帰りの車内で、貝元さんは僕に何も言わなかった。
いつもなら「今日も良かったよ」と何かしらフィードバックをくれる人なのに、バックミラー越しに目が合うことすら一度もない。高速のトンネルを進む不快なロードノイズだけが、コンクリートの壁に跳ね返って、車内にワンワンと反響していた。
「理央くん、着いたよ」
後部座席から降りる間際、貝元さんは前を向いたまま、ハザードランプの点滅音に紛れ込ませるように言った。
「明日の昼、鍵野くんと社長と四人で面談ね。ユニット結成の瞬間に、カメラが密着するから」
淡々とした業務連絡だった。怒られるよりずっと堪えた。下手に慰めたり、腫れ物に触るように扱ったりしないのは、大人としての気遣いなのだと分かってしまって、小さく頷くことしかできない。
「……お疲れ様でした」
消え入りそうな声で絞り出して車を降りる。ドアを閉める手つきが、いつもより乱暴になったのは自覚していた。バタン、と夜の空気に硬い音が響く。
車内で暴れる気力すら残っていないのに、胃のあたりには、マグマのような怒りと悔しさが溜まり続けている。吐き出す場所のない熱が内側から心をじりじりと焦がし、僕はそれを抑え込むように両腕で自分を抱きしめて、重い足取りでエントランスへ向かった。
(……仕事でこんな気分になったの、久しぶりかも)
家のドアを開けると、リビングにはもう明かりがついていた。鍵野がダイニングテーブルの前に座り、夕食を終えたばかりの様子でスマホをいじっている。
足音で気づいたのか、鍵野がゆっくりこちらを向く気配がした。でも、顔を上げられない。俯いたまま、目が合うのを徹底的に避ける。「おかえり」も「ただいま」も、僕たちの間で交わされることはないのだから、それでいいはずなのに……。
いたたまれない沈黙から逃げるように、荷物を持ったまま、真っ先にバスルームへ向かった。
「あっ、てめぇ。一番風呂――」
背後から飛んできた声を遮って、バン、とドアを閉め、すぐに内鍵を回す。ここまで精神的にすり潰されているときに、鍵野と言い争って無駄にエネルギーを使うなんて、死んでもごめんだった。今の僕には、あいつに浴びせる言葉の弾丸すら残っていない。
脱衣所の床にバッグを放り出し、脱いだ服を洗濯機にばさばさと投げ込む。浴室に入り、乱暴にひねったレバーから溢れた熱いシャワーを頭から浴びた。湯気が一気に立ち込めて、視界が曇っていく。
ふぅっ、と肺の底に溜まっていた不甲斐なさと一緒に息を吐いた瞬間、視界がみるみる歪み、雫が頬を伝って落ちた。それがシャワーの水でないことくらい、自分が一番よく分かっていた。
***
風呂上がり、スマホのマップで最寄りのコンビニの場所を頭に叩き込み、パーカーのフードを目深にかぶって家を出た。伊達眼鏡と黒いマスクが、今の僕にできる精一杯の防備だ。
(こうなったらヤケクソだ)
GPSが動いたのを察知したのだろう。エントランスを出たところで、私服姿のSPが数メートルの間隔を空けて背後についた。こんな時間にどこへ、と向こうも怪訝に思っているに違いない。貝元さんに断りもなく独断で外に出るのは、これが初めてだった。
「いらっしゃいませー」
棚から目についたジャンクフードやお菓子を片っ端からカゴに放り込み、大きなレジ袋を満杯にして店を出る。最近はセルフレジが増えたおかげで、店員と話すことも、顔を晒すこともなく買い物を終えられる。それが今の僕には、救いでしかなかった。
追ってきたSPに目配せだけを送り、オートロックをくぐるのを見届けさせてから、袋を両手で抱えて部屋へ戻る。
「おいブス、何勝手に外に出て……」
リビングに入ると、案の定、鍵野が眉間に皺を寄せて待ち構えていた。片手を首の後ろに添え、呆れ顔で僕を見下ろしている。
僕はその言葉を一切無視した。ソファーの肘掛けに頭を乗せて仰向けに寝転がり、ローテーブルに買ってきたばかりの「憂さ晴らし」をぶちまける。スナック菓子の袋やプラスチックの容器が派手な音を立てて広がると、鍵野はフリーズした。
「いただきまーす」
電子レンジで温めただけの安っぽい照り焼きバーガーの包みを剥ぎ取り、オレンジの炭酸飲料と一緒に喉の奥へ流し込む。鍵野は立ち尽くしたまま、僕の口元をしばらく見つめていた。
「怖ぇんだけど」
