「勝手にシャワー浴びてすみません」
「大丈夫」
志田さんは大丈夫だろうかと思ったけれど、家に着くと多少回復したようで、自分でお風呂場に立ってくれた。ふたり、裸になってシャワーを浴びる。志田さんの身体は、白い絹のようだった。水滴が彼女の鎖骨を滑り、胸の輪郭をなぞる。見ちゃいけないと分かっているのに、目が離せない。私の身体も女なのに、彼女の曲線は異質で、触れたら壊れそうな儚さがあった。心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなる。こんな感覚、初めてだ。彼女の身体を見ているだけで、知らない自分が目覚めるような、怖くて甘い気持ちが蠢く。志田さんが微笑むと、胸の奥が締め付けられた。
「助けてくれてありがとう」
お風呂から上がって髪を乾かしながら志田さんが言う。
「疲労が溜まってるんじゃないですか。ちゃんと食べてます?」
「それ、あゆりちゃんに言われたくないなあ。でも……うん、実はあんまり食べてないかも。私ね、本当は在宅ワークじゃなくて引きこもりなんだ」
ブオン、と鳴っていたドライヤーが止まった。やだ、故障かもと志田さんがドライヤーを軽く叩いたり振ったりする。どう足掻いてももう動かないと分かった途端、白色のドライヤーの表面をやさしく撫でた。
「あゆりちゃんと出会った時、引きこもり始めて一ヶ月目だった。普通に会社勤めで、テレアポをしていたの。だけど……テレアポってさ、すごいんだよ。もうほとんど話聞いてもらえないの。特に私みたいなひ弱そうな女の話なんてさ。営業トークがうまくてセンスがあるひとならもちろん戦えるんだけど、私は違った。全然向いてなかった。いや……努力することから逃げただけなんだけどね。電話の向こうから聞こえてくる怒声や罵声に、耐えられなくなったんだ」
私は志田さんが他人からの悪意に傷ついて塞ぎ込んでしまった時のことを想像する。美しくてどこか飄々としていて、後ろ暗い過去なんて一切持ち合わせていなさそうな彼女が、ありふれた悩みを抱えていたことを私は知らずにいたのだ。
「あゆりちゃんと出会った日、咄嗟にライターで在宅ワークをしてるなんて言っちゃったのは……見栄を張ったの。雨の中で行き場を失ってるあゆりちゃんが自分のように思えて。いても立ってもいられなくなって声をかけたのに、実際に家に連れてきたら、ちゃんと年下の女の子だって認識しちゃって。大人でいなくちゃって、プレッシャーみたいなものを感じてた」
彼女の言う〝大人〟というのが、仕事中に傷ついて引きこもることのない、凛とした人間であるということは見当がついた。
「じゃあ……じゃあどうして、今私に本当のことを話してくれたんですか……? 最後まで隠し通せばよかったじゃないですか」
怒っているわけでもないのに、感情任せに追及するような口調になってしまう。
「そうね。隠し通せばよかったの、これからもあゆりちゃんと会うなら」
「どういう意味ですか?」
「その必要がなくなった。もうこれ以上あゆりちゃんと会えない。だから、本当の自分を伝えようって思った」
志田さんの瞳に、意思の強い光が差し込んでいく。ゆらめく水面に映し出される月の光のように、明確な形をつくらず、私を捉える。
「さっき……あゆりちゃんが私を見つける前、電話が来たの。山本武史さん。私がお付き合いをしかけていた男性から」
「山本……武史」
父の名前だ。どこかで予想をしていた。彼女が呟いたその名前のひとが、いつか私の大事な時間を傷つけて台無しにしてしまうんじゃないかって。母から電話をもらった時にはすでに予感していたのだ。
