目が覚めた瞬間、猛烈な体の痛みと寒気が襲ってきた。
すぐには起き上がれず、仰向けに転がったまま、けたたましく鳴るスマホのアラームを止める。こんなに寝覚めが悪いのは、何年ぶりだろう。やっぱり昨夜のうちに、無理をしてでもエアーベッドくらいは膨らませておくべきだった。
「やばい……背中が……」
バキバキに固まった体をストレッチでどうにかほぐし、重い息を吐いて窓を少しだけ開ける。
まだ薄青い朝の空気と、静まり返った都会の景色。
今日もまた、息の詰まる一日が始まってしまう。そんなアイドルらしくない暗い考えを振り払い、物音を立てないよう静かに洗面所へ向かった。
(洗濯機の使い方、貝元さんに聞いておけばよかったな)
料理も掃除も、家事全般はおそらく一般的な高校生より絶望的に苦手だ。
致命的な機械音痴というのもあるけれど、何より僕自身がズボラなのだと思う。身の回りの面倒ごとはいつも貝元さんに任せきりで、「自分で覚えよう」という発想が、これまでの人生にそもそもなかった。
脱衣所に鎮座する洗濯機は、パネルも最新式の液晶で、見たこともない機能がずらりと並んでいる。
どれが標準コースなのか、説明書なしでは見当もつかない。考えるだけで頭が痛くなってきた。
「まぁ、いっか……先に準備しないと」
昨日脱いだ服は見なかったことにして部屋に放置し、前髪をヘアピンで雑に留めて、冷たい水でぱしゃぱしゃと顔を洗う。着替えを終えてキッチンへ向かうと、部屋着姿でフライパンをあおる鍵野がいた。
換気扇が低く回る音。肉を炒めるその姿をじっと見ていると、火を止めた鍵野が、僕を一瞥して言った。
「え、お前何時に出んの」
「……五時だけど」
朝の第一声とは思えないほど、ドライな口調だった。鍵野は「あっそ」とだけ返し、肉野菜炒めらしきものを皿に盛ると、いい匂いを漂わせて僕の横を通り過ぎ、ダイニングテーブルについて当然のように食べ始めた。
(うわ、美味しそう……ちょっとだけ、食べたいかも)
昨日から空腹が続いているせいでそんなことを思ってしまったけれど、プライドがすぐにその気持ちを打ち消した。キッチンカウンターには、昨夜の帰り際に貝元さんが置いていってくれたゼリー飲料と菓子パンがある。それをがさりと掴み、気まずさから自室へ戻ろうとした。
そのとき、鍵野がテーブルの上の物を、何気なく自分の側へ寄せ始めた。僕が座るスペースを空けてくれているのだと、嫌でも伝わってくる。
(わざわざ部屋に逃げるのも、子供っぽいか)
小さく息をついて、鍵野の斜め向かいに腰を下ろした。お互いスマホに目を落としたまま、何を話せばいいのかも分からず、リビングには気まずい沈黙が漂う。
「……鍵野は、今日何時に仕事終わるの」
無音に耐えかねて、当たり障りのない話題を投げた。別に、仲良くしたいわけじゃない。あくまで同居人としての業務連絡、というニュアンスを、これでもかと込めたつもりだった。
けれど、僕のほうから声をかけられるとは思っていなかったのだろう。鍵野はスマホを操作する指を止め、ゆっくり顔を上げた。器用に箸を動かして肉を口へ運びながら、淡々とスケジュールを並べる。
「ここから高速で往復して、戻ってから歌番組の収録が二本。事務所でサイン書きもあるから、多分二十時は過ぎる」
「……ふぅん」
さすがは今をときめく売れっ子だ。もっとも、今日の僕も殺人的なスケジュールでは負けていない。興味なさげな相槌を最後に、会話はぷつりと途切れた。
ゼリー飲料をさっさと飲み干し、容器を小さく丸めてゴミ箱へ放る。続いて菓子パンの袋に手を伸ばした。カサカサと虚しい音を立ててパンをかじる僕を、鍵野がじっと見ていることに気づく。
「……そんなんで、メシ足りんの?」
「えっ?」
間の抜けた声が出た。目の前には、湯気を立てる肉野菜炒めがある。
(もしかして、ちょっと分けてあげようとか思ってる?)