「なにが」
「なんで急にフードファイターみたいな真似してんだよ」
「お構いなく。ただの、自分を解放するためのパーティーなので」
僕が限界のときに限って、どうして鍵野は興味津々に話しかけてくるのだろう。
アメリカンドッグの串を抜き、苺と生クリームのフルーツサンドのフィルムを雑に剥がす。空になった包装を丸めてゴミ箱へ放ったけれど、放物線を描いた塊は縁に当たって床に転がった。
「おい、床に散らかすなって言ってんのに……」
「じゃあ、君が拾えばいいんじゃない」
鍵野が小さくため息をつき、それを一つずつ拾い上げる。そのとき、動いた手首が目に留まった。白い肌の上に、薄く青黒い大きな痕が浮いている。モゴモゴと咀嚼する僕の口が止まった。
「……どうしたの、それ」
口いっぱいに食べ物を詰めたまま、くぐもった声で尋ねる。鍵野は最初、何のことだという顔をしていたが、僕の指す場所を見て「あー」と声を漏らした。
「これ? まぁ、その……今日の稽古でちょっと打ち付けただけ」
「いや……それ大丈夫なの? 何か貼ったりしなくていいの?」
「初日から派手に怪我したとか、言い出しづらくて。帰ってから適当に貼っときゃいいかと思って、忘れてた」
「ちょっと、見せて」
上体を起こし、隣のスペースを手のひらで叩く。鍵野は「つーか、我が物顔で使ってんじゃねぇよ」とぼそぼそ小言をこぼしながらも、少し距離を空けて隣に腰を下ろした。その手首を掴み、青黒く変色した皮膚の境目を指先でそっとなぞる。
「こういうの、放っておくのは良くないよ。悪化して、明日からの稽古に影響が出たら――」
「うっせーな、偉そうに説教してんじゃねぇよ。チビ」
素直に腕を差し出してきたのはそっちのくせに、相変わらず人権のない物言いだ。少しだけイラッとして、青い痣の真ん中を親指の腹でぐーっと押し込んでやった。ひときわ高い絶叫が響き、鍵野がソファーから跳ね上がる。
「いってぇ!! ざけんな、マジモンの性格ブス!」
「ブスブスうるさい。湿布があるならさっさと出して。明日はユニット結成の密着撮影があるんだから、腫れが目立たないよう処置しないとダメでしょ」
正論で殴りつけると、鍵野は顔を歪めながらも、渋々チェストの引き出しから湿布と包帯を引き抜いて戻ってきた。
足を組んでソファーの中央に鎮座した僕は、今日スタジオで浴びたストレスを、こいつをサンドバッグにして晴らしてやろうと思いつく。口角を綺麗に上げて、にこりと微笑んだ。
「な、なんだよその顔」
「うん? 鍵野の大嫌いなブス顔で、微笑んであげてるんだよ」
「……は?」
「お願いします、って頼んでくれたら。手当してあげなくもないかな」
いつぞや自分が言われた台詞を、満面の笑みで叩き返してやる。悔しがるか、プライドを損ねて怒り出すか。そう予想していたのに、鍵野の反応は違った。上体を前に倒し、座る僕の顔をのぞき込んで、まっすぐ目を見つめてくる。
「…………頼む」
「敬語って知ってる?」
「うっせーな、人が頭下げてんだからさっさとやれよ」
「しょうがないな……」
あからさまに「面倒くさいと思ってますよ」というトーンを声に乗せて、湿布を患部に貼った。包帯を人の体に巻くのは初めてだけれど、要は湿布が剥がれないようにするカバーだろう、と適当にぐるぐる巻く。出来上がった手首は、ミイラみたいに不格好だった。小さく吹き出すと、鍵野からじとりと睨まれる。
「笑うなブス。笑ってもブスだぞ」
「はいはい」
「……いいよな、初日から撮影が上手くいって余裕のあるやつは。こんな夜中に好きなもん買い込んで、嫌いな相手に優しくするゆとりまであるんだからさ」
「何のこと?」
「アンタの主演ドラマ、今日が撮影初日だって、貝元さんから稽古前に聞いた。……テーマが『性格詐欺アイドル』とか、お前にピッタリすぎるだろ。自然体でいりゃ、演技なんかしなくても余裕じゃん」
さすが天下の橘花様、と鼻で笑われて、頭に血が上った。巻いたばかりの包帯の上から、鍵野の左手をバシッと平手で叩く。
「いってぇな、おい! 俺がせっかく褒めてやったのに――」
「なんでそうやって、人が一番嫌なことを思い出させるかな! 僕だって、毎回なんでも余裕でできるわけじゃないんだよ!」
「え、いや……」
