帰りの車内で貝元さんから次のドラマの台本を受け取り、マンションの地下駐車場で別れた。
(……あ、洗濯機の使い方を聞くの、また忘れた)
気づいたときには既に遅く、黒塗りのハイヤーは出口の角を曲がって消えていくところだった。大きなため息をつきながら、エントランスでカードキーをかざし、エレベーターホールへ向かう。
(てか、ただのマンションなのに無駄にデカすぎ……廊下も長いし)
部屋のドアを開けるとセンサーライトが灯り、シューズクロークの大きな鏡に僕の姿が映った。
昨夜、ここで鍵野に顎を強引に掴まれたことが頭をよぎる。間近で見つめてきた、あの鋭い眼光。思い出した途端、鏡の中の自分の頬がほんのり赤く染まった気がして、慌てて視線を逸らす。
トレンチコートも鞄も廊下に放り出し、逃げるように自室へ向かう。鍵野はやはり、まだ帰っていないらしい。
「そうだ、エアーベッド……放置したままだった」
いつまでも床で寝るわけにはいかない。渋々、電動空気入れのコードをコンセントに繋ぎ、空気口をそれらしい場所に差し込んだ。ウー、という低いモーター音が、虚しく響き始める。
少しずつ膨らんでいくそれを眺めながら、フローリングに直接座って台本をぱらぱらとめくってみたけれど、文字がまったく頭に入ってこない。
……社長の話が嘘だとは思えない。でも、鍵野が本当に自分から部屋を貸すと言い出したのなら、どうして僕の前ではあんなに最悪な態度ばかり取るのだろう。
普通なら、もっと恩を着せればいい。「俺が住まわせてやってるんだから感謝しろ」とでも言えばいいはずだ。それなのにあいつは、ストーカーの「ス」の字も出さず、小学生みたいな意地悪で煽ってくるだけ。
もしかして、社長の前では「ストーカーに遭った理央先輩が心配で」と殊勝なことを言い、優しい後輩を演じて点数を稼ぐ。二人きりになれば、僕をブス呼ばわりしてストレス発散の道具にする。そしてユニットが成功したら、さらに社長に気に入られる。そういう魂胆なんじゃないだろうか。
そう考えると、すべての辻褄が合う気がした。
芸能界には、裏表の激しい人間が腐るほどいる。鍵野は高校生で、見た目は無骨なくせに、中身はとんだ狸なのかもしれない。
「……最悪。余計にムカついてきた」
自分の歪んだ芸能界脳が弾き出した極論を、吐き捨てるように呟く。まんまと騙されている社長も社長だ、と心の中で毒づいていた、そのときだった。
モーター音が響く部屋の、さらに向こうで、カチャリと玄関の鍵が回る音がした。
(帰ってきたな。速攻で問い詰めてやる)
台本を床に置き、半分ほどしか膨らんでいないエアーベッドを放置して、意を決して自室のドアを開ける。
キッチンで冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出している鍵野の背中に、腕を組んだまま、冷ややかな声を投げた。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど」
「なんだよ。そんなに俺に会いたかった?」
「頭お花畑なの? 僕は今、一言もそんなこと言ってないんだけど」
「だって、わざわざお出迎えしてくれてんじゃん」
「なんでも自分に都合よく、勝手に脳内変換するのやめてくれる?」
「はいはい。で、何の用だよ」
鍵野はボトルから口を離し、面倒くさそうに振り返った。その鋭い目を見据えながら、社長室で仕入れてきた切り札を突きつける。
「今日、社長から聞いたよ」
「何が」
「……僕にこの部屋を貸そうって言い出したの、鍵野からなんだって?」
一瞬、鍵野の眉がぴくりと跳ねた。やっぱり本当なんだ。僕はここぞとばかりに、頭の中で組み立てた仮説を口にした。
「社長の前でだけ『困ってる先輩が心配だから』っていい子ぶって、点数稼ぎしてたわけ?」
「…………」
「それで裏では僕に八つ当たり。本当いい性格してるよね」
嫌味をたっぷり込めて睨みつけたのに、鍵野は驚くほど動じなかった。それどころか、ふっと鼻で笑い、水を一口飲んで僕の横を通り過ぎると、リビングのソファに深く腰を下ろす。
「点数稼ぎ? アンタ、マジで頭の中おめでたいな。俺のやってる事が、社長に褒められたいだけのチャチなご機嫌取りに見えんの?」
「じゃあ、なんで……」
問い詰める僕を、鍵野は背もたれに気だるげに体を預けたまま、冷ややかに見上げた。
