大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

「はい、返す」

 私は懐から黒と紺の布を取り出すと、カイに手渡した。
 だというのに、カイはいぶかしげに、じろりとこちらを睨んだまま動かない。

「……は?」
「マタンプシって、ハチマキのことだろう?  丁寧に飾られているし、大切な物だったんだな。ほら、返すよ」
「……お前、これがどういう状況かわかっているのか? なんの罠だ」
「罠もなにもない。私仕事を外された。だから小雀にもあなたにももう関係ない」

 呆気にとられるカイを横目に、私はトランクを手に取った。カツレツのお代はすでに払ってある。
 店主に「ごちそうさま!」と声をかけ、私はさっさと大衆食堂の引き戸を開けた。
 外に出ると、軍都・旭川の冷たい風が頬を打つ。すっかり夕暮れ時だ。これから宿を探すか、それともいっそ夜行列車にでも乗ってしまおうか。
 そんなことを考えながら歩き出した私の背後から、慌てたような足音が追いかけてきた。

「待て! 和人は信用できない!」
「信用も何も、私はこのまま帝都に還るが? もう用済みなんだから」

 振り返りもせずに答えると、カイは私の横に並んで歩き始めた。
 肩を並べて歩く私たちは夫婦にでも見えるのか、女一人で歩いているときのような奇異の目が薄まる。頼んでもいない男のツレが私を普通にしてくれることが、どこか腹立たしかった。
 私はぽつりぽつりと、愚痴をこぼすように話し始めた。

「頑張ったつもりだったんだけど、あなたに出会って写真を奪われた大失態は覆せなかった。『女には難しすぎる任務だ、すっこんでろ』ってさ」
「……写真、返すか?」
「持ってなよ。大事な写真だろう。結局、私は半人前の女だったってだけだ。悔しいなあ」

 敵対していたはずの男に向かって愚痴をこぼしている。軍人失格だ。いや、そんなことがなくても私にはもう出世の道はないだろう——

「あなたが我々の呼んでいる『ヤツ』——四条閣下の息子なんだろう?」

 私の唐突な言葉に、カイの足がピタリと止まった。
 私も立ち止まり、振り返って彼を見つめる。

「……そうだ。俺の和名は四条海(しじょうかい)

 警戒の色を強めたカイが、短く答えた。
 やはりな。だから彼は私を付け回し、そしてあの写真——小雀の姿を見た瞬間に目の色を変えて奪い取ったのだ。

「旭川には、もう来ない方がいい」
「なに?」
「軍部が血眼になって貴方を探してる。土地の権利書ごと、無きものにするためにね。ここは第七師団のお膝元だ、うろついていたらすぐに見つかる」
「お前も、俺を捕まえる側の人間だろう?」
「だから、私はもう関係ないんだって」

 私は首を横に振り、自嘲気味に笑った。

「私は帝都に戻って、また新しい仕事だよ。ま、どこかでお茶くみだろうけどな」

 やっぱり、女の身で一人前の顔をするなんて無理があったんだ。自嘲しながら踵を返そうとした時。
 ぐい、と。強い力で、手首を掴まれた。

「……なんだ?」

 驚いて振り返ると、長身のカイが私を見下ろしていた。
 切れ長の瞳に、先ほどまでの刺すような敵意はない。何か言いたそうな顔で、でも言葉が出てこない様だった。
 彼は私の手首を掴んだまま、まっすぐに私を見て言った。

「屈斜路に来い」
「……はい?」
「温泉があるぞ」
「いや、温泉があっても……」

 つまり、私を自分の家へ招待しているということだろうか。
 とんでもない誘いだ。スパイとして、軍人として、というか女として、絶対に受けてはいけない誘い。
 けれど彼の言葉は、どん底まで落ち込んでいた私の心に、不思議なほど温かく響いたのだった。

「おいしいものは?」
「もちろんある。チェプ・オハウ、ポッチェイモ、ラタシケプも作ってやる」
「それなら——」

 次の目的地は決まった。
 私はカイの手を握り、機関車の駅へと進む。
 東へ東へ進み、屈斜路へ向かうのだ。