君が「大丈夫」と言うたび、世話を焼きたくなる

 その言葉を聞いたのは、昼休みだった。

 僕は飲み物を買おうと思って、講義棟の一階にある自動販売機へ向かっていた。

 角を曲がる少し手前で、聞き慣れた声がした。

「榊、最近ずっと篠崎と一緒じゃん」

 足が止まった。

 藤岡の声だった。

「まあな」

 榊が答える。

「ていうか、お前、篠崎の世話焼きすぎじゃない?」

 笑い混じりの声。

 悪意がないことは、すぐに分かった。

 たぶん、ただの冗談だ。

「この前も体調悪いの送ってったんだろ?」

「誰から聞いたんだよ」

「宮本。お前、午後の講義いなかったから」

「別にいいだろ」

「いいけどさ。お前、自分のこと後回しにしすぎじゃね?」

 そこで、僕はその場を離れた。

 続きを聞く必要はなかった。

 胸の奥が冷たくなる。

 自分のことを後回しにしている。

 その言葉だけが、頭の中に残った。

 やっぱり。

 そうなんだ。

 榊は優しいから。

 僕が困っていたら放っておけないだけで。

 僕が頼れば、断れないだけで。

 僕のせいで、榊は自分の時間を使っている。

 そんなこと。

 本当は最初から分かっていたはずなのに。

 最近の僕は、少し忘れていた。

 榊が席を取ってくれること。

 飲み物を買ってくれること。

 体調を心配してくれること。

 課題を手伝ってくれること。

 そういうのを、当たり前みたいに受け取るようになっていた。

 それだけじゃない。

 もっと頼っていい。

 榊がそう言ったから。

 僕は、それを本当に信じそうになっていた。

 図書館へ向かう。

 昼食は食べる気になれなかった。

 でも、食べないと榊に見つかる。

 だからコンビニで買ったパンを一つだけ食べた。

 味はよく分からなかった。

 午後の講義。

 いつもなら榊の隣へ座る。

 でも今日は、少し早めに教室へ入って、一番後ろの端に座った。

 講義開始の少し前。

 榊が入ってくる。

 いつものあたりを見て、それから教室を見回した。

 僕と目が合う。

 榊は少し驚いた顔をして、こちらへ歩いてきた。

「篠崎」

「何?」

「ここ座るの?」

「うん」

「なんで?」

「たまには」

「隣、空いてるけど」

「ここでいい」

 榊が僕を見る。

「なんかあった?」

「何もない」

「本当に?」

「うん」

「大丈夫?」

 その言葉に、少しだけ胸が痛くなる。

「大丈夫」

 久しぶりに、自分からその言葉を使った。

 榊の表情が変わった。

「その大丈夫、信用していい?」

「今日は本当」

「そっか」

 納得していない顔だった。

 でも教授が入ってきたので、榊は何も言わなかった。

 その日は一日、榊を避けた。

 正確には、迷惑をかけないようにした。

 昼食も一人。

 次の教室への移動も一人。

 課題も一人。

 榊が声をかけてきても、

「先行っていいよ」

「僕はあとで行く」

「大丈夫だから」

 そう言った。

 三日目になると、榊の顔から笑顔が減った。

「篠崎」

 放課後、講義室を出たところで呼び止められた。

「今日、図書館行く?」

「行かない」

「じゃあ駅まで」

「用事あるから」

「何の?」

「買い物」

「俺も付き合う」

「いい」

 榊の眉が寄る。

「なんで?」

「一人でできるから」

「知ってるよ」

 その言葉が、胸に刺さる。

 一人でできることを、榊は知っている。

 なのに今まで付き合ってくれていた。

 僕が頼っていたから。

「だから、もう大丈夫」

 そう言うと、榊が黙った。

「……またそれ?」

「何が」

「急に大丈夫ばっかり言うようになった」

「前から言ってた」

「最近減ってた」

 気づいていたんだ。

 そんなことまで。

「別に戻っただけ」

「何があったの」

「何もない」

