「だい、に、ほん、むぎ……」
「大日本麦工場、ビール工場だよ」
「ここが、アンタが言ってたビール工場か」
威風堂々たる赤レンガの巨大建造物に、それはあった。
天高くそびえる煙突からは白々とした蒸気が吐き出され、壁面に並ぶ重厚なアーチ型の窓が、陽の光を反射してきらきらと輝いている。
「工場見学をさせてほしい。四条是信の名代として、客人を案内したいんだ」
カイに悟られないよう、少し離れて門番に耳打ちする。花菱楼で見せた手紙と名刺を渡すと、門番は恭しく礼をして道を開いた。
「一般人には開放してないが、私にかかればこんなものだ」
「すごいな!」
素直な誉め言葉に胸の奥が痒くなる。実際すごいのは四条閣下であって私ではない。けれどそんなことを知らないカイは、私が道を開いたのだと瞳をキラキラさせていた。
「ま、まあ。入ろうか」
工場内に足を踏み入れると、案内人が私たちを迎える。麦芽の甘い香りが漂ってきた。仕込み釜が並ぶ薄暗い空間、そして詳しい説明を堪能した後、見学人だけを通すサロンに通される。
「ここでは熱処理をしていない、酵母が生きたままの生ビールが飲めます。帝都の瓶ビールとは香りが違うんですよ」
そう言いながらグラスのビールを差し出される。琥珀色に透き通ったビールの上に、雪のように真っ白な泡が乗っていた。
「いやあすみませんね」なんてへらへら笑いながら、カイと乾杯する。喉は遠慮をしらない。ごくりごくり、と豪快に喉に流し込む。
「——っ!」
冷たく弾ける炭酸と、抜けるような麦芽の旨味、そして苦味がじんわりと広がって口の中をすっきりと通っていく。
ビールは帝都でも飲んだことがあるが、ここで飲んだものは格別だ。
「うみゃい! 札幌、最高ー!」
二日酔いのことなど忘れ、私は空になったグラスを掲げて歓喜の声を上げた。
出来立ての生ビールに、隣には美しい青年のカイ。こんな幸せな出張があっていいのだろうか。
「……なあ、織歌」
カイが、穏やかな瞳で私を見つめていた。どこか愛おしいものを見るような、それでいて値踏みするような瞳が私を刺す。
少し空気が変わった。私は案内人に目くばせをして下がらせる。
「カイ……」
熱い視線が交わる。ここから始まるのがロマンスなら、どれほどよかっただろうか。
私はビールのグラスを小さなテーブルに置くと、カイに向かってほほ笑んだ。
「——ところで、どうして日本人の真似をしているんだい、アイヌのカイくん?」
「そう命じたのはアンタら和人だろう」
さっと、周囲の空気が凍りついた。
先ほどまで優しく微笑んでいたカイの瞳から、一切の感情が消え失せる。
私が彼の正体に気づいたのは、ちょっとした違和感の積み重ねからだ。温泉街もない場所で屈斜路地域を温泉と言ったり、漢字を読むのに手間取ったり。着物の着方も少し怪しい。
まあ、一番怪しいと思ったのは、小樽からずっと私を付け回していたことだが。
「同化政策でアイヌの人々は日本に順応させられている。和服を着て、文字を習い、和名を持つはず。あなたはあまり慣れてないようだ」
「……急ごしらえじゃ、これが限界か」
「それにしては言葉は流暢だ。身内に和人がいるのかな?」
次の瞬間、カイの足がテーブルを下から力強く蹴り上げた。
グラスが宙を舞う。工場の好意で用意してくれたグラスを壊すわけにはいかない。私は恐ろしい反射神経でグラスを拾い、そっと床に置く。
「余裕だな」
「……今、その余裕はなくなりそうだが」
カイの右手には、美しい木彫りの柄の小刀が握られている。日本のそれではない、アイヌのものだろうか。
