕はその背中を見送った。

「何?」

 松岡に聞いた。

「僕、なんか変なこと言った?」

「お前さ」

 松岡は声を落とした。

「マジで言ってる?」

「何が?」

「久世と話したことないって」

「ないだろ」

「いやいやいや」

 松岡が笑う。

 でも、その笑い方は明らかに困っていた。

「お前ら、めちゃくちゃ一緒にいたじゃん」

「誰と誰が?」

「お前と久世」

「いつ?」

「いつって……昨日も」

 僕は笑い返そうとした。

 でも、うまく口角が上がらなかった。

「昨日?」

「放課後。一緒に帰ってただろ」

「帰ってないよ」

「俺、校門で見たって」

 昨日。

 思い出す。

 六時間目は現代文。

 放課後は図書室へ行った。

 借りていた本を返却して、それから駅前のコンビニに寄った。

 新発売のプリンを買った。

 家に帰ったのは六時半。

 一人だった。

 誰かと帰った記憶なんてない。

「人違いじゃない?」

「制服まで同じ人違いがいるかよ」

「いや制服はみんな同じだけど」

「そういう話じゃねえ」

 松岡は頭を掻いた。

「久世に聞けよ」

「何を」

「知らねえよ。何があったのか」

 チャイムが鳴った。

 担任が入ってくる。

 僕は席についた。

 机の上には、久世が見ていた炭酸水が残っていた。

 僕はペットボトルを持ち上げた。

 買った覚えがない。

 ラベルにはレモンの絵。

 炭酸は苦手だ。

 喉が痛くなるから、小学生の頃からほとんど飲まない。

 なんで僕の机にあるんだろう。

 横を見る。

 久世は黒板を見ていた。

 一度もこちらを見ない。

 その日の午前中、僕は授業をほとんど聞いていなかった。

 気になって、スマホを何度も確認した。

 メッセージアプリを開く。

 久世湊。

 検索。

 出てこない。

 連絡先にもない。

 SNSのフォロー欄にもいない。

 写真フォルダも検索してみる。

 四月以降の写真。

 クラスの集合写真。

 体育祭の準備。

 松岡が購買の焼きそばパンを三つ抱えている写真。

 夕焼け。

 猫。

 プリン。

 久世はいない。

 正確には、集合写真の端にはいる。

 でも僕と一緒に写ったものは一枚もない。

 やっぱり松岡の勘違いじゃないか。

 そう思いかけた。

 昼休み。

 僕は購買へ行こうとして、財布を忘れたことに気づいた。

「あー」

 机の中を探す。

 ない。

 朝、鞄から出した覚えもない。

「何探してんの」

 松岡が弁当を開きながら聞く。

「財布」

「また?」

「またって何」

「先週も忘れて久世にパン買ってもらってたじゃん」

「……は?」

 そのとき、机の横に何かが置かれた。

 クリームパン。

 牛乳。

 顔を上げる。

 久世だった。

「食え」

「え」

「朝から何も食ってないだろ」

「なんで知ってるの」

 久世の目が止まった。

 しまった、という顔をしたように見えた。

「……さっき腹鳴ってた」

「鳴ってないけど」

「鳴ってた」

「僕、自分の腹の音くらいわかるよ」

「いいから食え」

「いや、お金」

「百八十六円」

「細かいな」

「明日返せ」

「ありがとう」

 受け取ろうとしたとき、指が触れた。

 久世が、ものすごい勢いで手を引いた。

「何」

「いや」

 まるで熱いものに触ったみたいだった。

 僕はクリームパンを見る。

「これ、僕が好きなやつ」

「そうだな」

「なんで知ってるの?」

 久世は何も言わない。

「久世」

「購買でいつも買ってるから」

「僕、購買でクリームパン買ったことないと思うけど」

「ある」

「いつ?」

「何度も」

 松岡が会話に入ってきた。

「あるぞ。ていうか久世と半分こしてたじゃん」

 僕はパンを持ったまま固まった。

「いつ?」

「先週とか」

「先週の何曜日?」

「知らねえよ、そこまで」

 僕は先週を思い出す。

 月曜。

 火曜。

 水曜。

 木曜。

 金曜。

 記憶はある。

 授業も、放課後も。

 でも久世はいない。

 一度も。

「朝倉」

 久世が呼んだ。

「今日、放課後空いてる?」

「空いてるけど」

「話したい」

「今じゃ駄目?」

「駄目」

 それだけ言って、自分の席へ戻った。

 僕はクリームパンを見下ろした。

 袋の端が、きれいに半分に折られている。

 なんとなく。

 本当になんとなくだけれど。

 この折り方を、僕は知っている気がした。

     *

 放課後。

 教室から最後の生徒が出ていった。

 窓の外から、野球部の掛け声が聞こえる。

 西日が机を長く照らしている。

 僕と久世だけが残った。

「で?」

 僕は前の席の椅子を借りて、久世の正面に座った。

「話って?」

 久世は黙っている。

「今日ずっと変だよ、久世」

「どっちが」

「僕?」

「そう」

「僕は普通だよ」

「普通じゃない」

 即答だった。

「俺のことを知らない」

「知らないっていうか、同じクラスだとは知ってる」

「それだけ?」

「数学得意」

