君が「大丈夫」と言うたび、世話を焼きたくなる

 大学祭の実行委員を引き受けたのは、ほんの成り行きだった。

 最初は、グループ課題で一緒だった宮本に頼まれただけだった。

「人足りないんだよ。篠崎、こういう細かい作業得意そうじゃん」

 そう言われて。

 断れなかった。

「僕でよければ」

 気づけば、広報用の資料整理と当日の備品管理を担当することになっていた。

 最初は大したことじゃないと思っていた。

 名簿を作る。

 ポスターの枚数を数える。

 教室ごとに必要な備品を書き出す。

 僕はそういう作業が嫌いじゃない。

 一つずつ終わらせればいい。

 誰かと話すより楽だった。

 でも。

「篠崎、これもお願いできる?」

「うん」

「悪い、この確認も」

「分かった」

「こっち、今日中にいける?」

「大丈夫」

 気づけば、僕の机の上には三つのファイルが積まれていた。

 それでも断れなかった。

 頼られるのは嫌じゃない。

 むしろ。

 必要とされると、少し安心する。

 ここにいていい理由ができるから。

 だから。

「大丈夫です」

 と言った。

 何度も。

 大学祭まであと四日。

 放課後の学生会館は、いつもより騒がしかった。

「篠崎」

 聞き慣れた声がして、顔を上げる。

 榊が立っていた。

「まだいたの?」

「うん」

「何時から?」

「講義終わってから」

「三時間?」

「それくらい」

 榊は僕の机を見る。

「何それ」

「備品表」

「それ全部?」

「うん」

「今日やるの?」

「できるところまで」

 榊が椅子を引いて隣に座った。

「手伝う」

「いいよ」

「また?」

「これは実行委員の仕事だから」

「俺も実行委員じゃないけど、字くらい読める」

「本当に大丈夫」

 口にした瞬間。

 榊の顔が曇った。

「篠崎」

「……何」

「この前、約束したよな」

「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言わない」

「そう」

「でも、今は本当に」

「目の下、すごいけど」

 僕は反射的に目元へ触れた。

「寝てない?」

「寝てるよ」

「何時間」

「……四時間くらい」

「それ寝てるって言わない」

「大げさ」

「昼飯」

「食べた」

「何」

「パン」

「何個」

「一個」

 榊が黙る。

 その沈黙が怖くて、僕はパソコンへ視線を戻した。

「大学祭終われば落ち着くから」

「それまで倒れたら意味ないだろ」

「倒れない」

「前科あるから信用できない」

「前科って」

「三十八度で大学来た」

 返す言葉がない。

「今日は帰ろう」

「無理」

 僕は即答した。

「これ今日中だから」

「誰が決めたの」

「担当の先輩」

「その人に言えばいい。量多すぎますって」

「言えない」

「なんで」

「みんな忙しいから」

「篠崎も忙しいだろ」

「僕は」

「大丈夫は禁止」

 言葉を飲み込む。

 榊は僕の顔を見ていた。

「篠崎」

「うん」

「俺に手伝わせて」

 胸の奥が揺れた。

 頼りたい。

 本当は。

 少しだけ。

 いや。

 かなり。

 でも。

「……だめ」

「なんで」

「これは僕が引き受けたから」

「だから?」

「最後までやる」

「一人で?」

「うん」

「それ、頑張るっていうより意地じゃない?」

 少し腹が立った。

「榊には分からない」

「何が」

「僕がやるって言ったんだから」

「途中で助けてもらったら負けなの?」

「そういうんじゃない」

「じゃあ何」

 答えられない。

 頼ったら。

 自分の仕事なのに。

 できなかったことになる。

 そう思っている。

 たぶん。

「……帰って」

 僕は言った。

「篠崎」

「本当に。今日は一人でやる」

 榊はしばらく黙っていた。

 やがて立ち上がる。

「分かった」

 胸が少し痛んだ。

 自分で言ったくせに。

「でも」

 榊がスマホを出す。

「何かあったら連絡して」

「うん」

「絶対」

「分かった」

「助けてって言っていいから」

 その言葉に、僕は何も返せなかった。

 榊は少し寂しそうに笑って、帰っていった。

 その背中を見送る。

 追いかけたいと思った。

 でも。

 僕はまたパソコンへ向かった。

 午後八時。

 一つ目が終わった。

 午後九時。

 二つ目の確認作業。

 目が痛い。

 頭も重い。

 でもあと少し。

 午後十時。

 学生会館の閉館時刻が近づいていた。

「篠崎くん」

 担当の先輩が顔を出した。

「ごめん。これ追加」

 机の上に新しい紙束が置かれる。

「明日の朝までに名簿と照合してもらえる?」

 一瞬。

 言葉が出なかった。

 でも先輩は疲れた顔をしている。

 断れない。

「……分かりました」

「助かる。ほんとありがとう」

 先輩が去る。

 僕は紙束を見る。

 百枚近くある。

 視界がぼやけた。

 文字が二重に見える。

 無理かもしれない。

 そう思った。

 初めて。

 でも。

「やらないと」

 一人でつぶやく。

 学生会館を出たあと、駅前のファミレスへ移動した。

 家に帰ったら寝てしまいそうだったから。

 ドリンクバーを頼んで、ノートパソコンを開く。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 名前を照合する。

 ミスしないように。

 丁寧に。

 でも、だんだん文字が頭に入らなくなる。

 同じ行を何度も読む。

 時計を見る。

 午後十一時四十八分。

「……無理」

 声に出た。

 胸が苦しくなった。

 間に合わない。

 できない。

 でも。

 誰に言えばいいんだろう。

 先輩?

 無理だ。

 みんな忙しい。

 宮本?

 明日は朝から別の担当があると言っていた。

 藤岡?