「奥さんに私と会っていることがばれたって連絡があった。最初、彼が何を言っているのか、私にはよく分からなかったの。だって私、彼が既婚者だなんて知らなかったし、まだ付き合ってるという意識もなかったから。しかも娘がいる、名前はあゆりで——って彼が動転して話すのを、自分とは関係ないことみたいに聞いてた。だけど、ああそうかって思い出した。あゆりちゃんの名前が山本だって知ったとき、ありふれた苗字だから気にしなかったの。でもあの時に、気づかなかった自分が悪い。自分の選択がこんな結果を招いてしまったんだって理解した。そしたら自然と呼吸が苦しくなって、身体も重くて、気づいたら雨の中、手ぶらで外に出てた」
もうどうにでもなれって感じがして。でも心の中で叫んでたの。
誰か助けてって。
「あゆりちゃんが来てくれて、なんて皮肉なんだろうって思った。彼とはね……武史さんとは病院で出会ったの。私が風邪で患者として病院に行った時に、親身になって職場での話を聞いてくれて。まるで私の悩みを全部受け止めてくれてるみたいだった。その後、病院の外でも話を聞いてくれるようになって、惹かれていって……」
ドライヤーを置いた志田さんは、両手の指をぎゅっと握り込みながら話す。
「だけど本当に、既婚者だとは知らなかった。さっき連絡があって、動揺して目の前がくらくらして。ダメだってわかってるのに、あゆりちゃんに甘えたくなった。倒れたのはたぶん、心の疲労のせい。心配かけてごめんね。助けてくれてありがとう。だけど私たち、会うのは今日までにしよう?」
嫌です、とは言えなかった。
志田さんと父親が男女の関係になりかけていた——不倫していたという事実以上に、志田さんが少なからず父に好意を寄せていたという事実が、胸を抉った。
たぶん、許されることではない。志田さんは母に裁かれる。彼女が窮地に陥るところを見たくない。だけど、私にはどうにもできない。助けられない。だって私たちはただ、偶然出会っただけの赤の他人だから。
「……メイサさん」
初めて名前を呼んだ。ぐちゃぐちゃの感情のまま、彼女の細い腕に触れると、志田さんの身体がぴくんと跳ねた。彼女の肌は、まだ少し湿っているけれど温かく、指先を吸い込むような柔らかさだった。
そっと抱きしめると、彼女の鼓動が私の胸に響き、ぞくりと背筋を這う感覚が広がる。彼女が私を抱き返す。彼女の唇が私の頬に触れる瞬間、心臓が跳ね、身体が熱を帯びた。
友達でも恋人でもない、この曖昧な距離。父が彼女に触れたかもしれないと思うと、胸が締め付けられるのに、彼女の温もりを全身に擦り込ませたい衝動が抑えられない。
父に傾きかけた志田さんの心を、私のほうへと向けさせたかった。
こんな気持ち、知らなかった。彼女に触れていたい、でも触れてはいけない——その矛盾が、濁流となって私を飲み込んでいく。
「今日だけ……今晩だけ、ここに泊めてもらえませんか?」
私のわがままに、彼女の瞳が大きく揺れる。
「明日の朝にさよならして、終わりにします。だから」
言い終わらないうちに、彼女が再び私をふわりと抱きしめた。嗅覚が失われているというのに、芳しい香りが私を包み込む気配がした。
ああ、きっとこれは志田さんの匂いだ。
私に安心をくれるひとの。
「……うん。そうしよう」
夜は長くもなく、短くもなかった。
彼女の身体にぴったりと触れている間、父が彼女にどれだけのことをしたのだろうと想像した。あまりいい想像ではなかった。でも考えずにはいられなかった。
「私はただ、誰かに声をかけられたかっただけなのかも」
儚い吐息とともに吐き出された志田さんの呟きが、胸を締め上げる。
私は志田さんの頬のキスをした。友達でもない。恋人でも、単なる片想いの相手でもない。この気持ちに名前をつけてしまったら、いよいよ本格的に志田さんとお別れしなくちゃいけないような気がして、胸が軋んだ。だから、ただひたすら志田さんとくっついていた。彼女の温もりを、全身に擦り込ませるように彼女に寄り添った。
夜がふけるとともに、志田さんの身体の中に私が溶けていった。
