眠り姫にはアラーム係の声しか届かない

「そういえば後輩くん、なんで教室いたの?」
 貸してもらったハンカチでゴシゴシと顔を拭きながら聞くと、後輩くんは「ああ」と今思い出したように話しだした。

「先輩が授業中寝ちゃったらしくて、『俺らだと何しても起きないから、アラーム係くん頼んだ!』って先輩のクラスの人が俺の教室まで頼みに来たんですよ」
「へぇ〜……」

 うん、確かにさっきの授業中もの凄く眠かったことを思い出した。かなり頑張って我慢していたつもりなのだが、結局眠ってしまったのか。
 
「それはそれは……お手数をおかけしました」
 中々にご迷惑をかけてたようなので、ペコリとお辞儀をしてお礼をする。

「いえ、先輩を起こせるのは俺だけなので、いつでも呼んでもらって構わないです。……というか、先輩が別の人に起こされる方が——嫌だ」

 上から降ってきた聞いたこともないくらい低いその声に、思わず顔を上げた。
 その瞬間、ガッと強く肩を掴まれる。後輩くんの顔がグンと近くなった。
 
「先輩を起こせるのも、寝起きのポヤポヤした可愛い先輩を見れるのも、俺だけの特権なんです」
「……ポヤポヤ?」
「先輩は普段からポヤポヤしてて可愛いですけど、寝起きの先輩は更にポヤポヤしてて本当に可愛いんです。他の誰にも見せたくない。それを、あんな、教室のド真ん中でっ……!」
 
 「何人か先輩のこと『可愛い』って言ってましたよ」と真顔でブツブツと呟く後輩くんの後ろからは、ドス黒いモヤが見える。
 眉は未だに中央に寄っているし、目元も冷ややかに細められている。子供が見たら一瞬で泣いて逃げてしまいそうだ。

 後輩くんがものすごく不機嫌なのはよくわかった。 
 でも、僕には唇を尖らせてムスッと拗ねているようにしか見えなくて。普段僕なんかよりもしっかりしている後輩くんがなんだかちゃんと年下らしくて、無性に可愛く思えた。
 僕はちょっと背伸びをして、後輩くんの頬をぎゅっと両手で挟んだ。
「しぇんぱい?」
 虚を突かれたように、細められていた目がまん丸に見開かれる。その変わりようが面白くて、ふふっと笑ってしまった。
 
「そんなに不機嫌にならなくてもさ、僕をあんなに一瞬で起こせるのは後輩くんだけだから。安心してよ」
「……不機嫌じゃないれふ」
「どの口が」
 むにーっと横に引っ張ると「痛いれひゅ」と言われたのでパッと手を離した。
「はい、これでお互い様ね」
 後輩くんは一瞬考え込んだあと、僕の言いたいことがわかったのか僕の手首に目線を落とした。
「はい。……ありがとうございます、先輩」
「なんでお礼を言われてるのかわからけど、いいよ」
 お互い様って言ってるんだからわざわざお礼なんか言わなくていいのに、ほんと真面目で律儀な子だ。
 
 僕は頷き、そのまま自分のポケットからハンカチを取り出して「はい」と渡した。
「これは?」
「僕に貸したから後輩くんのハンカチなくなっちゃったでしょ? これ、僕のハンカチ。今日まだ使ってないから綺麗だよ」
 後輩くんはおずおずと受け取り「ありがとうございます」と笑った。後輩くんがポケットに僕のハンカチを丁寧にしまっているのを見ていたら、後輩くんの先程の発言を思い出してしまった。

「ねぇ、そういえばさ」
「なんです?」
 ハンカチを仕舞い終わった後輩くんが不思議そうに顔を上げる。
「『ポヤポヤ』ってなに? 僕そんなにぼーっとしてる?」
 ボーッとしてるとか、何考えてるか分からないとか、ずっと眠そうとかは言われたことあるけど『ポヤポヤ』は初めて言われた。なに、ポヤポヤって……。

 後輩くんはぶはっと吹き出したあと、
「いや、なんていうか……ポヤポヤしてるんですよ」
 と、目尻を下げ柔らかく笑った。

「だから、ポヤポヤってなに? どんな感じ?」
「そういう感じです」
「わかんないよ!」
 僕が思わずいつもより大きめな声でツッコむと、後輩くんは遂に声を出して笑い出した。
 (普段真顔の後輩くんが、珍しい……)
 後輩くんにつられて僕もつい笑ってしまった。
 ポヤポヤの意味は結局わからなかったが、珍しい後輩くんが見れたことだし、まあよしとしよう。機嫌も直ったみたいだし。
 
 ひとしきり笑ったあと、廊下に人がほとんど居ないことに気がついた。そろそろ休み時間が終わる頃だろう。
 僕は後輩くんの腰を掴み、階段の方向へクルッと反転させる。
「あ、ちょっ、先輩……!?」
「ほら、一年生の教室は下でしょ? 早く行かないと授業始まっちゃうよ」
 僕がトンっと背中を押すと、後輩くんはよろよろとおぼつかない足取りで歩き出した。かと思えば、すぐにパッと振り返って「先輩」と呼んでくる。
「どうしたの?」
「また明日の朝、起こしに行くんで」
 妙に真剣に、必死そうに言ってくる後輩くんについつい笑ってしまう。
 
 そんなに縋るような目をしなくても、
 (さっきも言ったように、僕を起こせるのは君だけだよ)
  
「ん、待ってる」
 僕がコクリと頷き返事をすると後輩くんは満足したのかふっと表情を緩めて、今度こそちゃんと一年生の教室に戻っていった。