「今日だって、監督にバチボコにキレられて、降板しろって言われたの! まだクランクインして数時間しか経ってないのに!!」
ソファーに転がっていたクッションを掴み、怒りに任せて立て続けに投げつけた。けれど鍵野は、ドッジボールさながらの滑らかな動きで全部受け流し、驚いた顔のまま僕を見つめる。
「ちょ、落ち着けって。いきなり凶暴化すんな」
「うるさいな、これが僕の本性だよ! ブスどころか凶悪なんだから」
「自覚あんのかよ」
「これは撮影が上手くいったご褒美で食べてるんじゃない、むしろ真逆! 死ぬほどストレスが溜まったときに、暴飲暴食して発散してるの! 今日は貝元さんにも腫れ物扱いされて……頭にきたから、一人で買いに走っただけ!」
「……は?」
クッションを両腕で抱え込んだまま、鍵野が間の抜けた声を漏らす。
「降板しろって……子役上がりのアンタが? あの監督、そんなにヤバいわけ?」
「ヤバいなんてもんじゃないよ! 初回から『ファンに嫌われたくない顔してカメラの前に立つな、保険かけた芝居なんかするな』って、台本をデスクに叩きつけられて……!」
そこまで一気にまくし立てたところで、喉がひどく渇いていることに気づいた。ローテーブルの隅のオレンジ炭酸のペットボトルを掴み、キャップを乱暴にひねって一気にあおる。人工的な甘みと強い刺激が、ずっと燻っていた胃を直接突き刺した。
「……『何百回やっても時間の無駄だから、機材バラせ』って言われた。『お前じゃなきゃ成立しないドラマなんて、この世に一本もない』って、みんなの前で」
ぼそりと呟いた声は、思ったよりずっと湿っていて、惨めで頼りなかった。悔しさと恥ずかしさが一気に押し寄せ、目の前がまた熱くなる。それを誤魔化すように、冷えた視線を鍵野に向けた。
「だから、余裕なんて一ミリもない。自然体でいればいいなんて、現場のことも知らないくせに簡単に言わないでよ。僕だって、いつだって必死にやってるんだから……」
感情の高ぶりを押し殺し、ポテトチップスの袋に手を伸ばす。ガサゴソと爪が擦れる不快な音を立てて、中身を口に放り込んだ。パリパリという咀嚼音だけが、静まり返ったリビングに響く。
鍵野はクッションを抱えたまま、しばらく何も言わずに僕を見ていた。呆れているのか、あまりの無様さに言葉を失っているのか、判別がつかない。その沈黙に耐えられなくなって、炭酸のボトルをテーブルにドン! と置いた。
「……僕が十七年かけて築いてきたイメージを崩すなんて、絶対に嫌だ。新人の演技ド下手な子に役を譲るくらい、全然気にならないし」
「…………」
「子役上がりっていっても、今はアイドルに軸足を置いてるのに……社長が中途半端に二足の草鞋なんか履かせるから、こんなことになるんだよ」
バッグから、使い込まれて端のめくれた台本を取り出す。表紙の『サギ☆ドル』のロゴが恨めしくて仕方なかった。ばしっと床に叩きつけ、涙目を誤魔化すようにそっぽを向く。
色違いのクッションに顔を突っ伏すと、鍵野の「散々喋って、いきなり電池切れかよ」という呆れ声が降ってきた。続いて、床の紙をカサリと拾い上げる音がする。
「自分がそれ以上傷つきたくないからって、投げ出してんじゃねーよ」
クッション越しに届いた声は、いつになく低く冷めていた。
「……何も知らないくせに言わないでよ」
「アンタが喋ってる情報以外知らねぇんだから、仕方ねぇだろ。でも、本気で悔しいから泣いてんじゃねーの? プライドが邪魔して、認められないだけじゃん」
ぐすっ、と鼻を啜る音が、どうしても漏れてしまう。核心を突かれた悔しさで、耳の裏が熱くなった。すると、頭にこつんと軽い衝撃が走る。
少し顔を上げると、目の前にボックスティッシュが差し出されている。白いうさぎのイラストと、優しげなフォントで書かれた「お鼻セレブ」の文字が、滲む視界に映り込んだ。
「アンタにまさか、そういう一面があるとはな」
「……あんな、明日からファンが半分に減るような芝居、したくない。なのに現場のスタッフだけじゃなくて、貝元さんまで、みんな僕を腫れ物みたいに扱ってさ……」
「世間がどうとか周りがどうとか、主語をデカくして逃げんな。本音はどうなんだよ。その『桜庭こゆん』って役、本当は他人に譲りたくないから、こんだけグダグダしてんじゃねーの」
