「開演一分前です、橘花さん、お願いします」
「はい」
ライブ会場に響く、登場を今か今かと待ちわびるコール。何千人もの声が重なって、ひとつの大きな波になり、暗闇の向こうから舞台袖まで押し寄せてくる。それは床を伝って、足の裏まで低く震えるほどだった。
ライブモニターに『Sugar&Spice. First Live』のタイトルが浮かび上がると、白い光が暗闇を大きく照らした。その眩しさに目を瞬かせながら、僕はイヤモニにそっと左手を添える。耳の奥で、自分の心臓の音がとくん、とくんと響いていた。
ステージを照らすライトに包まれて、オルゴールのメロディが流れ出す。スタッフさんに足元をライトで照らしてもらいながら、そっと一歩を踏み出した。
暗がりの先には、青と水色のサイリウムの海が広がっていた。一面に灯る光が、息をするように淡く揺れている。会場の端から端までを埋めつくす光の粒のひとつひとつが、誰かの「会いたかった」なのだと思うと、胸の奥が締めつけられて、苦しくなった。
切ないバラードのイントロが、静寂のなかに溶けていく。歓声はふっと音を絞ったように止み、サイリウムの揺れもぴたりと止まった。何千という光が息を潜めて、僕の第一声を待っている。
「みなさん、こんばんは。Sugar&Spice.の橘花理央です」
本当なら、ステージの隣には凪斗がいるはずだった。ふたりで並んで、この景色を見るはずだった。凪斗はきっと、僕より先に「すげぇ」と笑って、それから照れ隠しみたいに僕の肩を小突くのだ。最高だな、と目を細めて。そう信じて疑わなかった。
(……凪斗と一緒に、この景色を見たかったな)
あれから僕は、少しずつ、本当に少しずつ、芸能活動を再開させていった。
事務所と自宅を往復してレッスンを受ける日々。凪斗とふたりで歌うはずだったアルバムの曲を覚え、振りを入れて、ライブを乗り切る体力をつけるためにジムに通い、規則正しい生活を送った。
家に帰るとくたくたで、貝元さんが日常的に支えてくれなければ、この日を迎えることはできなかったと思う。
夜は、不安よりも疲れのほうが勝つようになったけれど、たまに睡眠薬に頼る日もあった。プレッシャーに押しつぶされそうになって、宣伝のために出演した番組の収録後、テレビ局のトイレで吐いてしまったことも、一度や二度ではない。凪斗からの『今、リハビリ終わったところ。収録お疲れ』というメッセージに、いつもと変わらないトーンで『うん、ありがとう』と返し、冷たい個室の壁に額を押し当てていたこともある。
お互いにこれだけ頑張っているのだから、凪斗はきっと戻ってきてくれる。「やっぱりライブに出る」と言ってくれたら、笑顔で「うん」と受け入れよう。そんな日を、ずっと待ち望んでいた――けれど。
「今日は、シュガスパの記念すべきファーストライブにお越しいただき、ありがとうございます。凪斗くんがいないまま、みなさんを僕ひとりでお迎えするというのは……とっても不安だったんですが」
言いながら客席を見渡すと、前列で、もう大泣きしている女の子のファンと目が合った。頬を涙で濡らして、それでも僕から目を逸らさない。その手には、凪斗のファンサうちわが握られていた。胸がズキンと痛む。
本人がいなくても、凪斗推しのファンが、こうしてグッズを手に駆けつけてくれている。うちわも、タオルも、リストバンドも、ひとつひとつが凪斗の不在を静かに示していた。
「理央ーっ!」
「頑張れーっ!」
あちこちから飛んでくる声が、重なって、膨らんで、ステージを揺らす。サイリウムの海が、次の曲のイントロに合わせて大きくうねった。青と水色が混ざり合い、光の波になって押し寄せてくる。
本来なら、凪斗が左、僕が右に立つはずのフォーメーションだ。ステージの左半分が、ぽっかりと空いている。そこへ視線が吸い寄せられそうになるたびに、僕は意識して前だけを見た。振りの中で何度も、空いた左側へ体を向けかけて、そのたびにぎゅっと指先を握り込む。
数曲を歌い終えた頃には、足は鉛のように重く、息はとっくに上がっていた。額から伝った汗が顎の先で雫になり、ステージの床に落ちる。ライトの熱で、衣装の背中は肌に張りついていた。
