大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

「アトゥイ? この、美人さんの名前かい?」

 私が差し出した写真には、赤ん坊を抱いた女性が一人、どこかの村を背景に穏やかに微笑んでいた。
 艶やかな着物に身を包みながら、赤子を愛おしそうに抱いている姿はどこか違和感がある。彼女は芸を売る者なのか、それとも慈しみ深き母なのか。古ぼけた写真からは推し量ることができない。

「いや、彼女は小雀(こすず)という名前です。20年前に小樽の花菱楼で芸者をやっていた女性なんですが……」
「20年! そりゃまた随分前だなあ。芸者がいるような店なんて、俺には縁がないがね。で、アトゥイってのはなんか関係あるのかい?」
「写真の裏にそう書かれていまして、私もどういう意味だかはさっぱりなんです。何かご存知ないですか?」
「ううん、俺もわからないな。この女性を探してるのかい?」

 人のいい男性は私と同じように頭を捻って考えてくれるが、残念ながらあまり情報は持っていなさそうだ。
 すぐにヤツには手を伸ばせないだろう。わかっていたことだが、春の冷たい風が心の中にもぴゅうと吹いたような感覚がした。
 
「実は、彼女は私の生き別れた母でして。先日父が亡くなってしまい。どうしても会いたいのです」
「そうか、そうなのか……そりゃあ、大変だったねえ。お父さんのことは、お気の毒に」

 もちろん、これは大嘘だ。写真に写っている人間とは血のつながりなど全くない。だが御涙頂戴話ほど人の心を開くものはない。男性はしんみりとした顔をしながら、深く被っていた帽子をとって、お悔やみを申し上げてくれる。

「手がかりはこの写真だけなんです。何か心当たりはありませんか? この言葉にも……」
「ううん。わからないなあ。アトゥイって言葉も聞き覚えがない」

 ……ダメか。男性は本当に何も知らなさそうだ。申し訳なさそうな顔を見ていると、嘘をついている心が痛んでくる。
 
「そうですよね、ありがとうございます。とりあえず、小樽の料亭に行ってみます。そこでなら何かわかるかもしれないですし」

 やはり、当初の予定通り小樽の花菱楼に行くのが正当手段だろう。20年も前に暇を出された芸妓の情報がどこまで残っているかわからないが、女一人の身ではあまり遠くへはいけないはず。小樽周辺でひっそりと暮らしているのかもしれない。
 私は頭を下げて男性に別れを告げる。情報は何一つ手に入らなかったのに、トランクだけはやたらと重い。およそ令嬢が持つ重さではないトランクを、腰に力を入れてぐいと持ち上げた時、男性が声をかけてきた。
 
「ああ、一つだけわかることがある。その背景、小樽じゃないぞ」
「小樽じゃ、ない——?」 
「俺は小樽で働いてたんだ。20年前は知らないが、でも、もっと栄えてる街のはずだ。その写真はあんまりにも寂しすぎる。もっと未開拓の場所なんじゃないか?」
「言われてみれば……」

 まじまじと写真を見直すと、背景は長閑な村だった。建物は低く、地面もまだ凸凹とした場所が多い。影の濃さと樹木の繁り具合から夏頃の写真だとわかるが、過ごしやすい時期に人気が少ないのも気になった。

「でも、小樽に行くのが一番かもな。お母さんの親戚も、その辺にいるかもしれないし」
「そうですね。けれど貴重な情報です。ありがとうございます」
「はは。敬礼なんて、まるで軍人さんみたいなことするねえ」

 しまった、素が出てしまった。私は曖昧に誤魔化すと、荷物を抱えてその場を去る。しかしどこまでも人のいい男性は、最後に最も重要な情報を教えてくれた。

「小樽行きの列車乗るなら、長万部で弁当買うといい。蟹の折詰は絶品だぞ」

 ◇ ◇ ◇

「弁当〜、弁当〜」
「おじさん! 蟹の折詰ひと……みっつ! お茶はひとつでいい!」
 
 重重しい車輪の音を響かせ、黒い蒸気機関車が長万部駅のホームへと滑り込む。函館で蒸気機関車に飛び乗って数時間、痛くなってきた尻と固まった足をほぐすように、私は車窓から大きく体を伸ばした。

「お、景気のいいお嬢ちゃんだね! ひとつ50銭だから、1円50銭だ。お茶はおまけしといてやるよ!」

 手早く銭を渡すと、ずっしりと重い折詰と素焼きの小さい土瓶が、窓越しに私の手元へと滑り込んできた。
 汽車が駅に停まっている時間は意外と短い。けたたましい汽笛を鳴らし、大きな車体を動かしてゆっくりと走り出す。

(間に合った……)

 ふう、吐息を吐いてふかふかの座席に腰を下ろす。大資産家の令嬢設定のおかげで、機関車でも一等客室だ。ふかふかの椅子に腰掛けて、私は膝の上に弁当を広げた。

「いただきます!」 

 蓋を開けた瞬間ふわりと広がったのは、木の清々しい香りと、蟹の磯の香りだった。

「食べる前からうみゃい!」

 思わず感嘆の声が漏れ出る。
 敷き詰められた出汁炊きのご飯の上を一面覆い尽くしているのは、鮮やかな朱色と白色の蟹のほぐし身だ。その脇には、醤油色の蕗とゴボウ、出汁巻き卵に、桃色に染められた生姜。
 美味しいのはもう確定している。口の中に迸る涎をごくりと飲み込んで、箸を突き立てる。
 
「うみゃみゃ!!」

 噛みしめた瞬間、蟹の凝縮された旨味と甘みが、口いっぱいに弾けた。
 蟹身と昆布出汁で炊かれたふっくらご飯が絡み合い、噛めば噛むほど深い味わいが押し寄せてくる。蟹の合間に、甘辛く煮られた蕗をシャキシャキとかじれば、爽やかな苦みが広がって、余計に蟹の甘みが引き立つ。
 私は完全に無心で箸を動かす。右へ左へと大きく揺れる車内でも、私の手元は一切狂わない。
 数口食べて口の中が濃厚な蟹の旨味で満たされたところで、お茶に手を伸ばす。熱々のお茶の苦味が口内に広がり、蟹の脂も醤油の濃い味もさらりと流していく。

「北海道はいいなあ」

 窓の外に目をやれば、残雪で飾られた駒ヶ岳と、どこまでも青い海が広がっている。冷たい海風が吹きすさぶ北の大地で、熱いお茶と蟹弁当。

(ヤツはこんないい土地を逃げ回っているのか)

 こんないい思いができるなら、とっ捕まえる前にどこまでも逃げてほしい。上官にバレたら懲罰モノの思考を巡らせながら、ぼんやりと空を眺める。
 果てしない大地、広い海、そして青い空が私を待っている。なんて清々しい日なんだろう。ヤツもこの大地を堪能しているのだろうか。

「残念だなあ。見つけ次第殺さないといけないなんて」