「嘘」

「嘘じゃない」

「じゃあなんで俺避けるの」

「避けてない」

「避けてるだろ」

 声は強くない。

 でも、いつもの榊とは違った。

 僕は視線を落とす。

「……榊には関係ない」

 言った瞬間、後悔した。

 榊が黙る。

 少し長い沈黙。

「そっか」

 それだけ言った。

「じゃあ、帰る」

「うん」

 榊が歩き出す。

 呼び止めたいと思った。

 でも、できなかった。

 これでいい。

 これが正しい。

 榊が僕のことで時間を使わなくなれば。

 それでいい。

 なのに。

 駅まで一人で歩く道が、前よりずっと長く感じた。

 翌日。

 グループ課題の最終調整があった。

 藤岡と宮本、それから榊。

 四人で図書館に集まる。

「この部分、数字更新されてる」

「じゃあ差し替えだな」

「篠崎、文章直せる?」

 藤岡に聞かれる。

「うん」

 パソコンを開く。

 榊は向かいの席に座っていた。

 ほとんど話さない。

 僕も話さない。

 藤岡と宮本だけがいつも通りだった。

 一時間ほどで作業が終わった。

「よし、今日は解散でいいか」

 宮本が伸びをする。

「俺バイトあるから先行くわ」

「俺も帰る」

 藤岡が立つ。

「榊は?」

「俺も」

 榊が鞄を持った。

 僕も帰ろうとした。

「篠崎」

 藤岡が声をかけてきた。

「このデータだけ、元ファイル送っといてくれる?」

「うん。今日中に送る」

「助かる」

 僕は頷いた。

 そのあと、藤岡が何気なく榊を見る。

「そういや榊、この前言ってたレポート終わった?」

「まだ」

「お前珍しいな。締切明後日だろ」

「まあ、なんとかする」

「篠崎の課題手伝ってる場合じゃなかったじゃん」

 藤岡が笑う。

 心臓が止まったような気がした。

「藤岡」

 榊の声が少し低くなる。

「あ、ごめん。別に責めてるわけじゃなくて」

「分かってる」

 藤岡は本当に悪気がない。

 だからこそ、僕には十分だった。

「……ごめん」

 気づけば口にしていた。

 三人が僕を見る。

「何が?」

 榊が聞く。

「レポート」

「篠崎関係ないだろ」

「僕の課題手伝ったから」

「違う」

「でも」

「違うって」

「榊」

 僕は立ち上がった。

「もういいから」

「何が」

「僕に構わなくていい」

 榊の顔が変わった。

「それ、どういう意味?」

「そのまま」

「意味分かんない」

「僕は一人でできる」

「またそれかよ」

「できるから」

「知ってるって何回言わせるんだよ」

 図書館だから、榊は声を抑えている。

 でも怒っている。

 初めて見る顔だった。

「篠崎が一人でできることくらい知ってる」

「じゃあ」

「できるかどうかの話してないだろ」

「でも榊は、自分のこと後回しにしてる」

「は?」

「レポートだって」

「あれは俺の問題」

「僕がいなかったら、もっと楽だったでしょ」

 言った。

 ずっと頭の中にあった言葉。

 口にすると、思っていたより痛かった。

 榊が黙る。

「僕がいなかったら」

 続ける。

「送って帰る必要もないし、飲み物買う必要もないし、課題手伝う必要もないし」

「だから?」

「だから……」

 喉が詰まる。

「僕のこと、気にしなくていい」

 榊はしばらく僕を見ていた。

 それから、藤岡と宮本を見る。

「悪い。先帰ってて」

「え、ああ」

 二人が気まずそうに立ち去る。

 僕も帰ろうとした。

「篠崎」

 腕をつかまれた。

「離して」

「離さない」

「榊」

「誰に何言われた?」

「関係ない」

「関係ある」

「ない」

「ある」

 榊が僕の正面に立つ。

「俺が迷惑だって言った?」

「言わないでしょ。榊は優しいから」

「勝手に決めるなよ」

「でも実際」

「実際何?」

「僕のせいでレポート遅れてる」

