眠り姫にはアラーム係の声しか届かない

「——せんぱい……先輩」
 もう聞き慣れてしまった穏やかな低い声が、ゆらゆらと水面のように揺れる僕の意識の中を真っ直ぐ通り抜けていった。
 
「ん、うーん。……あれ、こーはいくん?」

 背中を優しくトントンと叩く手のぬくもりを感じてゆるゆると顔を上げると、まだぼやける視界の中で後輩くんの顔が薄っすらと見えた。だんだん鮮明になっていくにつれ、その顔がなんだか不満そうに目元を細め、キュッと眉が顰められていることに気づく。
 
「こーはいく——」
「やっべぇ、マジですぐ起きるじゃん!」
「俺らがどんなに声掛けても、うんともすんとも言わなかったのにな」
「さすがは眠り姫のアラーム係!」

 キャッキャとした話し声に僕の声が遮られてしまう。周りを見渡すとクラスのほぼ全員がこちらを凝視し、なにやら大いに盛り上がっていた。
 (……ん? なんで皆いるの……?)
 てっきりいつもの様に朝家まで起こしに来てくれたと思ってたけれど、それならクラスメイトがいるのはおかしい。

 僕はボヤボヤとした目でもう一度周りを見渡す。
 こちらを見ているクラスメイト、沢山の机と椅子、ロッカーに教科書、緑の黒板——。
 それはどこからどう見ても、僕の通う学校の僕のクラスの教室で。
  
 そこでようやく、僕の寝ぼけた頭がここが家ではなく教室なんだと理解した。
 ——そうだ、僕は数時間前に後輩くんに起こしてもらって、ちゃんと遅刻せずに学校に来たんだ。
 (……んん? じゃあ逆に、なんで後輩くんが三年の教室にいるんだろう?)
 謎を一個解決した瞬間に、また新たな謎が出てきてしまった。
 
「ねぇねぇ後輩くん」
「……どうしましたか先輩」
「なんでいるの〜?」
「…………」
 目の前にあった後輩くんのシャツを右手でグーッと引っ張りながら問いかけると、後輩くんの眉は更にグーッと吊り上がっていく。
 周りをチラチラと見て一向に返事をしてくれない後輩くんに、だんだんムカムカとしてくる。
 
「ねぇねぇ、後輩くんってば」
「……ちゃんと聞こえてますよ」
「ならちゃんと返事してよ」
 グーッとシャツを引っ張り続けていると、後輩くんが「伸びます」と言って優しく僕の手をシャツから引き剥がしてくる。
 そして後輩くんの眉毛はそのまま戻ることなく、眉間にシワを寄せたまま「はぁ……」とそれはそれは大きなため息を吐いた。

「先輩、まだ眠そうなので顔洗いに行きましょうか」
「え? うん——うわぁっ!?」
 確かにまだ眠いし顔洗ってスッキリしよう、なんて思いながら返事をしてノロノロと席を立ったその瞬間、手首を強く捕まれ引っ張られる。
 ほぼ後輩くんに引きずられるようにして、僕は廊下にある手洗い場まで連れてこられた。
 
「後輩くん」
「…………」
「後輩くん、痛い」
「あ、す、すみません!」
 後輩くんが焦ったようにパッと手を離した。
 ハッと息を呑み手首を凝視する後輩くんに釣られるように目線を下げると、後輩くんに捕まれていた部分が赤くなっていた。
「せ、先輩、本当にすみませ——」
「いいよ、見た目ほど痛くないし」
「でも……」
 痛くないと言っているのに謝り続ける後輩くんの謝罪を耳で聞きつつ、僕は手洗い場の蛇口をひねった。
 両手で水をためて、パシャリと顔につける。ひんやりとしていて気持ちがいい。
 
「――ぷはぁっ。やっぱり顔洗うとスッキリするね〜」
「先輩、どうぞ。今日まだ使ってないんで」
「ん? 自分のあるよ?」
「その手のままポケットから出したらズボン濡れちゃうじゃないですか。いいから、使ってください」
 ポタポタと水を滴らせながら顔を上げると、後輩くんが自分のハンカチを渡してくれた。確かにこのままだとズボンが濡れてしまうので、悪いなと思いつつ有難く貸してもらった。
  
「そういえば後輩くん、なんで教室いたの?」
 貸してもらったハンカチでゴシゴシと顔を拭きながら聞くと、後輩くんは「ああ」と今思い出したように話しだした。

「先輩が授業中寝ちゃったらしくて、『俺らだと何しても起きないから、アラーム係くん頼んだ!』って先輩のクラスの人が俺の教室まで来て頼みに来たんですよ」
「へぇ〜……」

