熱が下がった翌日、僕は大学を休んだ。
正確には、榊に休まされた。
朝、目を覚ますとスマホにメッセージが入っていた。
『熱は?』
測ると三十七度一分。
『もう大丈夫』
送ってから、しまったと思った。
すぐに返信が来る。
『その大丈夫は信用しません』
続けて、
『今日は休め』
と送られてきた。
『でも熱下がった』
『昨日38度あった人間が何言ってる』
『講義』
『ノート送る』
『課題』
『俺が聞いとく』
何を言っても先回りされる。
最後に、
『ちゃんと寝てろ』
と来た。
僕はしばらく画面を見つめていた。
『分かった』
そう返すと、
『よくできました』
と返ってきた。
子ども扱いされている気がする。
少し悔しい。
なのに、口元が緩んだ。
翌日、大学へ行くと、榊は僕の顔を見るなり立ち上がった。
「熱は?」
「ない」
「本当に?」
「測った。三十六度五分」
「よし」
なぜか満足そうに頷く。
「じゃあこれ」
机の上にペットボトルが置かれた。
スポーツドリンク。
「……何これ」
「水分」
「もう病人じゃないけど」
「昨日まで病人」
「自分で買える」
「知ってる」
またその言い方だ。
できないからやっているわけじゃない。
榊がしたいからしている。
そう言われている気がして、何も言えなくなる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
僕が受け取ると、榊は嬉しそうだった。
それから、榊の世話焼きは少しずつひどくなった。
「篠崎、昼飯」
「まだいい」
「一時半」
「……食べる」
「篠崎、次の教室反対」
「え?」
「そっち行ったら別棟」
「……ありがとう」
「篠崎、傘」
「今日は持ってる」
「ほんとだ。成長したな」
「馬鹿にしてる?」
「褒めてる」
席を取ってくれる。
講義の変更を教えてくれる。
グループ課題の締切を僕より先に確認している。
僕が「大丈夫」と言うと、顔を見て本当かどうか判断しようとする。
最初は落ち着かなかった。
どうしてここまでしてくれるんだろう。
何か返さないといけない。
そう思っていた。
でも、榊は何かを返してほしそうには見えなかった。
むしろ僕が素直に受け取ると、少し嬉しそうにする。
それが、だんだん分かってきた。
ある日の昼休み。
「篠崎、食堂行く?」
「うん」
「じゃあ行こ」
榊が立つ。
僕も鞄を持った。
食堂へ向かう途中、自動販売機の前を通る。
榊がちらりと見た。
いつも買っているミルクティーが売り切れている。
「あー」
小さく声を上げた。
「ない」
「何が?」
「ミルクティー」
「そんなに好きなの?」
「毎日飲んでるだろ」
「そうだった?」
「見てないなあ、篠崎は俺のこと」
冗談っぽく言われた。
胸の奥が少しざわつく。
僕は榊のことを見ていないんだろうか。
考えてみる。
榊は昼食のあとに甘い飲み物を買う。
眠いときはコーヒー。
講義中は無糖の水。
ノートを取るときは黒と青のボールペンを使う。
眠くなると右手で首を揉む。
笑うとき、少しだけ左目が細くなる。
僕は思ったより、榊のことを見ている。
でも、それを言うのは恥ずかしかった。
「……別の自販機ならあるかも」
「いいよ。そこまで飲みたいわけじゃないし」
榊はそう言って食堂へ向かった。
翌朝。
僕は大学へ来る前に、駅前のコンビニへ寄った。
冷蔵棚の前に立つ。
昨日、榊が探していたミルクティーがある。
一本取る。
そこで急に恥ずかしくなった。
何をしているんだろう。
頼まれてもいないのに。
戻そうかと思った。
でも。
榊はいつも、頼まれていないのに僕にいろいろしてくれる。
僕がしたら変なんだろうか。
迷った末、そのまま会計をした。
講義室へ入る。
「おはよう」
榊が手を上げる。
「……おはよう」
隣に座る。
鞄の中のミルクティーが妙に重い。
どうやって渡せばいいんだろう。
普通に渡せばいい。
ただそれだけなのに。
「篠崎?」
