北浜駅に着いたのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。
改札を出ると、潮の匂いがした。
海は駅から見えなかったが、風の中に塩気が混じっている。駅前には古い商店街が伸び、平日の朝だというのに、半分ほどの店がまだシャッターを下ろしていた。
佐和子は革鞄の中にある母の手帳を意識しながら、迎えの車を待った。
「小暮さんですか」
声をかけてきたのは、紺色の作業着を着た若い女性だった。
髪は後ろでひとつに束ねられ、胸元の名札には〈品質管理 深町美緒〉とある。
「北浜工場の深町です。遠いところ、ありがとうございます」
深町は深く頭を下げた。
三十四歳と聞いていたが、目の下には濃い影があり、実際の年齢より疲れて見えた。
「よろしくお願いします」
「お荷物、お持ちします」
「大丈夫です」
佐和子が断っても、深町は一度伸ばした手をすぐには戻さなかった。
誰かに何かをしていなければ落ち着かない人なのだろう。
その感じを、佐和子は知っていた。
工場までは車で十五分ほどだった。
道の片側には低い住宅が並び、反対側には倉庫や水産加工場が続いている。古い建物が多く、壁に錆が浮いていた。
「この工場は、何年になりますか」
「建ってから四十二年です。増築を繰り返しているので、場所によって設備の年代が違います」
深町は前を向いたまま答えた。
「異物が見つかった製造ラインは?」
「第二ラインです。攪拌機は二十六年前のものです。ただ、毎年点検はしています」
二十六年。
榊原からは聞いていない数字だった。
「部品の交換記録を見せてもらえますか」
「はい」
深町の返事は早かった。
だが、ハンドルを握る指に力が入ったのを、佐和子は見逃さなかった。
工場では、すでに製造が止められていた。
白衣に着替え、帽子とマスクを着け、エアシャワーを通る。機械音のない製造室は、普段より広く感じられた。
問題の攪拌機は、部屋の中央にあった。
大きな円筒形の容器に、銀色の蓋が取り付けられている。外側は磨かれていたが、継ぎ目の周辺には細かな傷があった。
佐和子は手袋をした指で、ゆっくり蓋の周囲をなぞった。
「金属片は、どの工程で発見されたんですか」
「購入者からの連絡です。工場内の金属検出機では反応しませんでした」
「大きさが小さかったから?」
「おそらく」
深町は書類を抱えたまま、攪拌機を見つめていた。
「目視確認を担当したのは」
「私です」
佐和子は顔を上げた。
深町は逃げずに視線を受け止めた。
「充填前のサンプル確認も、最終確認も私がしました。異常には気づきませんでした」
「一人で?」
「その日は一人でした。もう一人の担当者が発熱で休んでいて」
「代わりは出さなかったんですか」
深町は答えなかった。
代わりを出さなかったのではない。出せなかったのだろう。
人員が削られ、誰かが休んでも補充されず、残った者が仕事を抱える。佐和子のいる本社でも同じだった。
「見落とした可能性はあると思います」
深町が言った。
「でも、見落としだけで終わらせてはいけないとも思っています」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「どういうことですか」
深町は辺りを確かめてから、攪拌機の下部を指した。
「先月から、回転時に音がするようになりました」
「音?」
「金属が擦れるような音です。保全担当には報告しました。でも、停止して分解点検するには、最低でも二日かかると言われて」
「点検しなかった?」
「外側から確認して、問題なしという判断でした」
「記録はありますか」
深町は唇を結んだ。
「正式な記録はありません」
製造室の冷気が、白衣の隙間から入り込んだ。
「なぜですか」
「保全担当から、様子を見てほしいと言われました。私も、そのときは納得しました。生産予定が詰まっていましたし」
深町の手の中で、書類の端が折れていた。
「その判断をしたのは、あなたですか」
「いいえ。でも、止めるべきだと強く言わなかったのは私です」
責任を引き受けようとしている。
佐和子はそう思った。
自分の責任ではない、と言いたいのではない。自分が我慢すれば収まると考えている顔だった。
若い頃の自分と、よく似ていた。
「交換記録と点検記録を、過去三年分見せてください」
「はい」
「それから、音が出た日の製造記録も」