真っ直ぐな言葉が、頑なな意地の輪郭を容赦なく削っていく。今の僕の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。性格だけじゃなくて、本当に顔面までブスになっているに違いない、と自己肯定感が底なし沼に沈んでいく。
差し出されたティッシュに手を伸ばせなかったのは、大嫌いなライバルの優しさを易々と受け入れたくない、ちっぽけなプライドのせいでもあった。
「うるさい……もう喋りたくない」
「そもそも話せなんて、俺は言ってねぇけどな」
「ほっといてよ」
クッションに深く顔を埋め、完全に心を閉ざした。息を潜めているうちに、張り詰めていた神経の疲れと、腹いっぱいに詰め込んだジャンクフードの重みで、体が急激に動かなくなっていく。頭の芯がとろとろとした微睡みに侵されていく中、リビングの照明がパチリと消される音が聞こえた。
「おい、寝るならベッド行け。明日撮影あるって俺に説教しといて、自分のこと棚に上げてんじゃねーよ」
「本当に大嫌い。生意気だし、口も悪いし、敬語使えないし」
「そんだけ悪口言えるなら、まだ心は死んでねぇな。ほら、起きろ」
「本日の営業は終了いたしました」
「ご自慢の顔面にソファーの痕つくぞ」
「…………メイクでどうにでもなるし」
「あー、マジでアンタって面倒くせぇな。どんだけ甘やかされて育ってきてんだよ」
鍵野が近づいてくる気配が、フローリングを踏む微かな振動で伝わってくる。直後、ふわりと体が宙に浮く感覚に、内側で激しく息を呑んだ。背中と膝の裏に、自分よりずっと大きな手のひらが滑り込んでいる。
(え、なに、なにして――)
心臓が破裂しそうなパニックが全身を駆け巡る。今さら目が覚めたなんて言えるわけがない。必死に呼吸のペースを保ち、寝落ちしたふりを貫こうと全身の力を抜いた。閉じた瞼の睫毛が震えていないか、寝たフリなのがバレないか。それだけが怖かった。
(お姫様抱っことか、ふざけんなって……!)
それなのに、鍵野は歩き出さない。僕を抱え上げたまま、ソファーのすぐ横でぴたりと動きを止めた。
「……おい」
すぐ耳元で、低く掠れた声が響く。顔がすぐ近くにあるのが気配で分かる。吐息が首筋にかかり、ぞくぞくと鳥肌が立ちそうになるのを必死に堪えた。
「もう寝てんの?」
試すような声だった。ばれているのだろうか。それとも本気で寝ていると思っているのか。
パーカーの生地越しに、背中や膝裏へ鍵野の体温が伝わってくる。腕に込められた筋肉の硬さや、鼻をかすめる香水の香りに、頭がおかしくなりそうだった。早く運んで下ろしてほしいという願いも虚しく、鍵野は僕を少し持ち上げ直して、さらに顔を近づけてきた。長い前髪が額をかすめる。チクリとした感触に、危うく「ひゃっ」なんて声が出そうになった。
「狸寝入りにしては、随分と体が強張ってんだけど」
心臓の音がうるさすぎて、鍵野の胸にも絶対に伝わっている。寝たふりを通すには、あまりにも過酷な状況だった。じりじりと焼かれるような恥ずかしさの中、生きた心地もしないまま、秒針の音だけを聞く。
「…………」
「…………」
鍵野はフッと小さく鼻で笑い、ようやくゆっくりとした足取りで廊下を進み始めた。一歩ごとに体が密着し、擦れ合う。気まずさと恥ずかしさで、今すぐこの腕から飛び降りたくなった。
「よっ……と」
寝室に入り、ベッドにそっと横たえられる。背中に伝わるマットレスの柔らかさに安堵したのも束の間、鍵野の手が、僕のパーカーのフードをそっと外した。無防備になった耳元に、指先がほんの少し触れる。
あつい。その指が、涙の痕でかさついた頬の輪郭を、なぞるようにゆっくり滑り降りた。触れられたところが、火傷しそうなほど熱を持っている。
心拍数はもう限界だった。今すぐ目を開けて「触るな」と怒鳴りたいのに、その勇気が出ない。焦りで息が詰まりそうになる。
やがて鍵野の手が離れ、柔らかな羽毛布団が、首元まで優しく引き上げられた。
「……本当に、手のかかるやつ」
ため息まじりの、けれどどこか呆れきれない呟きが耳の奥に残り、足音が遠ざかっていく。
パタンと寝室のドアが閉まり、暗闇の中でようやくぱちっと目を開けた僕は、信じられないほど汗をかいていることに気づき、枕に顔を埋めて声を出さずに激しく絶叫した。
