朝から、少しだけ頭が重かった。
でも、講義を休むほどではない。
熱を測るほどでもない。
だから、いつも通り大学へ行った。
駅から大学まで歩いている途中で、少し息が上がった。
階段を上ったところで、視界がぼんやりした。
でも、座れば大丈夫。
水を飲めば大丈夫。
午前中だけ乗り切れば、大丈夫。
僕はそうやって、自分に言い聞かせた。
「篠崎」
講義室に入ると、榊がいつもの席から手を挙げた。
最近は、それが当たり前になりつつある。
榊の隣。
僕の席。
そう思ってしまう自分が、少しだけ怖い。
「おはよう」
「……おはよう」
荷物を置いて座る。
榊がこちらを見る。
「どうした?」
「何が?」
「顔」
「顔?」
「白くない?」
反射的に頬へ手を当てる。
「普通だよ」
「そう?」
「うん」
榊はしばらく僕の顔を見ていた。
落ち着かない。
「何」
「いや」
「……見すぎ」
「ごめん」
そう言いながら、まだ見ている。
講義が始まった。
ノートを取ろうとしたけれど、教授の声が遠く感じる。
文字を書いているのに、内容が頭へ入ってこない。
何度か瞬きをする。
眠いのかもしれない。
昨日、少し遅くまで課題をしていたから。
大丈夫。
次の瞬間、シャープペンが指から落ちた。
床に転がる。
拾おうと屈んだところで、頭の奥がぐらりと揺れた。
「篠崎?」
「平気」
顔を上げるより先に答えていた。
榊が床のペンを拾う。
「まだ何も聞いてないけど」
「……落としただけ」
「顔、さっきよりひどい」
「寝不足」
「ちょっとこっち向いて」
「何?」
榊の手が伸びてきた。
額に触れられる。
ひやりとした手のひら。
びっくりして身体が固まった。
「熱あるじゃん」
「ないよ」
「触っただけで分かるくらいあるけど」
「榊の手が冷たいだけ」
「往生際悪いな」
小声で言われる。
教授はこちらに気づいていない。
「帰るぞ」
「え?」
「講義出てる場合じゃないだろ」
「大丈夫」
榊の眉がぴくりと動く。
「はい、それ禁止」
「でも」
「今日のお前の大丈夫は、特に信用しない」
「単位あるし」
「一回休んだくらいで落とさない」
「ノート取らないと」
「俺が取る」
「次の講義も」
「後で内容送る」
「でも」
「でもじゃない」
榊は僕の鞄を持った。
「ちょっと」
「立てる?」
「立てるよ」
証明するように立ち上がる。
その瞬間、膝が少し揺れた。
榊が腕をつかんだ。
「ほら」
「今のは、急に立ったから」
「何でも理由つけるな」
「一人で帰れる」
僕が言うと、榊は少し黙った。
それから、思っていたのと違うことを言った。
「知ってる」
「……え?」
「篠崎が一人で帰れるのは知ってる」
榊は僕の鞄を肩にかける。
「一人で帰れないから送るんじゃない」
まっすぐ僕を見る。
「俺が送りたいから送る」
何も言えなくなった。
そんな言い方をされたことがなかった。
誰かに助けてもらうのは、その人に迷惑をかけることだと思っていた。
できないから手伝ってもらう。
弱いから助けてもらう。
だから、できることは一人でやらなければいけない。
そう思っていた。
「……授業は?」
「午後から戻ればいい」
「僕のせいで」
「違うって」
榊は笑わなかった。
「俺がそうしたいの」
また同じことを言う。
僕には、その意味がよく分からなかった。
でも、それ以上断る言葉も見つからなかった。
「……ありがとう」
「うん」
大学を出る。
外は晴れていた。
駅までの道が、いつもより長く感じる。
榊は僕の歩幅に合わせて歩いていた。
「ゆっくりでいいから」
「そんなに遅くない」
「張り合うな」
「張り合ってない」
「じゃあゆっくり歩け」
「……はい」
駅の階段で、榊が僕の腕を持った。
「そこまでしなくても」
「落ちたら困る」
「落ちないよ」
「信用ない」
「ひどい」
「大丈夫って言いすぎた罰」
反論できない。
電車に乗ると、座席が一つだけ空いていた。
「座って」
「榊は?」
「いいから」
「でも」
「篠崎」
「……座ります」
榊は満足そうに頷いた。
僕は座席に座り、榊は目の前に立つ。
揺れる車内で、榊の鞄と僕の鞄を両方持っている。
申し訳ない。
そう思う。
なのに同時に、安心していた。
自分の駅に着くころには、身体がかなり重くなっていた。