深町はうなずいた。
その表情に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
昼食は工場の会議室で取った。
用意されていたのは、コンビニのおにぎり二つとペットボトルのお茶だった。
「すみません。食堂が休みで」
「これで十分です」
佐和子は梅のおにぎりを開けた。
深町は向かいの席に座り、鮭のおにぎりを手にしていたが、なかなか口をつけなかった。
「食べないんですか」
「あとで」
「冷たくなりますよ」
言ってから、おにぎりはすでに冷たいことに気づいた。
深町は少し笑い、包装を開けた。
「小暮さんは、出張が多いんですか」
「昔は。泊まりは二十年ぶりです」
「二十年?」
「結婚して、子どもができて、母のこともあったので」
口にしてみると、二十年という時間が急に重くなった。
出張に行けなかったのではない。
行かないようにしていたのだ。
頼まれれば断り、誰かに代わってもらい、それを当然だと思ってきた。
「深町さんは?」
「年に何度か本社へ行きます。でも日帰りです」
「泊まりは?」
「ないです。子どもがいるので」
「何歳ですか」
「七歳と四歳です」
「大変ですね」
佐和子が言うと、深町は反射的に首を振った。
「いえ。主人も協力してくれるので」
それ以上は聞かなかった。
協力してくれる、という言葉の中に、何が含まれているのかは分からない。
夕方まで記録を確認したが、異物の発生源を特定できる資料はなかった。
ただし、攪拌機の点検欄には、同じ担当者の印が並んでいた。異音が報告された日の欄だけ、空白だった。
「明日、保全担当者にも話を聞きます」
佐和子が言うと、工場長は露骨に嫌な顔をした。
「そこまで必要ですか。深町の確認漏れで説明はつくでしょう」
「説明がつくことと、原因が分かることは別です」
会議室が静かになった。
深町は下を向いていた。
佐和子は自分の声が、普段より少し硬いことに気づいた。
ホテルへ入ったのは、午後七時前だった。
部屋は狭く、窓から駅前のロータリーが見えた。佐和子は上着を脱ぎ、ベッドの端に腰を下ろした。
スマートフォンには、正志からメッセージが届いていた。
〈鮭はグリル何分?〉
佐和子は〈片面四分くらい。様子を見て〉と返信した。
すぐに既読がついた。
仕事はどうだったか。
無事に着いたか。
そういう言葉はなかった。
鞄を開けると、母の手帳が資料の間に挟まっていた。
佐和子は机の上に置き、しばらく眺めた。
読む必要はない。
明日の聞き取り内容を整理し、報告書の下書きを作らなければならない。
それでも、手帳を開いた。
〈仙台。牡蠣鍋。値段を見てやめた。佐和子の冬靴が買える〉
佐和子は、その冬のことを思い出した。
小学六年生だった。
白い編み上げのブーツを欲しがり、母に何度も頼んだ。母は高いと言いながらも、誕生日に買ってくれた。
うれしくて、雪の中をわざと遠回りして歩いた。
母が何かを食べずに、その靴を買ったのだとは知らなかった。
次のページには、金沢とあった。
〈のどぐろ。店に女性客がいない。前を三度通ったが入れず〉
名古屋。
〈味噌煮込みうどん。家で待つ人を思うと、自分だけ温かいものを食べる気になれない〉
佐和子はページから目を離した。
母は昔から、家族のために何でも決める人だった。
献立も、旅行先も、佐和子の進学先も。
強くて、迷わない人だと思っていた。
その母が、知らない町で店の前を三度も通り過ぎていた。
一人で食べることを、ためらっていた。
佐和子は自分の今日一日を振り返った。
朝食を抜き、昼はおにぎりを食べ、夕食のことをまだ考えていない。
正志のためには三日分の食事を用意したのに、自分の分は何も決めていなかった。
手帳の最後に、北浜のページがある。
〈十月十二日。小料理屋「灯」。名物は鯛の煮つけ〉
〈店の前まで行ったが、一人では入れなかった〉
窓の外では、店の明かりが一つずつ灯り始めていた。
佐和子はスマートフォンで地図を開いた。
小料理屋「灯」まで、徒歩十分。
営業時間は午後十時まで。
行く理由はない。
母が食べられなかったものを、娘が代わりに食べても、何かが変わるわけではない。
それに、知らない店へ一人で入るのは落ち着かない。
佐和子は手帳を閉じ、仕事の資料を開いた。
けれど、攪拌機の点検記録を読んでいても、頭に入ってこなかった。
机の端で、母の手帳が黙っている。