いつもなら「今日も良かったよ」と何かしらフィードバックをくれる人なのに、バックミラー越しに目が合うことすら一度もない。高速のトンネルを進む不快なロードノイズだけが、コンクリートの壁に跳ね返って、車内にワンワンと反響していた。
「理央くん、着いたよ」
後部座席から降りる間際、貝元さんは前を向いたまま、ハザードランプの点滅音に紛れ込ませるように言った。
「明日の昼、鍵野くんと社長と四人で面談ね。ユニット結成の瞬間に、カメラが密着するから」
淡々とした業務連絡だった。怒られるよりずっと堪えた。下手に慰めたり、腫れ物に触るように扱ったりしないのは、大人としての気遣いなのだと分かってしまって、小さく頷くことしかできない。
「……お疲れ様でした」
消え入りそうな声で絞り出して車を降りる。ドアを閉める手つきが、いつもより乱暴になったのは自覚していた。バタン、と夜の空気に硬い音が響く。
車内で暴れる気力すら残っていないのに、胃のあたりには、マグマのような怒りと悔しさが溜まり続けている。吐き出す場所のない熱が内側から心をじりじりと焦がし、僕はそれを抑え込むように両腕で自分を抱きしめて、重い足取りでエントランスへ向かった。
(……仕事でこんな気分になったの、久しぶりかも)
家のドアを開けると、リビングにはもう明かりがついていた。鍵野がダイニングテーブルの前に座り、夕食を終えたばかりの様子でスマホをいじっている。
足音で気づいたのか、鍵野がゆっくりこちらを向く気配がした。でも、顔を上げられない。俯いたまま、目が合うのを徹底的に避ける。「おかえり」も「ただいま」も、僕たちの間で交わされることはないのだから、それでいいはずなのに……。
いたたまれない沈黙から逃げるように、荷物を持ったまま、真っ先にバスルームへ向かった。
「あっ、てめぇ。一番風呂――」
背後から飛んできた声を遮って、バン、とドアを閉め、すぐに内鍵を回す。ここまで精神的にすり潰されているときに、鍵野と言い争って無駄にエネルギーを使うなんて、死んでもごめんだった。今の僕には、あいつに浴びせる言葉の弾丸すら残っていない。
脱衣所の床にバッグを放り出し、脱いだ服を洗濯機にばさばさと投げ込む。浴室に入り、乱暴にひねったレバーから溢れた熱いシャワーを頭から浴びた。湯気が一気に立ち込めて、視界が曇っていく。
ふぅっ、と肺の底に溜まっていた不甲斐なさと一緒に息を吐いた瞬間、視界がみるみる歪み、雫が頬を伝って落ちた。それがシャワーの水でないことくらい、自分が一番よく分かっていた。
***
風呂上がり、スマホのマップで最寄りのコンビニの場所を頭に叩き込み、パーカーのフードを目深にかぶって家を出た。伊達眼鏡と黒いマスクが、今の僕にできる精一杯の防備だ。
(こうなったらヤケクソだ)
GPSが動いたのを察知したのだろう。エントランスを出たところで、私服姿のSPが数メートルの間隔を空けて背後についた。こんな時間にどこへ、と向こうも怪訝に思っているに違いない。貝元さんに断りもなく独断で外に出るのは、これが初めてだった。
「いらっしゃいませー」
棚から目についたジャンクフードやお菓子を片っ端からカゴに放り込み、大きなレジ袋を満杯にして店を出る。最近はセルフレジが増えたおかげで、店員と話すことも、顔を晒すこともなく買い物を終えられる。それが今の僕には、救いでしかなかった。
追ってきたSPに目配せだけを送り、オートロックをくぐるのを見届けさせてから、袋を両手で抱えて部屋へ戻る。
「おいブス、何勝手に外に出て……」
リビングに入ると、案の定、鍵野が眉間に皺を寄せて待ち構えていた。片手を首の後ろに添え、呆れ顔で僕を見下ろしている。
僕はその言葉を一切無視した。ソファーの肘掛けに頭を乗せて仰向けに寝転がり、ローテーブルに買ってきたばかりの「憂さ晴らし」をぶちまける。スナック菓子の袋やプラスチックの容器が派手な音を立てて広がると、鍵野はフリーズした。
「いただきまーす」
電子レンジで温めただけの安っぽい照り焼きバーガーの包みを剥ぎ取り、オレンジの炭酸飲料と一緒に喉の奥へ流し込む。鍵野は立ち尽くしたまま、僕の口元をしばらく見つめていた。
「怖ぇんだけど」
「なにが」
