母の出張ノートには、食べなかったものばかり書いてある

本社から連絡が入ったのは、翌日の午前十時だった。

北浜工場の第二ラインは停止を継続し、同じ期間に製造された商品の出荷を取りやめる。すでに市場へ出た商品については、自主回収を行う。

攪拌機は修理ではなく、交換することになった。

会議室で報告を聞いた工場長は、椅子の背にもたれたまま目を閉じた。

「回収か」

誰に向けるでもなく、つぶやいた。

深町は膝の上で両手を重ねている。安心したようにも、怯えているようにも見えた。

回収が決まったからといって、すべてが解決するわけではない。

費用はかかる。取引先への説明も必要になる。工場の存続が約束されたわけでもない。

それでも、少なくとも誰か一人の見落としとして終わらせることは避けられた。

佐和子は机の上の報告書を見た。

新しく作り直された文書には、設備の異音が報告されていたこと、分解点検が行われなかったこと、攪拌機の部品が破損していたことが記されている。

現地確認者の欄に、佐和子は自分の名前を書いた。

今度は迷わなかった。

「小暮さん」

会議が終わったあと、工場長に呼び止められた。

「今回のことで、工場がどうなるかは分かりません」

「はい」

「設備交換には時間がかかります。生産が別の工場へ移されれば、戻ってこないかもしれない」

責めるような口調ではなかった。

ただ、疲れていた。

「申し訳ありません」

佐和子が言うと、工場長は首を振った。

「謝ってほしいわけではありません」

窓の外に目を向ける。

「私も、音が出ていることは聞いていました」

佐和子は黙って待った。

「生産を止めると言えば、本社に何を言われるか分からなかった。設備更新を求めれば、採算が悪い工場だと判断される。だから、もう少しだけ動いてくれと思った」

工場長は自嘲するように笑った。

「機械にも、人間にも、我慢させれば済むと思っていたんでしょうね」

佐和子は返す言葉を持たなかった。

自分さえ我慢すれば、物事はうまく収まる。

それは佐和子が長く信じてきたことだった。

けれど、我慢を続けたものは、ある日突然、音を立てて壊れる。

機械も、人間も同じなのかもしれない。

「工場を残したいなら、なおさら原因を隠してはいけないと思います」

佐和子が言うと、工場長はしばらく考えたあと、うなずいた。

「そうですね」

その日の午後、佐和子は深町と一緒に駅まで戻った。

「二日間、ありがとうございました」

ロータリーで車を止め、深町が頭を下げる。

「こちらこそ。記録を残してくれて助かりました」

「最初から正式に提出すればよかったです」

「提出できる雰囲気ではなかったでしょう」

深町は苦笑した。

「それでも、言わなければいけなかったんですよね」

「私も昨日、やっと言えたばかりです」

佐和子が答えると、深町は驚いたように顔を上げた。

「小暮さんでも、言えないことがあるんですか」

「あります。言えないことばかりです」

二人で笑った。

駅の入口へ向かおうとすると、深町が後ろから声をかけた。

「小暮さん」

振り返る。

「昨日のうどん、おいしかったですね」

工場の裏にある小さな店で食べたのは、魚のすり身を載せた温かいうどんだった。

濃い出汁に柚子の皮が浮かび、冷えていた体が内側からほどけた。

「おいしかったです」

「次に来られたときは、港の食堂へ行きましょう。朝しかやっていないんですけど、焼き魚がおいしいです」

次に来たとき。

その言葉が、佐和子の胸に残った。

「楽しみにしています」

今度は、すぐにそう答えられた。

駅の売店には、色とりどりの駅弁が並んでいた。

正志が頼んでいた牛肉弁当もある。

佐和子は一つ手に取り、土産用の袋へ入れてもらった。

自分の分を選ぼうとして、いつもの癖でいちばん安い弁当を探した。

幕の内弁当。

おにぎり弁当。

それで十分だと思いながら、棚の端にある鯛飯の弁当へ目が止まった。

薄い桃色の鯛の身が、白いご飯の上に敷き詰められている。錦糸卵と木の芽が添えられ、値段は幕の内弁当より四百円高かった。

四百円あれば、卵が一パック買える。

牛乳と豆腐も買える。

佐和子は弁当を一度手に取り、重さを確かめた。

「こちらになさいますか」

売店の女性に尋ねられた。

佐和子は鯛飯の写真を見た。

母は、食べたいものの値段を、いつも別の何かに置き換えていた。

娘の靴。

家族の夕食。

誰かのために使えるお金。

佐和子も同じだった。

けれど、四百円高い弁当を選んだからといって、家族を大切にしていないことにはならない。

「はい。これをください」

鯛飯弁当を差し出した。

ホームに上がると、海から来た風がコートの裾を揺らした。

発車まで少し時間がある。

佐和子は鞄から母の手帳を取り出した。

小料理屋「灯」のページを開く。

〈店の前まで行ったが、一人では入れなかった〉

その下の余白は、まだ空いている。

ここは母の手帳だ。

自分の夜を書く場所は別に作る。

そう考えて、書かなかった。

けれど、母の記録の続きを書くことと、母の代わりに生きることは違うのかもしれない。

母が諦めたものを、佐和子がすべて回収する必要はない。

ただ、自分が何を選んだかを残しておきたかった。

佐和子はペンを取り、余白に日付を書いた。

〈八月。小料理屋「灯」〉

少し迷ってから、続ける。

〈一人で入った。鰆の味噌漬けと、蛸の酢味噌和えを食べた〉

鯛の煮つけだけではない。

母が食べたかったものだけではなく、自分が選んだ料理の名前を書いた。

最後に、

〈食べた。おいしかった〉

と記した。

新幹線がホームへ入ってきた。

風にあおられ、手帳のページがめくれる。

まだ何も書かれていない白いページが、何枚も続いていた。

帰りの車内で、佐和子は窓側の席に座った。

列車が動き始めてから、鯛飯弁当の蓋を開ける。

木の芽の香りが、ふわりと立った。

鯛の身は柔らかく、出汁を含んだご飯には、ほんの少し生姜が利いていた。

佐和子は急がず、一口ずつ味わった。

途中でスマートフォンが震えた。

榊原からだった。

〈帰社後、再発防止チームの立ち上げについて相談したい。北浜以外の工場も設備点検が必要になった〉

処分ではなかった。

安堵するより先に、仕事が増えると思った。

だが、不思議と嫌ではなかった。

〈承知しました〉

と返信する。

続いて、正志からもメッセージが届いた。

〈豚肉、うまくできた。味は少し濃かった〉

写真が添えられている。

皿の上で、豚肉とキャベツが少し焦げていた。

佐和子は笑った。

〈次はタレを半分にするといいよ〉

と打ちかけ、指を止めた。

代わりに、

〈おいしそう。帰ったら作り方を教えて〉

と送った。

正志がどんな顔をするかは分からない。

料理は佐和子が作るものだと言うかもしれない。

それでも、もう三日分を用意して出張する必要はないと思った。

列車は海沿いを離れ、山の中へ入っていく。

窓の外の町が、後ろへ流れていった。

佐和子は母の手帳をもう一度開いた。

北浜の記録の下に、一行を書き足す。

〈次は、自分で店を見つける〉

ペンを置き、白いページを眺めた。

次の出張先は、まだ決まっていない。

再発防止チームに入れば、各地の工場へ行くことになるかもしれない。

その町には、どんな店があるのだろう。

朝しか開かない食堂。

一人客の多い喫茶店。

土地の人が仕事帰りに寄る小さな居酒屋。

佐和子は鯛飯をもう一口食べた。

次の出張が、少し楽しみだった。