「理央くん、理央くんっ!」
「こっち見て~!」
ステージの端から端まで駆けて、手を振って、笑って。
花道を進むたびに、ひとりひとりの顔を見ながら、僕は目を合わせて頷く。
やがて、ステージがふっと暗転した。真っ暗な会場に、ざわめきと、次の曲を待つ手拍子が満ちていく。僕はその音に追い立てられるように、急いで舞台袖へと捌けた。
「橘花さん、こちらです!」
暗がりのなか、スタッフさんのペンライトの小さな光を頼りに走る。待っていた貝元さんがペットボトルとタオルを差し出してくれたけれど、手が震えて、キャップがうまく開かなかった。
「理央くん、無理しないで。ほら」
貝元さんが代わりに開けてくれた水を、ひと息に流し込む。椅子に腰を下ろすなり、メイクさんが駆け寄ってきて、汗でよれた目元をパフで手早く押さえてくれる。ヘアメイクさんの指が、汗で束になった前髪をコームでほぐしながら整えていった。
「シャツの上から羽織ってください」
スタイリストさんが差し出してくれたのは、白を基調にした衣装だった。袖を通すと、さらりとした生地が、火照った肌に心地いい。胸元には、青と水色を淡くグラデーションさせたリボンが結ばれている。ふたりのメンバーカラーが寄り添うようにほどけ合っていて、ひと目で「僕たちのための衣装」だと分かった。
本当は、凪斗と色違いで着るはずだった衣装だ。そっと指でリボンの端をなぞると、絹のようなつるりとした手触りがした。
少しやつれた頬も、隠しきれないクマも、ファンデーションの下にまだ残っている。それでも、あの日の病室で泣いていた僕よりは、ずっとましな顔をしていると思った。
貝元さんが、気合を入れるように僕の背中を軽く叩く。
「理央、いってらっしゃい」
「……はい」
立ち上がると、膝がかすかに笑った。それでも、ちゃんと歩き出す。
ステージの中央に立つと、さっきまでの熱が嘘のように、静かな光が僕ひとりを包み込んだ。ひと筋のスポットライトが、足元に小さな円を描いている。その外側の暗闇では、青と水色のサイリウムが、ゆるやかに揺れていた。
ざわめきがすっと引いていく。何千人もの息づかいが、一斉に僕へ向かうのが分かった。
「……次が最後の曲になります。この曲は、凪斗くんと僕が、ふたりで初めて一緒にレコーディングした曲です。今日はひとりですが、ふたりで歌っているつもりで歌います。聴いてください。『星空のDearest』」
ピアノの旋律が、静寂にほどけていく。一音一音が、水面に落ちる雫のように、会場の隅々へ広がっていった。
この曲だけは、凪斗のパートを原曲の音源の声に任せるという演出だった。僕のパートを歌い終え、小さな間のあと――スピーカーから、少し低くて優しい声が流れ出す。ライブモニターには、ドキュメンタリーのために撮り下ろされていた密着映像が数カット映し出された。
レッスンで汗を拭う横顔、レコーディングブースで照れくさそうに笑う顔、僕の隣でふざけながら肩をぶつけて、いたずらっぽくおどける仕草。
『すれ違う言葉が 棘になって刺さるのに 嫌いになれない むしろ愛しくて』
凪斗のパートに入った途端、客席のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。前列の女の子はハンカチで顔を覆っていて、その隣の子は、凪斗のうちわを胸に抱きしめたまま、ぎゅっと目を閉じて聴いている。
(……みんな、ありがとう)
声には出さず、心の中で何度も繰り返した。
サビの手前で、客席のサイリウムが、ひとつ、またひとつと光を落としていく。気づけば会場は、暗闇に包まれていた。その暗闇のなかで、モニターの光だけが、画面の中の凪斗を淡く浮かび上がらせている。
『届かない願いだと知っていても この胸の痛みは あなたの名前を呼ぶ
ずっとそばにいて そう言えなかった夜に 瞬く星屑が涙に濡れていく』
ラストのサビで、僕は空いたままの隣へ、そっと左手を差し出した。
指先が、何もない空間をなぞる。いつもなら、そこで凪斗の手が、僕の手を握り返してくれるはずだった。
誰もいないはずの空間に、ふっと温もりが触れた気がして――最後の一音を、僕は涙といっしょに、まっすぐ客席の向こうへ届ける。