「なんで急にフードファイターみたいな真似してんだよ」
「お構いなく。ただの、自分を解放するためのパーティーなので」
僕が限界のときに限って、どうして鍵野は興味津々に話しかけてくるのだろう。
アメリカンドッグの串を抜き、苺と生クリームのフルーツサンドのフィルムを雑に剥がす。空になった包装を丸めてゴミ箱へ放ったけれど、放物線を描いた塊は縁に当たって床に転がった。
「おい、床に散らかすなって言ってんのに……」
「じゃあ、君が拾えばいいんじゃない」
鍵野が小さくため息をつき、それを一つずつ拾い上げる。そのとき、動いた手首が目に留まった。白い肌の上に、薄く青黒い大きな痕が浮いている。モゴモゴと咀嚼する僕の口が止まった。
「……どうしたの、それ」
口いっぱいに食べ物を詰めたまま、くぐもった声で尋ねる。鍵野は最初、何のことだという顔をしていたが、僕の指す場所を見て「あー」と声を漏らした。
「これ? まぁ、その……今日の稽古でちょっと打ち付けただけ」
「いや……それ大丈夫なの? 何か貼ったりしなくていいの?」
「初日から派手に怪我したとか、言い出しづらくて。帰ってから適当に貼っときゃいいかと思って、忘れてた」
「ちょっと、見せて」
上体を起こし、隣のスペースを手のひらで叩く。鍵野は「つーか、我が物顔で使ってんじゃねぇよ」とぼそぼそ小言をこぼしながらも、少し距離を空けて隣に腰を下ろした。その手首を掴み、青黒く変色した皮膚の境目を指先でそっとなぞる。
「こういうの、放っておくのは良くないよ。悪化して、明日からの稽古に影響が出たら――」
「うっせーな、偉そうに説教してんじゃねぇよ。チビ」
素直に腕を差し出してきたのはそっちのくせに、相変わらず人権のない物言いだ。少しだけイラッとして、青い痣の真ん中を親指の腹でぐーっと押し込んでやった。ひときわ高い絶叫が響き、鍵野がソファーから跳ね上がる。
「いってぇ!! ざけんな、マジモンの性格ブス!」
「ブスブスうるさい。湿布があるならさっさと出して。明日はユニット結成の密着撮影があるんだから、腫れが目立たないよう処置しないとダメでしょ」
正論で殴りつけると、鍵野は顔を歪めながらも、渋々チェストの引き出しから湿布と包帯を引き抜いて戻ってきた。
足を組んでソファーの中央に鎮座した僕は、今日スタジオで浴びたストレスを、こいつをサンドバッグにして晴らしてやろうと思いつく。口角を綺麗に上げて、にこりと微笑んだ。
「な、なんだよその顔」
「うん? 鍵野の大嫌いなブス顔で、微笑んであげてるんだよ」
「……は?」
「お願いします、って頼んでくれたら。手当してあげなくもないかな」
いつぞや自分が言われた台詞を、満面の笑みで叩き返してやる。悔しがるか、プライドを損ねて怒り出すか。そう予想していたのに、鍵野の反応は違った。上体を前に倒し、座る僕の顔をのぞき込んで、まっすぐ目を見つめてくる。
「…………頼む」
「敬語って知ってる?」
「うっせーな、人が頭下げてんだからさっさとやれよ」
「しょうがないな……」
あからさまに「面倒くさいと思ってますよ」というトーンを声に乗せて、湿布を患部に貼った。包帯を人の体に巻くのは初めてだけれど、要は湿布が剥がれないようにするカバーだろう、と適当にぐるぐる巻く。出来上がった手首は、ミイラみたいに不格好だった。小さく吹き出すと、鍵野からじとりと睨まれる。
「笑うなブス。笑ってもブスだぞ」
「はいはい」
「……いいよな、初日から撮影が上手くいって余裕のあるやつは。こんな夜中に好きなもん買い込んで、嫌いな相手に優しくするゆとりまであるんだからさ」
「何のこと?」
「アンタの主演ドラマ、今日が撮影初日だって、貝元さんから稽古前に聞いた。……テーマが『性格詐欺アイドル』とか、お前にピッタリすぎるだろ。自然体でいりゃ、演技なんかしなくても余裕じゃん」
さすが天下の橘花様、と鼻で笑われて、頭に血が上った。巻いたばかりの包帯の上から、鍵野の左手をバシッと平手で叩く。
「いってぇな、おい! 俺がせっかく褒めてやったのに――」
「なんでそうやって、人が一番嫌なことを思い出させるかな! 僕だって、毎回なんでも余裕でできるわけじゃないんだよ!」
「え、いや……」
