札幌から汽車に揺られて数時間。私は陸軍第七師団が置かれた軍都・旭川へとたどり着いた。
重厚なレンガ造りの司令部。軍服姿の男たちが慌ただしく行き交う中、私は執務室の前に立ち、小さくため息をついてから扉を叩いた。
「——入れ」
「失礼します。海神少尉であります」
「海軍の小娘か。会うのは初めてだな」
執務デスクの向こうで葉巻を吹かしているのは、四条中将の腹心である大佐——らしい。
尻拭いをしてやっているというのに、本人は出てこない。こういうところも腹が立つが、私は異論を唱える立場にない。淡々と小樽と札幌であったことを伝えた。
「……写真を奪われただと?」
大佐は葉巻を灰皿に押し付けると、不機嫌そうに私を睨みつけた。
「申し訳ありません。ですが、代わりの手がかりは——」
「言い訳は聞きたくない。お前のような小娘に、この重大な任務を任せたのが間違いだったのだ」
大佐ははあ、とわざとらしい溜息をつくと、大仰に頭を抱える。
「唯一の女性将校だからと調子に乗っているようだが、所詮は女だな。詰めが甘い。いいか、我々が探している「ヤツ」は北海道の『土地の権利書』、そしてその権利を行使できる男なのだ」
——そう。それが、私の任務の本当の目的だった。
小雀という芸妓は、ただ逃げたわけではない。四条中将から結納品として贈られた、莫大な価値を持つ土地の権利書を持ったまま姿を消したのだ。
政府は北海道の開拓と土地確保に躍起になっている。そんな時期に、軍の重鎮である四条中将が、私情で重要な土地を手放してしまったとなれば、大問題どころの話ではない。閣下の失脚すらあり得る大失態。それでもまだ、僻地で静養している妻が持っている、という嘘で対面は保てていた。
問題は20年という時間。生まれた男児は大人になり、権利は彼にわたる。
「国家の未来を左右する土地が、隠し子の手に渡ってしまった。それを隠蔽し、秘密裏に回収するための任務だというのに……やはり、女には難しすぎる任務だったか」
「……」
「顔と愛嬌だけで軍に居座るつもりなら、花菱楼の半玉にでも鞍替えすることだな。下がれ、今後のことはこちらで手配する」
言い返したい。写真一枚だけ渡されて20年前に失踪した女と赤子を探せなど、無茶な注文なのだと。難航するのに性別は関係ないと。
——けれど、言えなかった。
私はギリッと奥歯を噛み締め、背筋を伸ばして敬礼をした。
「……はっ。失礼いたします」
執務室を出ると、廊下をすれ違う男たちの視線が痛いほど突き刺さる。
「女のくせに」「遊びに来たのか」——声に出さずとも、彼らの目はそう雄弁に語っていた。
◇ ◇ ◇
「はぁ……」
軍の施設から逃げるように街へ出た私は、裏路地の小さな大衆食堂に飛び込んだ。
店内には煙が立ち込め、労働者たちが酒を片手にくだを巻いている。女一人で入るような店ではないが、そんなことはどうでもよかった。
「姉ちゃん、ひとりかい?」
「ひとり。おすすめちょうだい、なんでもいいから」
「あいよっ」
大衆食堂のいいところは、女一人が珍しくても追い返しはしないところだ。
店主は景気のいい声と共に調理を開始する。ぼんやりと空を眺める私に、労働者たちの不躾な目線が突き刺さる。
「一人か?」
「男が後でくるんだろ?」
「おい、声かけてみろよ」
「やめとく。気が強そうだ」
——女ひとりメシというのは、そんなに珍しいのでしょうか。
母への手紙の下書きを綴る。任務を外された私には軍への報告はもう必要ない。だからこれは、純粋に母への手紙なのだ。
はあ、と大きなため息がこぼれる。私を信じて見送ってくれた母に申し訳が立たない。仕事は大失敗、軍での立場も危うくなっている。ただでさえどぶ攫いをさせられているというのに、今後はどんな仕事をまわされるか、わかったものではない。
「おまたせ! カツレツだよ」
ぐるぐるとした思考を、店主の明るい声がかき消してくれる。
ドン、と目の前に置かれたのは、皿からはみ出んばかりの巨大な豚のカツレツだ。
キツネ色の衣が、熱でパチパチと音を立てている。横には山盛りの千切りキャベツ。そして、洋食屋のようにナイフとフォークではなく、どんぶり飯と割り箸が添えられているのがいかにも軍都の大衆食堂らしい。