「大丈夫」
志田さんは大丈夫だろうかと思ったけれど、家に着くと多少回復したようで、自分でお風呂場に立ってくれた。ふたり、裸になってシャワーを浴びる。志田さんの身体は、白い絹のようだった。水滴が彼女の鎖骨を滑り、胸の輪郭をなぞる。見ちゃいけないと分かっているのに、目が離せない。私の身体も女なのに、彼女の曲線は異質で、触れたら壊れそうな儚さがあった。心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなる。こんな感覚、初めてだ。彼女の身体を見ているだけで、知らない自分が目覚めるような、怖くて甘い気持ちが蠢く。志田さんが微笑むと、胸の奥が締め付けられた。
「助けてくれてありがとう」
お風呂から上がって髪を乾かしながら志田さんが言う。
「疲労が溜まってるんじゃないですか。ちゃんと食べてます?」
「それ、あゆりちゃんに言われたくないなあ。でも……うん、実はあんまり食べてないかも。私ね、本当は在宅ワークじゃなくて引きこもりなんだ」
ブオン、と鳴っていたドライヤーが止まった。やだ、故障かもと志田さんがドライヤーを軽く叩いたり振ったりする。どう足掻いてももう動かないと分かった途端、白色のドライヤーの表面をやさしく撫でた。
「あゆりちゃんと出会った時、引きこもり始めて一ヶ月目だった。普通に会社勤めで、テレアポをしていたの。だけど……テレアポってさ、すごいんだよ。もうほとんど話聞いてもらえないの。特に私みたいなひ弱そうな女の話なんてさ。営業トークがうまくてセンスがあるひとならもちろん戦えるんだけど、私は違った。全然向いてなかった。いや……努力することから逃げただけなんだけどね。電話の向こうから聞こえてくる怒声や罵声に、耐えられなくなったんだ」
私は志田さんが他人からの悪意に傷ついて塞ぎ込んでしまった時のことを想像する。美しくてどこか飄々としていて、後ろ暗い過去なんて一切持ち合わせていなさそうな彼女が、ありふれた悩みを抱えていたことを私は知らずにいたのだ。
「あゆりちゃんと出会った日、咄嗟にライターで在宅ワークをしてるなんて言っちゃったのは……見栄を張ったの。雨の中で行き場を失ってるあゆりちゃんが自分のように思えて。いても立ってもいられなくなって声をかけたのに、実際に家に連れてきたら、ちゃんと年下の女の子だって認識しちゃって。大人でいなくちゃって、プレッシャーみたいなものを感じてた」
彼女の言う〝大人〟というのが、仕事中に傷ついて引きこもることのない、凛とした人間であるということは見当がついた。
「じゃあ……じゃあどうして、今私に本当のことを話してくれたんですか……? 最後まで隠し通せばよかったじゃないですか」
怒っているわけでもないのに、感情任せに追及するような口調になってしまう。
「そうね。隠し通せばよかったの、これからもあゆりちゃんと会うなら」
「どういう意味ですか?」
「その必要がなくなった。もうこれ以上あゆりちゃんと会えない。だから、本当の自分を伝えようって思った」
志田さんの瞳に、意思の強い光が差し込んでいく。ゆらめく水面に映し出される月の光のように、明確な形をつくらず、私を捉える。
「さっき……あゆりちゃんが私を見つける前、電話が来たの。山本武史さん。私がお付き合いをしかけていた男性から」
「山本……武史」
父の名前だ。どこかで予想をしていた。彼女が呟いたその名前のひとが、いつか私の大事な時間を傷つけて台無しにしてしまうんじゃないかって。母から電話をもらった時にはすでに予感していたのだ。