「何」
「今日静かじゃない?」
「いつも静かだよ」
「なんか隠してる?」
「隠してない」
「怪しい」
榊が僕の鞄を見る。
「な、何」
「いや」
僕は慌てて鞄を抱えた。
「絶対何かあるじゃん」
「ない」
「じゃあその動き何」
顔が熱くなる。
もう無理だ。
僕は鞄からミルクティーを取り出した。
「これ」
榊の机に置く。
「え?」
「昨日、なかったから」
榊がペットボトルを見る。
それから僕を見る。
「俺に?」
「ほかに誰がいるの」
「いや、そうだけど」
いつもならすぐ何か言う榊が黙った。
不安になる。
「いらなかった?」
「いる」
即答だった。
「めちゃくちゃいる」
榊がペットボトルを持つ。
妙に嬉しそうだ。
「ありがとう」
「……うん」
「篠崎が買ってくれた」
「見れば分かる」
「俺がミルクティー好きなの覚えてたんだ」
「昨日言ってたから」
「昨日だけ?」
「……何が」
「前から気づいてた?」
僕は答えなかった。
「篠崎」
「講義始まるよ」
「まだ五分ある」
「予習する」
「逃げた」
「逃げてない」
榊は楽しそうに笑っている。
その日から、僕も少しだけ榊に何かするようになった。
といっても、大したことではない。
講義資料を印刷するとき、榊の分も一部余計に刷る。
榊が授業中にペンを落としたら、拾う。
学食で席を見つけたら、先に取っておく。
榊が寝不足そうな日は、
「今日コーヒーじゃなくていいの?」
と聞く。
そんな程度だ。
でも、そのたび榊は少し驚く。
それから嬉しそうに笑う。
その顔を見ると、僕も少し嬉しくなる。
誰かに何かをしてもらうより。
自分が何かをして、その人が喜んでくれるほうが、ずっと気が楽だった。
これなら迷惑にならない。
これなら、少し返せる。
そう思った。
ある日の午後。
講義が始まる直前になって、榊が鞄の中を探り始めた。
「ない」
「何が?」
「ペンケース」
「忘れたの?」
「たぶん」
「珍しいね」
「朝バタバタしてたからな」
僕は自分のペンケースを開けた。
黒のボールペンを一本取り出す。
「はい」
「いいの?」
「二本あるから」
「ありがとう」
榊が受け取ろうとする。
でも、途中で止めた。
「何?」
榊はペンではなく、僕の顔を見ていた。
「篠崎さ」
「うん」
「最近、俺にいろいろしてくれるよね」
心臓が一つ大きく鳴った。
「……そう?」
「ミルクティーとか」
「あれは一回だけ」
「資料も」
「ついで」
「席も取ってくれる」
「空いてたから」
「俺がコーヒー飲みたいタイミングまで知ってる」
「それは……」
言葉に詰まる。
榊が少し身を寄せた。
「それ、俺にだけやってる?」
「え?」
「ほかのやつにも?」
何を聞かれているのか、よく分からなかった。
「別に……」
「藤岡とか宮本にも飲み物買う?」
「買わない」
「資料刷る?」
「頼まれれば」
「頼まれなくても?」
「しない」
榊の口元が、少し上がる。
「じゃあ俺だけ?」
「……たぶん」
「たぶん?」
なぜそんなに嬉しそうなんだろう。
僕はペンを机の上に置いた。
「榊には」
「うん」
「してあげたいから」
言ったあとで、自分の言葉の意味に気づいた。
榊が固まる。
僕も固まった。
「……今のなし」
「なしにしない」
「変な意味じゃない」
「まだ何も言ってないけど」
「榊が変な顔してる」
「どんな顔?」
「……嬉しそう」
「嬉しいから」
榊は即答した。
僕のほうが黙る番だった。
「なんで」
「篠崎が俺のこと見てくれてるって分かったから」
「見てるって」
「そういう意味じゃなくて」
榊が笑う。
「俺ばっかり篠崎のこと気にしてると思ってた」
その言葉が胸の奥に残った。
「……榊は」
「ん?」
「なんでそんなに僕のこと気にするの?」
ずっと聞きたかった。
でも、聞くのが怖かった。
親切だから。
危なっかしいから。
放っておけないから。
そう言われると思っていた。
榊は少し考えるように僕を見る。