「あれは単に俺がサボっただけ」

「午後の講義だって休んだ」

「俺が休むって決めた」

「僕を送るために」

「そうだよ」

「それが」

「それが何?」

 榊の声が少し強くなる。

「俺が嫌々やってるように見えた?」

 答えられない。

「篠崎に頼まれて断れなくて、仕方なくやってるように見えた?」

「……違うけど」

「じゃあなんで勝手に迷惑だって決めるんだよ」

 僕は唇を噛んだ。

「怖いから」

 気づけば、そう言っていた。

 榊の表情が少し変わる。

「何が?」

「慣れるのが」

「何に」

「榊がいることに」

 言葉が止まらなくなった。

「隣に座ってくれるのも、待っててくれるのも、心配してくれるのも」

 胸が苦しい。

「それが普通になって」

 声が震える。

「あとで、やっぱり迷惑だったって分かったら」

 そこから先が言えない。

 榊が何も言わずに僕を見ている。

「だから最初から一人のほうがいい」

「それ本気?」

「……分からない」

「篠崎」

「一人なら、誰にも迷惑かけないから」

 榊が大きく息を吐いた。

 怒らせた。

 そう思った。

 でも次に聞こえた声は、怒っていなかった。

「俺さ」

「……何」

「篠崎といるの、楽だからいるわけじゃないよ」

 顔を上げる。

「え?」

「面倒なこともある」

「ほら」

「最後まで聞け」

 榊に遮られる。

「体調悪いのに大学来るし、何でも一人でやろうとするし、すぐ大丈夫って言うし、肝心なこと言わないし」

「……ごめん」

「謝るなって」

 榊は少し笑った。

「でも、それ込みで俺がいたいんだよ」

「なんで」

「なんでって」

 榊は一瞬だけ言葉に詰まった。

 それから、僕をまっすぐ見る。

「お前といたいから」

 心臓が大きく鳴った。

「楽かどうかなんて聞いてない」

 榊が続ける。

「得か損かも関係ない」

「でも」

「俺は、篠崎といたい」

 言葉が出なかった。

 胸の奥が熱い。

 嬉しい。

 そう思ってしまった。

 だから余計に怖い。

「……分からない」

「何が?」

「榊がなんでそこまで言ってくれるのか」

「俺も最近分かってきた」

 榊が小さく笑った。

「でも今は、まだ言わない」

「何それ」

「篠崎、逃げそうだから」

「逃げない」

「さっきまで三日間逃げてた人が?」

「……それは」

「だから今はこれだけ」

 榊は僕の腕から手を離した。

「勝手に俺の気持ち決めないで」

「……うん」

「迷惑だったら俺が言う」

「うん」

「あと」

「何?」

「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言うの禁止」

「また?」

「特に俺には」

 胸が少し痛む。

 でも今度は、嫌な痛みではなかった。

「……努力する」

「よし」

 榊が笑う。

 いつもの顔だった。

 その笑顔を見た瞬間。

 安心した自分に気づく。

 やっぱり僕は。

 榊がいなくなるのが嫌だった。

 図書館を出る。

 榊が僕の隣を歩く。

 いつもの距離。

 少しだけ近い。

「篠崎」

「何?」

「今日一緒に帰る?」

 いつもなら。

 どうしようか迷って。

 「どっちでもいい」と答えていた。

 でも今日は。

「……帰りたい」

 そう言った。

 榊が一瞬だけ目を見開く。

 それから嬉しそうに笑った。

「うん」

 たったそれだけ。

 なのに。

 胸の奥にあった冷たいものが、少しずつ溶けていった。

 迷惑になりたくない。

 その気持ちは、まだ消えない。

 たぶん、すぐには消えない。

 でも。

 誰かがそばにいてくれることまで拒む必要はないのかもしれない。

 少なくとも。

 榊が「いたい」と言ってくれる間は。

 その言葉を、信じてみてもいいのかもしれなかった。