「それはプロフィールだろ」

「じゃあ何を知ってれば正解なの」

 久世は口を閉じた。

 僕は机に肘をつく。

「松岡は、僕たちが昨日一緒に帰ったって言ってた」

「ああ」

「本当?」

「本当」

「僕にはその記憶がない」

「……うん」

「先週、一緒にパン食べた?」

「食べた」

「何回?」

「三回」

「三回も?」

「月曜と水曜と金曜」

「よく覚えてるね」

「覚えてる」

 声が少しだけ強くなった。

 僕は笑えなくなった。

「じゃあ聞くけど」

「何」

「僕たち、友達だった?」

 久世が僕を見る。

 長い沈黙。

「そういう言い方なら」

「なら?」

「友達だった」

「変な答え」

「そうだな」

「親友?」

「違う」

「じゃあ何」

 久世は目を逸らした。

「それを言ったら、また駄目かもしれない」

「また?」

 聞き返す。

 久世は唇を噛んだ。

 僕はだんだん苛立ってきた。

「さっきから何なんだよ」

 自分でも驚くくらい強い声が出た。

「僕だけ何も知らなくて、久世は全部知ってるみたいな顔して。松岡も変なこと言うし。僕がおかしいみたいじゃん」

「おかしいなんて言ってない」

「じゃあ説明して」

「できない」

「なんで」

「信じないから」

「聞いてから決めるよ」

「……朝倉」

「何」

「右膝」

 突然言われた。

「は?」

「七針」

 息が止まる。

 小学校四年の夏。

 自転車で転んで、ガードレールの金具に膝を引っかけた。

 病院で七針縫った。

 今も細い傷が残っている。

「なんで知ってるの」

「お前が話した」

「いつ?」

「去年」

「去年は同じクラスじゃないだろ」

「図書室で会ってた」

 知らない。

「雨の日は頭痛がする」

「……」

「眠いと左目だけ二重になる」

「久世」

「考え事すると左の袖口を触る」

 僕は自分の左手を見た。

 制服の袖口をつまんでいた。

 慌てて離す。

「プリンは固いやつが好き。カラメルは苦いほう。苺は先に食う。炭酸は嫌い。コーヒーは砂糖を二本入れるくせに、甘党って言われると否定する」

「やめろ」

「犬は苦手」

「やめて」

「小学一年のとき追いかけられたから」

「なんで」

「お前が話したから」

 知らない。

 そんな話をした記憶はない。

「それから」

「もういい」

「兄貴のこと」

 身体が固まった。

「……何」

「朝倉には、兄貴がいた」

 喉の奥が乾く。

 そこだけは他人に触られたくなかった。

「やめて」

「五つ上」

「やめろって」

「名前は――」

 僕は椅子を蹴って立ち上がった。

 大きな音が教室に響いた。

「誰に聞いた」

 久世も立つ。

「お前から」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「僕はそんなこと話さない」

「俺には話した」

「なんでお前に!」

 声が震えた。

 兄のことを知っている人は少ない。

 中学からの友達にさえ、ほとんど話していない。

 家族の中でも、もう積極的に話題にはしない。

 僕の兄は、僕が九歳のときに死んだ。

 事故だった。

 それ以上は。

 考えたくない。

「どうして知ってるんだよ」

「律」

 その呼び方に、胸が痛んだ。

 名字ではない。

 名前。

 こんなふうに呼ばれたことなんてないはずなのに。

 耳が覚えている。

 声が。

 音が。

 久世湊の声で名前を呼ばれることを。

「俺を見ろ」

「嫌だ」

「律」

「名前で呼ぶな」

 久世の顔が歪んだ。

 ほんの少し。

「……わかった」

「説明して」

 僕は机に両手をついた。

「僕とお前、何だったんだよ」

 久世はしばらく黙った。

 校庭から笛の音がした。

 一度。

 二度。

 やけに遠く聞こえる。

「昨日」

 久世が言った。

「放課後、一緒に帰った」

「それは聞いた」

「駅の近くの公園に寄った」

「なんで」

「話があったから」

「何の」

 久世は僕を見る。

「俺が、お前に言った」

「何を」

 また沈黙。

「好きだって」

 意味を理解するまで時間がかかった。

「……は?」

「俺がお前に告白した」

「待って」

「それで」

「待ってって」

「お前も」

 久世の声がかすれた。

「俺のことが好きだって言った」

 頭の中が真っ白になった。

 笑うところなのかと思った。

 でも久世は笑っていない。

「冗談だろ」

「違う」

「罰ゲーム?」

「違う」

「じゃあ何」

「本当の話」

「僕が?」

「うん」

「お前を?」

「ああ」

「好き?」

「そう」

「ありえない」

 言った瞬間。

 久世が目を伏せた。

「そうだよな」

 声が小さかった。

 胸の奥が、また痛んだ。

 どうして僕が傷ついたみたいになっているんだ。

「昨日、俺が告白した」

 久世は続けた。

「お前は、俺も同じだって言った」

「……」

「それで俺たちは」

 一度言葉を切る。

 それから、まっすぐ僕を見た。

「お前、俺と付き合ってたんだけど」