「最初は」
「最初は?」
「篠崎、放っといたらそのうち倒れそうだったから」
「……ひどい」
「実際倒れかけたじゃん」
「倒れてない」
「38度で大学来た」
「それは」
「でも今は違う」
榊の声が少し変わった。
「今は、篠崎に頼られると嬉しい」
「頼ってる?」
「前よりは」
「そうかな」
「俺の隣座るし」
「それは席が」
「俺に体調悪いの隠しきれないし」
「隠したかった」
「俺がいなくなると待ってるし」
「待ってない」
「熱あるとき『もう少しいて』って言った」
一気に顔が熱くなる。
「それ忘れて」
「絶対忘れない」
「なんで」
「嬉しかったから」
榊は笑わなかった。
真っすぐ僕を見ている。
「篠崎が俺を頼ってくれると、こんなに嬉しいんだなって思った」
胸の奥が、妙に苦しくなる。
でも嫌な苦しさではなかった。
「だから」
榊が続ける。
「もっと頼っていいよ」
「……簡単に言うね」
「簡単じゃないの?」
「僕には難しい」
「知ってる」
「じゃあ言わないで」
「無理」
「なんで」
「言い続けたら、そのうち慣れるかもしれないだろ」
榊らしいと思った。
強引なのに、嫌じゃない。
むしろ。
少し安心する。
「じゃあ」
僕は机の上のペンを指さした。
「それ、ちゃんと返してね」
「これ?」
「お気に入りだから」
「分かった」
「なくしたら困る」
「大丈夫」
榊が言った。
僕は思わず笑った。
「榊の大丈夫も信用しない」
「え」
「僕ばっかり言われるのおかしいから」
「それ仕返し?」
「たぶん」
「たぶん?」
榊が笑う。
僕も笑った。
誰かにしてもらうこと。
誰かにしてあげること。
どちらも同じなのかもしれない。
相手が嬉しいなら。
自分も嬉しいなら。
それは迷惑とは違う。
そのことを、僕は少しずつ知り始めていた。
そして。
榊が喜んでくれるなら、もっと何かしてあげたい。
そんなふうに思っている自分の気持ちを。
このときの僕は、まだ名前をつけられずにいた。
正確には、榊に休まされた。
朝、目を覚ますとスマホにメッセージが入っていた。
『熱は?』
測ると三十七度一分。
『もう大丈夫』
送ってから、しまったと思った。
すぐに返信が来る。
『その大丈夫は信用しません』
続けて、
『今日は休め』
と送られてきた。
『でも熱下がった』
『昨日38度あった人間が何言ってる』
『講義』
『ノート送る』
『課題』
『俺が聞いとく』
何を言っても先回りされる。
最後に、
『ちゃんと寝てろ』
と来た。
僕はしばらく画面を見つめていた。
『分かった』
そう返すと、
『よくできました』
と返ってきた。
子ども扱いされている気がする。
少し悔しい。
なのに、口元が緩んだ。
翌日、大学へ行くと、榊は僕の顔を見るなり立ち上がった。
「熱は?」
「ない」
「本当に?」
「測った。三十六度五分」
「よし」
なぜか満足そうに頷く。
「じゃあこれ」
机の上にペットボトルが置かれた。
スポーツドリンク。
「……何これ」
「水分」
「もう病人じゃないけど」
「昨日まで病人」
「自分で買える」
「知ってる」
またその言い方だ。
できないからやっているわけじゃない。
榊がしたいからしている。
そう言われている気がして、何も言えなくなる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
僕が受け取ると、榊は嬉しそうだった。
それから、榊の世話焼きは少しずつひどくなった。
「篠崎、昼飯」
「まだいい」
「一時半」
「……食べる」
「篠崎、次の教室反対」
「え?」
「そっち行ったら別棟」
「……ありがとう」
「篠崎、傘」
「今日は持ってる」
「ほんとだ。成長したな」
「馬鹿にしてる?」
「褒めてる」
席を取ってくれる。
講義の変更を教えてくれる。
グループ課題の締切を僕より先に確認している。
僕が「大丈夫」と言うと、顔を見て本当かどうか判断しようとする。
