大正乙女のランチボックス 〜特殊工作員の北海道横断メシ〜

 ——ああ、それにしてもお腹が空きました。このままでは、北の大地に噛みついてしまいそうです。

 一九二三年、四月。船上より。
 コトリとペンを置いて、私はベッドに寝転んだ。
 横濱発、函館行き。北の海を北上する巨大客船は、まるでこの世の贅沢をすべてかき集めたかのような世界だった。
 これから私は北の地へ向かう。目的は北海道における社会事業の実態調査——というお題目の元、極秘の使命を帯びている。つまり、スパイという奴だ。
 崇高な目的を帯びた旅は、友人や愛しい母との涙の別れと共に、荒波へ漕ぎだしたのだった。
 けれど、肝心の私はそれどころではなかった。胃袋はすでに限界を訴えている。船酔いを警戒して乗船前に軽食しか口していなかったため、私の腹は飢えた野獣のように唸っていた。

「……よし、ご飯を食べに行こう!」

 奮発して押さえた一等客室の豪著な天井も見飽きたところだ。
 私はバッと起き上がり、備え付けの鏡の前に立った。
 トランクから余所行きの着物を取り出し、室内着から着替える。深い紺色の正絹はまるで果てしない海の様で、これからの長い船旅への期待が滲んでいる。

「化粧もしていこう。舐められないように……」

 ぶつぶつと独り言をいいながら、トランクの中をあさる。視察用の書類、母に送るための大量の便箋、沢山の着替えに……人には消して見せられないあれやこれやがぎゅうぎゅうに詰まっている。
 その中から化粧を包んだ風呂敷をようやく見つけ出した。おしろいを薄く塗り、健康的で、けれど少し色白に見えるように。艶めいた唇は紅を引いて、目元も印象的になるように薄く化粧を施した。
 髪は編み込んで一つ結びに。まるで自分の性格を映しているかのようなツンツンと跳ねた髪はいうことを聞かない。椿油で少し整えてみたが、きっちりと夜会仕様に巻き上げるのは諦めた。

「いい感じ」

鏡の中には、どこからどう見ても、どこに出しても恥ずかしくない、大資産家の令嬢がそこにいる。

「——よしっ!」

 私は小さな声で気合いを入れると、船室のドアを開けて一等食堂へと向かった。

 ◇ ◇ ◇

「ほええ……」

 一等食堂の扉の前に立った瞬間、圧倒的な光景に気圧されそうになった。
 そこはさながら動く宮殿のようだった。天井から下がるシャンデリアは黄金色に煌めき、磨き上げられた銀食器に反射して星のように瞬いている。
 給仕係たちが白い手袋をはめた手でシルバーのトレイを掲げ、隙のない足取りでテーブルの間を縫うように行き交っていた。

「いやあ、東京の商談も上手くいったよ」
「本当ねえ、北の街も楽しみだわ」

 あちこちから紳士たちの低く響く笑い声と、華やかな女性の囁きが聞こえてくる。
 中央の特等席では、仕立ての良いスーツを纏った実業家風の男性が、隣に座る美しい婦人に微笑みかけながら、分厚く切り分けられたローストビーフに銀のフォークを入れていた。
 熟成された肉の香ばしさと、赤ワインの芳醇な香り。どこからかバターの甘い香りが漂い、様々な匂いが調和してひとつの完璧な世界を作り上げている。

「乾杯」
「ええ、乾杯」

 ここでは誰もが世界の中心だ。皆自信と喜びに満ちた表情で、極上の食事に舌鼓を打っている。

(私も、早くこの光景のひとつになりたい)

 胸を張って堂々と、誰にも負けないように。
 緊張で高鳴る心臓を必死に静めながら、私は嫋やかな微笑みで案内係の男性の瞳を見た。

「予約している、海神織歌(わだつみおるか)です」

 上品で澱みない物言いは長年の訓練で培ったものだ。相手には私は上品な令嬢にしか見えないことだろう。
 さあ、私の豪華な夕食が始まる。
 私を待っている料理はなんだろう。コンソメ・ロワイヤルに、分厚いローストビーフ、あるいは趣向を変えて近海で獲れた魚のバター焼きなんていうのもいい。それにワインも付けてしまおう。
 上官にやいのやいのと言われてしまいそうだが、仕事の都合で女一人の長旅をさせられているのだ。これくらいの贅沢は大目に見てもらわなければ。
「案内いたします、お嬢様。こちらへどうぞ——」そう言って静かに私の道を指し示す姿を思い浮かべる。

「失礼、女性一人でのレストラン利用はお断りしております」

 ——が、現実に突き落とされるのは一瞬だった。
 案内係の男は、私の洗練された物腰に一瞬だけ驚いたものの、私が女一人だと確認した瞬間、その目を冷ややかに細めた。

「……あの、私は予約をしたのですが?」
「申し訳ございません、男性のお名前かと勘違いしてお通ししてしまいました。他のお客様のご迷惑になりますので、お引き取りください」
「いや、何もしてないのに迷惑も何もないでしょう!」

 思わず声を荒げてしまうと、周囲の客たちが、何事かとこちらに視線を寄せる。一等客室の紳士たちと、連れの婦人たち。彼らは場違いな私を見て、冷ややかな目線を注いでくる。

「当店はお連れ様のいないお客様はお断りしておりまして」
「嘘を付かないでください。ひとりで食べてる方はいらっしゃるでしょう」
「あちらは男性の御お客様ですので」

 「こんな理不尽が許されるのか! 責任者を出しなさい!」という言葉を、なけなしの理性で喉元まで呑み込んだ。
 けれど私の腹は理性などなく、獣のようにぐうと鳴く。

「でも、予約したんですよ。このままだと食事抜きになってしまう」
「でしたら、後ほどお部屋にお持ちすることならできます。それとも、ランチボックスでテイクアウトなさいますか?」
「……」

 なんて不遜な物言いだ。洋風な口調にも腹が立つ。
 だけどもう喧嘩をする気にもなれなくて、私は肩を落としてつぶやいた。

「……ランチボックスで、テイクアウトで」