大学の講義棟を出たところで、雨が降っていることに気づいた。
朝は晴れていた。天気予報も見なかったし、傘なんて持ってきていない。
軒下に立って、灰色の空を見上げる。
雨脚は強い。
スマホで雨雲レーダーを開くと、少なくともあと一時間は止みそうになかった。
「……まあ、いいか」
一人でつぶやく。
待てばいい。
僕は待つことには慣れている。
講義が終わって三十分もすると、周りにはほとんど人がいなくなった。
友達同士で一本の傘に入って走っていく人たち。恋人らしい男女が笑いながら肩を寄せて歩いていく。
僕はそういう光景を見るのが嫌いじゃない。
ただ、自分がその中に入る方法が分からないだけだ。
誰かに「入れて」と言えばいい。
たったそれだけなのに、その一言を口にするくらいなら、一時間ここに立っているほうが楽だった。
「篠崎?」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
振り返ると、榊悠真がいた。
同じ学部の一年生。
僕とは正反対の人間だ。
いつも誰かと話しているし、入学して一か月も経たないうちに、学部中に知り合いがいるんじゃないかと思うくらい顔が広くなっていた。
「何してんの?」
「……雨宿り」
僕が答えると、榊は僕の手元を見た。
「傘は?」
「ない」
「じゃあ帰れないじゃん」
「大丈夫。待ってれば止むから」
榊は空を見た。
それからスマホを取り出した。
「一時間以上降るけど」
「知ってる」
「一時間ここにいるの?」
「うん」
答えると、榊は変な顔をした。
呆れたような、困ったような顔。
「大丈夫だから」
念のため付け加える。
僕はこの言葉をよく使う。
大丈夫。
便利な言葉だ。
心配しなくていい。
手伝わなくていい。
僕のことは気にしなくていい。
全部まとめて伝えられる。
ところが榊には通じなかったらしい。
「それ、大丈夫って言わなくない?」
「え?」
榊は鞄から折り畳み傘を取り出した。
「駅まで一緒に行こう」
「いや、いいよ」
「なんで?」
「狭いし」
「二人くらい入れる」
「榊が濡れるから」
「それは入ってみないと分かんないだろ」
榊が傘を開く。
僕は動けなかった。
「ほら」
「……本当にいいから」
「俺がよくない」
「なんで榊が」
「篠崎をここに一時間置いて帰ったら、寝覚め悪いじゃん」
そんな理由で。
僕はますます困った。
親切にされたとき、どうすればいいのか分からない。
断るのは失礼な気もする。
受け入れたら迷惑になる気もする。
「早く。雨強くなるぞ」
榊が先に歩き出す。
僕は結局、その傘の下へ入った。
折り畳み傘は、榊の言った通り二人で入れなくはなかった。
ただし、かなり近づけば、だ。
僕は榊から拳一つ分くらい距離を取った。
肩が触れそうになるたびに少しずつ外側へ寄る。
「篠崎」
「何?」
「そっち濡れてる」
「平気」
「平気じゃないって」
「僕は大丈夫だから」
また言った瞬間。
腕をつかまれた。
「わ」
軽く引かれ、榊の肩と僕の肩がぶつかる。
「これでいい」
「近い」
「傘なんだから当たり前だろ」
近い。
本当に近い。
榊の体温が肩越しに分かる気がする。
柔軟剤だろうか。ほのかに清潔な匂いがする。
僕は真正面だけを見ることにした。
「篠崎ってさ」
「……何?」
「いつも一人だよな」
心臓が少しだけ縮んだ。
悪気がないのは分かっている。
だから余計に返事に困る。
「一人が好きなの?」
「……まあ」
嘘をついた。
本当は違う。
食堂で楽しそうに話している人たちを見ると、いいなと思う。
講義が終わったあと、「次どこ行く?」なんて自然に話している人たちを見ると、少し羨ましい。
でも僕には、誰かの会話に入っていくタイミングが分からない。
話しかけようと思っているうちに時間が過ぎる。
そうして結局、一人になる。
そのほうが好きなのだと思われる。
「ふうん」
榊はそれ以上聞かなかった。
少しほっとして、それから少しだけ残念に思った。
駅に着いた。
屋根の下へ入ると、榊が傘を閉じる。
僕の右肩は少し濡れていた。
榊の左肩も同じくらい濡れている。
「ほら」
榊が笑った。
「結局、俺も濡れた」
「ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「僕が入ったから」
「違うって。篠崎が逃げるから傘ずれたんだろ」
榊はそう言って、自分の肩を手で払った。
「次からもっとこっち寄れよ」
次。
その言葉が妙に耳に残った。
「じゃ、また明日」
榊は改札へ向かっていった。
僕はしばらく、その背中を見ていた。
翌日。
講義室へ入ると、ほとんど席が埋まっていた。
いつもなら後ろの端に座る。
誰とも話さなくて済む場所だ。
空いている席を探していると、
「篠崎」
榊が手を挙げた。
その隣が空いている。
僕は自分を指さした。
「……僕?」
「ほかに篠崎いる?」
周りにいた友達が笑う。
僕は少し迷ってから、榊の隣に座った。
「昨日、風邪ひかなかった?」
「大丈夫」
「はい出た」
「何が?」
「大丈夫」
榊は笑った。
「篠崎、それ禁止したほうがいいんじゃない?」
「なんで」
「何でもそれで終わらせるから」
言われて、僕は返事に詰まった。
榊はノートを開きながら、何でもないことのように言った。
「困ったら困ったって言えばいいのに」
そんなことができたら。
僕はもう少し違う人間になっている。
講義が始まる。
教授の声を聞きながら、隣をちらりと見る。
榊は真面目な顔で板書を写していた。
昨日まで、ほとんど話したこともなかった人。
なのに今、僕の隣にいる。
胸の奥が、少しくすぐったかった。
誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。
「……うれしい」
「何が?」
僕は勢いよく顔を上げた。
榊がこちらを見ている。
「聞こえた?」
「何が?」
口元が笑っている。
絶対に聞こえている。
「何でもない」
「そっか」
榊は前を向いた。
僕もノートへ目を落とす。
耳が熱い。
たぶん、赤くなっている。
それでも。
今日は昨日より、大学に来てよかったと思えた。
たった一つ、隣に席があるだけで。
僕は一人でも大丈夫だ。
ずっと、そう思っていた。
だけどその日初めて。
一人じゃないのも、悪くないかもしれないと思った。
朝は晴れていた。天気予報も見なかったし、傘なんて持ってきていない。
軒下に立って、灰色の空を見上げる。
雨脚は強い。
スマホで雨雲レーダーを開くと、少なくともあと一時間は止みそうになかった。
「……まあ、いいか」
一人でつぶやく。
待てばいい。
僕は待つことには慣れている。
講義が終わって三十分もすると、周りにはほとんど人がいなくなった。
友達同士で一本の傘に入って走っていく人たち。恋人らしい男女が笑いながら肩を寄せて歩いていく。
僕はそういう光景を見るのが嫌いじゃない。
ただ、自分がその中に入る方法が分からないだけだ。
誰かに「入れて」と言えばいい。
たったそれだけなのに、その一言を口にするくらいなら、一時間ここに立っているほうが楽だった。
「篠崎?」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
振り返ると、榊悠真がいた。
同じ学部の一年生。
僕とは正反対の人間だ。
いつも誰かと話しているし、入学して一か月も経たないうちに、学部中に知り合いがいるんじゃないかと思うくらい顔が広くなっていた。
「何してんの?」
「……雨宿り」
僕が答えると、榊は僕の手元を見た。
「傘は?」
「ない」
「じゃあ帰れないじゃん」
「大丈夫。待ってれば止むから」
榊は空を見た。
それからスマホを取り出した。
「一時間以上降るけど」
「知ってる」
「一時間ここにいるの?」
「うん」
答えると、榊は変な顔をした。
呆れたような、困ったような顔。
「大丈夫だから」
念のため付け加える。
僕はこの言葉をよく使う。
大丈夫。
便利な言葉だ。
心配しなくていい。
手伝わなくていい。
僕のことは気にしなくていい。
全部まとめて伝えられる。
ところが榊には通じなかったらしい。
「それ、大丈夫って言わなくない?」
「え?」
榊は鞄から折り畳み傘を取り出した。
「駅まで一緒に行こう」
「いや、いいよ」
「なんで?」
「狭いし」
「二人くらい入れる」
「榊が濡れるから」
「それは入ってみないと分かんないだろ」
