母の出張ノートには、食べなかったものばかり書いてある

「小暮さん、明日から北浜工場へ行ってもらえませんか」

月曜の朝、品質管理部長の榊原にそう言われたとき、小暮佐和子は、まず冷蔵庫の中身を思い浮かべた。

塩鮭が二切れ。豚こま肉が三百グラム。昨日作ったひじきの煮物。冷凍庫には餃子が一袋ある。

三日なら、どうにかなる。

仕事の心配より先に夫の夕食を考えたことに気づき、佐和子は机の下で指を握った。

「北浜工場で製造したレトルトスープから、金属片が出た」

榊原は声を落とし、会議室の机に一枚の写真を置いた。

透明な袋の中に、銀色の欠片が入っている。長さは五ミリほど。細く湾曲していて、魚の骨にも見えた。

だが、食品工場に三十七年勤めた佐和子には、それが機械の一部だとすぐに分かった。

「購入者に怪我は?」

「ない。口に入れる前に気づいたそうだ。今のところ申告は一件だけ」

今のところ。

品質管理の仕事では、その言葉がいちばん信用できない。

一件しかないのではない。まだ一件しか見つかっていない可能性がある。

「同じ製造日の商品は?」

「出荷済みが二千四百個。工場側では、充填前の目視確認で見落としたんじゃないかと言っている」

「言っている、ということは、原因は確定していないんですね」

榊原は写真から目をそらした。

「現地の担当者が若くてね。少し混乱しているらしい。小暮さんに見てもらえれば、話も早い」

佐和子は写真を指先で引き寄せた。欠片の片側に、薄い擦過痕がある。何かに繰り返し当たって削れた跡だ。

単純な見落としとは思えなかった。

「明日の始発で行きます」

答えると、榊原は安心したように椅子の背へ体を預けた。

「助かるよ。宿は駅前に取らせる。二泊の予定で」

「二泊ですか」

思わず聞き返した。

出張そのものが嫌なわけではない。若い頃は、月に二度ほど地方工場を回っていた。結婚し、子どもが生まれ、母の介護が始まってから、泊まりの仕事を避けるようになった。

最後に出張したのは、二十年前だった。

「何か都合が悪い?」

「いいえ。大丈夫です」

即座に答えた。

六十二歳にもなって、夫の夕食を理由に出張を断るわけにはいかない。

会議室を出ようとすると、榊原が呼び止めた。

「小暮さん」

振り返ると、彼は先ほどよりもさらに声を低くした。

「北浜工場は、今期の閉鎖候補に入っている」

佐和子はドアノブに手をかけたまま、動きを止めた。

「今回の件が設備の問題となると、大がかりな更新が必要になるかもしれない。会社としては、あまり話を大きくしたくないんだ」

「事実を確認してきます」

「もちろん。事実確認は必要だ。ただ、現場の確認不足で説明できるなら、それがいちばん傷が浅い」

榊原は穏やかな口調で言った。

命令ではない。だからこそ厄介だった。

佐和子は返事をせず、会議室を出た。

その日の夕方、夫に出張を伝えると、最初に返ってきたのは、やはり夕食の話だった。

「二晩も? 俺、何を食べればいいんだ」

テレビから目を離さないまま、正志は言った。

「冷蔵庫に用意しておくから」

答えてから、佐和子は一瞬だけ待った。

大変だな。気をつけて。どこへ行くんだ。

どれか一つくらい続くかと思ったが、正志は野球中継に見入ったままだった。

「火曜は鮭を焼いて。水曜は豚肉とキャベツを炒めればいいように切っておく。ひじきは小鉢に分けておくから」

「炒めるって、何分くらい?」

「肉の色が変わるまで」

「味つけは?」

「タレも作っておく」

正志はようやくこちらを見て、うなずいた。

「じゃあ、それなら大丈夫だな」

何が大丈夫なのか、佐和子には分からなかった。

食事を用意してもらえる正志が大丈夫なのか。二十年ぶりに一人で遠方へ向かう佐和子が大丈夫なのか。

結局その夜、佐和子は十一時まで台所に立った。

鮭には塩を振り、豚肉と野菜は一回分ずつ保存袋へ入れた。味噌汁の具を切り、朝食用のゆで卵まで作った。

翌朝、正志は玄関でスリッパを履いたまま言った。

「土産は何でもいいぞ」

「分かった」

「駅弁、買えるなら買ってきてくれ。あっちの牛肉のやつ、有名だろ」

佐和子が何を食べるのかは、聞かなかった。

まだ暗さの残る駅へ向かいながら、佐和子は自分の腹が空いていることに気づいた。

朝食は食べていない。正志のコーヒーを淹れ、ゴミをまとめ、冷蔵庫の付箋を確認しているうちに時間がなくなった。

新幹線の売店でサンドイッチを手に取ったが、値札を見て棚へ戻した。家からおにぎりを持ってくればよかったと思った。

窓側の席に座り、発車を待つ。

鞄から工場の資料を取り出そうとして、佐和子は見覚えのない茶色い布の角に触れた。

引き出すと、古びた手帳が出てきた。

表紙には、薄くなった金色の文字で「出張記録」とある。

母のものだった。

先月、実家の遺品を整理したとき、捨てるか迷って自宅へ持ち帰った。普段使っていない革鞄に入れたまま、忘れていたらしい。

母が亡くなって三年になる。

佐和子の記憶の中の母は、いつも台所にいた。煮物の鍋をかき混ぜ、家族の帰宅時間を気にし、温かいものを温かいうちに食べさせることに執着していた。

けれど、結婚前の母が化粧品会社で働き、各地へ出張していたことを、佐和子は知っている。

詳しく聞いたことはなかった。

新幹線がゆっくりと動き出した。

佐和子は手帳を開いた。

日付と地名、訪問先の会社名が、几帳面な字で並んでいる。

仙台。新潟。金沢。名古屋。

仕事の記録に交じって、料理の名前が書かれていた。

牡蠣鍋。のどぐろ。味噌煮込みうどん。

母は出張先で、ずいぶんいろいろなものを食べていたのだと思った。

だが、次の行を読んで、佐和子は眉を寄せた。

〈店の前まで行ったが、値段を見てやめた〉

別のページには、

〈女一人では入りづらく、駅の売店でパンを買う〉

さらに、

〈家にいる佐和子たちを思うと、自分だけ食べる気になれなかった〉

これは、食べたものの記録ではなかった。

食べたかったのに、食べなかったものの記録だった。

ページをめくる指が止まる。

二十数年前の日付。その下に、今回の出張先と同じ地名があった。

北浜。

〈十月十二日。小料理屋「灯」。名物は鯛の煮つけ〉

その次の一行だけ、ほかより小さな字で書かれていた。

〈店の前まで行ったが、一人では入れなかった〉

佐和子はスマートフォンで店の名前を検索した。

同じ名前の店が一軒だけ表示された。

宿泊するホテルから、歩いて十分。

窓の外で、朝日に照らされた町が後ろへ流れていく。

佐和子は手帳を閉じた。

北浜へ着いたら、まず工場へ行く。金属片の発生源を調べ、製造記録を確認し、関係者から話を聞く。

それが仕事だ。

小料理屋へ行く理由など、どこにもない。

それでも佐和子は、スマートフォンに表示された店の地図を消せずにいた。