「……というわけだから。次の家が決まるまでの二ヶ月間、理央くんには凪斗くんの部屋に移ってもらう。近いうちに発表するユニットのプロジェクトは、すでに大手レコード会社や複数のクライアントと、数億規模の企画が動き始めてるんだ」
「はぁ……」
「これから先は、ユニットでの露出も増える。スキャンダルや不仲説なんて出たら、一発で違約金案件だからね。これを機に、プライベートでもお互いの呼吸を合わせておいて。二人が最高のビジネスツインになってくれるのを、楽しみにしてるよ」
貝元さんは僕たちの間に入って、同居とユニット結成に向けて、なんとか空気を和ませようとする。
けれど僕と鍵野は、リビングのソファで向かい合ったまま、鋭い視線をぶつけ、同時にふいっと顔を背けた。
「二人とも頑固だなぁ」と頭を掻きながらわざとらしく言われても、困るのはこっちだ。無愛想で、初対面の先輩にろくに挨拶もできない態度の悪い男と、二ヶ月も同じ屋根の下で暮らすなんて、どんな罰ゲームなんだろう。
理不尽な現実に頭が痛くなりながらも、喉元まで出かかった文句をどうにか飲み込んで、貝元さんを見上げた。
「貝元さん。もし僕たちの不仲が表に出て、ユニットが失敗したら、違約金っていくらくらいになるんですか?」
「そうだね……。内定してる大手化粧品会社のCMに、ライブ会場のキャンセル料、レーベル側への制作費の賠償まで含めると、二人合わせて最低でも五億かな」
「五億……?」
現実味のない天文学的な数字に、僕たちは弾かれたように顔を見合わせた。けれどそれも一瞬で、気まずさからすぐにまた反対側へ目を逸らす。どれだけ反発したところで、いちアイドルが逆らえる規模の話ではないのだ。
鍵野がチッと小さく舌打ちした。この数字の重みと事務所のトップダウンには逆らえないあたりは、年相応らしい。
「……俺、合鍵とか持ってないんですけど。もう一枚は、貝元さんが新しく用意してくれるんですか?」
「それなら大丈夫。社長から預かってるスペアのカードキーを、そのまま理央くんに渡すことになってるから」
……この数年で、最低限の敬語は身についたらしい。ひとまず安心した。
芸能コースのある高校に籍を置いている以上、仕事のない日は登校することになっている。挨拶やマナーに厳しい学校だから、そこで仕込まれたのだろう。
それにしても、どうして住まわせてもらう側の僕が確認すべきことを、鍵野が代わりに聞いているのか。態度が不遜なだけで、僕が思うほどこちらをライバル視してはいないのかもしれない。それならそれで好都合だ。プライベートまで火花を散らす必要がないなら、表面上はわりとすんなり、この二ヶ月をやり過ごせる気がする。
「それじゃあ、理央くんの荷物はここに置いていくからね」
急ぎ足で玄関へ向かう貝元さんに挨拶をすると、ドアがパタンと静かに閉まった。
途端に、広い玄関ホールへ気まずい沈黙が流れ出す。
(……僕は年上。こいつより大先輩。だから、大人にならないと)
胸の中で小さく息をつき、芸能界の先輩として、完璧な営業スマイルを顔に貼りつけた。表面上だけでも上手くやれる可能性があるなら、わざわざ険悪になる必要はない。形だけでも改めて「宜しく」と言おうと、鍵野のほうへ向き直った、その瞬間だった。
「…………」
鍵野はシューズクロークに片手をつき、気だるげな姿勢のまま、微動だにせずこちらを見ていた。貝元さんの前で見せていた、少しおとなしい年相応の顔は、もうどこにもない。冷え切った瞳で僕を見下ろし、低く平坦な声で言い放った。
「おい、ブス。なに余裕たっぷりみてえなツラしてんだよ」
「…………は?」
生まれてこのかた、一度も言われたことのない言葉だった。
産声を上げた瞬間から今日まで、どこへ行っても、何をしていても。居眠りしていようが、ぼんやり虚空を見つめていようが、僕の周りには「綺麗だね」「可愛い」「本当に美人」という賛辞があふれていた。挨拶と褒め言葉がセットの世界で生きてきた僕にとって、死ぬまで言われるはずがないと確信していた、最悪の侮蔑だった。
(ブスって、俺に向かって言ってる……?)
