君が「大丈夫」と言うたび、世話を焼きたくなる

 付き合い始めたからといって。

 僕が急に別人になるわけではなかった。

「篠崎」

「何?」

「それ、一人で持つの?」

 大学祭の片づけで、段ボールを二箱抱えたところだった。

「持てるよ」

「聞いてない」

「え?」

「持てるかどうかじゃなくて、一人で持つのかって聞いた」

 榊が片方の箱を取る。

「これくらい大丈夫」

 言ってから。

 しまった、と思った。

 榊が僕を見る。

「今なんて?」

「……何も」

「聞こえたけど」

「気のせい」

「大丈夫って言ったよな」

「言ってない」

「言った」

 逃げられない。

「……癖だから」

「じゃあ言い直して」

「何を」

「今の」

 榊は箱を抱えたまま、僕を待っている。

 周りにはまだ実行委員の学生がいる。

 恥ずかしい。

 でも。

 前みたいに断り続けるほうが、榊を困らせることも分かってきた。

「……手伝ってください」

「はい、よくできました」

「子ども扱いしないで」

「成長を褒めてる」

「同じでしょ」

 榊が笑った。

 僕も、少しだけ笑う。

 大学祭が終わって一週間。

 僕と榊は付き合っている。

 でも大学では、以前とあまり変わらない。

 同じ講義を受けて。

 一緒に昼を食べて。

 帰る時間が合えば一緒に駅まで行く。

 ただ。

「篠崎」

「何?」

「今日、俺の隣座らないの?」

 以前なら、榊から呼ばれるのを待っていた。

 今は違う。

「座る」

 僕は自分から榊の隣へ行く。

 それだけ。

 それだけなのに、榊は毎回嬉しそうな顔をする。

「何」

「いや」

「また笑ってる」

「嬉しいから」

「毎日隣に座ってるでしょ」

「毎日嬉しい」

 そういうことを平気で言う。

 僕はまだ慣れない。

「……恥ずかしくないの?」

「何が?」

「そういうこと言うの」

「篠崎に言うのは全然」

「僕は恥ずかしい」

「知ってる」

 榊が机の下で、僕の小指に自分の小指を少しだけ触れさせる。

 心臓が跳ねる。

「ちょっと」

「何?」

「講義室」

「触っただけ」

「誰かに見られる」

「机の下だから見えない」

 榊の小指がもう一度触れる。

 今度は離れない。

 僕も。

 離さなかった。

 その日の昼休み。

 学食で向かい合って昼食を食べる。

 僕はうどん。

 榊は唐揚げ定食。

「それだけで足りる?」

「足りる」

「ほんと?」

「今日は朝も食べた」

「えらい」

「だから子ども扱い」

「じゃあ恋人扱い」

「……もっと恥ずかしい」

 榊が笑う。

 付き合ってから分かったことがある。

 榊は思っていたより、ずっと僕を甘やかしたがる。

「篠崎、これ食う?」

「いらない」

「唐揚げ」

「自分で食べれば」

「一個多い」

「頼んだの榊でしょ」

「じゃあ半分」

「いらない」

「はい」

 僕の皿に勝手に唐揚げを置く。

「……勝手」

「返してもいいよ」

 返そうと箸を持つ。

 でも。

 榊が少しだけ残念そうな顔をする。

「……食べる」

「うん」

 すぐ笑顔になる。

 ずるいと思う。

 僕が弱いことを知っている。

「榊」

「何?」

「僕のこと甘やかしすぎじゃない?」

「そう?」

「そう」

「嫌?」

 聞かれて。

 言葉に詰まる。

「……嫌じゃない」

「ならいいじゃん」

「よくない」

「なんで?」

「僕がだめになりそう」

「ならないよ」

「なんで分かるの」

「篠崎、放っといても頑張りすぎるから」

 榊は箸を置く。

「俺がちょっと甘やかしたくらいで、ちょうどいい」

 言い返せなかった。

 たぶん。

 僕より榊のほうが、僕の扱いを分かっている。

 午後の講義が終わる。

 教室を出たところで、藤岡に声をかけられた。

「榊、今日カラオケ行かね?」

「あー」

 榊が僕を見る。

 その視線だけで分かる。

 僕の予定を確認している。

「僕は帰るよ」

「篠崎も来れば?」

 藤岡が言う。

 一瞬、身体が固まる。

 カラオケ。

 大人数。

 苦手。

「いや、僕は」

「無理に誘うなって」

 榊がすぐ助け舟を出した。

「篠崎そういうの苦手だから」

 少しだけ。

 胸が引っかかった。

 榊が悪いわけじゃない。

 僕のことを分かってくれている。

 でも。

「……行く」

 二人が僕を見る。

「え?」

 榊が一番驚いている。

「行ってみる」

「無理しなくていいよ?」

「うん」

「ほんとに?」

「榊いるし」

 言ってから。

 藤岡の前だったことに気づく。

「あ」

 藤岡がにやっとした。

「へえ」

「違う、その」

「何も言ってないけど」

 榊まで笑っている。

「もういい」

 恥ずかしくなって先に歩く。

 後ろから榊が追ってくる。

「篠崎」

「何」

「今のもう一回言って」

「言わない」

「俺いるから行くって」

「言ってない」

「藤岡も聞いてた」

「聞き間違い」

「可愛い」

「うるさい」