「……昨日から?」

「正確には、昨日の五時四十三分から」

「細かすぎるだろ」

「時計見たから」

 思わずそう返してしまった。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ、久世の口元が緩んだ。

 その顔を見た途端、胸の奥が熱くなった。

 知っている。

 この笑い方。

 僕は。

 知っている。

 気がした。

「じゃあ」

 僕は自分のスマホを出した。

「メッセージは?」

「消した」

「写真」

「消した」

「なんで」

「お前が消してくれって言ったから」

「いつ」

「前に」

「前って何」

 久世は黙った。

「それじゃ証拠ないじゃん」

「ない」

「だったら信じろって無理だよ」

「わかってる」

「僕がお前を好きだったっていう証拠もない」

「ない」

「なんでそんな落ち着いてるんだよ!」

 久世の手が机の下で握られた。

「落ち着いてない」

「じゃあ何で――」

「これが初めてじゃないから」

 教室の空気が止まった。

「何が」

「お前が俺を忘れるの」

 理解できない。

「前にもあった」

 久世は言った。

「同じことが」

「……いつ」

「二回」

「二回?」

「今日で三回目」

 頭が追いつかない。

「僕が」

「ああ」

「お前を忘れた?」

「ああ」

「三回?」

「そう」

「なんで」

「わからない」

「病院は?」

「行った」

「僕が?」

「俺と一緒に」

「そんな記憶ない」

「だろうな」

「何て言われた」

「異常なし」

「じゃあ何なんだよ」

「俺が知りたい」

 久世の声が初めて揺れた。

「一回目は偶然だと思った」

 彼は机を見つめた。

「二回目は、俺のせいかもしれないと思った」

「なんで」

「どっちも同じだったから」

「何が」

 久世は顔を上げた。

「俺がお前に好きって言った翌朝、お前は俺を忘れた」

 僕は何も言えなかった。

「だから昨日、ずっと言わないつもりだった」

「でも言った」

「ああ」

「なんで」

「お前が言わせた」

「僕が?」

「『言いたいことあるなら言え』って」

 少しだけ想像できた。

 僕なら言いそうだった。

「それで言った」

 久世が笑った。

 笑ったというより、自分を嘲った。

「馬鹿だった」

「久世」

「三回目なら大丈夫かもしれないって思った」

「……」

「お前も俺が好きだって言ってくれたから」

 その言葉に、胸が締めつけられる。

 僕は久世を知らない。

 今日までほとんど話したこともないと思っている。

 なのに。

 目の前でこんな顔をされるのが、耐えられなかった。

「ごめん」

 口から勝手に出た。

 久世が目を見開く。

「なんでお前が謝るんだよ」

「わからないけど」

 本当にわからなかった。

「なんか、ごめん」

 久世はしばらく僕を見ていた。

 それから目を伏せる。

「大丈夫」

 その言い方が、全然大丈夫じゃなかった。

「もういい」

「何が」

「俺のこと、無理に思い出さなくていい」

「でも」

「今まで通りでいい」

「今まで通りって」

 僕にとっての今までは、久世とほとんど話さない毎日だ。

 それでいいのか。

 昨日まで恋人だったという相手と。

「本当にそれでいいの?」

「ああ」

「久世は?」

「俺は平気」

「嘘だ」

 思わず言った。

 久世が黙る。

「僕、お前のことよく知らないけど」

「うん」

「嘘つくとき、右手の親指を握るんだな」

 二人とも同時に、久世の右手を見る。

 親指が、他の四本の指の中に隠れていた。

「……なんで知ってんだよ」

 久世が呟いた。

 僕にもわからなかった。

 今日初めて気づいた。

 そう思う。

 なのに、違うような気もする。

 ずっと前から知っていたみたいな。

「とにかく」

 久世は手をポケットに入れた。

「明日からは普通にする」

「普通って?」

「クラスメイト」

「それだけ?」

「ああ」

「昨日までは付き合ってたのに?」

「お前にとっては、付き合ってない」

「でも久世にとっては?」

 返事がない。

 僕はなぜこんなことを聞いているんだろう。

「好きなんだろ。僕のこと」

 久世の喉が動いた。

 けれど答えない。

「今も?」

「それは」

 彼は僕から目を逸らした。

「言わない」

「なんで」

「言ったら、また忘れるかもしれない」

「そんなの偶然だろ」

「二回ならそう思えた」

「三回目だから?」

「ああ」

 久世は鞄を持ち上げた。

 窓の外はもうオレンジ色だった。

「帰る」

「待って」

「何」

「僕はどうすればいい?」

 久世の足が止まった。

「何もしなくていい」

「でも」

「大丈夫」

 まただ。

 全然大丈夫じゃない声。

 それでも久世は笑った。

 今度はさっきより、ちゃんと笑った。

 その笑顔を。

 僕は知っている気がした。

「もう言わないから」

「何を?」

 久世は教室のドアに手をかけた。

 振り向かないまま答えた。

「好きって」