まだ、繭の中

「あ、志田さん、繭が」
 翌朝、幻想の中で目を覚ます。志田さんは起きて、リビングでコーヒーを飲んでいた。尿意を覚えてトイレに行くと、玄関の蚕の繭にふと視線が吸い寄せられた。トイレットペ―パーの芯を覗いてみると、湿った繭の先っぽからにょきりと成虫の頭が見え始めていた。
「羽化しそうです」
「えっ」
 ガタン、と椅子が動く音がして部屋着姿のままの志田さんが現れる。
「わ、ほんとだ」
「頑張れっ」
 思わず声援を送る。少しずつ、少しずつ、蚕の成虫が頭や手足、羽を現すのを、志田さんと二人で固唾を飲んで見守っていた。
「頑張れ!」
 志田さんが今まで聞いたことのないような大きな声をあげる。二十分ぐらい経って、ようやく成虫になった蚕が繭から羽化した。
「わあ!」
 くったりと羽が萎んだ状態の成虫はなんだか頼りなげに見えるけれど、瞳はしっかりと世界を捉えているように見えた。身体から茶色い液体が滲み出てくる。不要なものを排出しているのだろう。生まれ変わった蚕を見て、なんだか泣けてきた。志田さんも泣いていた。蚕に感情移入するなんて変だと思うのに止まらなかった。
「あゆりちゃん、あっちで朝ごはん食べない?」
「いいんですか?」
「もちろん。最後の晩餐ならぬ、最後の朝食」
「明るいのか暗いのかよく分からないネーミングですね」
 目尻を拭いながらふふ、といつものように微笑むと、志田さんがトーストをつくり、ウインナーを焼いてくれた。サラダと、グレープフルーツジュースまでつけてくれて、やっぱり豪華だなと思う。
「いただきます」
 湯気の立つウインナーをぱりっと噛み切る。肉汁が滲み出て、舌がやけどしそうだった。でも、確かに感じた。ウインナーの味を。塩気と独特の風味が口の中で広がる。完全にとは言い切れないけれど、確実に懐かしい感覚が蘇ってきた。
「おいしいです」
「え? 味がするの?」
「はい。久しぶりに、ちゃんと味がします」
「そっか。私たちこれから闘わなくちゃいけないから、ちょうどいいね。良かった」
 やわらかに微笑む志田さんの顔を目に焼き付ける。
「あゆりちゃんはさ、なんであの時、学校に行かなかったの?」
 あの時——出会った時のことを聞いているのだと分かった。私はぐっと唾を飲み込んで、ずっと抱えていた巨大の海みたいな暗い気持ちを、吐き出した。
「このまま……親の期待に応えるのが正解なのかなって、分かんなくなっちゃって。親は、私に医者になってほしいと思ってるんです。お父さんみたいな医者に」
 お父さん、と志田さんが呟く。彼女は父のことを普段、何と呼んでいるのだろうか。
「あなたたちもお父さんみたいに立派な医者になりなさい——それが常に、お母さんの口癖でした。姉と私に、将来を期待していました。でも」
 そこで一度私は言葉を切る。志田さんの心音が聞こえてきそうなほどの静寂に、挫けそうになりながら続けた。
「姉は優秀なのに、私は全然ダメで……。分かるんですよ。自分のことだから。このまま勉強を続けていても医者になんてなれない。そもそも私、医者になりたいなんて思ってないんです。ただ親の期待に応えなくちゃいけないって、自分に呪いをかけていたんです」
 自分自身を縛り付けていたもの。
 それは、母の期待ではない。私が、母に抵抗をしてはいけないのだと、戦うことを諦めていたことが原因なのだ。
「何もかもうまくいかなくて、味覚や嗅覚も失ってもうどうでもいいやって思ったら、学校に行く気が失せちゃいました」
 最後は、自虐的な笑みを浮かべながら言った。真剣な表情をして話を聞いてくれていた志田さんが「そうだったんだ」と頷いた。
「納得できない〝期待〟なんて、応えなくていいんじゃない」
 天からパンが降ってきたみたいに、あっさりとそう口にした。私ははたと彼女を見やる。透明な瞳がふっと緩んで、「だってさ」と続けた。
「あゆりちゃんのお父さん、〝立派な医者〟じゃないじゃない。私と不倫しかけたんだし」
 あっけらかんと言ってのける志田さん。全然軽くはないはずの彼女の言葉に、私の心は羽が生えたようにふっと軽くなった。
 そうか。期待に応えなくても、いいのか。
 私が感じていた違和感は、決して間違いじゃないのか。
「志田さんの今の言葉を聞いたら、お父さん、泣いちゃうかも」
「泣いてもいいんじゃない? 大切な人を傷つけたんだから」
 毒のある言葉をやわらかな口調で吐き出す志田さんがおかしくて、私はくすっと笑った。
 もう二度と会えないかもしれない彼女の息遣いと自分の呼吸が重なり合う。私たちがこれから闘わなければならないものの重さを想像すると挫けそうになるけれど。
 繭はずっと繭ではいられない。
 いつか、外の世界に出ていくのだ。
 そのタイミングが、私にとっても志田さんにとってもまったく同じだった。
 もうそれだけでいい。私は母と、彼女は自分の仕事と父と。待ち受ける敵は強大だけれど、志田さんと痛みを分け合った今ならなんとかなるんじゃないかって、気がしている。



〈了〉