「家どっち?」
「もう一人で行ける」
「ここまで来て帰るわけないだろ」
「本当に近いから」
「じゃあすぐ着くな」
僕の負けだった。
徒歩七分。
アパートの前まで来る。
「ここ」
「コンビニ寄るぞ」
「なんで?」
「飲み物と薬」
「家にある」
「本当?」
「……薬はない」
「ほら」
近くのコンビニで、榊はスポーツドリンクとゼリーとおにぎりを買った。
「僕、払う」
「後でいい」
「今払える」
「病人は財布出さなくていい」
「病人じゃ」
「熱ある人を病人って言うんだよ」
結局、払わせてもらえなかった。
部屋に入る。
「適当に座って」
「お邪魔します」
榊が部屋を見回す。
急に恥ずかしくなった。
散らかってはいない。
むしろ何もなさすぎるくらいだ。
「きれいだな」
「物が少ないだけ」
「篠崎っぽい」
「どういう意味?」
「ちゃんとしてる」
ちゃんとしてる。
その言葉は、少しだけ嬉しかった。
僕はベッドに腰を下ろす。
「体温計ある?」
「引き出し」
測る。
三十八度二分。
思っていたより高い。
「ほら」
榊が体温計を見て言う。
「これで朝から大学来てたの?」
「朝はもっと低かったと思う」
「測ってないだろ」
「……うん」
「信じられない」
「ごめん」
「謝るところじゃない」
榊が買ってきた飲み物を開けて渡してくれる。
「飲んで」
「ありがとう」
少し飲む。
冷たくて気持ちいい。
「何か食えそう?」
「まだいい」
「じゃあゼリー置いとく」
「うん」
榊はテーブルの上に薬と食べ物を並べた。
まるで、本当に僕の面倒を見るために来たみたいだった。
当たり前だけど。
「じゃあ、寝ろ」
「榊は?」
「帰るよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の中に、変な空白ができた。
当たり前だ。
榊には午後の講義がある。
ここまで送ってもらっただけでも十分すぎる。
「そっか」
僕は言った。
「ありがとう。もう大丈夫」
榊がじっと僕を見る。
「最後までそれ言う?」
「……今度は本当に」
「分かった」
榊が立ち上がる。
「何かあったら連絡して」
「うん」
「ちゃんとするんだぞ」
「分かった」
玄関へ向かう榊の後ろを、なんとなく目で追った。
ドアの前で靴を履く。
「じゃあな」
「うん」
手を振ろうとした。
そのはずだった。
なのに。
気づいたときには、僕の手は榊の服の袖をつかんでいた。
自分でも驚いた。
榊も驚いた顔で振り返る。
「……篠崎?」
離さないと。
そう思うのに、指が動かない。
「ごめん」
「うん」
「違う、あの」
何をしているんだろう。
熱のせいだ。
たぶん。
「どうした?」
榊の声が、いつもより少し優しい。
それで余計に離せなくなる。
「……もう少し」
「ん?」
「もう少しいて」
言った。
言ってしまった。
一気に恥ずかしくなって、手を離す。
「ごめん、今の忘れて」
「なんで?」
「何でもないから」
「何でもなくないだろ」
「熱あるから変なこと言っただけ」
榊はしばらく黙っていた。
怒っただろうか。
困らせた。
やっぱり言わなければよかった。
「篠崎」
「……何」
「そういうこと、俺以外にも言ってる?」
意味が分からず顔を上げる。
「何を?」
「もう少しいて、って」
「言わない」
考えるより先に答えた。
「誰にも?」
「うん」
「なんで俺には言ったの?」
それは。
分からない。
でも、答えはたぶん一つしかなかった。
「……榊だから」
榊が黙った。
僕は不安になる。
「変だった?」
「いや」
榊は口元を手で隠した。
「全然」
「笑ってる?」
「笑ってない」
「絶対笑ってる」
「違うって」
でも耳が赤い。
僕と同じくらい。
「午後の講義」
「一本くらい休む」
「でも」
「俺がいたいからいる」
その言葉に、胸がまた熱くなる。
榊は靴を脱いだ。
「寝ろ。起きるまでいるから」
「……うん」
ベッドに横になる。
榊は床に座って、スマホを見ていた。
目を閉じる。
眠る直前、思った。
誰かが同じ部屋にいるだけで。
こんなに安心できるんだ。
僕はずっと、一人でも大丈夫だと思っていた。
でも。
大丈夫じゃないときに、そばにいてほしいと思う人ができた。
それが何を意味するのか。
このときの僕は、まだ知らなかった。
