——なんて店でしょう! 二度と行きたくないけれど、船旅は二日もあるのです。
すごすごと食堂から引き下がり、誰もいない船内の廊下の角で、私は思わず地団駄を踏んだ。
お上品なお嬢様の仮面など、誰も見ていないところでは剥げ落ちる。
「くそっ、あの案内係め! 私を誰だと思っているんだ! 私は帝国軍人——」
文句を垂れた瞬間、お腹の虫がぐぅと盛大に鳴り響いた。
……怒っている場合ではない。腹が減っては戦はできない。
せっかくのおめかしも意味をなさなかった。素敵な出会いがないかと期待していた心を封じ込め、私はがっくりと肩を落として部屋に戻った。
ベッドの縁に腰掛け、髪を結っていたピンを抜き取った。サラリと黒髪が肩に散らばる。鏡に映る私は、先ほどまでの「大資産家の完璧なお嬢様」ではなく、ただの不機嫌ですこぶる腹を空かせた軍のスパイに戻っていた。
「……一人メシか。寂しいなあ」
思わず愚痴がこぼれてしまう。これまで軍学校で散々鍛え上げられてきたあの地獄の日々、苦しかったが食事は常に仲間と一緒だった。それが任務を理由にいまや一人ぼっち。ひとりで食べるご飯のなんと寂しいことか。
手元にあるのはずっしりと重そうな籐で編まれたピクニック・バスケット。客船の食事はどこまでも洋風だ。
革の留め具を外し、パカッと蓋を開ける。
「これで不味かったら承知しないぞ。今度こそ殴り込んでやるんだから……!」
負け惜しみを呟きながら、中敷きの真っ白なリネンをめくった瞬間。
——ふわっ、と贅沢な肉汁と香ばしいバターの匂いが、船室の空気を一変させた。
「っ……!」
バスケットの底には、丁寧に包まれた巨大なサンドイッチが鎮座している。のぞく断面からは、厚切りのローストビーフが美しい赤色を輝かせ、とろりとしたグレイビーソースを滴らせていた。
その脇には、小さなガラス瓶。中ではオイルに漬かったサーモンとピクルスが揺れている。さらに、甘いシナモンの香りを放つ洋梨のタルトが、崩れないように厚紙に挟まれていた。
「豪華客船のランチボックス!」
豪華客船のランチボックス!
スパイらしからぬ、本心と声が一致してしまう。香りだけでもわかる。ご馳走が包まれている。
ごくり、と盛大に喉が鳴る。
「いただきます!」
包装紙を剥がして、ずっしりと重いローストビーフのサンドイッチを両手で掴み上げた。がぶりとかぶりついた瞬間、サクッとしたパンの歯ざわりに続いて、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がる。
「——んっ……!」
思わず目を見開いた。
すこし冷めてもなお柔らかく、噛むほどに旨味が溢れ出す極上の牛肉。鼻に抜けるマスタードの爽やかな辛味とソースのコク。
「う、うみゃい……! うみゃい!」
私は無我夢中でサンドイッチにかぶりついた。数口でぺろりと平らげる。心の中の母が「はしたない!」と怒っているが、もう気にならない。
ガラス瓶のサーモンをつまむと、油に包まれたうま味が口の中に広がる。次にピクルスを口に入れると、程よい酸味が脂っこさを中和してくれた。
「ローストビーフの辛みと油を、ピクルスで口直し……そしてとどめにサーモン! これは、永遠に食べられる!」
しかし現実は甘くなく、二つあったサンドイッチはあっという間になくなってしまった。
寂しさをかみしめながら、締めに甘いタルトをフォークで突き刺す。
洋ナシの酸味と甘みを、シナモンが上品に引き立てていく。サクサクと心地よい音を立てるタルト生地はバターの風味が濃厚で、しっとり焼き上げられた果肉からはじゅわりと果汁が溢れ出す。
「ご馳走様でした!」
いただきます、ごちそうさまはいつだって元気よく。そして食事は早く。叩き込まれた習慣を自然に出しながら、私は両手をパンと叩いて食事に礼をする。
「ふぃいー」
すっかり平らげたあと、私は満足感に満たされてベッドに倒れ込んだ。
外では北へ向かう荒波が、大きく船体を揺らしている。
並の令嬢なら船酔いを起こしてしまうだろうが、私は鍛え上げられたスパイ。波の揺れなどゆりかごと同じだ。
うとうとと眠りに落ちてしまいそうな目を必死にこすって、母に手紙を書く。
——母上、お元気ですか。こちらの時刻は18時。夕食に、洋食のランチボックスに舌鼓を打ったところです。
国内とはいえ、親元を離れて一人での任務。しかも情報を扱うのだ、危険も伴うだろう。母にすべてを伝えることはできないが、可能な限り安心してほしい。——という設定の手紙を、軍へ送る。手紙に込めた暗号を読み解き、私の情報を上手く扱ってくれるだろう。
「それにしても、北海道かあ」
函館や札幌ならともかく、狙っている「ヤツ」が北へ逃げたら面倒だ。
あの辺りはまだ開拓しきれておらず、未開の地も多い。季節は幸い春だが、場所によってはまだ雪が残っているかもしれない。
「気晴らしに、美味しいものでもあればいいけれど」
美味しい食事にすっかり気をよくした私は、紙巻き煙草に火をつける。すう、と煙が立ち上り、そして静かに消えていく。
「さて、どういう旅になるかな」