 そもそも実行委員じゃない。

 スマホを手に取る。

 画面を開く。

 榊の名前が、一番上にあった。

 今日の最後のメッセージ。

『何かあったら連絡して』

 指が止まる。

 文字を打つ。

『まだ起きてる?』

 消す。

『今暇?』

 消す。

『ごめん』

 それも消す。

 何度やっても送れない。

 榊は今日は早く帰った。

 たぶん自分のレポートもある。

 僕が帰ってと言った。

 なのに今さら。

 頼るなんて。

 スマホを置く。

 また作業する。

 五分。

 十分。

 進まない。

 突然。

 涙が出た。

「……え」

 自分でも驚いた。

 別に悲しいわけじゃない。

 ただ。

 もう嫌だった。

 一人で全部できるふりをするのが。

 大丈夫だと言い続けるのが。

 本当は。

 助けてほしい。

 そう思った瞬間。

 また涙が落ちた。

 スマホを手に取る。

 榊の名前を開く。

 今度は。

 三文字だけ打った。

『助けて』

 送信ボタンを押す。

 すぐに後悔した。

 消したい。

 でもメッセージはもう送られている。

 既読がついた。

 一秒も経たないうちに電話が鳴った。

「……もしもし」

『どこ?』

 榊の声。

 いつもより低い。

「駅前のファミレス」

『そこ動かないで』

「でも」

『今行く』

「榊」

 電話が切れた。

 十五分後。

 本当に来た。

 息を切らせて。

「篠崎」

 僕の席まで来る。

「……ごめん」

「それ禁止」

「でも」

「謝る前に説明」

 榊が向かいに座る。

 机の上の紙を見る。

「これ全部?」

「うん」

「朝まで?」

「うん」

「何枚あるの」

「分からない」

「誰が一人でやれって?」

「……僕が引き受けた」

 榊が大きく息を吐く。

 怒られる。

 そう思った。

 でも。

「しんどかった?」

 優しい声だった。

 それだけで。

 また泣きそうになる。

「……うん」

「もっと早く言えよ」

「言えなかった」

「なんで」

「迷惑かと思って」

「またそれ?」

「だって」

「篠崎」

 榊が僕の手元にある紙を取り上げる。

「俺さ」

「うん」

「今、めちゃくちゃ嬉しい」

「……何が?」

「連絡くれたの」

 僕は意味が分からなかった。

「こんな時間に呼び出したのに?」

「うん」

「面倒じゃない?」

「全然」

「でも」

「篠崎が」

 榊が僕を見る。

「俺に助けてって言った」

 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥が熱くなる。

「……榊だから」

「何が?」

「榊だから言えた」

 榊が動きを止めた。

 僕は続ける。

「ほかの人には無理だった」

 喉が震える。

「榊なら」

「うん」

「来てくれるかもって思った」

「うん」

「来てほしいって思った」

 榊の目が少し細くなる。

「それ」

 静かに言う。

「期待していい?」

「何を?」

 榊は少し黙った。

 それから。

「俺、篠崎の世話がしたいんじゃない」