懐に収めていた銃を握ろうとして、やめた。トランクを盾のように構え、対話を試みる。
「私は軍人だ。民間人に手出しはしないが、そちらがやる気なら容赦できなくなる」
「手を引け、これは警告だ」
——駄目か、かなり興奮しているようだ。
鋭い踏み込みと共に、刃が私の首筋を狙って翻る。
速い。ただの素人じゃない、大自然の中で鍛え上げられた獣のような身のこなしだ。
トランクを投げて牽制し、柔術の要領で相手の腕をつかむ。軍学校で叩き込まれた技術でいなそうとするが、膂力は向こうが上だ。ギリギリと刃が押し込まれ、私の着物の胸元が裂けた。
「しまっ——」
懐に忍ばせていた、あの『ヤツ』——小雀の古い写真がふわりと宙に舞う。
カイの目がそれを見逃すはずがなかった。彼は私への攻撃をふっと緩め、空中で見事に写真をひったくる。
「もらった」
「あっ、返せ!」
私は咄嗟に手を伸ばし、身を翻して逃げようとする彼の背中に食らいついた。指先が、彼の襟元から覗いていた布切れを強く掴む。
「離せ!」
「あ、くそ! 逃がすか!」
どん、とつきとばされて尻もちをつく。不覚。体制を整える頃には、カイの姿は工場を風のように消えていった。
「……逃げられた」
荒い息を吐きながら、私は忌々しげに舌打ちをした。
一番大事な手がかりである写真を奪われてしまった。軍に戻って上官になんて言い訳をしようか。
しかし、それと同時に私の手の中には、彼からむしり取った戦利品も残されていた。
「これは……」
手のひらに広げたのは、紺の布地に、大胆な白い幾何学模様が刺繍された一本の布。
「ハチマキ……?」
魔除けの意味を持つというその独特で美しい文様を、私はじっと見つめた。
「上等だ。必ず追い詰めてやる……!」
私はそのハチマキを強く握りしめ、麦芽の香りが漂う薄暗い工場の中で不敵に笑った。
「大日本麦工場、ビール工場だよ」
「ここが、アンタが言ってたビール工場か」
威風堂々たる赤レンガの巨大建造物に、それはあった。
天高くそびえる煙突からは白々とした蒸気が吐き出され、壁面に並ぶ重厚なアーチ型の窓が、陽の光を反射してきらきらと輝いている。
「工場見学をさせてほしい。四条是信の名代として、客人を案内したいんだ」
カイに悟られないよう、少し離れて門番に耳打ちする。花菱楼で見せた手紙と名刺を渡すと、門番は恭しく礼をして道を開いた。
「一般人には開放してないが、私にかかればこんなものだ」
「すごいな!」
素直な誉め言葉に胸の奥が痒くなる。実際すごいのは四条閣下であって私ではない。けれどそんなことを知らないカイは、私が道を開いたのだと瞳をキラキラさせていた。
「ま、まあ。入ろうか」
工場内に足を踏み入れると、案内人が私たちを迎える。麦芽の甘い香りが漂ってきた。仕込み釜が並ぶ薄暗い空間、そして詳しい説明を堪能した後、見学人だけを通すサロンに通される。
「ここでは熱処理をしていない、酵母が生きたままの生ビールが飲めます。帝都の瓶ビールとは香りが違うんですよ」
そう言いながらグラスのビールを差し出される。琥珀色に透き通ったビールの上に、雪のように真っ白な泡が乗っていた。
「いやあすみませんね」なんてへらへら笑いながら、カイと乾杯する。喉は遠慮をしらない。ごくりごくり、と豪快に喉に流し込む。
「——っ!」
冷たく弾ける炭酸と、抜けるような麦芽の旨味、そして苦味がじんわりと広がって口の中をすっきりと通っていく。
ビールは帝都でも飲んだことがあるが、ここで飲んだものは格別だ。
「うみゃい! 札幌、最高ー!」
二日酔いのことなど忘れ、私は空になったグラスを掲げて歓喜の声を上げた。