「今日だって、監督にバチボコにキレられて、降板しろって言われたの! まだクランクインして数時間しか経ってないのに!!」
ソファーに転がっていたクッションを掴み、怒りに任せて立て続けに投げつけた。けれど鍵野は、ドッジボールさながらの滑らかな動きで全部受け流し、驚いた顔のまま僕を見つめる。
「ちょ、落ち着けって。いきなり凶暴化すんな」
「うるさいな、これが僕の本性だよ! ブスどころか凶悪なんだから」
「自覚あんのかよ」
「これは撮影が上手くいったご褒美で食べてるんじゃない、むしろ真逆! 死ぬほどストレスが溜まったときに、暴飲暴食して発散してるの! 今日は貝元さんにも腫れ物扱いされて……頭にきたから、一人で買いに走っただけ!」
「……は?」
クッションを両腕で抱え込んだまま、鍵野が間の抜けた声を漏らす。
「降板しろって……子役上がりのアンタが? あの監督、そんなにヤバいわけ?」
「ヤバいなんてもんじゃないよ! 初回から『ファンに嫌われたくない顔してカメラの前に立つな、保険かけた芝居なんかするな』って、台本をデスクに叩きつけられて……!」
そこまで一気にまくし立てたところで、喉がひどく渇いていることに気づいた。ローテーブルの隅のオレンジ炭酸のペットボトルを掴み、キャップを乱暴にひねって一気にあおる。人工的な甘みと強い刺激が、ずっと燻っていた胃を直接突き刺した。
「……『何百回やっても時間の無駄だから、機材バラせ』って言われた。『お前じゃなきゃ成立しないドラマなんて、この世に一本もない』って、みんなの前で」
ぼそりと呟いた声は、思ったよりずっと湿っていて、惨めで頼りなかった。悔しさと恥ずかしさが一気に押し寄せ、目の前がまた熱くなる。それを誤魔化すように、冷えた視線を鍵野に向けた。
「だから、余裕なんて一ミリもない。自然体でいればいいなんて、現場のことも知らないくせに簡単に言わないでよ。僕だって、いつだって必死にやってるんだから……」
感情の高ぶりを押し殺し、ポテトチップスの袋に手を伸ばす。ガサゴソと爪が擦れる不快な音を立てて、中身を口に放り込んだ。パリパリという咀嚼音だけが、静まり返ったリビングに響く。
鍵野はクッションを抱えたまま、しばらく何も言わずに僕を見ていた。呆れているのか、あまりの無様さに言葉を失っているのか、判別がつかない。その沈黙に耐えられなくなって、炭酸のボトルをテーブルにドン! と置いた。
「……僕が十七年かけて築いてきたイメージを崩すなんて、絶対に嫌だ。新人の演技ド下手な子に役を譲るくらい、全然気にならないし」
「…………」
「子役上がりっていっても、今はアイドルに軸足を置いてるのに……社長が中途半端に二足の草鞋なんか履かせるから、こんなことになるんだよ」
バッグから、使い込まれて端のめくれた台本を取り出す。表紙の『サギ☆ドル』のロゴが恨めしくて仕方なかった。ばしっと床に叩きつけ、涙目を誤魔化すようにそっぽを向く。
色違いのクッションに顔を突っ伏すと、鍵野の「散々喋って、いきなり電池切れかよ」という呆れ声が降ってきた。続いて、床の紙をカサリと拾い上げる音がする。
「自分がそれ以上傷つきたくないからって、投げ出してんじゃねーよ」
クッション越しに届いた声は、いつになく低く冷めていた。
「……何も知らないくせに言わないでよ」
「アンタが喋ってる情報以外知らねぇんだから、仕方ねぇだろ。でも、本気で悔しいから泣いてんじゃねーの? プライドが邪魔して、認められないだけじゃん」
ぐすっ、と鼻を啜る音が、どうしても漏れてしまう。核心を突かれた悔しさで、耳の裏が熱くなった。すると、頭にこつんと軽い衝撃が走る。
少し顔を上げると、目の前にボックスティッシュが差し出されている。白いうさぎのイラストと、優しげなフォントで書かれた「お鼻セレブ」の文字が、滲む視界に映り込んだ。
「アンタにまさか、そういう一面があるとはな」
「……あんな、明日からファンが半分に減るような芝居、したくない。なのに現場のスタッフだけじゃなくて、貝元さんまで、みんな僕を腫れ物みたいに扱ってさ……」
「世間がどうとか周りがどうとか、主語をデカくして逃げんな。本音はどうなんだよ。その『桜庭こゆん』って役、本当は他人に譲りたくないから、こんだけグダグダしてんじゃねーの」
