大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

「それはあなた次第です、小雀さん」

 私が静かにそう返すと、小雀はほっとしたように、ふわりと微笑んだ。
 彼女はゆっくりと私の対面——ハルキソと呼ばれる女の席の奥へと腰を下ろすと、ぽつりぽつりと、二十年前の真実を語り始めた。

「小樽を出て、将校様の待つ帝都へ向かう汽車の中でした。窓の外には、どこまでも広がる青い海が見えて……その広大さに、私は息を呑んだのです」

 囲炉裏の火を見つめながら、彼女の目は遠い過去をなぞっていた。

「あんなにも世界は広いのに、私はこれから帝都の立派なお屋敷で、一生を終える。四条閣下は私を愛してくださったけれど、それはあくまで美しい籠の鳥としての私です。この先、一生空を飛べないのだと気づいた瞬間……どうしようもない恐怖に襲われました」
「だから、逆行きの汽車に飛び乗ったのか?」
「ええ。お腹の中のこの子と一緒に、誰も手の届かない最果てへ逃げたかった。そしてたどり着いたのが、この屈斜路だったのです」

 小雀は隣に座る長身の青年に、愛おしそうな視線を向けた。

「この子にはアトゥイと名付けました。あの時見た海の広さと、籠を壊して飛び立った時の気持ちを、私が一生忘れないために」
「……ハポ」

 カイ——アトゥイが、痛みを堪えるように小さく呟いた。
 小雀は立ち上がると、チセの奥から古びた小さな桐箱を持ってきた。そして、中に入っていた分厚い証書を、私の前に差し出した。
 それは間違いなく、私が探し求めていたもの。北海道の土地の権利書だった。

「お返しします。私……本当は、あの人がくれた温かさや、安定した未来を完全に捨て去ることもできなくて……ずるずると、今までこれを持ち続けてしまったの。馬鹿な女ですよね」

 小雀の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
 彼女は聖母なんかじゃない。自由を渇望しながらも、愛された記憶や安定への未練を手放しきれなかった、ひとりの弱い女だ。その矛盾と生々しさが、私にはどうしようもなく人間らしく、愛おしく思えた。

「だからどうか、この子だけは助けてください」

 小雀は畳み掛けるように、床に額を擦り付けて懇願した。

「……権利書だけ返しても、カイは危険なままだ。四条閣下の血を引く男児である以上、陸軍は権利書もろとも無きものにしようとする。根本的な解決にはならない——」
「アトゥイを、連れて行ってください」

 涙に濡れた瞳が、まっすぐに私を射抜いた。

「ハポ!」
「この子は今、私を守ることに縛られて、この地に囚われている。世界は変わっていくのに、私を守るためだけに存在するなんて、私がこの子を閉じ込めているのと同じ」
「……そ、それは……」

 思わぬ提案に、私は腕を組み、軍人としての思考を巡らせる。
 私は海軍の諜報員だ。陸軍の重鎮である四条中将の「隠し子」を私が保護し、私の手元に置いておくこと。それはすなわち、海軍が陸軍の巨大な弱みを完全に握ることを意味する。軍部内での力関係において、これほど強大な手札はない。
 私なら、海軍の力を使ってこの親子を陸軍から守り切ることができる。

(もし陸軍とあんな別れ方をしなければ、こんなことは考えもしなかっただろうが)

 半人前の女を舐めた罰だ。と思ってもらおう。そもそも四条閣下だって、小雀を舐め切ったからこんな手痛い裏切りにあっているのだから。
 とはいえ、強制はできない。カイの意志がなければ、この作戦は何の意味もなさないのだ。

「行く」

 沈黙を破ったのは、カイだった。
 彼は強い意志を宿した切れ長の瞳で、私を見据えた。

「俺も、外の世界を見たい。和人の世界を知り、力がどう動くのかを学ばなければ、このコタン(村)の文化を、和人の同化政策から守り抜くことはできない。だから俺を、あんたの保護下に入れてくれ」

 カイもまた決意を固めたようだ。自分の故郷を守るために、自ら敵陣へ飛び込むと。

「……ふふっ。あはははっ!」

 私はたまらず、声を上げて笑ってしまった。
 軍部を追放されかけた落ちこぼれのスパイが、陸軍の最高機密と、見目麗しいアイヌの青年を連れて帝都へ凱旋するのだ。大佐や男たちの、青ざめた顔が目に浮かぶ。最高の痛快劇じゃないか。

「いいだろう。契約成立だ、カイ——いや、アトゥイ」

 これからやるべきことは山積みだ。
 陸軍からの刺客を躱し、帝都へ戻り、海軍の上層部と交渉し、この青年に和人の世界の裏側を教え込まなければならない。とてつもなく過酷で、危険な日々が始まるだろう。
 けれど、まずは——

「おかわり!」

 私は空になった木彫りの器(ニマ)を、まっすぐに突き出した。
 小雀とカイが、目を丸くして私を見る。

「ポッチェイモも、ラタシケプも。全部おかわり! こんなに美味しいご飯を残して帰るなんて、神様(カムイ)に失礼だろう?」
「……ふふっ。ええ、そうね。カムイが怒ってしまうわ」

 小雀がくすりと笑い、カイも呆れたように、けれどどこか嬉しそうに肩を揺らして笑った。
 チセの中に、温かな笑い声が響き渡る。
 私は目の前の、命の味がする食事に全力で向き合った。これからの途方もない戦いを生き抜くために、まずはこの北の大地の恵みを、胃袋の底まで詰め込むのだ。

 一枚の手紙を書いて、私の旅は終わる。
 次の出張はきっと、もう少しましな理由で始まるといいけれど。
 何にせよ、とても楽しかった。

——というわけで、帰るころには新しい友人を紹介します。どうか楽しみにしていてください。母上。