「大人に媚び売って点数もらうんじゃなくて、社長の頭を抑えるために決まってんだろ」
「どういうこと」
「社長がいちばん大事にしてる『橘花理央』を匿ってやれば、事務所に対して死ぬほどデカい『貸し』ができる。ストーカーからお前を護ったっていう絶対的なカードがあれば、俺のやりたい仕事をゴリ押しする交渉材料になる。アンタは、社長を動かすための便利な餌。勘違いすんな」
「――っ!」
大人に気に入られたい点数稼ぎどころではない。社長さえも利用して、自分の要求を通す交渉だ。僕はそのための道具に過ぎないなんて。
苛立ちに奥歯を噛みしめたのは一瞬で、すぐに冷たい笑みを返した。
「……だったら好都合。僕だって、君にプライベートまで踏み込まれたくないしね。これからの仕事のためだって言うなら、徹底的に割り切ろう。お互い、次の大きな仕事も決まってるんだから」
「あ? 次の仕事って?」
「僕の初主演の深夜ドラマ。それから、そっちはコミックスが原作のアクション映画に初出演するんでしょ」
鍵野の目が、わずかに見開かれた。公式発表前の、事務所のトップシークレットだ。僕が知っているはずがないと思っていたのだろう。
けれど、鍵野のスケジュールを管理している貝元さんと社長の会話は、口の堅い僕の前なら大丈夫という前提で、社長室で毎日のように筒抜けになっている。トップアイドルの情報網を侮らないでほしい。
驚きを隠せない鍵野を見下ろし、優位に立った優越感とともに一気にまくし立てた。
「驚いた? それだけじゃないよ。僕たちのユニットは、結成と同時に『ワン・テイク』への出演がもう決まってる」
「ワン・テイクって……」
「一発撮りの、言い訳のきかないステージ。あそこで完璧なパフォーマンスをすれば、ユニットのスタートは大成功。君の映画にも、僕のドラマにも、最高の箔がつくってこと」
鍵野の目をまっすぐ見据えて、言い放つ。
「だから、やるしかないんだよ。君が僕をどれだけ嫌いでも、僕が君を最低だと思っていてもね。カメラの前では、最高の相棒を演じてみせる。ビジネス仲良しとして、割り切ってあげる」
完璧な宣戦布告のつもりだった。これで鍵野の生意気な鼻をへし折って、対等なビジネスパートナーとしての境界線を引けたはずだ。
けれど鍵野は、しばらく黙って僕の顔を見つめたあと、小さくため息をついて立ち上がった。
「熱弁してるところ悪いけど」
「なに?」
眉を寄せる僕の横をすり抜け、鍵野は僕の部屋へ向かっていく。
「アンタの部屋、さっきから何かうるせぇんだけど」
「えっ」
慌てて後を追うと、鍵野は部屋の真ん中で、まだウーウーと虚しい音を立てているエアーベッドの前にしゃがみ込んでいた。
「これ、ちゃんと奥まで押し込んでねぇだろ。入れたそばから抜けてんだよ」
「あっ、それは……」
言われてみれば、さっきから一向に膨らんでいない。鍵野は「アホかよ」と呆れたように呟き、大きな手を器用に動かして、弁をきつく締め直した。途端に、ビニールがみるみる立体的に膨らんでいく。
「ちょっ、触らないで! 自分でできるからいい!」
「アンタに任せたら、朝までかかっても半分も終わらねぇだろ。こんな調子でガタガタ音鳴らされたら、隣の部屋で一睡もできねぇんだよ。……その天然ぶったフリ、カメラの前だけにしとけよな」
「ぼ、僕は天然なんかじゃない」
「ふーん。まあ、今みたいに牙向いてるほうが、まだ人間臭くてマシだけどな」
「……ねえ、本気で喧嘩売ってる?」
「ほら、出来たぞ。お姫様」
大きな背中で僕の拒絶を遮りながら、膨らみきったところで栓をして、指でぐっと押し込む。
無駄のない動きだった。それに、「ビジネスとして割り切る」と宣言したばかりの境界線を、あっさり踏み越えてくる強引さ。どんな顔をしたらいいのか分からなかった。
立ち上がった鍵野は、今朝と同じ気だるげな表情のまま、ポン、と完成したベッドを叩いて僕を見下ろした。
「ビジネス仲良し、結構だけどさ。歌の練習だけは死ぬ気でやってこいよ」
「言われなくても分かってる」
「ワン・テイクで俺の足を引っ張ったら、マジで許さねぇから」
そう言い残して、鍵野は自分の部屋へ戻っていった。
静まり返った部屋で、僕は一人、きれいに整えられたベッドの前にぽつんと立ち尽くす。悔しいくらいふかふかのベッドに腰を下ろすと、さっきまでの怒りはどこへやら、恥をかいたような歯がゆさに身悶えしたくなった。
