眠り姫にはアラーム係の声しか届かない

 後輩くんは門の横にある駐輪場に行き、見慣れた青い自転車の鍵をカチャリと回す。僕はそれを少し離れた場所でぼーっと眺めていた。
「先輩?」
「あ、うん。どうしたの後輩くん」
「なんだかぼーっとしてたので。行きましょうか」
「うん」
 いつの間にか自転車を押した後輩くんが横に並んでいた。特に話すこともなく、カラカラとタイヤが回る音だけをBGMに僕たちは門を出た。

 道なりに並ぶ木々の隙間から照りつける太陽が眩しくて、キュッと目を細める。
「明日から夏休みですね」
 隣から突然聞こえてきた声に思わず後輩くんの顔を見るが、彼は依然として真っ直ぐ前を見つめていた。僕はなんとなくその横顔を見つめて、すぐに後輩くんと同じように前を向いた。

「そうだね。後輩くんはどこか行ったりするの?」
「祖母の家くらいですかね。先輩は?」
「僕もそんな感じ。特に予定はないね」
「一緒ですね」
「一緒だね〜」

 会話が途切れ、また無言になる。
 いつもは後輩くんと一緒なら無言でも心地良いのに、今日ばかりはそうじゃなかった。
 夏休みの話になって先程の出来事を、女の子達に囲まれていた後輩くんを思い出してしまったから。
 無意識にグッと唇を噛みしめる。
 
 ——あの子達と遊ぶの?とは聞けなかった。
 それで「はい」って言われたら、僕はきっとさっきみたいにモヤモヤしてしまうから。

 どうしようもなくムカムカして、真っ黒になった心がギューッと絞った雑巾みたいにグシャグシャになって、カラカラに乾いちゃうんだ。
 だから、聞かなかった――聞けなかった。


 学校から近い僕の家は、ゆっくり歩いてもすぐに着いてしまう。
 一軒家である我が家の玄関の前には、簡易的な門がある。それをガラッと開いて、後輩くんの方を振り返った。

「……じゃあ、またね。後輩くん」
「先輩、ちょっと待ってください」
「えっ?」

 バイバイと右手を振ると、それを後輩くんの大きな左手でギュッと握られる。僕の指の間に後輩くんの指が入り込む。まあ俗にいう恋人繋ぎ——というやつだ。
 後輩くんは右手だけで自転車を支え、左手で僕の手を握っていた。
 急なことに驚いて後輩くんの顔と手を交互に見ていると、手にギュッと力を込められる。

「先輩、なにか俺に言いたいことあるんじゃないですか?」
「言いたい、こと?」
「はい。先輩、門で会ったときからずっと暗い顔してるから」 

 思わず俯いた。バレていたのだ、全部。
「先輩、何があったのか俺に教えてくれますか?」
「……なんにもない」
「何かあったから、あんな顔で腕を引っ張ったんでしょう?」
「なんにもない、からっ……」
「先輩」
 するりと優しく親指を撫でられる。
 その瞬間、僕の心の中のダムが壊れた音がした。
 必死に抑え込んでいた黒いモヤモヤが、奥底からブワッと溢れ出す。

「——ぶの?」
「はい?」
「あの子達と、夏休み遊ぶの……?」

 気がつけば、口からするっと言葉が飛び出していた。
 後輩くんの目が大きく見開かれる。
 その顔を見て、僕はそっと目を伏せた。
 
 ——ああ、だから嫌だったんだ。
 僕はあくまで後輩くんの『先輩』でしかないのに。
 後輩くんが夏休み誰とどう遊ぼうが、後輩くんの自由だというのに。 
 ただの先輩が気にすることではないというのに。
 きっと後輩くんを困惑させるだろう。
 そしてなにより、
(後輩くんが他の人と一緒にいるのを想像して嫌な気持ちになった自分が、嫌だ……)
 
