母の出張ノートには、食べなかったものばかり書いてある

午後八時を過ぎても、佐和子はホテルの机に向かったままだった。

開いているのは攪拌機の点検記録だったが、同じ行を何度も目で追っているだけで、内容はほとんど頭に入ってこなかった。

空腹のせいだと思った。

昼に食べた梅のおにぎりから、もう七時間近く経っている。

ホテルの一階には、電子レンジとカップ麺の自動販売機がある。駅前にはコンビニもあった。そこで何かを買い、部屋で食べればいい。

佐和子は財布を手に立ち上がった。

母の手帳は、机の端に置いたままにした。

店へ行くつもりはない。

ただ、外の空気を吸いに行くだけだ。

エレベーターを降り、ホテルを出ると、昼間より潮の匂いが濃くなっていた。

商店街の多くはすでにシャッターを下ろしていたが、居酒屋や食堂の看板には明かりがついている。焼いた魚の匂いと、甘辛い醤油の匂いが、風に乗って流れてきた。

佐和子はスマートフォンを取り出した。

地図を開かなくても、小料理屋「灯」の方向は覚えている。

コンビニとは反対側だった。

少し歩くだけ。

店の前を確かめたら戻ればいい。

母が二十数年前に見た店が、今も本当に残っているのか。それだけ知りたかった。

商店街を抜けると、道は緩やかな下り坂になった。街灯の間隔が広くなり、古い家並みの向こうから波の音が聞こえた。

小料理屋「灯」は、細い路地の角にあった。

白い暖簾に、墨色で一文字だけ〈灯〉と染め抜かれている。軒先には丸い明かりが下がり、引き戸の細いガラスから、店内の橙色の光が漏れていた。

佐和子は歩く速度を落とした。

そのまま店の前を通り過ぎた。

十メートルほど先で立ち止まり、振り返る。

店は静かだった。

外にメニューは出ていない。値段も分からない。中に何人いるのかも見えない。

常連客ばかりだったら、居心地が悪いかもしれない。

六十二歳にもなって、知らない店へ一人で入れないのか。

そう思う一方で、六十二歳だからこそ、わざわざ落ち着かない思いをする必要はないとも思った。

佐和子はもう一度、店の前を通った。

今度は入口側ではなく、道路の反対側を歩いた。

暖簾の向こうから、笑い声が聞こえた。

男性の低い声が二つと、女性の声が一つ。

やはり常連客なのだろう。

佐和子はホテルへ戻ろうとした。

コンビニで弁当を買えばいい。鯛の煮つけなら、家でも何度も作ったことがある。

正志は骨のある魚を嫌がるので、最近はあまり作らない。子どもたちが家にいた頃も、食べやすい切り身を選んでいた。

鯛の煮つけを食べなくても困らない。

母だって結局、食べなかったのだ。

三度目に店の前を通りかかったとき、引き戸が開いた。

佐和子は驚いて足を止めた。

紺色の前掛けを着けた女性が、空になった酒瓶を二本抱えて出てきた。五十代半ばくらいだろうか。短く切った髪に、白いものが混じっている。

女性は佐和子を見ると、酒瓶を持ったまま軽く頭を下げた。

「こんばんは」

「こんばんは」

佐和子も反射的に頭を下げた。

女性は店の脇にある箱へ酒瓶を入れたあと、佐和子を見た。

「お一人ですか」

尋ね方があまりに自然だったので、佐和子は否定する機会を失った。

「ええ。まあ」

「カウンターなら、一つ空いていますよ」

女性はそう言って、引き戸を押さえた。

店の中から、煮魚の匂いが流れ出した。

醤油と酒と生姜。それに、焼いた葱のような甘い香りが重なっている。

佐和子の腹が小さく鳴った。

聞こえなかったふりをして、女性が笑った。

「どうぞ」

一人分の隙間を残すように、暖簾が持ち上げられた。

佐和子は一度だけ後ろを振り返った。

路地には誰もいない。