 逃げるように歩く。

 でも。

 口元が少し笑っているのを、自分でも分かっていた。

 カラオケでは。

 やっぱり最初はほとんど話せなかった。

 藤岡と宮本、それから知らない学生が二人。

 みんな楽しそうに歌う。

 僕は端に座って、飲み物を持っているだけ。

 でも。

 隣には榊がいた。

「しんどい?」

 小さな声で聞かれる。

「まだ大丈夫」

 言ってから慌てて付け足す。

「これは本当に」

「分かってる」

 榊は笑う。

「無理になったら言って」

「うん」

 一時間くらい経ったころ。

 藤岡がマイクを僕へ差し出した。

「篠崎も何か歌えよ」

「え」

「一曲くらい」

 困った。

 断ろうとする。

 でも。

 榊が横からマイクを取った。

「篠崎、一緒に歌う?」

「一緒?」

「知ってる曲なら」

 画面を見る。

 高校のころよく聴いていた曲があった。

「……これなら」

「じゃあこれ」

 榊が入れる。

 二人で歌った。

 緊張して、最初は声が小さかった。

 でも途中から。

 隣の榊が楽しそうに歌うから。

 少しずつ声が出た。

 曲が終わる。

「篠崎、普通にうまいじゃん」

 宮本が言う。

「そう?」

「もっと歌えよ」

「いや、もういい」

 断る。

 でも。

 嫌ではなかった。

 帰り道。

「楽しかった?」

 榊に聞かれる。

「……少し」

「少し?」

「思ってたより」

「それならよかった」

 駅へ向かって二人で歩く。

「榊」

「ん?」

「僕、変わったかな」

「何が?」

「前より」

 榊は少し考えた。

「変わったっていうか」

「うん」

「我慢するの減った」

 その答えは意外だった。

「我慢?」

「嫌なら嫌って言うし、行きたいなら行くって言うし」

「そうかな」

「俺にも頼るようになった」

「……少しだけ」

「あと、俺に会いたいって言う」

 足が止まりそうになる。

「一回しか言ってない」

「一回でも言った」

「夜、メッセージで」

「証拠残ってる」

「消して」

「絶対嫌」

 榊は楽しそうだ。

「でも」

 声が少し優しくなる。

「無理に変わらなくていいんだよ」

「え?」

「人見知りでも、一人でいるの好きでも」

「一人が好きっていうか」

「分かってる」

 榊が笑う。

「一人でいるのも平気。でも誰かといたいときもある」

 胸の奥が、少し温かくなる。

 そう。

 たぶん。

 それが今の僕だった。

 数日後。

 朝から晴れていた。

 でも午後になって、急に雨が降った。

 講義棟の入口で、学生たちが足止めされている。

 僕は鞄から折り畳み傘を出した。

 もう忘れない。

「篠崎」

 後ろから榊が来る。

「傘ある?」

「ある」

「さすが」

「榊は?」

 榊が黙った。

「……ないの?」

「朝晴れてたから」

「僕に前言ったよね」

「何を?」

「天気予報見ろって」

「言ったっけ」

「言った」

 少しだけ。

 嬉しくなる。

 今度は僕の番だ。

 傘を開く。

「入る?」

 榊が僕を見る。

「いいの?」

「うん」

 榊が傘の下へ入る。

 以前とは逆だ。

 二人で歩き出す。

 でも。

 榊が少し外側を歩いている。

 左肩が濡れそうだった。

「榊」

「何?」

「もっとこっち」

 腕を引く。

 肩が触れる。

 前なら。

 近すぎると思った。

 今は。

 少し近いくらいがちょうどいい。

「篠崎」

「何?」

「傘小さくない?」

「二人入れる」

「濡れるよ」

「大丈夫」

 榊が笑う。

「それ、信用していい?」

「これはいい」

「ほんと?」

「だって」

 一度言葉を止める。

 前なら。

 ここで飲み込んでいた。

 でも今日は言う。

「一緒に帰りたいから」

 榊が黙った。

「……何」

「いや」

「また変な顔してる」

「今、めちゃくちゃ嬉しい」

「それくらいで?」

「それくらいじゃない」

 榊が僕の手から傘を取る。

「俺持つ」

「僕の傘」

「恋人特権」

「そんなのない」

「今作った」

 榊が傘を持つ。

 僕はその隣を歩く。

 雨の音がする。

 肩が触れている。

 駅までの道。

 前と同じ道なのに。

 今は少し違って見える。

 僕は一人でも大丈夫だ。

 それは今でも変わらない。

 たぶんこれからも、一人でできることはたくさんある。

 でも。

 何でも一人でしなくていい。

 大丈夫じゃない日は、大丈夫じゃないと言っていい。

 助けてほしいときは、助けてと言っていい。

 そばにいてほしいときは。

 そう言っていい。

「榊」

「ん?」

「明日も隣、空けといて」

 榊が笑った。

「毎日空けてる」

「じゃあ」

 僕も少し笑う。

「明日も座る」

「うん」

 雨の中。

 僕たちは同じ傘で歩いていく。

 今日も。

 明日も。

 きっとその先も。

 僕の隣には、榊がいる。

 そして僕はもう。

 そのことを嬉しいと思う気持ちを、隠さなくていい。