「……え?」

 思っていた言葉と違った。

「最初は、危なっかしいなって思った」

「ひどい」

「でも今は違う」

 榊が笑う。

「飲み物買うのも、課題手伝うのも、家まで送るのも」

 一つずつ。

「全部、好きなやつにしてただけ」

 頭が真っ白になる。

「……好き?」

「うん」

 即答だった。

「俺、篠崎が好き」

 何も言えない。

 榊が僕を見ている。

 逃げたい。

 でも。

 逃げたくない。

 胸の奥が苦しい。

「……いつから?」

「分かんない」

「分かんないの?」

「気づいたら」

 榊は少し笑った。

「篠崎が俺にだけ『もう少しいて』って言ったあたりで、たぶん完全に落ちた」

「……あれ忘れてって言った」

「無理って言っただろ」

 顔が熱くなる。

「それに」

「何」

「俺にだけいろいろしてくれるし」

「ミルクティー?」

「それも」

「そんなので?」

「そんなのじゃない」

 榊が少し真面目な顔になる。

「俺だけ特別みたいで、嬉しかった」

 特別。

 その言葉を聞いて。

 やっと。

 分かった。

 僕も同じだった。

 榊が僕だけを気にしてくれるのが嬉しかった。

 僕の隣に座ってくれること。

 名前を呼んでくれること。

 大丈夫じゃないと見抜いてくれること。

 全部。

 ほかの誰でも嫌だった。

「……僕」

「うん」

「榊がほかの人の世話してたら」

 言うのが恥ずかしい。

「たぶん嫌」

 榊が目を見開く。

「それって」

「分からない」

「また?」

「でも」

 僕は榊を見る。

 今度は逃げずに。

「榊がいなくなるのは嫌」

「うん」

「一緒にいたい」

 榊の顔が、ゆっくり笑顔になる。

「それ、かなり期待していいやつ?」

「……たぶん」

「またたぶん」

「仕方ないでしょ」

 榊が笑う。

 僕も少し笑った。

 そのあと。

「篠崎」

「何?」

「俺に甘えるの、嫌?」

 少し考える。

 昔なら。

 たぶんすぐに「大丈夫」と言った。

 一人でできる。

 迷惑かけたくない。

 そう言った。

 でも今は。

「……嫌じゃない」

「じゃあ?」

「もっと」

 声が小さくなる。

「もっと甘えてもいい?」

 榊が一瞬、何も言わなかった。

 次の瞬間。

「それ反則」

「何が?」

「可愛すぎる」

「……何言ってるの」

 顔が熱い。

「今の忘れて」

「絶対忘れない」

「また?」

「一生覚えてる」

「大げさ」

 榊が笑う。

 その笑顔を見て。

 僕もやっと笑えた。

 榊は机の上の紙束を半分取った。

「じゃあ、これは俺」

「でも」

 口にして。

 止める。

「……お願いします」

 榊が嬉しそうに笑った。

「はい」

 二人で作業を始める。

 一枚ずつ。

 同じ机で。

 さっきまであんなに重かった紙束が、少し軽く見えた。

 頼ることは。

 負けることじゃない。

 迷惑をかけることでもない。

 少なくとも。

 榊に頼ることは。

 僕にとって。

 たぶん。

 好きな人を信じることだった。