 うん、確かにさっきの授業中もの凄く眠かったことを思い出した。かなり頑張って我慢していたつもりなのだが、結局眠ってしまったのか。
 
「それはそれは……お手数をおかけしました」
 中々にご迷惑をかけてたようなので、ペコリとお辞儀をしてお礼をする。

「いえ、先輩を起こせるのは俺だけなので、いつでも呼んでもらって構わないです。……というか、先輩が別の人に起こされる方が——嫌だ」

 上から降ってきた聞いたこともないくらい低いその声に、思わず顔を上げた。
 その瞬間、ガッと強く肩を掴まれる。後輩くんの顔がグンと近くなった。
 
「先輩を起こせるのも、寝起きのポヤポヤした可愛い先輩を見れるのも、俺だけの特権なんです」
「……ポヤポヤ?」
「先輩は普段からポヤポヤしてて可愛いですけど、寝起きの先輩は更にポヤポヤしてて本当に可愛いんです。他の誰にも見せたくない。それを、あんな、教室のド真ん中で……」
 
 「何人か先輩のこと『可愛い』って言ってましたよ」と真顔でブツブツと呟く後輩くんの後ろからは、ドス黒いモヤが見える。
 眉は未だに中央に寄っているし、目元も冷ややかに細められている。子供が見たら一瞬で泣いて逃げてしまいそうだ。

 後輩くんがものすごく不機嫌なのはよくわかった。 
 でも、僕には唇を尖らせてムスッと拗ねているようにしか見えなくて。普段僕なんかよりもしっかりしている後輩くんが、なんだかちゃんと年下らしくて、無性に可愛く思えた。
 僕はちょっと背伸びをして、後輩くんの頬をぎゅっと両手で挟んだ。
「しぇんぱい?」
 虚を突かれたように、細められていた目がまん丸に見開かれる。その変わりようが面白くて、ふふっと笑ってしまった。
 
「そんなに不機嫌にならなくてもさ、僕をあんなに一瞬で起こせるのは後輩くんだけだから、安心してよ」
「……不機嫌じゃないれふ」
「どの口が」
 むにーっと横に引っ張ると「痛いです」と言われたのでパッと手を離した。
「はい、これでお互い様ね」
 後輩くんは一瞬考え込んだあと、僕の言いたいことがわかったのか僕の手首に目線を落とした。
「はい。……ありがとうございます、先輩」
「なんでお礼を言われてるのかわからけど、いいよ」
 お互い様って言ってるんだからわざわざお礼なんか言わなくていいのに、ほんと真面目で律儀な子だ。
 
 僕は頷き、そのまま自分のポケットからハンカチを取り出して「はい」と渡した。
「これは?」
「僕に貸したから後輩くんのハンカチなくなっちゃったでしょ? これ、僕のハンカチ。今日まだ使ってないから綺麗だよ」
 後輩くんはおずおずと受け取り「ありがとうございます」と笑った。

「あ、そういえばさ」
「なんです?」
「『ポヤポヤ』ってなに? 僕そんなにぼーっとしてる?」
 ボーッとしてるとか、何考えてるか分からないとか、ずっと眠そうとかは言われたことあるけど『ポヤポヤ』は初めて言われた。なに、ポヤポヤって……。

 後輩くんはぶはっと吹き出したあと、
「いや、なんていうか……ポヤポヤしてるんですよ」
 と、目尻を下げ柔らかく笑った。

「だから、ポヤポヤってなに? どんな感じ?」
「そういう感じです」
「わかんないよ!」
 僕が思わずいつもより大きめな声でツッコむと、後輩くんは遂に声を出して笑い出した。
 (普段真顔の後輩くんが、珍しい……)
 後輩くんにつられて僕もつい笑ってしまった。
 ポヤポヤの意味は結局わからなかったが、珍しい後輩くんが見れたことだし、まあよしとしよう。機嫌も直ったみたいだし。
 
 ひとしきり笑ったあと、廊下に人がほとんど居ないことに気がついた。そろそろ休み時間が終わる頃だろう。
 僕は後輩くんの腰を掴み、階段の方向へクルッと反転させる。
「あ、ちょっ、先輩……!?」
「ほら、一年生の教室は下でしょ? 早く行かないと授業始まっちゃうよ」
 僕がトンっと背中を押すと、後輩くんはよろよろとおぼつかない足取りで歩き出した。かと思えば、すぐにパッと振り返って「先輩」と呼んでくる。
「どうしたの?」
「また明日の朝、起こしに行くんで」
 妙に真剣に、必死そうに言ってくる後輩くんについつい笑ってしまう。
 
 そんなに縋るような目をしなくても、
 (さっきも言ったように、僕を起こせるのは君だけだよ)
  
「ん、待ってる」
 僕がコクリと頷き返事をすると後輩くんは満足したのかふっと表情を緩めて、今度こそちゃんと一年生の教室に戻っていった。