ほんの一瞬、甘い期待がよぎった。昨日から何も入っていない胃が、現金にも鳴りそうになる。
その期待を嘲笑うように、鍵野の口元が意地悪く歪んだ。手にした箸の先を、僕の顔に向かって突きつけてくる。
「お前、家事も料理も壊滅的だって、社長から聞いたことある」
「……差し箸って知ってる?」
「は?」
「芸能学校でも、さすがに当たり前すぎて教えてくれないのかな」
「別に、マナーに気を付けなきゃいけない相手だと思ってねぇもん」
ぷつん、と頭の中で何かが切れた。それにしても社長は、こんなプライベートな極秘事項、というより弱点を、この生意気な後輩に吹き込んでくれたものだ。
「俺はあくまで同居人だから、アンタの面倒は一切見ねぇからな」
「なにそれ。別にやって欲しいなんて一言も……!」
「『食べさせてください、洗濯機の使い方も教えてください』って泣いて頼むなら、考えてやらなくもないけど」
楽しそうに目を細め、完全に格下扱いの態度で言い放つ。屈辱で僕の顔が赤くなっていくのを見て、鍵野は満足げに鼻で笑った。上から目線にもほどがある。誰がこんな意地の悪い男に頭を下げて、ご飯を恵んでもらうものか。
怒りに任せて、食べ終えたパンの袋をテーブルに放ると、鍵野は待っていましたとばかりに揚げ足を取ってきた。
「美人は怒っても美人っていうけど、ブスは怒るとさらにブスになるんだな」
「……構われたいからって、そういう嫌がらせ言わなくていいから」
「ふ、マジギレじゃん」
「仕事の話以外で、二度と僕に話し掛けないで」
先に声をかけたのは自分のくせに、とは思った。でも、こんな奴に歩み寄ろうとした僕が間違いだったのだ。
むすっとした顔を隠しきれないまま、ポケットからスマホを引き抜き、貝元さんに「早く迎えに来て」とメッセージを送る。急ぎ足で自室に戻り、トレンチコートを羽織って仕事用の鞄を掴み、リビングを横切った。そこで、キッチンからソファーへ戻ろうとした鍵野と鉢合わせ、前を塞がれる。
「邪魔。どいてくれる?」
「チビすぎて視界に入らなかったわ」
「僕、申し訳ないけど一七三あるからね。世の中の平均的な身長の男性にも失礼だから、謝ったほうがいいよ」
「何その三センチの無駄なこだわり。四捨五入したら一七〇の雑魚じゃん」
「小学生みたいな悪口はやめてもらえる? ハァ……それと、朝から人の進路を塞がないで欲しいんだけど」
「あ? こっちは動いてねーよ。勝手に突っ込んできたアンタの動体視力がバグってるだけだろ」
「そのデカい図体で、通路の真ん中に突っ立ってるほうが百パーセント悪いに決まってる」
鍵野は、もう僕など視界に入っていないと言わんばかりにソファーへ移ると、気だるげに頬杖をつき、ふいと窓の外へ顔を背けた。
すぐには起き上がれず、仰向けに転がったまま、けたたましく鳴るスマホのアラームを止める。こんなに寝覚めが悪いのは、何年ぶりだろう。やっぱり昨夜のうちに、無理をしてでもエアーベッドくらいは膨らませておくべきだった。
「やばい……背中が……」
バキバキに固まった体をストレッチでどうにかほぐし、重い息を吐いて窓を少しだけ開ける。
まだ薄青い朝の空気と、静まり返った都会の景色。
今日もまた、息の詰まる一日が始まってしまう。そんなアイドルらしくない暗い考えを振り払い、物音を立てないよう静かに洗面所へ向かった。
(洗濯機の使い方、貝元さんに聞いておけばよかったな)
料理も掃除も、家事全般はおそらく一般的な高校生より絶望的に苦手だ。
致命的な機械音痴というのもあるけれど、何より僕自身がズボラなのだと思う。身の回りの面倒ごとはいつも貝元さんに任せきりで、「自分で覚えよう」という発想が、これまでの人生にそもそもなかった。
脱衣所に鎮座する洗濯機は、パネルも最新式の液晶で、見たこともない機能がずらりと並んでいる。
どれが標準コースなのか、説明書なしでは見当もつかない。考えるだけで頭が痛くなってきた。
「まぁ、いっか……先に準備しないと」
昨日脱いだ服は見なかったことにして部屋に放置し、前髪をヘアピンで雑に留めて、冷たい水でぱしゃぱしゃと顔を洗う。着替えを終えてキッチンへ向かうと、部屋着姿でフライパンをあおる鍵野がいた。
換気扇が低く回る音。肉を炒めるその姿をじっと見ていると、火を止めた鍵野が、僕を一瞥して言った。
「え、お前何時に出んの」
「……五時だけど」
朝の第一声とは思えないほど、ドライな口調だった。鍵野は「あっそ」とだけ返し、肉野菜炒めらしきものを皿に盛ると、いい匂いを漂わせて僕の横を通り過ぎ、ダイニングテーブルについて当然のように食べ始めた。
(うわ、美味しそう……ちょっとだけ、食べたいかも)