『You are my dearest... 遠い星空の向こう』
余韻のなかで、会場が割れんばかりの拍手に包まれる。深く頭を下げ、顔を上げたところで、ライトが少しだけ明るくなった。
ライブ終わりの最後の挨拶だ。社長や貝元さんが用意してくれた文面は、きちんと頭に入っている。けれど、ステージの高揚感に背中を押されて、自分の言葉で話したくなった。大人が用意した、ありきたりな言葉じゃなくて。この数か月間と、凪斗と出会ってからの半年間を、僕自身の言葉で伝えたかった。
「シュガスパを凪斗くんと結成してから、この半年は、短いようで長いようで……でも、今になってみると、やっぱり短かったって思います。ユニットとして完璧な姿をみなさんに見せたかった。記念すべき初ライブをひとりで行うことになって、悲しい思いをさせてしまったと思います」
ふう、と息を吐く。もし社長も貝元さんも反対なら、すぐにマイクの音声を切られるかもしれない。
そう思って袖に目をやると、ふたりは何も言わず、腕組みをして見守ってくれていた。もう一度、客席に向き直る。
「これだけは言わせてください。僕も凪斗くんも、シュガスパのことが、そしてファンの皆さんのことが大好きです。アイドルとして、ユニットとして、本当に幸せです。だからこそ、今見ているこの景色を……凪斗くんと」
一緒に見たかったです。そう言いかけて、言葉に詰まる。
演技でもなんでもない、計算なんかひとつもない涙がとめどなく溢れてきて、僕は思わず顔を背けた。
すると、客席から一気に声援とコールが沸き起こる。
早く言い切って、頭を下げなきゃいけない。俯いたまま手の甲で涙を拭っていると、声援に満ちていた場内に、どよめきのような声が広がった。
ざわ、と空気が揺れる。悲鳴にも似た歓声が、波のように客席の後方から押し寄せてくる。何事かと顔を上げた瞬間、力強く体を抱きしめられた。
口を開きかけるより先に、僕の手の中のコンデンサーマイクへ、大きな手がそっと伸びる。かち、と電源を落とした小さな感触が、指先に伝わった。
「理央」
割れんばかりの拍手と歓声のなか、衣装ではなく私服姿の凪斗が、ぎゅっと僕の体を抱きしめている。
耳元で名前を呼ぶ、聞き慣れた低い声。シャツ越しに伝わる体温と、少しだけ速い鼓動。凪斗がいつも使っている香水の匂いがして、それだけで膝から力が抜けそうになった。
「……凪斗?」
信じられない気持ちで、おそるおそる顔を上げた。すると凪斗も、僕の顔を確かめるように、そっと両手で頬を包み込んでくる。親指が、涙で濡れた目尻をやさしく拭っていった。
肩には、まだ動かしづらいのか、庇うような角度がある。それでも凪斗は、いつもの少し意地悪な、それでいてどうしようもなく優しい目で、僕だけを見ていた。
「な、なんで。ライブも観に来られないって……」
「驚かせてごめん。でも、ここで来なかったら、やっぱり一生後悔するって思ったから」
こんな演出は聞いていない。
社長も貝元さんも、凪斗は今日の午前中もリハビリがあって、たとえスケジュールを調整したとしても、ステージに立つことなんてまだ到底できない、と言っていた。だから、後日ライブの映像を見せる。凪斗本人すら、三日前の電話でも「出られない」と、あんなに何度も謝ってきたくせに。
ちらりと袖へ目をやると、社長と貝元さんが、悪戯が成功した子供みたいな顔で、揃って笑っていた。腕組みをして見守っていたのは、反対していなかったからじゃない。この瞬間を、知っていたからだ。
「ほ、ほんと有り得ない。何考えてんの?」
嬉しいけれど、腹立たしい。震える声で責めるように言ったのに、語尾はみっともなく掠れて、涙に溶けていく。
凪斗は僕の泣き顔を見つめながら困ったように、くしゃりと笑った。
「ごめんって。お前が一人で頑張ってるの、病室でずっと見てた。会見も、番組も。でも、ライブを逃すのは、やっぱり無理だった」
「だからって、こんなサプライズにしなくても……っ」
「だって、先に言ったら、理央は絶対『無理しないで』って言うだろ。それに、俺の顔見たら、きっとさっきの歌も歌えなくなってた」