まるで、まだ店の前に立っているようだった。
改札を出ると、潮の匂いがした。
海は駅から見えなかったが、風の中に塩気が混じっている。駅前には古い商店街が伸び、平日の朝だというのに、半分ほどの店がまだシャッターを下ろしていた。
佐和子は革鞄の中にある母の手帳を意識しながら、迎えの車を待った。
「小暮さんですか」
声をかけてきたのは、紺色の作業着を着た若い女性だった。
髪は後ろでひとつに束ねられ、胸元の名札には〈品質管理 深町美緒〉とある。
「北浜工場の深町です。遠いところ、ありがとうございます」
深町は深く頭を下げた。
三十四歳と聞いていたが、目の下には濃い影があり、実際の年齢より疲れて見えた。
「よろしくお願いします」
「お荷物、お持ちします」
「大丈夫です」
佐和子が断っても、深町は一度伸ばした手をすぐには戻さなかった。
誰かに何かをしていなければ落ち着かない人なのだろう。
その感じを、佐和子は知っていた。
工場までは車で十五分ほどだった。
道の片側には低い住宅が並び、反対側には倉庫や水産加工場が続いている。古い建物が多く、壁に錆が浮いていた。
「この工場は、何年になりますか」
「建ってから四十二年です。増築を繰り返しているので、場所によって設備の年代が違います」
深町は前を向いたまま答えた。
「異物が見つかった製造ラインは?」
「第二ラインです。攪拌機は二十六年前のものです。ただ、毎年点検はしています」
二十六年。
榊原からは聞いていない数字だった。
「部品の交換記録を見せてもらえますか」
「はい」
深町の返事は早かった。
だが、ハンドルを握る指に力が入ったのを、佐和子は見逃さなかった。
工場では、すでに製造が止められていた。
白衣に着替え、帽子とマスクを着け、エアシャワーを通る。機械音のない製造室は、普段より広く感じられた。
問題の攪拌機は、部屋の中央にあった。
大きな円筒形の容器に、銀色の蓋が取り付けられている。外側は磨かれていたが、継ぎ目の周辺には細かな傷があった。
佐和子は手袋をした指で、ゆっくり蓋の周囲をなぞった。
「金属片は、どの工程で発見されたんですか」
「購入者からの連絡です。工場内の金属検出機では反応しませんでした」
「大きさが小さかったから?」
「おそらく」
深町は書類を抱えたまま、攪拌機を見つめていた。
「目視確認を担当したのは」
「私です」
佐和子は顔を上げた。
深町は逃げずに視線を受け止めた。
「充填前のサンプル確認も、最終確認も私がしました。異常には気づきませんでした」
「一人で?」
「その日は一人でした。もう一人の担当者が発熱で休んでいて」
「代わりは出さなかったんですか」
深町は答えなかった。
代わりを出さなかったのではない。出せなかったのだろう。
人員が削られ、誰かが休んでも補充されず、残った者が仕事を抱える。佐和子のいる本社でも同じだった。
「見落とした可能性はあると思います」
深町が言った。
「でも、見落としだけで終わらせてはいけないとも思っています」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「どういうことですか」
深町は辺りを確かめてから、攪拌機の下部を指した。
「先月から、回転時に音がするようになりました」
「音?」
「金属が擦れるような音です。保全担当には報告しました。でも、停止して分解点検するには、最低でも二日かかると言われて」
「点検しなかった?」
「外側から確認して、問題なしという判断でした」
「記録はありますか」
深町は唇を結んだ。
「正式な記録はありません」
製造室の冷気が、白衣の隙間から入り込んだ。
「なぜですか」
「保全担当から、様子を見てほしいと言われました。私も、そのときは納得しました。生産予定が詰まっていましたし」
深町の手の中で、書類の端が折れていた。
「その判断をしたのは、あなたですか」
「いいえ。でも、止めるべきだと強く言わなかったのは私です」
責任を引き受けようとしている。
佐和子はそう思った。
自分の責任ではない、と言いたいのではない。自分が我慢すれば収まると考えている顔だった。
若い頃の自分と、よく似ていた。
「交換記録と点検記録を、過去三年分見せてください」
「はい」
「それから、音が出た日の製造記録も」
深町はうなずいた。
