大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

——それにしても、芸妓遊びとはどのようなものなのでしょう。男性はずるいですね、楽しい事ばかりで。羨ましいとは、思いませんが。

 小樽、到着!
 ほぼ半日をかけた長い長い機関車旅の果てに、ついに小樽に辿り着いた。私は相変わらず母への手紙という体の密書を書き綴りながら、賑やかな街をきょろきょろと見回していた。
 熱気あふれる街は、ハイカラな洋館と赤レンガの倉庫、そして立ち並ぶ銀行の重厚な石造りの建物が軒を連ねている。さすが「北の丸の内」、帝都に勝るとも劣らぬ立派な街だった。
 長万部からの汽車で蟹弁当を三個も平らげたというのに、この活気あふれる街の空気を吸っただけで、私の胃袋はすでに次の「小樽の馳走」を迎える準備を整え始めていた。

(……けど、その前に仕事か。憂鬱だなあ)

 私は正絹の着物の袖をふわりと揺らし、手に持った重厚なトランクを持ち直す。手櫛で髪を整えて、機関車旅で乱れた着物を綺麗に整える。
 目指すは小樽随一の花街・花園町。その中で最も美しく咲くとされる花菱楼。女一人では相手にもされないその場所が、私の新たな戦場となるのだ。
 石畳の坂道を上った先に現れたのは、重厚な黒漆喰の塀に囲まれた大料亭だった。軒先には、「花菱楼」と書かれた大きな木看板が掲げられている。
 女性一人で来るような店ではないし、私のような庶民なら尚更だ——軍人ではあるけれど! あまりの絢爛さに一瞬怯むが、そんな隙を見せれば喰われてしまう。それが花街。気合を入れてガラガラと引き戸を開ける。
 
「いらっしゃいませ……あら?」

 奥から現れたのは、仕立ての良い着物を着た初老の女将だった。私を一瞥し、女一人だとわかると怪訝そうな顔を浮かべている。

「お嬢様、申し訳ございませんが……当店は一見のお客様、女性のみでのお上がりはお断りさせていただいておりますのよ」

 船上でも同じことを言われたが、どこも女性一人は歓迎しないらしい。ケチくさい風潮だと鼻白みながら、ふん、と笑って返す。

「紹介ならありますよ」
 
 懐から取り出したのは、金糸でとある家紋が刺繍された、小さな懐紙入れ。その中から、一枚の白地に金泥で文様が刷られた美しい名刺を抜き出し、女将の目の前へと差し出した。
 女将は何事かと紙を眺める。少し老眼が入っているのか、手元に、遠くに、と紙を移動させ、小さく書かれた紙の名前を読んだ。
 
「し、四条……閣下……!?」
「ええ。陸軍中将四条是信(しじょうこれのぶ)閣下より紹介を受けてきました。こちらは紹介状です」

 ——ちなみに、これは本当である。
 紹介状には「この者を自分と思って扱うように」と一筆認められている。それを見て、女将は慌てた様子を見せる。
 効果は劇的だった。女将は慌てて奥から人を呼び、緊急会議を開いている。ちらちらと視線を感じるたび、堂々と微笑み返してやる。すると慌てた様子になるのが面白い。
 しばらくしたのち、私は中へと招かれた。
 陸軍中将にして子爵、北海道の軍と政財界に巨大な睨みを効かせる四条是信。その影をちらつかせるだけで、この北の最高峰の料亭すら平伏せざるを得ない。

 ◇ ◇ ◇
 
 女将に案内されたのは、花菱楼でも一、二を争う最上級の個室——らしい。言うだけあって障子の向こうには、見事な庭園と、その奥に小樽港の街並みが一望できる。
 口にこそ出していないが、四条中将の名を出した時点で「厄介ごとの調査」だと言うことはわかるのだろう。
 女将は冷や汗を垂らしながら、私の目を見ないようにひたすらに畳を眺めていた。

「芸妓はお呼びいたしますか?」
「もちろん、お願いします。四条閣下と全く同じものを」
「……かしこまりました」

 さて、何が出てくるか。20年前に贔屓にしていた小雀は果たしているのか、それともどこかへ逃げ出したのだろうか。馬鹿正直に聞いてもこういった店は何も答えない、私は四条閣下の「遊び」を再現しながら、できる限りの情報をかき集めなければならない。
 私と店、無言の勝負が始まった。
 まもなくして、部屋の襖がすっと開き、華やかな着物を纏った三人の芸妓がしずしずと入ってきた。正座して深々と頭を下げると、そのうちの年若い一人が私の脇へそっと寄り添う。

「花菱楼の半玉で『小鈴(こすず)』と申します」

 なるほど、別の小鈴を用意したか。と言うことは本物の小雀はもういないのだろう。
 物言わぬ店の提示する小さなヒントをもとに、小雀の行方を探さなければ。面倒だが、せっかくの機会だから芸妓遊びというモノも楽しんでみよう。それに、中将閣下の食事も気になる。少尉の私から見れば雲上人の食事を存分に堪能させてもらうのだ。

「子持ちニシンの甘露煮でございます」

 現れたのはニシンの甘露煮だった。じっくり煮込まれたというニシンは、琥珀色に照り、甘辛い醤油の香ばしい湯気が立ち上っている。
 小鈴が手際よく注いでくれた冷やの地酒を、猪口で軽く一口。酒に弱いせいで一気に体が熱くなるが、根性で我慢した。酒を楽しめない奴は女も楽しめない。今の私は遊び人・四条是信なのだから。

(あまり飲むと酒に飲まれてしまう。さっさと食べて誤魔化そう)

 それに、もう我慢できない。私は箸をニシンの身へそっと当てた。すっと、骨まで抵抗なく通る柔らかさのニシンを大きめの一切れにし、口に放り込んだ。
 ホロホロと解けるニシンの深い旨味、甘辛いタレの濃厚なコク。そして何より、数の子が、噛むたびに音を立てて弾け、口の中で踊るのだ。

「うみゃ……」
「まあ、喜んでいただけて何よりです。ささ、お酒をもう一杯」
 
 しまった、一口食べる度に酒を注がれるらしい。ただでさえ酒に弱い上に、酒癖も悪い私としては、人前で飲むことは憚られるのだが。

「まあ、いい飲みっぷり」
「くぅー」

 けれど、酒は好きなのだ。日本酒のキレが、濃い味の甘露煮によく合う。一口飲むたび小鈴がきゃあと可愛く盛り立ててくれるせいで、ついつい酒が進んでしまう。 
 続いて運ばれてきたのは、氷を敷き詰めた涼やかな器に盛られた牡丹海老。山葵醤油をちょんと付け、透き通る牡丹海老を口へ滑り込ませた。

「……んんんっ、ねっとり……甘い……!」

歯を押し返すような弾力のあと、とろりと溶けて広がる極上の甘み。
山葵のツンとした辛味がその甘さを引き立て、すぐにお酒で追いかける。

「うみゃあ……うみゃあ……」
「はい、また一献」

 その時の私は気づいていなかった。私はすでに百戦錬磨の客商売の魔の手にまんまと引っかかっていたのだ。
 女を使ってドロドロに酔わせ、判断力を失わせる。私は見事に引っかかり、くらくらと回る頭と呂律で何も考えられなくなっている。

「それで、お姉さん。あなたは何を探しにきたの……?」

 それどころか、気づけば立場は逆転。私はスパイとして情報を奪われそうになる大窮地に至っていた。
 これが、芸妓。恐ろしや!