一瞬で頭に血が上り、思いきり眉を寄せて鍵野を睨み上げた。
やっぱり、嫌いな人間と馴れ合うなんて、上辺だけでもごめんだ。二ヶ月の間は極力部屋から出ず、ここは風呂と寝床だけのカプセルホテルだと割り切るしかない。最悪、自腹でホテル暮らしに切り替えてやろうか。そんな極論が、頭の中で次々に叩き出されていく。
怒りで声も出ない僕を見て、鍵野はフッと鼻で笑った。
「こっち向けって」
視界が強引に上へ向けられる。鍵野の骨張った大きな手が、僕の顎を、モノでも扱うように雑に掴み上げていた。
逃げようのない至近距離。鍵野の視線が、僕の目元から唇へ、指先でなぞるようにゆっくりと動く。
それはひどく傲慢で、色っぽい仕草。不本意極まりないけれど、心臓がドクンと大きく跳ねた。嫌悪しているはずなのに、間近から浴びせられる圧倒的な雄の気配に、体が勝手に気圧されている。
「何ガン無視してんだよ。人が話しかけてやってんのに」
「……ブスなんて言われたの、生まれて初めてだから。まさか僕のことだとは思わなかった」
嫌味をたっぷり込めて、極上の、けれど目だけは一切笑っていない微笑みを浮かべてみせた。自分で言うのもなんだが、並の人間ならこれだけで顔を赤くして平伏する美貌だ。その自負がある。
それなのに鍵野は、顎を掴んだまま、小馬鹿にするように目を細めて、僕を冷たく一瞥しただけだった。
「は? どこからどう見ても、アンタはブスだろ」
「ちょっと、離して――」
「鏡さえあれば、自分の顔にうっとりしてるタイプにしか見えねぇもんな。そんだけ整ってりゃ、人生楽しくて仕方ねぇだろ」
顎にかかる指に、さらに力がこもる。互いの呼吸が触れ合うほどに、顔の距離が縮まった。
「何それ、僕の顔がそんなに気に入らない? それとも嫉妬? ないものねだりって、みっともないと思うけど」
「嫉妬? そのツラでよく大口叩けるな。中身が性悪なのが透けて見えるから、ブスだって言ってんだよ。性格の悪さが、思いっきり滲み出てる顔してるぞ」
ひくん、と喉の奥で息が震えた。
僕の瞳の奥、そのさらに向こうにある歪んだ本音まで見透かすような、鋭い眼光。
どうしても目を逸らせなくて、恐怖を誤魔化すように、突き飛ばす勢いで鍵野の胸板を両手で押し返した。
「気安く触らないで」
「高慢だな、やっぱ性格ブスか」
玄関に置かれたままのキャリーケースのハンドルを掴み、床を引きずるようにして、あてがわれた自室へ逃げ込んだ。激しい音を立ててドアを閉め、指に力を込めて鍵をかける。
背中をドアに預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。体は悲鳴を上げそうなほど疲れていて、今すぐ眠れるはずなのに、頭だけが妙に冴えている。耳の奥で、暴れる心拍がうるさいくらいに響いていた。
(大先輩に向かって「性格ブス」? ていうか、鍵野にだけは絶対に言われたくない!)
膝を抱えてしばらく呼吸を整え、ようやく見回した部屋には、カーテンと段ボールが一箱あるだけだった。広すぎる部屋の真ん中に、事務所が用意した「あとで膨らませてね」というメモ付きのエアーベッドの箱が、ぽつんと転がっている。電動の空気入れも添えられているけれど、こんな巨大なものを膨らませる体力も気力も、今の僕には一ミリも残っていなかった。
「……うぅ、やばい……」
きゅるる、とお腹が鳴った。サンドイッチを食べたはずなのに、空腹を訴えている。でも、夕飯を考えるのすら面倒くさい。そもそも、この見知らぬ高級住宅街のどこにコンビニがあるのかも分からない。部屋を出てあの傲慢男と鉢合わせるくらいなら、一晩くらい絶食したほうがましだった。「なにか食べるものない?」なんて、あいつに頭を下げるのは死んでもごめんだ。
お風呂も同じだ。先にこの家で暮らしているのは鍵野で、浴室を借りるなら、最低限のマナーとして声をかけなければならない。けれど「お風呂に入ってもいい?」なんて同居人らしい会話を交わすこと自体が、今の僕には強烈なストレスだった。貸してと頼むなんて、死ぬほど癪に障る。
「もう限界……」
結局、冷たいフローリングの上に、そのまま横向きに寝そべった。ポケットからスマホを取り出し、貝元さんが送ってくれた明日のスケジュールに目を通す。