私の独り言もまた、誰にも届くことなく、静かに消えていったのだった。
すごすごと食堂から引き下がり、誰もいない船内の廊下の角で、私は思わず地団駄を踏んだ。
お上品なお嬢様の仮面など、誰も見ていないところでは剥げ落ちる。
「くそっ、あの案内係め! 私を誰だと思っているんだ! 私は帝国軍人——」
文句を垂れた瞬間、お腹の虫がぐぅと盛大に鳴り響いた。
……怒っている場合ではない。腹が減っては戦はできない。
せっかくのおめかしも意味をなさなかった。素敵な出会いがないかと期待していた心を封じ込め、私はがっくりと肩を落として部屋に戻った。
ベッドの縁に腰掛け、髪を結っていたピンを抜き取った。サラリと黒髪が肩に散らばる。鏡に映る私は、先ほどまでの「大資産家の完璧なお嬢様」ではなく、ただの不機嫌ですこぶる腹を空かせた軍のスパイに戻っていた。
「……一人メシか。寂しいなあ」
思わず愚痴がこぼれてしまう。これまで軍学校で散々鍛え上げられてきたあの地獄の日々、苦しかったが食事は常に仲間と一緒だった。それが任務を理由にいまや一人ぼっち。ひとりで食べるご飯のなんと寂しいことか。
手元にあるのはずっしりと重そうな籐で編まれたピクニック・バスケット。客船の食事はどこまでも洋風だ。
革の留め具を外し、パカッと蓋を開ける。
「これで不味かったら承知しないぞ。今度こそ殴り込んでやるんだから……!」
負け惜しみを呟きながら、中敷きの真っ白なリネンをめくった瞬間。
——ふわっ、と贅沢な肉汁と香ばしいバターの匂いが、船室の空気を一変させた。
「っ……!」
バスケットの底には、丁寧に包まれた巨大なサンドイッチが鎮座している。のぞく断面からは、厚切りのローストビーフが美しい赤色を輝かせ、とろりとしたグレイビーソースを滴らせていた。
その脇には、小さなガラス瓶。中ではオイルに漬かったサーモンとピクルスが揺れている。さらに、甘いシナモンの香りを放つ洋梨のタルトが、崩れないように厚紙に挟まれていた。
「豪華客船のランチボックス!」
豪華客船のランチボックス!
スパイらしからぬ、本心と声が一致してしまう。香りだけでもわかる。ご馳走が包まれている。
ごくり、と盛大に喉が鳴る。
「いただきます!」
包装紙を剥がして、ずっしりと重いローストビーフのサンドイッチを両手で掴み上げた。がぶりとかぶりついた瞬間、サクッとしたパンの歯ざわりに続いて、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がる。
「——んっ……!」
思わず目を見開いた。
すこし冷めてもなお柔らかく、噛むほどに旨味が溢れ出す極上の牛肉。鼻に抜けるマスタードの爽やかな辛味とソースのコク。
「う、うみゃい……! うみゃい!」
私は無我夢中でサンドイッチにかぶりついた。数口でぺろりと平らげる。心の中の母が「はしたない!」と怒っているが、もう気にならない。
ガラス瓶のサーモンをつまむと、油に包まれたうま味が口の中に広がる。次にピクルスを口に入れると、程よい酸味が脂っこさを中和してくれた。
「ローストビーフの辛みと油を、ピクルスで口直し……そしてとどめにサーモン! これは、永遠に食べられる!」
しかし現実は甘くなく、二つあったサンドイッチはあっという間になくなってしまった。
寂しさをかみしめながら、締めに甘いタルトをフォークで突き刺す。
洋ナシの酸味と甘みを、シナモンが上品に引き立てていく。サクサクと心地よい音を立てるタルト生地はバターの風味が濃厚で、しっとり焼き上げられた果肉からはじゅわりと果汁が溢れ出す。
「ご馳走様でした!」
いただきます、ごちそうさまはいつだって元気よく。そして食事は早く。叩き込まれた習慣を自然に出しながら、私は両手をパンと叩いて食事に礼をする。
「ふぃいー」
すっかり平らげたあと、私は満足感に満たされてベッドに倒れ込んだ。
外では北へ向かう荒波が、大きく船体を揺らしている。
並の令嬢なら船酔いを起こしてしまうだろうが、私は鍛え上げられたスパイ。波の揺れなどゆりかごと同じだ。
うとうとと眠りに落ちてしまいそうな目を必死にこすって、母に手紙を書く。
——母上、お元気ですか。こちらの時刻は18時。夕食に、洋食のランチボックスに舌鼓を打ったところです。
国内とはいえ、親元を離れて一人での任務。しかも情報を扱うのだ、危険も伴うだろう。母にすべてを伝えることはできないが、可能な限り安心してほしい。——という設定の手紙を、軍へ送る。手紙に込めた暗号を読み解き、私の情報を上手く扱ってくれるだろう。
「それにしても、北海道かあ」
函館や札幌ならともかく、狙っている「ヤツ」が北へ逃げたら面倒だ。
あの辺りはまだ開拓しきれておらず、未開の地も多い。季節は幸い春だが、場所によってはまだ雪が残っているかもしれない。
「気晴らしに、美味しいものでもあればいいけれど」
美味しい食事にすっかり気をよくした私は、紙巻き煙草に火をつける。すう、と煙が立ち上り、そして静かに消えていく。
「さて、どういう旅になるかな」
私の独り言もまた、誰にも届くことなく、静かに消えていったのだった。