その表情に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
昼食は工場の会議室で取った。
用意されていたのは、コンビニのおにぎり二つとペットボトルのお茶だった。
「すみません。食堂が休みで」
「これで十分です」
佐和子は梅のおにぎりを開けた。
深町は向かいの席に座り、鮭のおにぎりを手にしていたが、なかなか口をつけなかった。
「食べないんですか」
「あとで」
「冷たくなりますよ」
言ってから、おにぎりはすでに冷たいことに気づいた。
深町は少し笑い、包装を開けた。
「小暮さんは、出張が多いんですか」
「昔は。泊まりは二十年ぶりです」
「二十年?」
「結婚して、子どもができて、母のこともあったので」
口にしてみると、二十年という時間が急に重くなった。
出張に行けなかったのではない。
行かないようにしていたのだ。
頼まれれば断り、誰かに代わってもらい、それを当然だと思ってきた。
「深町さんは?」
「年に何度か本社へ行きます。でも日帰りです」
「泊まりは?」
「ないです。子どもがいるので」
「何歳ですか」
「七歳と四歳です」
「大変ですね」
佐和子が言うと、深町は反射的に首を振った。
「いえ。主人も協力してくれるので」
それ以上は聞かなかった。
協力してくれる、という言葉の中に、何が含まれているのかは分からない。
夕方まで記録を確認したが、異物の発生源を特定できる資料はなかった。
ただし、攪拌機の点検欄には、同じ担当者の印が並んでいた。異音が報告された日の欄だけ、空白だった。
「明日、保全担当者にも話を聞きます」
佐和子が言うと、工場長は露骨に嫌な顔をした。
「そこまで必要ですか。深町の確認漏れで説明はつくでしょう」
「説明がつくことと、原因が分かることは別です」
会議室が静かになった。
深町は下を向いていた。
佐和子は自分の声が、普段より少し硬いことに気づいた。
ホテルへ入ったのは、午後七時前だった。
部屋は狭く、窓から駅前のロータリーが見えた。佐和子は上着を脱ぎ、ベッドの端に腰を下ろした。
スマートフォンには、正志からメッセージが届いていた。
〈鮭はグリル何分?〉
佐和子は〈片面四分くらい。様子を見て〉と返信した。
すぐに既読がついた。
仕事はどうだったか。
無事に着いたか。
そういう言葉はなかった。
鞄を開けると、母の手帳が資料の間に挟まっていた。
佐和子は机の上に置き、しばらく眺めた。
読む必要はない。
明日の聞き取り内容を整理し、報告書の下書きを作らなければならない。
それでも、手帳を開いた。
〈仙台。牡蠣鍋。値段を見てやめた。佐和子の冬靴が買える〉
佐和子は、その冬のことを思い出した。
小学六年生だった。
白い編み上げのブーツを欲しがり、母に何度も頼んだ。母は高いと言いながらも、誕生日に買ってくれた。
うれしくて、雪の中をわざと遠回りして歩いた。
母が何かを食べずに、その靴を買ったのだとは知らなかった。
次のページには、金沢とあった。
〈のどぐろ。店に女性客がいない。前を三度通ったが入れず〉
名古屋。
〈味噌煮込みうどん。家で待つ人を思うと、自分だけ温かいものを食べる気になれない〉
佐和子はページから目を離した。
母は昔から、家族のために何でも決める人だった。
献立も、旅行先も、佐和子の進学先も。
強くて、迷わない人だと思っていた。
その母が、知らない町で店の前を三度も通り過ぎていた。
一人で食べることを、ためらっていた。
佐和子は自分の今日一日を振り返った。
朝食を抜き、昼はおにぎりを食べ、夕食のことをまだ考えていない。
正志のためには三日分の食事を用意したのに、自分の分は何も決めていなかった。
手帳の最後に、北浜のページがある。
〈十月十二日。小料理屋「灯」。名物は鯛の煮つけ〉
〈店の前まで行ったが、一人では入れなかった〉
窓の外では、店の明かりが一つずつ灯り始めていた。
佐和子はスマートフォンで地図を開いた。
小料理屋「灯」まで、徒歩十分。
営業時間は午後十時まで。
行く理由はない。
母が食べられなかったものを、娘が代わりに食べても、何かが変わるわけではない。
それに、知らない店へ一人で入るのは落ち着かない。
佐和子は手帳を閉じ、仕事の資料を開いた。
けれど、攪拌機の点検記録を読んでいても、頭に入ってこなかった。
机の端で、母の手帳が黙っている。
まるで、まだ店の前に立っているようだった。