(……あ、洗濯機の使い方を聞くの、また忘れた)
気づいたときには既に遅く、黒塗りのハイヤーは出口の角を曲がって消えていくところだった。大きなため息をつきながら、エントランスでカードキーをかざし、エレベーターホールへ向かう。
(てか、ただのマンションなのに無駄にデカすぎ……廊下も長いし)
部屋のドアを開けるとセンサーライトが灯り、シューズクロークの大きな鏡に僕の姿が映った。
昨夜、ここで鍵野に顎を強引に掴まれたことが頭をよぎる。間近で見つめてきた、あの鋭い眼光。思い出した途端、鏡の中の自分の頬がほんのり赤く染まった気がして、慌てて視線を逸らす。
トレンチコートも鞄も廊下に放り出し、逃げるように自室へ向かう。鍵野はやはり、まだ帰っていないらしい。
「そうだ、エアーベッド……放置したままだった」
いつまでも床で寝るわけにはいかない。渋々、電動空気入れのコードをコンセントに繋ぎ、空気口をそれらしい場所に差し込んだ。ウー、という低いモーター音が、虚しく響き始める。
少しずつ膨らんでいくそれを眺めながら、フローリングに直接座って台本をぱらぱらとめくってみたけれど、文字がまったく頭に入ってこない。
……社長の話が嘘だとは思えない。でも、鍵野が本当に自分から部屋を貸すと言い出したのなら、どうして僕の前ではあんなに最悪な態度ばかり取るのだろう。
普通なら、もっと恩を着せればいい。「俺が住まわせてやってるんだから感謝しろ」とでも言えばいいはずだ。それなのにあいつは、ストーカーの「ス」の字も出さず、小学生みたいな意地悪で煽ってくるだけ。
もしかして、社長の前では「ストーカーに遭った理央先輩が心配で」と殊勝なことを言い、優しい後輩を演じて点数を稼ぐ。二人きりになれば、僕をブス呼ばわりしてストレス発散の道具にする。そしてユニットが成功したら、さらに社長に気に入られる。そういう魂胆なんじゃないだろうか。
そう考えると、すべての辻褄が合う気がした。
芸能界には、裏表の激しい人間が腐るほどいる。鍵野は高校生で、見た目は無骨なくせに、中身はとんだ狸なのかもしれない。
「……最悪。余計にムカついてきた」
自分の歪んだ芸能界脳が弾き出した極論を、吐き捨てるように呟く。まんまと騙されている社長も社長だ、と心の中で毒づいていた、そのときだった。
モーター音が響く部屋の、さらに向こうで、カチャリと玄関の鍵が回る音がした。
(帰ってきたな。速攻で問い詰めてやる)
台本を床に置き、半分ほどしか膨らんでいないエアーベッドを放置して、意を決して自室のドアを開ける。
キッチンで冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出している鍵野の背中に、腕を組んだまま、冷ややかな声を投げた。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど」
「なんだよ。そんなに俺に会いたかった?」
「頭お花畑なの? 僕は今、一言もそんなこと言ってないんだけど」
「だって、わざわざお出迎えしてくれてんじゃん」
「なんでも自分に都合よく、勝手に脳内変換するのやめてくれる?」
「はいはい。で、何の用だよ」
鍵野はボトルから口を離し、面倒くさそうに振り返った。その鋭い目を見据えながら、社長室で仕入れてきた切り札を突きつける。
「今日、社長から聞いたよ」
「何が」
「……僕にこの部屋を貸そうって言い出したの、鍵野からなんだって?」
一瞬、鍵野の眉がぴくりと跳ねた。やっぱり本当なんだ。僕はここぞとばかりに、頭の中で組み立てた仮説を口にした。
「社長の前でだけ『困ってる先輩が心配だから』っていい子ぶって、点数稼ぎしてたわけ?」
「…………」
「それで裏では僕に八つ当たり。本当いい性格してるよね」
嫌味をたっぷり込めて睨みつけたのに、鍵野は驚くほど動じなかった。それどころか、ふっと鼻で笑い、水を一口飲んで僕の横を通り過ぎると、リビングのソファに深く腰を下ろす。
「点数稼ぎ? アンタ、マジで頭の中おめでたいな。俺のやってる事が、社長に褒められたいだけのチャチなご機嫌取りに見えんの?」
「じゃあ、なんで……」
問い詰める僕を、鍵野は背もたれに気だるげに体を預けたまま、冷ややかに見上げた。