「奥さんに私と会っていることがばれたって連絡があった。最初、彼が何を言っているのか、私にはよく分からなかったの。だって私、彼が既婚者だなんて知らなかったし、まだ付き合ってるという意識もなかったから。しかも娘がいる、名前はあゆりで——って彼が動転して話すのを、自分とは関係ないことみたいに聞いてた。だけど、ああそうかって思い出した。あゆりちゃんの名前が山本だって知ったとき、ありふれた苗字だから気にしなかったの。でもあの時に、気づかなかった自分が悪い。自分の選択がこんな結果を招いてしまったんだって理解した。そしたら自然と呼吸が苦しくなって、身体も重くて、気づいたら雨の中、手ぶらで外に出てた」
もうどうにでもなれって感じがして。でも心の中で叫んでたの。
誰か助けてって。
「あゆりちゃんが来てくれて、なんて皮肉なんだろうって思った。彼とはね……武史さんとは病院で出会ったの。私が風邪で患者として病院に行った時に、親身になって職場での話を聞いてくれて。まるで私の悩みを全部受け止めてくれてるみたいだった。その後、病院の外でも話を聞いてくれるようになって、惹かれていって……」
ドライヤーを置いた志田さんは、両手の指をぎゅっと握り込みながら話す。
「だけど本当に、既婚者だとは知らなかった。さっき連絡があって、動揺して目の前がくらくらして。ダメだってわかってるのに、あゆりちゃんに甘えたくなった。倒れたのはたぶん、心の疲労のせい。心配かけてごめんね。助けてくれてありがとう。だけど私たち、会うのは今日までにしよう?」
嫌です、とは言えなかった。
志田さんと父親が男女の関係になりかけていた——不倫していたという事実以上に、志田さんが少なからず父に好意を寄せていたという事実が、胸を抉った。
たぶん、許されることではない。志田さんは母に裁かれる。彼女が窮地に陥るところを見たくない。だけど、私にはどうにもできない。助けられない。だって私たちはただ、偶然出会っただけの赤の他人だから。
「……メイサさん」
初めて名前を呼んだ。ぐちゃぐちゃの感情のまま、彼女の細い腕に触れると、志田さんの身体がぴくんと跳ねた。彼女の肌は、まだ少し湿っているけれど温かく、指先を吸い込むような柔らかさだった。
そっと抱きしめると、彼女の鼓動が私の胸に響き、ぞくりと背筋を這う感覚が広がる。彼女が私を抱き返す。彼女の唇が私の頬に触れる瞬間、心臓が跳ね、身体が熱を帯びた。
友達でも恋人でもない、この曖昧な距離。父が彼女に触れたかもしれないと思うと、胸が締め付けられるのに、彼女の温もりを全身に擦り込ませたい衝動が抑えられない。
父に傾きかけた志田さんの心を、私のほうへと向けさせたかった。
こんな気持ち、知らなかった。彼女に触れていたい、でも触れてはいけない——その矛盾が、濁流となって私を飲み込んでいく。
「今日だけ……今晩だけ、ここに泊めてもらえませんか?」
私のわがままに、彼女の瞳が大きく揺れる。
「明日の朝にさよならして、終わりにします。だから」
言い終わらないうちに、彼女が再び私をふわりと抱きしめた。嗅覚が失われているというのに、芳しい香りが私を包み込む気配がした。
ああ、きっとこれは志田さんの匂いだ。
私に安心をくれるひとの。
「……うん。そうしよう」
夜は長くもなく、短くもなかった。
彼女の身体にぴったりと触れている間、父が彼女にどれだけのことをしたのだろうと想像した。あまりいい想像ではなかった。でも考えずにはいられなかった。
「私はただ、誰かに声をかけられたかっただけなのかも」
儚い吐息とともに吐き出された志田さんの呟きが、胸を締め上げる。
私は志田さんの頬のキスをした。友達でもない。恋人でも、単なる片想いの相手でもない。この気持ちに名前をつけてしまったら、いよいよ本格的に志田さんとお別れしなくちゃいけないような気がして、胸が軋んだ。だから、ただひたすら志田さんとくっついていた。彼女の温もりを、全身に擦り込ませるように彼女に寄り添った。
夜がふけるとともに、志田さんの身体の中に私が溶けていった。