出来立ての生ビールに、隣には美しい青年のカイ。こんな幸せな出張があっていいのだろうか。
「……なあ、織歌」
カイが、穏やかな瞳で私を見つめていた。どこか愛おしいものを見るような、それでいて値踏みするような瞳が私を刺す。
少し空気が変わった。私は案内人に目くばせをして下がらせる。
「カイ……」
熱い視線が交わる。ここから始まるのがロマンスなら、どれほどよかっただろうか。
私はビールのグラスを小さなテーブルに置くと、カイに向かってほほ笑んだ。
「——ところで、どうして日本人の真似をしているんだい、アイヌのカイくん?」
「そう命じたのはアンタら和人だろう」
さっと、周囲の空気が凍りついた。
先ほどまで優しく微笑んでいたカイの瞳から、一切の感情が消え失せる。
私が彼の正体に気づいたのは、ちょっとした違和感の積み重ねからだ。温泉街もない場所で屈斜路地域を温泉と言ったり、漢字を読むのに手間取ったり。着物の着方も少し怪しい。
まあ、一番怪しいと思ったのは、小樽からずっと私を付け回していたことだが。
「同化政策でアイヌの人々は日本に順応させられている。和服を着て、文字を習い、和名を持つはず。あなたはあまり慣れてないようだ」
「……急ごしらえじゃ、これが限界か」
「それにしては言葉は流暢だ。身内に和人がいるのかな?」
次の瞬間、カイの足がテーブルを下から力強く蹴り上げた。
グラスが宙を舞う。工場の好意で用意してくれたグラスを壊すわけにはいかない。私は恐ろしい反射神経でグラスを拾い、そっと床に置く。
「余裕だな」
「……今、その余裕はなくなりそうだが」
カイの右手には、美しい木彫りの柄の小刀が握られている。日本のそれではない、アイヌのものだろうか。
懐に収めていた銃を握ろうとして、やめた。トランクを盾のように構え、対話を試みる。
「私は軍人だ。民間人に手出しはしないが、そちらがやる気なら容赦できなくなる」
「手を引け、これは警告だ」
——駄目か、かなり興奮しているようだ。
鋭い踏み込みと共に、刃が私の首筋を狙って翻る。
速い。ただの素人じゃない、大自然の中で鍛え上げられた獣のような身のこなしだ。
トランクを投げて牽制し、柔術の要領で相手の腕をつかむ。軍学校で叩き込まれた技術でいなそうとするが、膂力は向こうが上だ。ギリギリと刃が押し込まれ、私の着物の胸元が裂けた。
「しまっ——」
懐に忍ばせていた、あの『ヤツ』——小雀の古い写真がふわりと宙に舞う。
カイの目がそれを見逃すはずがなかった。彼は私への攻撃をふっと緩め、空中で見事に写真をひったくる。
「もらった」
「あっ、返せ!」
私は咄嗟に手を伸ばし、身を翻して逃げようとする彼の背中に食らいついた。指先が、彼の襟元から覗いていた布切れを強く掴む。
「離せ!」
「あ、くそ! 逃がすか!」
どん、とつきとばされて尻もちをつく。不覚。体制を整える頃には、カイの姿は工場を風のように消えていった。
「……逃げられた」
荒い息を吐きながら、私は忌々しげに舌打ちをした。
一番大事な手がかりである写真を奪われてしまった。軍に戻って上官になんて言い訳をしようか。
しかし、それと同時に私の手の中には、彼からむしり取った戦利品も残されていた。
「これは……」
手のひらに広げたのは、紺の布地に、大胆な白い幾何学模様が刺繍された一本の布。
「ハチマキ……?」
魔除けの意味を持つというその独特で美しい文様を、私はじっと見つめた。
「上等だ。必ず追い詰めてやる……!」
私はそのハチマキを強く握りしめ、麦芽の香りが漂う薄暗い工場の中で不敵に笑った。



