大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

——素敵な出会いがありました。それはもう、運命が変わってしまいそうなほどに……

「……だめだ、もう、死ぬ」

 機関車の揺れに、うっすらと漂う石炭の煙。母への手紙もまともに書けず、私は窓の外を眺めた。
 二日酔いだ。
 小樽の芸妓たちとの情報戦に見事勝利。「温泉」というヒントを得たため、まずは情報をまとめるために陸軍師団のある旭川へ向かおうとしたのだが——

「無理! 降りる!」
 
 わずか一時間ほどで降参だ。吐いてしまう前に、と慌てて駅へ飛び出した。
 降り立ったのは、北海道の中心地・札幌。西洋風のハイカラなレンガ造りの建物が並び、馬車と自動車が行き交う近代的な大都市だ。

「なにか、胃に入れないと……」

 けれど私にはその立派な街並みを眺める余裕はない。
 ふらふらと白湯を求める幽鬼となって街をさまよっていると、ミルクホールと喫茶店が目に入った。
 ミルクホールは軽食が取れ、女性一人で入ることも珍しくない場所だ。逆に喫茶店は女給がいる店の様で、どちらかというと紳士の社交場と言った雰囲気、しかしミルクホールにはない高級な食事にありつける。
 どちらに入るか一瞬悩み——ミルクホールにした。

(今は誰とも喧嘩できる気がしない……)

 どうせ、喫茶店に入れば「女性お一人ですか?」が待っているのだ。それに腹を立てる元気すら今はない。
 大人しくミルクホールに入ると、カランカランとドアベルのなる音が聞こえる。それすらも頭痛をひどくさせた。
 
「いらっしゃいませ! 何になさいますか?」
「純乳……あと、バタトースト……3枚……」
「かしこまりました!」

 なんとか注文を終え、テーブルに突っ伏した。頭がガンガンして、耳の奥がぐわんぐわんして、目がくらくらする。こんな擬音ばかりの手紙は母には書けない。「大人になったのですから、きちんと書きなさい」と怒られてしまう。
 
「飲みすぎたあー」

 思わずぽつりとつぶやく。四条閣下の真似なんてするんじゃなかった。大人の男の遊びをするには、私はまだ——
 
「これを飲め。少しは楽になるはずだ」

 不意に、頭上から涼やかな声が降ってきた。
 顔を上げると、そこには息を呑むほど美しい青年が立っていた。透き通るような白い肌に、どこか憂いを帯びた切れ長の瞳。軽く着崩した和装に、少し長い髪がよく似合う。
 
(この人、どこかで……)
 
 見たことがあるような。しかし酔っぱらった頭ではまともに思考などできない。
 呆けたまま彼の瞳を見ていると、彼はくすりと笑ってガラスのコップをテーブルに置いた。

「これは……」
「ハッカ水だ。すっきりするよ。失礼ながら、具合が悪そうだったので」

 そう言えば、北海道はハッカの一大産地だ。透き通るような香りが、二日酔いでぐちゃぐちゃになった頭を冷やしてくれる。
 ハッカ水はどこまでも透明で、変なものを入れる余地はなさそうだ。しかし、見ず知らずの相手からの施しなど……といぶかしんでいると、青年はくすりと笑った。
 
「余計なものは入ってない。気になるなら、給仕に頼んで目の前で作ってもらおう」
「……いや、飲むよ。ありがとう」
 
 まあ、ここはミルクホール。不埒な輩が女をたらしこむには不釣り合いな場所。人目も多い。
 心からの親切ならば、受け取らないのも無礼だろう。私は差し出されたコップを受け取り、一口含む。
 すう——冷たい水と共に、ハッカの鮮烈な清涼感が胃へと落ちていく。熱を持っていた胃がひんやりと冷えていき、すっと気持ちよい風が吹いたようだった。甘いシロップをかけた炭酸水も、口に広がって美味しい。

「……うみゃ」
「はは——お、君が頼んだものも来たようだ」

 彼が微笑むのと同時に、注文していた純乳とバタトーストが運ばれてきた。
 温めたパンの上で、バターがとろりと溶けて、甘い匂いを放っている。

「あの……」
「俺はカイ。よろしく」

 そう言うと、カイは自然な仕草で私の前の席に座る。
 口説くのが狙いだろうか。まあ、口説かれても不愉快でないくらいに世話になった。そんなことよりも——

「いただきます!」
 
 パン、と手を打って食事に一礼。そしてさっそく分厚いトーストにかぶりつく。
 サクッとした歯ごたえのあと、濃厚で新鮮なバターが、じゅわりと口いっぱいに溢れ出す。そこにすかさず、搾りたての純乳を流し込んだ。水の混ぜ物などない、まじりっけなしの純乳。乳の甘みがバターの塩気と混ざり合い、口の中で絡み合って溶けていく。

「——うみゃあ、うみゃあ」
「……そんなに、美味いのか?」

 あまりにうまそうに食べすぎたか。カイは興味津々といった風に私をのぞき込む。
 
(ハッカ水をおごってもらったし、一枚くらい分けてやるか……)

 私は口を付けてないパンを一枚差し出す、するとカイはどういうわけか顔を真っ赤にして「女がこういうことをするな」ともごもごつぶやいていた。
 なんだ、ナンパ目的のくせにずいぶんうぶじゃないか。
 少し可愛げがある男に、私の警戒心も少し薄まっていく。よく見れば顔つきも若く、私と同じ年くらいに見える。ヤツの情報の手掛かりも手にはいるかもだし、私は誘いに乗ってみることにした。
 
「で、ご用件は? まさかハッカの押し売りってわけじゃないでしょう?」
「……そうだよ、口説きに来たんだ。アンタひとりだろう? 俺も札幌は初めてなんだ。よかったら俺と札幌を見て回らないか?」
「なんだ、てっきり現地の人かと。どこから来たの?」
「屈斜路の方から来た」
「クッシャロ……わからないな、どこだろう」
「何もないところだよ。せいぜい、温泉があるくらいかな」
「温泉!」
 
 温泉、小雀を探す重大な手がかりの一つだ。しかし屈斜路方面の温泉街は聞いたことがない。小雀探しには登別あたりに狙いをつけていたのだが、現地人しか知らない温泉というのは想像していなかった。これはいいヒントかもしれない。

「で、どうする?」
「温泉の話を教えてほしい。お礼はそうだな……札幌ビール工場見学、はどうだ?」
「ビール……いいな、飲んでみたい」

 男は素直に頷いた。これで契約成立だ。
 私たちはお代を済ませ、ふたりで店を出る。カランカラン、とドアベルが涼やかに響いた。
 
 ——この時の私は、うっすら予感がしていた。
 この人こそ私の探し求めていた、運命の人なのだと。