母の出張ノートには、食べなかったものばかり書いてある

翌朝、佐和子は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。

いつもなら、正志が起きる時間を逆算して台所に立つ頃だった。味噌汁の鍋を火にかけ、新聞を取り、コーヒーを淹れる。

けれど、ホテルの部屋には誰もいない。

何かを急いで用意する必要もなかった。

スマートフォンを見ると、正志から昨夜遅くにメッセージが届いていた。

〈鮭、少し焦げた。明日の豚肉はフライパンでいいのか〉

佐和子は〈フライパンで大丈夫〉とだけ返した。

それから少し考え、〈火が強すぎると焦げるから、中火で〉と付け足した。

送信したあと、余計だったかもしれないと思った。

正志は六十四歳だ。

鮭を焦がしたところで、次は加減するだろう。豚肉が少し硬くなっても、食べられないわけではない。

佐和子がいなくても、家は二日くらい動く。

そう考えると、胸の奥に小さな空間ができた。

一階の朝食会場は、出張客や観光客で混んでいた。

入口で部屋番号を伝え、佐和子は白い皿を手に取った。

焼き魚、卵焼き、納豆、ウインナー、サラダ。郷土料理らしい小さな煮物も並んでいる。

トレーを手にしたまま、佐和子は料理の前で足を止めた。

家なら、正志が食べるものを中心に選ぶ。

正志は納豆が嫌いだった。酸味のあるものも苦手で、酢の物を食卓に出すと、露骨に箸が遅くなる。

佐和子は小鉢に入ったもずく酢を見つめた。

昨日の蛸の酢味噌和えを思い出す。

酢の味が、舌の奥を目覚めさせた。

佐和子はもずく酢を取った。

その隣にあった焼き茄子も皿に載せる。正志は茄子の柔らかい食感を嫌うが、佐和子は好きだった。

最後に、炊きたての白いご飯と味噌汁をよそった。

窓際の一人席に座り、箸を取る。

誰かの嫌いなものを避けずに選んだ朝食は、皿の色まで明るく見えた。

もずく酢は、思ったより酸っぱかった。

けれど、その酸っぱさが心地よかった。

焼き茄子は冷たく、出汁がよく染みている。

自分が食べたいものを選んだ。

たったそれだけのことなのに、佐和子は少し姿勢を正した。

食事を終え、コーヒーを飲みながら、昨日作った質問の一覧を見直した。

攪拌機の異音。

空白になっている点検記録。

部品の交換履歴。

生産停止を判断しなかった理由。

一番下に書いた一行が目に入った。

〈深町個人の確認不足として処理しない〉

佐和子はその文字を指でなぞった。

工場へ着くと、保全担当の男性が会議室で待っていた。

名前は笠井といい、五十代後半。作業着の胸元には、黒ずんだ油の染みがあった。

「攪拌機の異音について伺います」

佐和子が切り出すと、笠井は腕を組んだ。

「異音というほどのものではありません。古い機械ですから、多少の音はします」

「深町さんから報告は受けましたか」

「一応は」

「いつですか」

笠井は壁の時計を見た。

「先月の中頃です」

「記録が残っていません」

「外から確認して、異常がなかったので」

「分解点検は?」

「していません。生産が詰まっていましたから」

「誰が、点検をしないと決めたんですか」

笠井は答えず、隣に座る工場長を見た。

工場長が咳払いをした。

「現場の総合的な判断です。毎回、音がするたびにラインを止めていたら、納期に間に合いません」

「では、点検を見送った記録はありますか」

「口頭のやり取りでした」

「部品の摩耗状況は確認しましたか」

「目視できる範囲では」

佐和子は机の上に、購入者から回収した金属片の写真を置いた。

「この傷は、一度折れただけではつきません。何かと繰り返し接触した跡です」

笠井の表情がわずかに変わった。

「攪拌機の内部を開けてください」

「今からですか」

「今からです」

工場長が身を乗り出した。

「小暮さん、昨日も申し上げましたが、目視確認の不備で説明はつきます。そこまで大ごとにする必要はないでしょう」

「説明がつけば、原因は調べなくていいということですか」

佐和子は静かに尋ねた。

工場長は黙った。

二時間後、攪拌機の内部から摩耗した金属部品が見つかった。

攪拌羽根を固定する細い留め具の一部が欠けていた。欠損部分の形は、回収された金属片とほぼ一致している。

笠井は部品を手に、長く息を吐いた。

「これだと思います」

深町は少し離れたところに立ち、部品を見つめていた。

「私が、もっと強く言っていれば」

佐和子は振り返った。

「深町さん」

「はい」

「異音を報告したのは、あなたですね」

「はい」

「点検をするかどうか決めたのは?」

深町は答えに詰まった。

「私では、ありません」

「なら、自分の責任にしないでください」

「でも、確認で見つけられなかったのは事実です」

「そうです。確認方法には改善が必要です。でも、機械から金属片が出た原因まで、あなた一人の見落としにすることはできません」

深町の目が赤くなった。

泣くまいとしているのが分かった。

佐和子はそれ以上慰めるようなことは言わなかった。

必要なのは、大丈夫という言葉ではない。

事実を、事実として残すことだった。

午後、本社の榊原を交えたオンライン会議が開かれた。

工場長、笠井、深町、佐和子が会議室に並ぶ。