真っ直ぐな言葉が、頑なな意地の輪郭を容赦なく削っていく。今の僕の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。性格だけじゃなくて、本当に顔面までブスになっているに違いない、と自己肯定感が底なし沼に沈んでいく。
差し出されたティッシュに手を伸ばせなかったのは、大嫌いなライバルの優しさを易々と受け入れたくない、ちっぽけなプライドのせいでもあった。
「うるさい……もう喋りたくない」
「そもそも話せなんて、俺は言ってねぇけどな」
「ほっといてよ」
クッションに深く顔を埋め、完全に心を閉ざした。息を潜めているうちに、張り詰めていた神経の疲れと、腹いっぱいに詰め込んだジャンクフードの重みで、体が急激に動かなくなっていく。頭の芯がとろとろとした微睡みに侵されていく中、リビングの照明がパチリと消される音が聞こえた。
「おい、寝るならベッド行け。明日撮影あるって俺に説教しといて、自分のこと棚に上げてんじゃねーよ」
「本当に大嫌い。生意気だし、口も悪いし、敬語使えないし」
「そんだけ悪口言えるなら、まだ心は死んでねぇな。ほら、起きろ」
「本日の営業は終了いたしました」
「ご自慢の顔面にソファーの痕つくぞ」
「…………メイクでどうにでもなるし」
「あー、マジでアンタって面倒くせぇな。どんだけ甘やかされて育ってきてんだよ」
鍵野が近づいてくる気配が、フローリングを踏む微かな振動で伝わってくる。直後、ふわりと体が宙に浮く感覚に、内側で激しく息を呑んだ。背中と膝の裏に、自分よりずっと大きな手のひらが滑り込んでいる。
(え、なに、なにして――)
心臓が破裂しそうなパニックが全身を駆け巡る。今さら目が覚めたなんて言えるわけがない。必死に呼吸のペースを保ち、寝落ちしたふりを貫こうと全身の力を抜いた。閉じた瞼の睫毛が震えていないか、寝たフリなのがバレないか。それだけが怖かった。
(お姫様抱っことか、ふざけんなって……!)
それなのに、鍵野は歩き出さない。僕を抱え上げたまま、ソファーのすぐ横でぴたりと動きを止めた。
「……おい」
すぐ耳元で、低く掠れた声が響く。顔がすぐ近くにあるのが気配で分かる。吐息が首筋にかかり、ぞくぞくと鳥肌が立ちそうになるのを必死に堪えた。
「もう寝てんの?」
試すような声だった。ばれているのだろうか。それとも本気で寝ていると思っているのか。
パーカーの生地越しに、背中や膝裏へ鍵野の体温が伝わってくる。腕に込められた筋肉の硬さや、鼻をかすめる香水の香りに、頭がおかしくなりそうだった。早く運んで下ろしてほしいという願いも虚しく、鍵野は僕を少し持ち上げ直して、さらに顔を近づけてきた。長い前髪が額をかすめる。チクリとした感触に、危うく「ひゃっ」なんて声が出そうになった。
「狸寝入りにしては、随分と体が強張ってんだけど」
心臓の音がうるさすぎて、鍵野の胸にも絶対に伝わっている。寝たふりを通すには、あまりにも過酷な状況だった。じりじりと焼かれるような恥ずかしさの中、生きた心地もしないまま、秒針の音だけを聞く。
「…………」
「…………」
鍵野はフッと小さく鼻で笑い、ようやくゆっくりとした足取りで廊下を進み始めた。一歩ごとに体が密着し、擦れ合う。気まずさと恥ずかしさで、今すぐこの腕から飛び降りたくなった。
「よっ……と」
寝室に入り、ベッドにそっと横たえられる。背中に伝わるマットレスの柔らかさに安堵したのも束の間、鍵野の手が、僕のパーカーのフードをそっと外した。無防備になった耳元に、指先がほんの少し触れる。
あつい。その指が、涙の痕でかさついた頬の輪郭を、なぞるようにゆっくり滑り降りた。触れられたところが、火傷しそうなほど熱を持っている。
心拍数はもう限界だった。今すぐ目を開けて「触るな」と怒鳴りたいのに、その勇気が出ない。焦りで息が詰まりそうになる。
やがて鍵野の手が離れ、柔らかな羽毛布団が、首元まで優しく引き上げられた。
「……本当に、手のかかるやつ」
ため息まじりの、けれどどこか呆れきれない呟きが耳の奥に残り、足音が遠ざかっていく。
パタンと寝室のドアが閉まり、暗闇の中でようやくぱちっと目を開けた僕は、信じられないほど汗をかいていることに気づき、枕に顔を埋めて声を出さずに激しく絶叫した。