でも、講義を休むほどではない。
熱を測るほどでもない。
だから、いつも通り大学へ行った。
駅から大学まで歩いている途中で、少し息が上がった。
階段を上ったところで、視界がぼんやりした。
でも、座れば大丈夫。
水を飲めば大丈夫。
午前中だけ乗り切れば、大丈夫。
僕はそうやって、自分に言い聞かせた。
「篠崎」
講義室に入ると、榊がいつもの席から手を挙げた。
最近は、それが当たり前になりつつある。
榊の隣。
僕の席。
そう思ってしまう自分が、少しだけ怖い。
「おはよう」
「……おはよう」
荷物を置いて座る。
榊がこちらを見る。
「どうした?」
「何が?」
「顔」
「顔?」
「白くない?」
反射的に頬へ手を当てる。
「普通だよ」
「そう?」
「うん」
榊はしばらく僕の顔を見ていた。
落ち着かない。
「何」
「いや」
「……見すぎ」
「ごめん」
そう言いながら、まだ見ている。
講義が始まった。
ノートを取ろうとしたけれど、教授の声が遠く感じる。
文字を書いているのに、内容が頭へ入ってこない。
何度か瞬きをする。
眠いのかもしれない。
昨日、少し遅くまで課題をしていたから。
大丈夫。
次の瞬間、シャープペンが指から落ちた。
床に転がる。
拾おうと屈んだところで、頭の奥がぐらりと揺れた。
「篠崎?」
「平気」
顔を上げるより先に答えていた。
榊が床のペンを拾う。
「まだ何も聞いてないけど」
「……落としただけ」
「顔、さっきよりひどい」
「寝不足」
「ちょっとこっち向いて」
「何?」
榊の手が伸びてきた。
額に触れられる。
ひやりとした手のひら。
びっくりして身体が固まった。
「熱あるじゃん」
「ないよ」
「触っただけで分かるくらいあるけど」
「榊の手が冷たいだけ」
「往生際悪いな」
小声で言われる。
教授はこちらに気づいていない。
「帰るぞ」
「え?」
「講義出てる場合じゃないだろ」
「大丈夫」
榊の眉がぴくりと動く。
「はい、それ禁止」
「でも」
「今日のお前の大丈夫は、特に信用しない」
「単位あるし」
「一回休んだくらいで落とさない」
「ノート取らないと」
「俺が取る」
「次の講義も」
「後で内容送る」
「でも」
「でもじゃない」
榊は僕の鞄を持った。
「ちょっと」
「立てる?」
「立てるよ」
証明するように立ち上がる。
その瞬間、膝が少し揺れた。
榊が腕をつかんだ。
「ほら」
「今のは、急に立ったから」
「何でも理由つけるな」
「一人で帰れる」
僕が言うと、榊は少し黙った。
それから、思っていたのと違うことを言った。
「知ってる」
「……え?」
「篠崎が一人で帰れるのは知ってる」
榊は僕の鞄を肩にかける。
「一人で帰れないから送るんじゃない」
まっすぐ僕を見る。
「俺が送りたいから送る」
何も言えなくなった。
そんな言い方をされたことがなかった。
誰かに助けてもらうのは、その人に迷惑をかけることだと思っていた。
できないから手伝ってもらう。
弱いから助けてもらう。
だから、できることは一人でやらなければいけない。
そう思っていた。
「……授業は?」
「午後から戻ればいい」
「僕のせいで」
「違うって」
榊は笑わなかった。
「俺がそうしたいの」
また同じことを言う。
僕には、その意味がよく分からなかった。
でも、それ以上断る言葉も見つからなかった。
「……ありがとう」
「うん」
大学を出る。
外は晴れていた。
駅までの道が、いつもより長く感じる。
榊は僕の歩幅に合わせて歩いていた。
「ゆっくりでいいから」
「そんなに遅くない」
「張り合うな」
「張り合ってない」
「じゃあゆっくり歩け」
「……はい」
駅の階段で、榊が僕の腕を持った。
「そこまでしなくても」
「落ちたら困る」
「落ちないよ」
「信用ない」
「ひどい」
「大丈夫って言いすぎた罰」
反論できない。
電車に乗ると、座席が一つだけ空いていた。
「座って」
「榊は?」
「いいから」
「でも」
「篠崎」
「……座ります」
榊は満足そうに頷いた。
僕は座席に座り、榊は目の前に立つ。
揺れる車内で、榊の鞄と僕の鞄を両方持っている。
申し訳ない。
そう思う。
なのに同時に、安心していた。
自分の駅に着くころには、身体がかなり重くなっていた。
「家どっち?」
