大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

 ——自由とはかくも過酷で、残酷で、それでいて魅力のあるものなのです。

 汽車と馬車を乗り継ぎ、骨の髄まで揺さぶられるような過酷な旅路の果て。ついに私たちは、屈斜路へとたどり着いた。

「クッチャロ・ト(屈斜路湖)、湖の出口という。クシュル(釧路川)の源流になる湖だ」
「対岸が霞んで見える……! なんて大きいんだ」

 目の前に広がるのは、雄大な湖面と、手付かずの深い森。湖の波打ち際には、葦を葺いた伝統的なアイヌの家屋(チセ)がいくつも点在し、のどかな煙を上げている。

「ここが、俺の育った場所だ」
「……近くに和人の町もあるが、そこじゃないんだな」
「ハポ(母さん)はそれを望まなかった。生まれたばかりの俺を抱えて、アイヌのコタンに助けを求めたらしい」

 少し寂し気に笑うカイに案内され、私はまず、湖畔にこんこんと湧き出る野外の温泉——コタンの湯を楽しませてもらう。

「一緒に入らないのかい?」
「ば、馬鹿を言うな!」
 
 まあ、私も出会ったばかりの男の前で全裸になるほど馬鹿じゃない。
 着物を膝上までめくって、足だけをつける。私が男だったら、気兼ねなく全裸になって湯を楽しんだだろうか——そんな馬鹿なことを考えながら温かい湯を堪能する。
 春先のまだ寒い風が冷やした体を、温泉がじんわりと暖めてくれた。
 
「アトゥイってどういう意味だい?」
「アイヌ語で海という」
「確かに、屈斜路湖は海ほども広いなあ」
「そういう意味じゃない、ハポは——」 

 カイが何か言いかけて、やめた。
 そこで私たちの会話は止まる。ふわりと風が凪いで、硫黄の匂いを飛ばしてくる。

「ハポには連絡してある。行こう」
 
 そして、湯上がりの私を待っていたのは、囲炉裏の火が暖かく爆ぜるチセでの夕食だった。
 屈斜路湖から離れ、森の奥深くへと入っていく。アイヌの民族衣装を纏った男たちが、鹿を抱えて歩いている。
 同化政策が進んでいく中で、彼らの生活は大きく変わっているはずだ。伝統的な狩猟は禁止されているはず。それでも、ここに居る彼らは頑なに彼らの生活を守り続けようとしているらしい。

「さあ、食え。約束通り、アイヌの美味いもんだ」
「いただきます!」

 木彫りの美しい器(ニマ)に盛られて出てきたのは、北の大地の恵みそのものだった。
 まずは湯気を立てるチェプ・オハウ。秋に獲れた鮭を干したものと、大根、人参、そして行者ニンニクを煮込んだ塩味のスープだ。
 一口すすると、鮭から出た強烈な旨味が、温泉で温まった体にじわぁっと染み渡っていく。
 塩と素材だけの味付けなのに、驚くほど味が深い。命そのものの味がする。

「うみゃい……! 鮭の塩味を、行者ニンニクの辛みが引き立てる。うみゃみゃ」
「こっちはポッチェイモ。凍らせたイモを焼いたものだ。それと、ラタシケプ。これは特別な客にしか出さないんだぞ」

 勧められるままにポッチェイモをかじると、外は動物の脂でカリッと香ばしく焼かれ、中はまるでお餅のようにもっちりとしている。
 お次は自然の甘みが詰まったラタシケプ。かぼちゃと豆、木の実、そして動物の脂を練りこんだ料理だ。ペースト状の持ったりとした食感の中に、カボチャのほのかな甘みと動物の脂の旨味が濃縮されている。

「狩猟は男がして、採集や料理は女がする。この鮭は隣のニシパが取ったのを分けてくれたんだ。料理をしたのはハポ」
 
 どうやら、ここの文化では役割がしっかりと分担されているらしい。座る場所も女は火の近く、男は窓の近くと決まっている。平等かどうかはわからない。だが、それぞれがしっかりとした役割を持って動いている姿には、家父長制度の強い日本人として感じるところがある。羨ましい、のかもしれない。
 もやもやとした思いを抱えながら、稗や粟を混ぜた雑穀ご飯・アマムを無心でかき込んだ。
 自然そのものを食べているような感覚になり、命をいただくことに感謝しながらひたすらに食べる。

「どうだ、ヒンナか?」
「ヒンナ、ヒンナ!」
 
 ふう、と息を吐いてアマムを飲み込んだ時だった。
 ふと、胸の奥でずっと燻っていた謎の答えが、すとんと腑に落ちたのだ。

「……どうして小雀が、全てを捨ててここへ来たのか、わかった気がする」

 パチパチと爆ぜる囲炉裏の火を見つめながら、私はぽつりと呟いた。カイが、静かにこちらに視線を向ける。
 四条中将の正室という地位。莫大な価値のある北海道の土地の権利書。
 それは、一介の芸妓からすれば、誰もが羨む最高の身分と財産だ。けれど、小雀はそれを持ったまま逃げ出した。
 芸妓として生まれ、常に男たちの顔色を窺い、誰かの庇護下でしか生きられなかった彼女の人生は、ずっと籠の鳥だった。
 たとえ中将の妻という地位を手に入れても、籠が黄金に変わるだけで、その先に本当の自由はない。

「……雀は籠から抜け出して、ここに降り立ったんだな」

 きっと、彼女は自由になりたかったのだ。それはただ逃げ出したいだけではない。ひとりで立てる、独立が欲しかった。
 だからこそ、名誉も地位も届かないこの最果ての地で、アイヌの人々と共に自然の中で生きる道を選んだのだ。姑息で賢明なことに、保険として土地の権利書という財宝を持っておきながら。

「ま、案外この美味しいご飯にとらわれただけかもな」
「……ハポはお前ほど馬鹿じゃない」

 長いこと抱えていた疑問が解消されたようですっきりした。
 満腹になった体はぽかぽかと温まり、とろりと眠気に誘われる。
 
「……そうですよ。軍人様」

 ふいに、チセの奥から静かな、けれど芯のある声が響いた。
 振り返った私の目に映ったのは、二十年前の写真の面影を確かに残す、凜とした佇まいの美しい女性。

「アトゥイを——私の自由を、取り返しに来たのですか」
「それはあなた次第です、小雀さん」

 小雀、その人だった。