「いただきます!」
私はあらかじめ切られたカツの一切れを箸で乱暴に掴み、どろりとした特製の濃厚なソースをたっぷり絡めると、大きな口を開けてかぶりついた。
荒めのパン粉が口の中でサクサクと音を立てる。噛むたび、口の中で肉汁がじゅわりとあふれ出る。コクと酸味のあるソースと絡み合い、口の中で交じり合う。口の中が脂で満たされたあたりで、キャベツの千切りを口に放り込む。瑞々しい青野菜が口の中の油を吸い取り、旨味と共に喉に流れていく。
「うみゃい!!」
美味しいものを食べると元気が出てくる。
大佐の憎たらしい顔を思い浮かべながら、分厚い肉を獣のように食いちぎった。
どんぶり飯を思い切りかき込み、再びカツレツに食らいつく。無心で肉を噛み、飲み込む。キャベツでのどを潤すのも忘れない。
「ふう……」
巨大なカツレツと山盛りのご飯をあっという間に平らげ、渋いお茶で喉を潤す。食は癒しであり、戦いだ。一戦終えて心地よい疲労に身を任せると、脳もすっきりとしてくる。
ひとりメシをしていると「女のくせに」だの「はしたない」だのやいやい言われるが、食事と一対一で向き合えるこの時間は、私にとって何よりも自由で尊いものだ。
(……それにしても、なぜ小雀は逃げたのだろう)
冷静になると、脳が仕事に戻っていく。
四条中将はいけすかない遊び人ではあるが、土地の権利書まで渡し、正式に妻に迎えようとするほど彼女を深く愛していたはずだ。芸妓という身分から、大将校の正妻へ。誰がどう見ても、悪い話ではなかったはず。
それなのに、彼女は全てを捨てて逃げた。
(まあ、考えるだけ無駄か。もう仕事外されてるしな)
懐のハチマキ、どうしたものか。飾りも施されているし、大切な物のような気がするが……
どうしましょう、と母への手紙の下書きを書いていると、低く、けれど涼やかな声がかけられた。
「マタンプシ、返せ」
着物を着崩した、髪の長い青年。
彼は私の隣に無遠慮に座ると、じろりとこちらを睨んでくる。カイだった。
——どうやら、仕事の方は私を逃がしてはくれないようです。
重厚なレンガ造りの司令部。軍服姿の男たちが慌ただしく行き交う中、私は執務室の前に立ち、小さくため息をついてから扉を叩いた。
「——入れ」
「失礼します。海神少尉であります」
「海軍の小娘か。会うのは初めてだな」
執務デスクの向こうで葉巻を吹かしているのは、四条中将の腹心である大佐——らしい。
尻拭いをしてやっているというのに、本人は出てこない。こういうところも腹が立つが、私は異論を唱える立場にない。淡々と小樽と札幌であったことを伝えた。
「……写真を奪われただと?」
大佐は葉巻を灰皿に押し付けると、不機嫌そうに私を睨みつけた。
「申し訳ありません。ですが、代わりの手がかりは——」
「言い訳は聞きたくない。お前のような小娘に、この重大な任務を任せたのが間違いだったのだ」
大佐ははあ、とわざとらしい溜息をつくと、大仰に頭を抱える。
「唯一の女性将校だからと調子に乗っているようだが、所詮は女だな。詰めが甘い。いいか、我々が探している「ヤツ」は北海道の『土地の権利書』、そしてその権利を行使できる男なのだ」
——そう。それが、私の任務の本当の目的だった。
小雀という芸妓は、ただ逃げたわけではない。四条中将から結納品として贈られた、莫大な価値を持つ土地の権利書を持ったまま姿を消したのだ。
政府は北海道の開拓と土地確保に躍起になっている。そんな時期に、軍の重鎮である四条中将が、私情で重要な土地を手放してしまったとなれば、大問題どころの話ではない。閣下の失脚すらあり得る大失態。それでもまだ、僻地で静養している妻が持っている、という嘘で対面は保てていた。
問題は20年という時間。生まれた男児は大人になり、権利は彼にわたる。
「国家の未来を左右する土地が、隠し子の手に渡ってしまった。それを隠蔽し、秘密裏に回収するための任務だというのに……やはり、女には難しすぎる任務だったか」
「……」
「顔と愛嬌だけで軍に居座るつもりなら、花菱楼の半玉にでも鞍替えすることだな。下がれ、今後のことはこちらで手配する」