最初は落ち着かなかった。
どうしてここまでしてくれるんだろう。
何か返さないといけない。
そう思っていた。
でも、榊は何かを返してほしそうには見えなかった。
むしろ僕が素直に受け取ると、少し嬉しそうにする。
それが、だんだん分かってきた。
ある日の昼休み。
「篠崎、食堂行く?」
「うん」
「じゃあ行こ」
榊が立つ。
僕も鞄を持った。
食堂へ向かう途中、自動販売機の前を通る。
榊がちらりと見た。
いつも買っているミルクティーが売り切れている。
「あー」
小さく声を上げた。
「ない」
「何が?」
「ミルクティー」
「そんなに好きなの?」
「毎日飲んでるだろ」
「そうだった?」
「見てないなあ、篠崎は俺のこと」
冗談っぽく言われた。
胸の奥が少しざわつく。
僕は榊のことを見ていないんだろうか。
考えてみる。
榊は昼食のあとに甘い飲み物を買う。
眠いときはコーヒー。
講義中は無糖の水。
ノートを取るときは黒と青のボールペンを使う。
眠くなると右手で首を揉む。
笑うとき、少しだけ左目が細くなる。
僕は思ったより、榊のことを見ている。
でも、それを言うのは恥ずかしかった。
「……別の自販機ならあるかも」
「いいよ。そこまで飲みたいわけじゃないし」
榊はそう言って食堂へ向かった。
翌朝。
僕は大学へ来る前に、駅前のコンビニへ寄った。
冷蔵棚の前に立つ。
昨日、榊が探していたミルクティーがある。
一本取る。
そこで急に恥ずかしくなった。
何をしているんだろう。
頼まれてもいないのに。
戻そうかと思った。
でも。
榊はいつも、頼まれていないのに僕にいろいろしてくれる。
僕がしたら変なんだろうか。
迷った末、そのまま会計をした。
講義室へ入る。
「おはよう」
榊が手を上げる。
「……おはよう」
隣に座る。
鞄の中のミルクティーが妙に重い。
どうやって渡せばいいんだろう。
普通に渡せばいい。
ただそれだけなのに。
「篠崎?」
「何」
「今日静かじゃない?」
「いつも静かだよ」
「なんか隠してる?」
「隠してない」
「怪しい」
榊が僕の鞄を見る。
「な、何」
「いや」
僕は慌てて鞄を抱えた。
「絶対何かあるじゃん」
「ない」
「じゃあその動き何」
顔が熱くなる。
もう無理だ。
僕は鞄からミルクティーを取り出した。
「これ」
榊の机に置く。
「え?」
「昨日、なかったから」
榊がペットボトルを見る。
それから僕を見る。
「俺に?」
「ほかに誰がいるの」
「いや、そうだけど」
いつもならすぐ何か言う榊が黙った。
不安になる。
「いらなかった?」
「いる」
即答だった。
「めちゃくちゃいる」
榊がペットボトルを持つ。
妙に嬉しそうだ。
「ありがとう」
「……うん」
「篠崎が買ってくれた」
「見れば分かる」
「俺がミルクティー好きなの覚えてたんだ」
「昨日言ってたから」
「昨日だけ?」
「……何が」
「前から気づいてた?」
僕は答えなかった。
「篠崎」
「講義始まるよ」
「まだ五分ある」
「予習する」
「逃げた」
「逃げてない」
榊は楽しそうに笑っている。
その日から、僕も少しだけ榊に何かするようになった。
といっても、大したことではない。
講義資料を印刷するとき、榊の分も一部余計に刷る。
榊が授業中にペンを落としたら、拾う。
学食で席を見つけたら、先に取っておく。
榊が寝不足そうな日は、
「今日コーヒーじゃなくていいの?」
と聞く。
そんな程度だ。
でも、そのたび榊は少し驚く。
それから嬉しそうに笑う。
その顔を見ると、僕も少し嬉しくなる。
誰かに何かをしてもらうより。
自分が何かをして、その人が喜んでくれるほうが、ずっと気が楽だった。
これなら迷惑にならない。
これなら、少し返せる。
そう思った。
ある日の午後。
講義が始まる直前になって、榊が鞄の中を探り始めた。
「ない」
「何が?」
「ペンケース」
「忘れたの?」
「たぶん」
「珍しいね」
「朝バタバタしてたからな」