母も、この場所に立ったのだろうか。

同じように匂いを嗅ぎ、暖簾の隙間から明かりを見たのだろうか。

けれど母のときには、戸は開かなかった。

「失礼します」

佐和子は店に入った。

店内にはL字形のカウンターがあり、奥に小さな座敷が二卓あった。客はカウンターに三人。作業着姿の男性が二人と、買い物帰りらしい年配の女性が一人。

誰も佐和子をじろじろ見なかった。

一瞬だけ顔を上げ、すぐに自分たちの会話や料理へ戻った。

それだけのことに、佐和子はほっとした。

「こちらへどうぞ」

先ほどの女性が、カウンターの端にある椅子を引いた。

一人分だけ空いている席だった。

隣の客との間には、鞄を置けるほどの余裕がある。壁には小さな花瓶が掛けられ、白い野花が一輪挿してあった。

「お荷物はこちらへ」

足元に籠を置かれ、佐和子は革鞄を入れた。

母の手帳をホテルに置いてきたことを、少し後悔した。

「お飲み物は?」

「温かいお茶をお願いします」

「はい」

女性は湯呑みに茶を注ぎ、佐和子の前へ置いた。

温かさが指先から掌へ広がった。

店の奥では、鍋の蓋が小さく震えている。包丁がまな板を叩く音。魚を焼く皮がはぜる音。客の笑い声の合間に、冷蔵庫の低い唸りが聞こえる。

ホテルの部屋では、空調の音しかなかった。

誰かが料理を作っている場所には、こんなに多くの音があるのだと、佐和子は思った。

「今日のお料理です」

女性が手書きの紙を差し出した。

刺身、焼き魚、煮つけ、蛸の酢の物、里芋の含め煮、だし巻き卵。

値段は、どれも思っていたほど高くなかった。

鯛の煮つけもあった。

佐和子はそこに目を止めた。

母が食べたかった料理。

それを注文するために来たのだと思っていた。

「何かお好きなもの、ありますか」

女性が尋ねた。

佐和子はメニューを見たまま答えた。

「母が、昔こちらへ来たことがあるらしくて」

「お母さまが?」

「来た、といっても、店には入らなかったようです」

女性は不思議そうに首を傾けた。

「二十年以上前です。出張でこの町に来て、鯛の煮つけを食べようと思ったけれど、一人では入りづらかったと、手帳に書いてありました」

言葉にすると、奇妙な話だった。

母が入れなかった店へ、娘が二十数年後に来た。

誰かに命じられたわけでもないのに。

女性は少し考えてから、店内を見回した。

「二十年以上前だと、まだ母が店に立っていた頃ですね」

「お母さまが?」

「私は二代目です。あの頃は、今よりもっと入りにくい店だったかもしれません。暖簾も黒くて、中も見えなくて。母は愛想がいい人でもなかったですから」

女性は申し訳なさそうに笑った。

「そうですか」

佐和子は、母のためらいが少しだけ現実のものになった気がした。

「では、鯛の煮つけにしますか」

そう聞かれ、佐和子はすぐに「はい」と答えようとした。

けれど、女性は続けた。

「それとも、今夜、ご自分が食べたいものにしますか」

佐和子は顔を上げた。

女性は急かさず、カウンターの向こうで待っていた。

今夜、何を食べたいか。

普段なら、冷蔵庫に何があるかで決める。正志が何を食べるかで決める。子どもが帰ってくるなら、好物を用意する。

自分が食べたいものを基準に献立を決めたのは、いつだっただろう。

「おすすめは、何ですか」

ようやく佐和子は尋ねた。

「今日は鯛もいいですが、鰆が入っています。味噌に漬けて焼いたものです。あとは、新玉葱と蛸の酢味噌和え」

鰆の味噌漬け。

佐和子は好きだった。

正志は味噌味の魚を甘すぎると言うので、家では作らなくなった料理だ。

「では、鰆をください」

口にした途端、胸の奥がわずかに動いた。