朝五時に迎え。六時に現場入りしてアー写撮影。その後は車で移動して、新しいCMの打ち合わせ。午後からはゲスト出演するテレビ番組の収録と、カラオケ用の動画のコメント撮り。それから、それから……いくらスクロールしても、終わりが見えない。
明日も今日と同じように、一瞬の隙もなく、完璧なトップアイドルとして笑い続けなければならないのだ。
(あー、お腹空いたな……。お風呂、入りたかったな……)
体はべたついているし、床は硬くて痛い。眩しい画面を消す気力もないまま、自分の腕を枕にして、重くなっていく瞼を閉じる。そのまま、深い眠りへ落ちていった。
「はぁ……」
「これから先は、ユニットでの露出も増える。スキャンダルや不仲説なんて出たら、一発で違約金案件だからね。これを機に、プライベートでもお互いの呼吸を合わせておいて。二人が最高のビジネスツインになってくれるのを、楽しみにしてるよ」
貝元さんは僕たちの間に入って、同居とユニット結成に向けて、なんとか空気を和ませようとする。
けれど僕と鍵野は、リビングのソファで向かい合ったまま、鋭い視線をぶつけ、同時にふいっと顔を背けた。
「二人とも頑固だなぁ」と頭を掻きながらわざとらしく言われても、困るのはこっちだ。無愛想で、初対面の先輩にろくに挨拶もできない態度の悪い男と、二ヶ月も同じ屋根の下で暮らすなんて、どんな罰ゲームなんだろう。
理不尽な現実に頭が痛くなりながらも、喉元まで出かかった文句をどうにか飲み込んで、貝元さんを見上げた。
「貝元さん。もし僕たちの不仲が表に出て、ユニットが失敗したら、違約金っていくらくらいになるんですか?」
「そうだね……。内定してる大手化粧品会社のCMに、ライブ会場のキャンセル料、レーベル側への制作費の賠償まで含めると、二人合わせて最低でも五億かな」
「五億……?」
現実味のない天文学的な数字に、僕たちは弾かれたように顔を見合わせた。けれどそれも一瞬で、気まずさからすぐにまた反対側へ目を逸らす。どれだけ反発したところで、いちアイドルが逆らえる規模の話ではないのだ。
鍵野がチッと小さく舌打ちした。この数字の重みと事務所のトップダウンには逆らえないあたりは、年相応らしい。
「……俺、合鍵とか持ってないんですけど。もう一枚は、貝元さんが新しく用意してくれるんですか?」
「それなら大丈夫。社長から預かってるスペアのカードキーを、そのまま理央くんに渡すことになってるから」
……この数年で、最低限の敬語は身についたらしい。ひとまず安心した。
芸能コースのある高校に籍を置いている以上、仕事のない日は登校することになっている。挨拶やマナーに厳しい学校だから、そこで仕込まれたのだろう。
それにしても、どうして住まわせてもらう側の僕が確認すべきことを、鍵野が代わりに聞いているのか。態度が不遜なだけで、僕が思うほどこちらをライバル視してはいないのかもしれない。それならそれで好都合だ。プライベートまで火花を散らす必要がないなら、表面上はわりとすんなり、この二ヶ月をやり過ごせる気がする。
「それじゃあ、理央くんの荷物はここに置いていくからね」
急ぎ足で玄関へ向かう貝元さんに挨拶をすると、ドアがパタンと静かに閉まった。
途端に、広い玄関ホールへ気まずい沈黙が流れ出す。
(……僕は年上。こいつより大先輩。だから、大人にならないと)
胸の中で小さく息をつき、芸能界の先輩として、完璧な営業スマイルを顔に貼りつけた。表面上だけでも上手くやれる可能性があるなら、わざわざ険悪になる必要はない。形だけでも改めて「宜しく」と言おうと、鍵野のほうへ向き直った、その瞬間だった。
「…………」
鍵野はシューズクロークに片手をつき、気だるげな姿勢のまま、微動だにせずこちらを見ていた。貝元さんの前で見せていた、少しおとなしい年相応の顔は、もうどこにもない。冷え切った瞳で僕を見下ろし、低く平坦な声で言い放った。
「おい、ブス。なに余裕たっぷりみてえなツラしてんだよ」
「…………は?」
生まれてこのかた、一度も言われたことのない言葉だった。
産声を上げた瞬間から今日まで、どこへ行っても、何をしていても。居眠りしていようが、ぼんやり虚空を見つめていようが、僕の周りには「綺麗だね」「可愛い」「本当に美人」という賛辞があふれていた。挨拶と褒め言葉がセットの世界で生きてきた僕にとって、死ぬまで言われるはずがないと確信していた、最悪の侮蔑だった。
(ブスって、俺に向かって言ってる……?)