昨日から空腹が続いているせいでそんなことを思ってしまったけれど、プライドがすぐにその気持ちを打ち消した。キッチンカウンターには、昨夜の帰り際に貝元さんが置いていってくれたゼリー飲料と菓子パンがある。それをがさりと掴み、気まずさから自室へ戻ろうとした。
そのとき、鍵野がテーブルの上の物を、何気なく自分の側へ寄せ始めた。僕が座るスペースを空けてくれているのだと、嫌でも伝わってくる。
(わざわざ部屋に逃げるのも、子供っぽいか)
小さく息をついて、鍵野の斜め向かいに腰を下ろした。お互いスマホに目を落としたまま、何を話せばいいのかも分からず、リビングには気まずい沈黙が漂う。
「……鍵野は、今日何時に仕事終わるの」
無音に耐えかねて、当たり障りのない話題を投げた。別に、仲良くしたいわけじゃない。あくまで同居人としての業務連絡、というニュアンスを、これでもかと込めたつもりだった。
けれど、僕のほうから声をかけられるとは思っていなかったのだろう。鍵野はスマホを操作する指を止め、ゆっくり顔を上げた。器用に箸を動かして肉を口へ運びながら、淡々とスケジュールを並べる。
「ここから高速で往復して、戻ってから歌番組の収録が二本。事務所でサイン書きもあるから、多分二十時は過ぎる」
「……ふぅん」
さすがは今をときめく売れっ子だ。もっとも、今日の僕も殺人的なスケジュールでは負けていない。興味なさげな相槌を最後に、会話はぷつりと途切れた。
ゼリー飲料をさっさと飲み干し、容器を小さく丸めてゴミ箱へ放る。続いて菓子パンの袋に手を伸ばした。カサカサと虚しい音を立ててパンをかじる僕を、鍵野がじっと見ていることに気づく。
「……そんなんで、メシ足りんの?」
「えっ?」
間の抜けた声が出た。目の前には、湯気を立てる肉野菜炒めがある。
(もしかして、ちょっと分けてあげようとか思ってる?)
ほんの一瞬、甘い期待がよぎった。昨日から何も入っていない胃が、現金にも鳴りそうになる。
その期待を嘲笑うように、鍵野の口元が意地悪く歪んだ。手にした箸の先を、僕の顔に向かって突きつけてくる。
「お前、家事も料理も壊滅的だって、社長から聞いたことある」
「……差し箸って知ってる?」
「は?」
「芸能学校でも、さすがに当たり前すぎて教えてくれないのかな」
「別に、マナーに気を付けなきゃいけない相手だと思ってねぇもん」
ぷつん、と頭の中で何かが切れた。それにしても社長は、こんなプライベートな極秘事項、というより弱点を、この生意気な後輩に吹き込んでくれたものだ。
「俺はあくまで同居人だから、アンタの面倒は一切見ねぇからな」
「なにそれ。別にやって欲しいなんて一言も……!」
「『食べさせてください、洗濯機の使い方も教えてください』って泣いて頼むなら、考えてやらなくもないけど」
楽しそうに目を細め、完全に格下扱いの態度で言い放つ。屈辱で僕の顔が赤くなっていくのを見て、鍵野は満足げに鼻で笑った。上から目線にもほどがある。誰がこんな意地の悪い男に頭を下げて、ご飯を恵んでもらうものか。
怒りに任せて、食べ終えたパンの袋をテーブルに放ると、鍵野は待っていましたとばかりに揚げ足を取ってきた。
「美人は怒っても美人っていうけど、ブスは怒るとさらにブスになるんだな」
「……構われたいからって、そういう嫌がらせ言わなくていいから」
「ふ、マジギレじゃん」
「仕事の話以外で、二度と僕に話し掛けないで」
先に声をかけたのは自分のくせに、とは思った。でも、こんな奴に歩み寄ろうとした僕が間違いだったのだ。
むすっとした顔を隠しきれないまま、ポケットからスマホを引き抜き、貝元さんに「早く迎えに来て」とメッセージを送る。急ぎ足で自室に戻り、トレンチコートを羽織って仕事用の鞄を掴み、リビングを横切った。そこで、キッチンからソファーへ戻ろうとした鍵野と鉢合わせ、前を塞がれる。
「邪魔。どいてくれる?」
「チビすぎて視界に入らなかったわ」
「僕、申し訳ないけど一七三あるからね。世の中の平均的な身長の男性にも失礼だから、謝ったほうがいいよ」
「何その三センチの無駄なこだわり。四捨五入したら一七〇の雑魚じゃん」
「小学生みたいな悪口はやめてもらえる? ハァ……それと、朝から人の進路を塞がないで欲しいんだけど」
「あ? こっちは動いてねーよ。勝手に突っ込んできたアンタの動体視力がバグってるだけだろ」
「そのデカい図体で、通路の真ん中に突っ立ってるほうが百パーセント悪いに決まってる」
鍵野は、もう僕など視界に入っていないと言わんばかりにソファーへ移ると、気だるげに頬杖をつき、ふいと窓の外へ顔を背けた。