僕は自分のペンケースを開けた。
黒のボールペンを一本取り出す。
「はい」
「いいの?」
「二本あるから」
「ありがとう」
榊が受け取ろうとする。
でも、途中で止めた。
「何?」
榊はペンではなく、僕の顔を見ていた。
「篠崎さ」
「うん」
「最近、俺にいろいろしてくれるよね」
心臓が一つ大きく鳴った。
「……そう?」
「ミルクティーとか」
「あれは一回だけ」
「資料も」
「ついで」
「席も取ってくれる」
「空いてたから」
「俺がコーヒー飲みたいタイミングまで知ってる」
「それは……」
言葉に詰まる。
榊が少し身を寄せた。
「それ、俺にだけやってる?」
「え?」
「ほかのやつにも?」
何を聞かれているのか、よく分からなかった。
「別に……」
「藤岡とか宮本にも飲み物買う?」
「買わない」
「資料刷る?」
「頼まれれば」
「頼まれなくても?」
「しない」
榊の口元が、少し上がる。
「じゃあ俺だけ?」
「……たぶん」
「たぶん?」
なぜそんなに嬉しそうなんだろう。
僕はペンを机の上に置いた。
「榊には」
「うん」
「してあげたいから」
言ったあとで、自分の言葉の意味に気づいた。
榊が固まる。
僕も固まった。
「……今のなし」
「なしにしない」
「変な意味じゃない」
「まだ何も言ってないけど」
「榊が変な顔してる」
「どんな顔?」
「……嬉しそう」
「嬉しいから」
榊は即答した。
僕のほうが黙る番だった。
「なんで」
「篠崎が俺のこと見てくれてるって分かったから」
「見てるって」
「そういう意味じゃなくて」
榊が笑う。
「俺ばっかり篠崎のこと気にしてると思ってた」
その言葉が胸の奥に残った。
「……榊は」
「ん?」
「なんでそんなに僕のこと気にするの?」
ずっと聞きたかった。
でも、聞くのが怖かった。
親切だから。
危なっかしいから。
放っておけないから。
そう言われると思っていた。
榊は少し考えるように僕を見る。
「最初は」
「最初は?」
「篠崎、放っといたらそのうち倒れそうだったから」
「……ひどい」
「実際倒れかけたじゃん」
「倒れてない」
「38度で大学来た」
「それは」
「でも今は違う」
榊の声が少し変わった。
「今は、篠崎に頼られると嬉しい」
「頼ってる?」
「前よりは」
「そうかな」
「俺の隣座るし」
「それは席が」
「俺に体調悪いの隠しきれないし」
「隠したかった」
「俺がいなくなると待ってるし」
「待ってない」
「熱あるとき『もう少しいて』って言った」
一気に顔が熱くなる。
「それ忘れて」
「絶対忘れない」
「なんで」
「嬉しかったから」
榊は笑わなかった。
真っすぐ僕を見ている。
「篠崎が俺を頼ってくれると、こんなに嬉しいんだなって思った」
胸の奥が、妙に苦しくなる。
でも嫌な苦しさではなかった。
「だから」
榊が続ける。
「もっと頼っていいよ」
「……簡単に言うね」
「簡単じゃないの?」
「僕には難しい」
「知ってる」
「じゃあ言わないで」
「無理」
「なんで」
「言い続けたら、そのうち慣れるかもしれないだろ」
榊らしいと思った。
強引なのに、嫌じゃない。
むしろ。
少し安心する。
「じゃあ」
僕は机の上のペンを指さした。
「それ、ちゃんと返してね」
「これ?」
「お気に入りだから」
「分かった」
「なくしたら困る」
「大丈夫」
榊が言った。
僕は思わず笑った。
「榊の大丈夫も信用しない」
「え」
「僕ばっかり言われるのおかしいから」
「それ仕返し?」
「たぶん」
「たぶん?」
榊が笑う。
僕も笑った。
誰かにしてもらうこと。
誰かにしてあげること。
どちらも同じなのかもしれない。
相手が嬉しいなら。
自分も嬉しいなら。
それは迷惑とは違う。
そのことを、僕は少しずつ知り始めていた。
そして。
榊が喜んでくれるなら、もっと何かしてあげたい。
そんなふうに思っている自分の気持ちを。
このときの僕は、まだ名前をつけられずにいた。