一瞬で頭に血が上り、思いきり眉を寄せて鍵野を睨み上げた。
やっぱり、嫌いな人間と馴れ合うなんて、上辺だけでもごめんだ。二ヶ月の間は極力部屋から出ず、ここは風呂と寝床だけのカプセルホテルだと割り切るしかない。最悪、自腹でホテル暮らしに切り替えてやろうか。そんな極論が、頭の中で次々に叩き出されていく。
怒りで声も出ない僕を見て、鍵野はフッと鼻で笑った。
「こっち向けって」
視界が強引に上へ向けられる。鍵野の骨張った大きな手が、僕の顎を、モノでも扱うように雑に掴み上げていた。
逃げようのない至近距離。鍵野の視線が、僕の目元から唇へ、指先でなぞるようにゆっくりと動く。
それはひどく傲慢で、色っぽい仕草。不本意極まりないけれど、心臓がドクンと大きく跳ねた。嫌悪しているはずなのに、間近から浴びせられる圧倒的な雄の気配に、体が勝手に気圧されている。
「何ガン無視してんだよ。人が話しかけてやってんのに」
「……ブスなんて言われたの、生まれて初めてだから。まさか僕のことだとは思わなかった」
嫌味をたっぷり込めて、極上の、けれど目だけは一切笑っていない微笑みを浮かべてみせた。自分で言うのもなんだが、並の人間ならこれだけで顔を赤くして平伏する美貌だ。その自負がある。
それなのに鍵野は、顎を掴んだまま、小馬鹿にするように目を細めて、僕を冷たく一瞥しただけだった。
「は? どこからどう見ても、アンタはブスだろ」
「ちょっと、離して――」
「鏡さえあれば、自分の顔にうっとりしてるタイプにしか見えねぇもんな。そんだけ整ってりゃ、人生楽しくて仕方ねぇだろ」
顎にかかる指に、さらに力がこもる。互いの呼吸が触れ合うほどに、顔の距離が縮まった。
「何それ、僕の顔がそんなに気に入らない? それとも嫉妬? ないものねだりって、みっともないと思うけど」
「嫉妬? そのツラでよく大口叩けるな。中身が性悪なのが透けて見えるから、ブスだって言ってんだよ。性格の悪さが、思いっきり滲み出てる顔してるぞ」
ひくん、と喉の奥で息が震えた。
僕の瞳の奥、そのさらに向こうにある歪んだ本音まで見透かすような、鋭い眼光。
どうしても目を逸らせなくて、恐怖を誤魔化すように、突き飛ばす勢いで鍵野の胸板を両手で押し返した。
「気安く触らないで」
「高慢だな、やっぱ性格ブスか」
玄関に置かれたままのキャリーケースのハンドルを掴み、床を引きずるようにして、あてがわれた自室へ逃げ込んだ。激しい音を立ててドアを閉め、指に力を込めて鍵をかける。
背中をドアに預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。体は悲鳴を上げそうなほど疲れていて、今すぐ眠れるはずなのに、頭だけが妙に冴えている。耳の奥で、暴れる心拍がうるさいくらいに響いていた。
(大先輩に向かって「性格ブス」? ていうか、鍵野にだけは絶対に言われたくない!)
膝を抱えてしばらく呼吸を整え、ようやく見回した部屋には、カーテンと段ボールが一箱あるだけだった。広すぎる部屋の真ん中に、事務所が用意した「あとで膨らませてね」というメモ付きのエアーベッドの箱が、ぽつんと転がっている。電動の空気入れも添えられているけれど、こんな巨大なものを膨らませる体力も気力も、今の僕には一ミリも残っていなかった。
「……うぅ、やばい……」
きゅるる、とお腹が鳴った。サンドイッチを食べたはずなのに、空腹を訴えている。でも、夕飯を考えるのすら面倒くさい。そもそも、この見知らぬ高級住宅街のどこにコンビニがあるのかも分からない。部屋を出てあの傲慢男と鉢合わせるくらいなら、一晩くらい絶食したほうがましだった。「なにか食べるものない?」なんて、あいつに頭を下げるのは死んでもごめんだ。
お風呂も同じだ。先にこの家で暮らしているのは鍵野で、浴室を借りるなら、最低限のマナーとして声をかけなければならない。けれど「お風呂に入ってもいい?」なんて同居人らしい会話を交わすこと自体が、今の僕には強烈なストレスだった。貸してと頼むなんて、死ぬほど癪に障る。
「もう限界……」
結局、冷たいフローリングの上に、そのまま横向きに寝そべった。ポケットからスマホを取り出し、貝元さんが送ってくれた明日のスケジュールに目を通す。
朝五時に迎え。六時に現場入りしてアー写撮影。その後は車で移動して、新しいCMの打ち合わせ。午後からはゲスト出演するテレビ番組の収録と、カラオケ用の動画のコメント撮り。それから、それから……いくらスクロールしても、終わりが見えない。
明日も今日と同じように、一瞬の隙もなく、完璧なトップアイドルとして笑い続けなければならないのだ。
(あー、お腹空いたな……。お風呂、入りたかったな……)
体はべたついているし、床は硬くて痛い。眩しい画面を消す気力もないまま、自分の腕を枕にして、重くなっていく瞼を閉じる。そのまま、深い眠りへ落ちていった。