「それと、蛸の酢味噌和えも」

「はい」

女性が笑った。

「鯛の煮つけは、少しだけお出ししましょうか。お母さまの分というのも変ですから、味見ということで」

「いいんですか」

「小さな切り身が一つあります」

佐和子は迷い、うなずいた。

「お願いします」

最初に出てきたのは、蛸と新玉葱の酢味噌和えだった。

白い器に、薄切りの玉葱と赤紫色の蛸が盛られている。淡い黄色の酢味噌に、細く切った木の芽が散らされていた。

蛸は歯を押し返すほど弾力があり、玉葱は驚くほど甘かった。酢味噌の酸味が舌に広がったあと、遅れて味噌の甘さが残る。

佐和子はゆっくり噛んだ。

誰かの分を取り分ける必要はない。

食べる速度を合わせる必要もない。

自分の箸で、自分の皿から、自分が食べたい量だけ口へ運ぶ。

当たり前のことなのに、ひどく贅沢に感じた。

鰆の味噌漬けは、皮の端が香ばしく焦げていた。

箸を入れると、白い身が湯気とともにほどけた。味噌の甘みの奥に、わずかな酒の香りがある。

「おいしい」

声に出ていた。

女性がカウンターの向こうで笑った。

「ありがとうございます」

佐和子はもう一口食べた。

自分が鰆の味噌漬けを好きだったことを、まだ覚えていた。

好きなものは、食べなくなったからといって、嫌いになったわけではないらしい。

最後に、小さな器に入った鯛の煮つけが出された。

濃い色の煮汁に、針生姜が浮かんでいる。

佐和子は箸で身をほぐした。

柔らかく、ほろりと骨から外れた。

母が食べたかった味と同じかどうかは分からない。

二十数年前とは、店を切り盛りする人も、使っている器も、味つけも変わっているかもしれない。

母の代わりに食べることなど、できないのだ。

佐和子が口にしているのは、母が諦めた鯛ではない。

今日、自分が注文した鯛だった。

そのことに気づくと、不思議と寂しさはなかった。

母は母で、知らない町を歩き、店の前で迷い、パンを買ってホテルへ戻った。

佐和子の知らない夜を、いくつも過ごしていた。

母である前に、一人の女性として。

「お母さまも、入ってくださればよかったですね」

女性が言った。

佐和子は鯛を飲み込み、少し考えた。

「そうですね」

それから、首を横に振った。

「でも、入れなかった夜も、母のものだったんだと思います」

女性は何も言わず、温かいお茶を注ぎ足した。

会計を済ませ、店を出ると、夜の空気は冷たかった。

腹の中には、鰆と蛸と鯛の温かさが残っている。

ホテルへ向かう道で、佐和子は深町の顔を思い出した。

自分の責任ではないことまで引き受けようとしていた、あの顔。

声を上げなかったのは私です。

深町はそう言った。

母も、自分も、何かを欲しいと言わず、必要なことを言わず、黙ることで周囲を守ろうとしてきた。

だが、黙っていれば、なかったことになるわけではない。

異音は消えない。

削れた金属も、元には戻らない。

ホテルの部屋に戻ると、佐和子は机の上の手帳を開いた。

北浜のページを見つめる。

〈店の前まで行ったが、一人では入れなかった〉

その下には、まだ余白があった。

佐和子はペンを取った。

けれど、何も書かなかった。

ここは母の手帳だ。

自分の夜を書く場所は、別に作ればいい。

佐和子は会社のノートを開き、新しいページの上に日付を書いた。

その下に、まず一行だけ記した。

〈攪拌機の異音について、保全担当者への聞き取りが必要〉

続けて、もう一行書いた。

〈深町個人の確認不足として処理しない〉

ペン先に迷いはなかった。

窓の外では、駅前の店が一つずつ明かりを消していく。

佐和子は鰆の焦げた味噌の香りを思い出しながら、明日の質問を書き始めた。