榊が傘を開く。
僕は動けなかった。
「ほら」
「……本当にいいから」
「俺がよくない」
「なんで榊が」
「篠崎をここに一時間置いて帰ったら、寝覚め悪いじゃん」
そんな理由で。
僕はますます困った。
親切にされたとき、どうすればいいのか分からない。
断るのは失礼な気もする。
受け入れたら迷惑になる気もする。
「早く。雨強くなるぞ」
榊が先に歩き出す。
僕は結局、その傘の下へ入った。
折り畳み傘は、榊の言った通り二人で入れなくはなかった。
ただし、かなり近づけば、だ。
僕は榊から拳一つ分くらい距離を取った。
肩が触れそうになるたびに少しずつ外側へ寄る。
「篠崎」
「何?」
「そっち濡れてる」
「平気」
「平気じゃないって」
「僕は大丈夫だから」
また言った瞬間。
腕をつかまれた。
「わ」
軽く引かれ、榊の肩と僕の肩がぶつかる。
「これでいい」
「近い」
「傘なんだから当たり前だろ」
近い。
本当に近い。
榊の体温が肩越しに分かる気がする。
柔軟剤だろうか。ほのかに清潔な匂いがする。
僕は真正面だけを見ることにした。
「篠崎ってさ」
「……何?」
「いつも一人だよな」
心臓が少しだけ縮んだ。
悪気がないのは分かっている。
だから余計に返事に困る。
「一人が好きなの?」
「……まあ」
嘘をついた。
本当は違う。
食堂で楽しそうに話している人たちを見ると、いいなと思う。
講義が終わったあと、「次どこ行く?」なんて自然に話している人たちを見ると、少し羨ましい。
でも僕には、誰かの会話に入っていくタイミングが分からない。
話しかけようと思っているうちに時間が過ぎる。
そうして結局、一人になる。
そのほうが好きなのだと思われる。
「ふうん」
榊はそれ以上聞かなかった。
少しほっとして、それから少しだけ残念に思った。
駅に着いた。
屋根の下へ入ると、榊が傘を閉じる。
僕の右肩は少し濡れていた。
榊の左肩も同じくらい濡れている。
「ほら」
榊が笑った。
「結局、俺も濡れた」
「ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「僕が入ったから」
「違うって。篠崎が逃げるから傘ずれたんだろ」
榊はそう言って、自分の肩を手で払った。
「次からもっとこっち寄れよ」
次。
その言葉が妙に耳に残った。
「じゃ、また明日」
榊は改札へ向かっていった。
僕はしばらく、その背中を見ていた。
翌日。
講義室へ入ると、ほとんど席が埋まっていた。
いつもなら後ろの端に座る。
誰とも話さなくて済む場所だ。
空いている席を探していると、
「篠崎」
榊が手を挙げた。
その隣が空いている。
僕は自分を指さした。
「……僕?」
「ほかに篠崎いる?」
周りにいた友達が笑う。
僕は少し迷ってから、榊の隣に座った。
「昨日、風邪ひかなかった?」
「大丈夫」
「はい出た」
「何が?」
「大丈夫」
榊は笑った。
「篠崎、それ禁止したほうがいいんじゃない?」
「なんで」
「何でもそれで終わらせるから」
言われて、僕は返事に詰まった。
榊はノートを開きながら、何でもないことのように言った。
「困ったら困ったって言えばいいのに」
そんなことができたら。
僕はもう少し違う人間になっている。
講義が始まる。
教授の声を聞きながら、隣をちらりと見る。
榊は真面目な顔で板書を写していた。
昨日まで、ほとんど話したこともなかった人。
なのに今、僕の隣にいる。
胸の奥が、少しくすぐったかった。
誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。
「……うれしい」
「何が?」
僕は勢いよく顔を上げた。
榊がこちらを見ている。
「聞こえた?」
「何が?」
口元が笑っている。
絶対に聞こえている。
「何でもない」
「そっか」
榊は前を向いた。
僕もノートへ目を落とす。
耳が熱い。
たぶん、赤くなっている。
それでも。
今日は昨日より、大学に来てよかったと思えた。
たった一つ、隣に席があるだけで。
僕は一人でも大丈夫だ。
ずっと、そう思っていた。
だけどその日初めて。
一人じゃないのも、悪くないかもしれないと思った。