「もう一人で行ける」
「ここまで来て帰るわけないだろ」
「本当に近いから」
「じゃあすぐ着くな」
僕の負けだった。
徒歩七分。
アパートの前まで来る。
「ここ」
「コンビニ寄るぞ」
「なんで?」
「飲み物と薬」
「家にある」
「本当?」
「……薬はない」
「ほら」
近くのコンビニで、榊はスポーツドリンクとゼリーとおにぎりを買った。
「僕、払う」
「後でいい」
「今払える」
「病人は財布出さなくていい」
「病人じゃ」
「熱ある人を病人って言うんだよ」
結局、払わせてもらえなかった。
部屋に入る。
「適当に座って」
「お邪魔します」
榊が部屋を見回す。
急に恥ずかしくなった。
散らかってはいない。
むしろ何もなさすぎるくらいだ。
「きれいだな」
「物が少ないだけ」
「篠崎っぽい」
「どういう意味?」
「ちゃんとしてる」
ちゃんとしてる。
その言葉は、少しだけ嬉しかった。
僕はベッドに腰を下ろす。
「体温計ある?」
「引き出し」
測る。
三十八度二分。
思っていたより高い。
「ほら」
榊が体温計を見て言う。
「これで朝から大学来てたの?」
「朝はもっと低かったと思う」
「測ってないだろ」
「……うん」
「信じられない」
「ごめん」
「謝るところじゃない」
榊が買ってきた飲み物を開けて渡してくれる。
「飲んで」
「ありがとう」
少し飲む。
冷たくて気持ちいい。
「何か食えそう?」
「まだいい」
「じゃあゼリー置いとく」
「うん」
榊はテーブルの上に薬と食べ物を並べた。
まるで、本当に僕の面倒を見るために来たみたいだった。
当たり前だけど。
「じゃあ、寝ろ」
「榊は?」
「帰るよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の中に、変な空白ができた。
当たり前だ。
榊には午後の講義がある。
ここまで送ってもらっただけでも十分すぎる。
「そっか」
僕は言った。
「ありがとう。もう大丈夫」
榊がじっと僕を見る。
「最後までそれ言う?」
「……今度は本当に」
「分かった」
榊が立ち上がる。
「何かあったら連絡して」
「うん」
「ちゃんとするんだぞ」
「分かった」
玄関へ向かう榊の後ろを、なんとなく目で追った。
ドアの前で靴を履く。
「じゃあな」
「うん」
手を振ろうとした。
そのはずだった。
なのに。
気づいたときには、僕の手は榊の服の袖をつかんでいた。
自分でも驚いた。
榊も驚いた顔で振り返る。
「……篠崎?」
離さないと。
そう思うのに、指が動かない。
「ごめん」
「うん」
「違う、あの」
何をしているんだろう。
熱のせいだ。
たぶん。
「どうした?」
榊の声が、いつもより少し優しい。
それで余計に離せなくなる。
「……もう少し」
「ん?」
「もう少しいて」
言った。
言ってしまった。
一気に恥ずかしくなって、手を離す。
「ごめん、今の忘れて」
「なんで?」
「何でもないから」
「何でもなくないだろ」
「熱あるから変なこと言っただけ」
榊はしばらく黙っていた。
怒っただろうか。
困らせた。
やっぱり言わなければよかった。
「篠崎」
「……何」
「そういうこと、俺以外にも言ってる?」
意味が分からず顔を上げる。
「何を?」
「もう少しいて、って」
「言わない」
考えるより先に答えた。
「誰にも?」
「うん」
「なんで俺には言ったの?」
それは。
分からない。
でも、答えはたぶん一つしかなかった。
「……榊だから」
榊が黙った。
僕は不安になる。
「変だった?」
「いや」
榊は口元を手で隠した。
「全然」
「笑ってる?」
「笑ってない」
「絶対笑ってる」
「違うって」
でも耳が赤い。
僕と同じくらい。
「午後の講義」
「一本くらい休む」
「でも」
「俺がいたいからいる」
その言葉に、胸がまた熱くなる。
榊は靴を脱いだ。
「寝ろ。起きるまでいるから」
「……うん」
ベッドに横になる。
榊は床に座って、スマホを見ていた。
目を閉じる。
眠る直前、思った。
誰かが同じ部屋にいるだけで。
こんなに安心できるんだ。
僕はずっと、一人でも大丈夫だと思っていた。
でも。
大丈夫じゃないときに、そばにいてほしいと思う人ができた。
それが何を意味するのか。
このときの僕は、まだ知らなかった。