画面の中の榊原は、提出された写真を見て眉をひそめた。

「部品が原因である可能性は分かった。ただ、金属片が商品へ混入した直接的な原因は、最終確認で見落としたことだろう」

「設備の破損がなければ、金属片は発生していません」

佐和子が言うと、榊原は口元を固くした。

「もちろん設備の修理はする。しかし、全面的な老朽化の問題として報告すれば、第二ラインを止める必要がある。自主回収の範囲も広がる」

「同じ製造期間の商品には、別の金属片が混入している可能性があります」

「今のところ、申告は一件だ」

また、その言葉だった。

今のところ。

佐和子は膝の上に置いた手を握った。

「申告が一件しかないことは、安全だった証明にはなりません」

画面越しに榊原が佐和子を見た。

「小暮さん。あなたも長くこの会社にいるなら、現実的な判断が必要だと分かるだろう」

現実的な判断。

誰かに我慢してもらうことを、そう呼ぶのだ。

現場の担当者に責任を負わせる。

購入者には、二件目が出ないことを祈る。

老朽化した設備には、もう少しだけ持ちこたえてもらう。

それがいちばん傷が浅いと、榊原は言った。

佐和子は、昨夜の小料理屋を思い出した。

何を食べたいかと聞かれて、すぐに答えられなかった自分。

食べたいものを言うことも、必要なことを言うことも、佐和子には同じくらい難しかった。

相手が困るかもしれない。

空気が悪くなるかもしれない。

わがままだと思われるかもしれない。

だから黙る。

だが、黙れば金属片が消えるわけではない。

「報告書を画面に出します」

榊原が言った。

共有された文書には、〈作業担当者による目視確認不足〉という文字があった。

設備の異音や、点検を見送った経緯は、書かれていない。

「この内容で、現地確認者として署名してください」

佐和子の前に、工場長が印刷した報告書を置いた。

名前を書く欄が、白く空いている。

深町は俯いたままだった。

佐和子はペンを手に取った。

三十七年間、会社が求める書類に何度署名してきただろう。

大きな問題を起こさないこと。

人間関係を壊さないこと。

迷惑をかけないこと。

それが責任だと思っていた。

だが、本当に責任を取るとは、起きたことを小さく見せることではない。

佐和子はペンを置いた。

「私は、この報告書には署名しません」

自分の声が、会議室の中にはっきり響いた。

画面の中の榊原が動きを止めた。

「何だって?」

「設備の破損と、点検を見送った経緯を記載してください。対象期間の商品は出荷を停止し、同一ラインで製造した商品の回収を検討するべきです」

「費用がいくらかかると思っている」

「分かりません」

佐和子は答えた。

「ですが、次に誰かが怪我をしたとき、今回の異音を知っていたことは隠せません」

「北浜工場が閉鎖になるかもしれないんだぞ」

工場長が顔を上げた。

深町も息をのんだ。

佐和子は胸の奥が冷たくなるのを感じた。

自分の言葉で、誰かの仕事を失わせる可能性がある。

それでも、黙って守れるものではなかった。

「工場を残すために、事故を隠すんですか」

榊原は答えなかった。

沈黙が続いた。

その中で、深町がゆっくり顔を上げた。

「私も、提出したい記録があります」

膝の上に置いていたファイルを開く。

「異音に気づいた日から、個人的に記録していました。音がした時間、製造品目、保全担当へ相談した日付です」

工場長が深町を見た。

「そんなものを作っていたのか」

深町は震える手でファイルを押さえた。

「正式な記録にしてもらえなかったので」

声は細かった。

けれど、最後まで消えなかった。

会議は結論が出ないまま、一度中断された。

榊原は本社で役員と協議すると言い、画面から消えた。

誰も言葉を発しなかった。

やがて工場長が立ち上がり、会議室を出ていった。

笠井もそのあとに続いた。

深町と二人きりになると、佐和子は大きく息を吐いた。

「怖くなかったですか」

深町が尋ねた。

「怖かったです」

佐和子は正直に答えた。

今も怖い。

帰社したあと、どんな処分を受けるか分からない。定年を前に、余計なことをした人間として扱われるかもしれない。

「でも、言わなかったほうが、あとでもっと怖くなると思いました」

深町はうなずいた。

「私もです」

窓の外には、海へ続く曇り空が広がっていた。

会議室の机の上には、署名のない報告書が残っている。

佐和子はそれを見つめた。

書かなかった自分の名前が、そこにはっきり見える気がした。

昼食を取っていないことに気づいたのは、午後三時を過ぎてからだった。

深町が「何か買ってきます」と立ち上がる。

佐和子は少し考えた。

「近くに、何かおいしいものはありますか」

深町が振り返った。

「おいしいもの、ですか」

「ええ。私、今日は何か温かいものが食べたいです」

言ってから、佐和子は笑った。

初めて会った昨日より、深町の顔が少し明るくなった。

「工場の裏に、小さなうどん屋があります」

「では、そこへ行きましょう」

「私も一緒でいいんですか」

「もちろんです」

佐和子は鞄を持って立ち上がった。

食べたいものを言う。

必要なことを言う。

どちらも、口に出してしまえば短い言葉だった。