「大人に媚び売って点数もらうんじゃなくて、社長の頭を抑えるために決まってんだろ」
「どういうこと」
「社長がいちばん大事にしてる『橘花理央』を匿ってやれば、事務所に対して死ぬほどデカい『貸し』ができる。ストーカーからお前を護ったっていう絶対的なカードがあれば、俺のやりたい仕事をゴリ押しする交渉材料になる。アンタは、社長を動かすための便利な餌。勘違いすんな」
「――っ!」
大人に気に入られたい点数稼ぎどころではない。社長さえも利用して、自分の要求を通す交渉だ。僕はそのための道具に過ぎないなんて。
苛立ちに奥歯を噛みしめたのは一瞬で、すぐに冷たい笑みを返した。
「……だったら好都合。僕だって、君にプライベートまで踏み込まれたくないしね。これからの仕事のためだって言うなら、徹底的に割り切ろう。お互い、次の大きな仕事も決まってるんだから」
「あ? 次の仕事って?」
「僕の初主演の深夜ドラマ。それから、そっちはコミックスが原作のアクション映画に初出演するんでしょ」
鍵野の目が、わずかに見開かれた。公式発表前の、事務所のトップシークレットだ。僕が知っているはずがないと思っていたのだろう。
けれど、鍵野のスケジュールを管理している貝元さんと社長の会話は、口の堅い僕の前なら大丈夫という前提で、社長室で毎日のように筒抜けになっている。トップアイドルの情報網を侮らないでほしい。
驚きを隠せない鍵野を見下ろし、優位に立った優越感とともに一気にまくし立てた。
「驚いた? それだけじゃないよ。僕たちのユニットは、結成と同時に『ワン・テイク』への出演がもう決まってる」
「ワン・テイクって……」
「一発撮りの、言い訳のきかないステージ。あそこで完璧なパフォーマンスをすれば、ユニットのスタートは大成功。君の映画にも、僕のドラマにも、最高の箔がつくってこと」
鍵野の目をまっすぐ見据えて、言い放つ。
「だから、やるしかないんだよ。君が僕をどれだけ嫌いでも、僕が君を最低だと思っていてもね。カメラの前では、最高の相棒を演じてみせる。ビジネス仲良しとして、割り切ってあげる」
完璧な宣戦布告のつもりだった。これで鍵野の生意気な鼻をへし折って、対等なビジネスパートナーとしての境界線を引けたはずだ。
けれど鍵野は、しばらく黙って僕の顔を見つめたあと、小さくため息をついて立ち上がった。
「熱弁してるところ悪いけど」
「なに?」
眉を寄せる僕の横をすり抜け、鍵野は僕の部屋へ向かっていく。
「アンタの部屋、さっきから何かうるせぇんだけど」
「えっ」
慌てて後を追うと、鍵野は部屋の真ん中で、まだウーウーと虚しい音を立てているエアーベッドの前にしゃがみ込んでいた。
「これ、ちゃんと奥まで押し込んでねぇだろ。入れたそばから抜けてんだよ」
「あっ、それは……」
言われてみれば、さっきから一向に膨らんでいない。鍵野は「アホかよ」と呆れたように呟き、大きな手を器用に動かして、弁をきつく締め直した。途端に、ビニールがみるみる立体的に膨らんでいく。
「ちょっ、触らないで! 自分でできるからいい!」
「アンタに任せたら、朝までかかっても半分も終わらねぇだろ。こんな調子でガタガタ音鳴らされたら、隣の部屋で一睡もできねぇんだよ。……その天然ぶったフリ、カメラの前だけにしとけよな」
「ぼ、僕は天然なんかじゃない」
「ふーん。まあ、今みたいに牙向いてるほうが、まだ人間臭くてマシだけどな」
「……ねえ、本気で喧嘩売ってる?」
「ほら、出来たぞ。お姫様」
大きな背中で僕の拒絶を遮りながら、膨らみきったところで栓をして、指でぐっと押し込む。
無駄のない動きだった。それに、「ビジネスとして割り切る」と宣言したばかりの境界線を、あっさり踏み越えてくる強引さ。どんな顔をしたらいいのか分からなかった。
立ち上がった鍵野は、今朝と同じ気だるげな表情のまま、ポン、と完成したベッドを叩いて僕を見下ろした。
「ビジネス仲良し、結構だけどさ。歌の練習だけは死ぬ気でやってこいよ」
「言われなくても分かってる」
「ワン・テイクで俺の足を引っ張ったら、マジで許さねぇから」
そう言い残して、鍵野は自分の部屋へ戻っていった。
静まり返った部屋で、僕は一人、きれいに整えられたベッドの前にぽつんと立ち尽くす。悔しいくらいふかふかのベッドに腰を下ろすと、さっきまでの怒りはどこへやら、恥をかいたような歯がゆさに身悶えしたくなった。



