まだ、繭の中

 三日後も、四日後も、志田さんの家に通った。期末テストが近いので、基本的には志田さんの家でテスト勉強をさせてもらっていた。勉強なら自分の家ですればいいんじゃない? と志田さんは聞いてこなかった。「いらっしゃい」と変わらない笑顔を浮かべて私を迎えてくれる。余計なことを聞いてこない彼女が清々しく、滑らかな布団のようにやさしかった。
 五日後と六日後は期末テストの一日目、二日目だったのでさすがにお邪魔することなく、家で勉強をした。 
 そして、七日後。
 期末テストが終わり、午前中で学校から終わったのでその足で志田さんの家に向かうつもりだった。昨日のうちに「明日は昼過ぎに行ってもいいですか」と連絡を入れていて、了承をもらっていた。テスト後の開放的な気持ちはない。そんなに出来がよくなかったからだ。
 学校を出ると突如、激しい雨が降り出した。傘は持っていたのでさしたが、それでもスカートの裾からつま先が濡れていく。早いとこ志田さんの家に行こう——と決心して早足で校門から離れていく。増水しかけている川を見つめながら橋を渡っている最中に、橋の上で傘もささずに佇む女性を発見した。ほっそりとした体躯に、長い黒髪。長いまつ毛。志田さんだった。白いワンピースが白い肌をより際立たせている。
「志田さ——」
 名前を呼びかけたところで、ポケットの中のスマホが震えた。着信だと分かり、スマホを手に取る。表示されていたのは母親の名前。どうしてこんな真昼間に? 今日は仕事じゃなかったっけ——と考えたところでふと気がつく。そういえば今日は夜勤の日だ。
「もしもし」
 とにかく電話に出ないのはよくないと思い、スマホを耳に押し当てる。視線は雨の中でずぶ濡れになりながら佇む志田さんのほうへと向けられる。
『ああ、あゆり。もう学校出てる?』
「出てるけど、どうしたの」
『見つかったのよ、証拠』
「証拠? 何の話?」
 突然のことで、頭がうまく回らない。証拠、証拠、とその言葉をぐるぐる頭の中で旋回させても、思い当たる節は何もなかった。
『だから、お父さんの浮気の証拠! ずっと疑ってたのよ。お父さん、絶対外に女つくってるって。でも几帳面なあのひとのことだから、なかなか証拠をつかませてくれなくて。でも今日見つけたの。鞄の中に、女物の靴下が片方入ってたのよ』
「靴下……?」
 ぐわん、と視界が浅く揺れる。雨粒で遮られながらも、目は志田さんのほうに釘付けだ。スニーカーから伸びる彼女の足は折れそうなほど細い。靴下は履いていなかった。いや、履いているのだろうけれど、たぶんくるぶし丈のものだろう。
『黒い靴下だから、きっと女の子のものと間違えたんだわっ。あゆりもこの前間違えてたじゃない。急いでるとよくあることだわ。痛恨のミスね。靴下を間違えるってことは、少なくとも一緒にいる時に靴下を脱いだってことでしょ。それってもう、そういうことじゃないの。さっきね、お父さんに連絡したのよ。誰と浮気してるのって。返信はないけど今頃焦ってるはずよ』
 キンキンと耳に響く母親の声に、呼吸が乱れていくのを感じた。
 脳内で警鐘が鳴り響く。目を閉じると、チカッ、チカッ、と明滅する光が見えた気がした。
「志田さん……」
 視線の先の彼女の身体がぐらりと揺れる。
『しださん? 友達といるの?』
「志田さんっ」
 母との通話をブチンと切って、今にも倒れてしまいそうな志田さんのほうへ駆け寄る。途中で傘を投げ飛ばす。瞬く間に全身がバケツをひっくり返したような雨にずぶ濡れになっていく。それでも構わず、彼女が地面に崩れ落ちる前になんとか身体を受け止めた。そのあまりにも軽い身体に、思わずぐっと唾を飲み込む。
「……あゆりちゃん」
 今の今まで私の存在に気づかなかったのか、虚ろなまなざしで私を見つめる彼女の瞳には大量の涙が——いや、雨粒がびっしりとこびりついていた。私の濡れた髪の毛の先から滴る水滴が、余計彼女の顔を濡らしていく。汚していく。その美しい顔が、白い肌が、雨に濡れて汚れて、そしてまた艶やかに変わっていく。こんな時なのにおかしい。自分の感覚も感情も、自分のものではないみたいだった。
 今この瞬間、彼女に触れていいのは自分だけだ。
 志田さんの身体をぎゅっと抱きしめる。なんでこんなところに傘も持たずに立っていたのか理由を知りたい。けれどそれ以上に、いちはやく彼女を屋根の下に運ばなければという使命感に駆られた。
 私は思い切って志田さんをお姫様抱っこする。無理かもしれないと思ったけれど、彼女はやっぱり、あまりにも軽かった。四十キロ……いや、四十キロもないかもしれない。私も痩せているほうではあるけれど、彼女の比ではなかった。
「あゆりちゃんやめて。あぶないから」
「大丈夫です、これぐらい」
 軽いとはいえ重い。どっちなんだよ、と心の中でツッコミながら、前へと進んでいく。すれ違うひとたちが何か言いたげにこちらをじっと見てくる。中には「大丈夫ですか?」と実際に声をかけてくるひともいた。けれど、私は首を縦に振るだけでひとの善意を振り切って歩く。濡れながら志田さんの家について、そのまま二人でお風呂場に向かう。