大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

 ——ついに函館に到着しました! 四月というのに、とても寒い。海風で芯まで冷えてしまいそうです。

 母への手紙の文面を忘れない様、手帳に走り書きをする。しかし海風のせいで、手指がひんやりと冷え、ペンのインクの出も悪い。
 函館の朝は忙しい。漁師、車力(からき)、港湾労働者たち、働く男たちがあちこちを行きかい、時に野太い怒声も聞こえてくる。
 大資産家の令嬢として北海道の社会調査をしている——という設定で正絹の着物を着ている私は珍しいのか、通りすがる度にじろじろと見られる。けれど彼らはそれよりも目の前の仕事で忙しい、すぐに興味を無くしたようにふいとそっぽを向いてしまう。

(他人に興味がなさそうだ。過ごしやすいが、「ヤツ」のことを知る人も少ないだろうな)
 
 さて、どこから手を付けようかと悩んでいる間にも体はどんどん冷えていく。
 労働者にうかつに話しかけて睨まれても任務に支障が出るだけだ。食事処にいって、少し落ち着いた環境で探すのが最適だろう。決して、お腹が空いたから講じた案ではない。

(函館と言えば海鮮……だけど、今は体を温めたいな。洋食は、船上で散々食べたし)

 その時ふわりと海鮮出汁の匂いが漂ってきた。冷たい風に乗って温かな湯気と香りが白くたゆたっている。
 湯気の出元を追えば、ハイカラな洋館やレンガ造りの倉庫が並ぶ函館の街並みの中で、木造平屋の小さな店が目についた。軒先には「支那そば」と書かれた小さな暖簾が、冷たい海風にパタパタと揺れている。
 寒さに体を縮めた男たちが店内に入っていき、そして満たされて店を出ていく。
 その様子を見て、腹は決まった。

「食べてみるか、支那そば」

 私は白い湯気に導かれるように小さな店に入っていった。
 ガラガラと引き戸を開けると、店の中は驚くほど狭い。カウンター数席と、小さなテーブルが三個ぽつんと置かれているだけ。
 店に入った瞬間、鼻腔をくすぐるのは、濃厚で温かい出汁の香り。
 それだけで、胃袋の底からグゥと食欲が湧き上がってくる。

「いらっしゃい。お嬢さん、ひとりかい?」

 でたな、この質問。
 巨大客船では風紀を乱すから、というわけのわからない理由で入店拒否をされた悪魔の質問だ。
 船では引きさがったが、もう同じ手には乗らないぞ。

「ええ。支那そばをひとつ」

 私は胸を張って、堂々と答える。席を案内されるより先に、手近なカウンターに腰を掛け、追い出されないように足場を固める。

「あいよ、支那そばね!」

 そのはったりがきいたのか、店主は少し驚いた顔をしつつもすぐに調理に取り掛かる。
 昆布で出汁を取った醤油のスープが、白い器を琥珀色に染める。そして金色の麺がそっと器に盛られ、煮豚・メンマ・刻み葱が乗せられていく。
 器の中で支那そばという芸術品が完成していくにつれ、期待値はどんどん大きくなっていく。
 匂いを嗅ぐだけでも、手先まで冷えていたからだがじんわりと温まっていくようだった。
 
「おまち!」

 そして、それはついに来た。

「いただきます!」

 パン、と音を鳴らして手を叩く。礼を尽くすこと、それが重要だ。
 周りの男たちが物珍しそうにこちらを見ているが、気にしてはいけない。食事とは、食と私の対話。そこに第三者は介入しないのだ。
 ためらわず、啜る!
 ズゾゾゾ、と音を立てて麺を啜ると、北の海が育んだ昆布の濃厚な出汁の味が口の中いっぱいに広がる。油の膜がうま味を凝縮したまま、つるりと喉へ入っていく。

「うみゃい、うみゃい!」

 また、母からの「口に物を入れたまま喋らない!」という幻想のお説教が聞こえるが、美食の前ではそれどころではない。
 あっさりとした醤油出汁を啜りながら葱を齧れば、辛味がじんわりと広がる。また麺を啜り、そしてコリコリの食感のメンマ、脂たっぷりの煮豚を鋭い歯で噛みちぎる。
 外の寒い空気を思い出して、汁で体を温めることも忘れない。器の底の柄が見えた頃、私は再び手を合わせて「ごちそうさま」と呟いた。
 体が芯から温まっている。私から醤油の香りが漂っていそうなほど、体にスープが染み込んでいる。

「お代、15銭ね」

 美味さと量に対して、値段はかなり良心的だ。私は財布からちょうどぴったりの額を出し、そのまま店を後にする。
 ——手巾をそっと、椅子の上に置いたまま。

(……さて、引っ掛かるかな)

 暖かい店の中から出ると、外は思っていたより寒かった。羽織を掛け直し、大きなトランクを地面に置く。すると、一人の男に声をかけられた。

「お嬢さん。手巾、忘れてるよ!」

 ——かかった。
 私は慌てたふりをして、振り返る。そこには湾岸労働者と思わしき、髭面の男性が一人いた。強面で体格もいいが、目元の笑い皺に人の良さが滲み出ている。

(彼なら、何か教えてくれるかもしれない)

「どうもありがとうございます。大切な物だったんです」
「いいんだよ。ここは荒い奴らが多いから、盗まれないように気をつけな」
「あの……つかぬことをお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 やはりこの男性は人が良さそうだ。私が真剣そうな瞳で顔を覗き込めば、困ったように笑いながら「俺にできることなら」と頷いてくれた。
 私は懐の中から一枚の写真を取り出すと、彼に見せて尋ねる。
 
「アトゥイ、をご存知ないですか?」