言い返したい。写真一枚だけ渡されて20年前に失踪した女と赤子を探せなど、無茶な注文なのだと。難航するのに性別は関係ないと。
——けれど、言えなかった。
私はギリッと奥歯を噛み締め、背筋を伸ばして敬礼をした。
「……はっ。失礼いたします」
執務室を出ると、廊下をすれ違う男たちの視線が痛いほど突き刺さる。
「女のくせに」「遊びに来たのか」——声に出さずとも、彼らの目はそう雄弁に語っていた。
◇ ◇ ◇
「はぁ……」
軍の施設から逃げるように街へ出た私は、裏路地の小さな大衆食堂に飛び込んだ。
店内には煙が立ち込め、労働者たちが酒を片手にくだを巻いている。女一人で入るような店ではないが、そんなことはどうでもよかった。
「姉ちゃん、ひとりかい?」
「ひとり。おすすめちょうだい、なんでもいいから」
「あいよっ」
大衆食堂のいいところは、女一人が珍しくても追い返しはしないところだ。
店主は景気のいい声と共に調理を開始する。ぼんやりと空を眺める私に、労働者たちの不躾な目線が突き刺さる。
「一人か?」
「男が後でくるんだろ?」
「おい、声かけてみろよ」
「やめとく。気が強そうだ」
——女ひとりメシというのは、そんなに珍しいのでしょうか。
母への手紙の下書きを綴る。任務を外された私には軍への報告はもう必要ない。だからこれは、純粋に母への手紙なのだ。
はあ、と大きなため息がこぼれる。私を信じて見送ってくれた母に申し訳が立たない。仕事は大失敗、軍での立場も危うくなっている。ただでさえどぶ攫いをさせられているというのに、今後はどんな仕事をまわされるか、わかったものではない。
「おまたせ! カツレツだよ」
ぐるぐるとした思考を、店主の明るい声がかき消してくれる。
ドン、と目の前に置かれたのは、皿からはみ出んばかりの巨大な豚のカツレツだ。
キツネ色の衣が、熱でパチパチと音を立てている。横には山盛りの千切りキャベツ。そして、洋食屋のようにナイフとフォークではなく、どんぶり飯と割り箸が添えられているのがいかにも軍都の大衆食堂らしい。
「いただきます!」
私はあらかじめ切られたカツの一切れを箸で乱暴に掴み、どろりとした特製の濃厚なソースをたっぷり絡めると、大きな口を開けてかぶりついた。
荒めのパン粉が口の中でサクサクと音を立てる。噛むたび、口の中で肉汁がじゅわりとあふれ出る。コクと酸味のあるソースと絡み合い、口の中で交じり合う。口の中が脂で満たされたあたりで、キャベツの千切りを口に放り込む。瑞々しい青野菜が口の中の油を吸い取り、旨味と共に喉に流れていく。
「うみゃい!!」
美味しいものを食べると元気が出てくる。
大佐の憎たらしい顔を思い浮かべながら、分厚い肉を獣のように食いちぎった。
どんぶり飯を思い切りかき込み、再びカツレツに食らいつく。無心で肉を噛み、飲み込む。キャベツでのどを潤すのも忘れない。
「ふう……」
巨大なカツレツと山盛りのご飯をあっという間に平らげ、渋いお茶で喉を潤す。食は癒しであり、戦いだ。一戦終えて心地よい疲労に身を任せると、脳もすっきりとしてくる。
ひとりメシをしていると「女のくせに」だの「はしたない」だのやいやい言われるが、食事と一対一で向き合えるこの時間は、私にとって何よりも自由で尊いものだ。
(……それにしても、なぜ小雀は逃げたのだろう)
冷静になると、脳が仕事に戻っていく。
四条中将はいけすかない遊び人ではあるが、土地の権利書まで渡し、正式に妻に迎えようとするほど彼女を深く愛していたはずだ。芸妓という身分から、大将校の正妻へ。誰がどう見ても、悪い話ではなかったはず。
それなのに、彼女は全てを捨てて逃げた。
(まあ、考えるだけ無駄か。もう仕事外されてるしな)
懐のハチマキ、どうしたものか。飾りも施されているし、大切な物のような気がするが……
どうしましょう、と母への手紙の下書きを書いていると、低く、けれど涼やかな声がかけられた。
「マタンプシ、返せ」
着物を着崩した、髪の長い青年。
彼は私の隣に無遠慮に座ると、じろりとこちらを睨んでくる。カイだった。
——どうやら、仕事の方は私を逃がしてはくれないようです。