 後輩くんは何も言わなかった。
 無言になった後輩くんが怖くて、顔が見れない。

(やっぱり、言わなければよかった)
 もう帰ろう、一旦冷静になりたい。

「あー……。変なこと言ってごめんね」
 玄関に入るために手を離そうとしたその時、さっきよりも強い力で手を握られ、グンッと後輩くんの方へ引っ張られる。
「うわっ!?」
 驚いて、伏せていた瞼を上げてしまった。
 後輩くんとバッチリと目が合う。そして、今度は僕が驚いて目を見開く番だった。

 ――後輩くんが笑っているのだ。
 それも、心底嬉しそうに目を細めて、頬を赤らめ緩めて。

「あの、後輩くん?」
「先輩、俺があの人たちと遊ぶのか気になって、ずっと暗い顔してたんですか?」
「うっ……」
 こう、本人から言われるとくだらなすぎて恥ずかしくなってしまう。でも違うとも言えなくて、無言で小さく頷いた。後輩くんがクスクスと笑う。
 
「先輩、俺、遊びませんよ。あの人達と」
 夏休みの予定は祖母の家くらいって言ったじゃないですかと、後輩くんにしては少し弾んだ声で言う。
「いやでも、これから予定組むのかもしれないし……」
「誰とも連絡先交換してなかったでしょ? そういうことですよ」
「そっか、そっかぁ……」
 後輩くんの言葉がストンと心の中に落ちて、モヤモヤが今度こそ完全に消えた。嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。

「それにしても、まさか先輩が……」
「ん? なんか言った?」
「いいえ、なにも」
「……そう?」
 絶対何か呟いたと思うのだが、後輩くんは本当に言うつもりがないようで口を閉じニコリと笑っている。まあ僕も無理に聞きたいわけではないのでわざわざ深掘りはしないが。少し気になっただけで……。

「先輩、言い残したのはこれだけですか?」
 後輩くんの手がスッと離れていく。
「言い残したって……なんか、お別れみたいじゃん」
「これから一ヶ月半以上会えないじゃないですか、ほぼお別れみたいなものです。それで、言い残したことはないんですか?」
「えっと……。もう一個だけ、いい?」
「もちろん」

 そう、この機を逃したら一ヶ月半以上会えないのだ。
 逆に、一ヶ月半もあれば僕が何を言っても次に会う頃には後輩くんが忘れている可能性も大いにある。
 なら、言いたいことを言ってしまったほうが、スッキリとした気分で夏休みを向かえれるんじゃないか?

 口を開いて、閉じる。
 (いざ言おうとすると、なんか恥ずかしいかも)
 いつもサラリと言っている言葉なのに、意識してしまうとなんだか無性に恥ずかしくなってきた。
「先輩?」
 後輩くんが不思議そうにこちらを見つめる。
 僕は覚悟を決めて、一気に言葉を紡いだ。

「始業式、ちゃんと僕を起こしに来て」
「っ……」
「後輩くんがいないと、起きれないから……」
「わかってます。……ちゃんと、起こしに行きます」
「約束ね」
「はい、約束です」

 どちらからともなく小指を絡める。
 『指切りげんまん』なんて、幼稚園ぶりに歌った。
「「指きった」」
 その言葉とともにそっと小指が離れていく。

「それじゃ、帰ります」
「うん」
「また始業式に」
「うん、バイバイ」
 自転車に乗ってどんどん遠くになっていく後輩くんを、見えなくなるまで見送った。

◇
 
 寝て起きてまた寝て、ちょっぴり受験勉強をして。
 ゴロゴロまったりと過ごしていたら、あっという間に始業式の日になっていた。

「先輩」
「ん……」
 優しい声とともに、トントンと肩を叩かれる。
 目を開けると、真顔の後輩くんが僕のことを見下ろしていた。約一カ月ぶりの光景に、懐かしさと安心でクスリと笑ってしまう。僕につられてか、後輩くんの目尻も緩やかに下がる。
 

「先輩、おはようございます。ちゃんと起こしに来ました」
「うん、おはよう後輩くん。待ってたよ」

 背中に回る大きな手に支えられて、ゆっくりと身体を起こした。