僕の頬を包んでいた手が、そっと下りてきて、左手をぎゅっと握る。さっき、何もない空間に差し出したのと、同じ手を。
「さっき、理央が手を伸ばしてたの、袖から見えた」
「……っ」
「ここにアイドルとして立つのは、まだ無理だけどさ。握り返すくらいなら、できると思って」
喉の奥から、嗚咽が漏れた。
あの日、握手会で僕を庇ってくれた。病室で、僕の手首を確かめるように撫でてくれた。その温もりが、いま、僕の指先を包んでいる。
客席から、波のように悲鳴にも似た歓声が上がる。サイリウムが再び一斉に灯り、青と水色が、僕たちを包み込むように大きく揺れた。何千人ものファンが、泣きながら、笑いながら、ふたつの名前を呼んでいる。
「理央ー!」
「凪斗くーん! おかえりーっ!」
前列の女の子は、うちわを高く掲げたまま、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。さっきまで凪斗の不在を照らしていたうちわが、今はまっすぐに、本人へ向けられている。
凪斗は一度だけ客席へ向き直ると、照れくさそうに片手を上げた。それだけで、会場がさらに大きく揺れる。
それから僕のほうへ向き直り、耳元で小さく囁いた。
「……ただいま、理央」
「おかえり……凪斗」
口にした瞬間、喉の奥が熱くなる。何度も頭の中で「凪斗が退院して来たら」と練習した言葉だったのに。
凪斗は照れくさそうに笑って、それから、ふっと表情を引き締める。
「マイクの電源を入れる前に、一個だけ……今ここで、理央に答えてほしいことがある」
「な、なに?」
「俺も、理央と同じ家に帰りたい」
一拍、息が止まった。
冗談めかした響きは、どこにもなかった。まっすぐに僕を見つめる瞳が、返事を待っている。
「……うん、僕はずっと待ってるよ」
「それで、これからもずっと、今の言葉を聞かせてほしい。『おかえり』って、理央に迎えてほしいんだ」
「……っ、本当にバカ。最初からずっと、そのつもりだってば……!」
言葉にした途端、堪えていたものが一気に決壊した。
僕は凪斗の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくり、包帯の下で痛んでいるはずの肩を気遣う余裕もなくしがみつく。
凪斗は何も言わず、僕の背中を何度も、何度もさすってくれた。
やがて、ステージの下に控えていたスタッフさんが、そっと凪斗にマイクを差し出す。
凪斗はそれを受け取ると、僕の手を握ったまま、客席を見渡した。歓声が、ふっと静まる。
「みなさん、驚かせてしまってすみません。鍵野凪斗です。……今日は、ステージで踊ることも、歌うこともできません。前みたいに、全力のパフォーマンスをお見せできるまでには、きっと、まだ時間がかかります。でも、俺はステージに戻ってきたい。理央くんと一緒に、もう一度、みなさんの前に立ちたい。だから、それまで待っていてもらえませんか」
一瞬の静寂のあと、会場が割れた。
拍手と歓声、泣き声と笑い声。サイリウムの光がゆらゆらと揺れて、本物の星空が降ってきたみたいだった。
「待ってるー!」
「ずっと待ってるよー!」
凪斗がほっとしたように息を吐く。その横顔を見上げながら、僕は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、スタッフさんからもう一本のマイクを受け取った。電源を入れ直すと、小さくノイズが走る。
「僕も、凪斗くんが戻ってくる場所を、これからも守ります。だから……」
隣を見る。凪斗は頷きながら、やさしく目を細めた。
「次は、必ずふたりでここに立つ事をお約束します」
その言葉に、会場中がもう一度大きく波打つ。
空いていたはずの左隣には、いま、凪斗の体温がある。
この握り合った手の温もりがあれば、もう一度だけ、いや、何度だって――走り出せる気がした。
「はい」
ライブ会場に響く、登場を今か今かと待ちわびるコール。何千人もの声が重なって、ひとつの大きな波になり、暗闇の向こうから舞台袖まで押し寄せてくる。それは床を伝って、足の裏まで低く震えるほどだった。
ライブモニターに『Sugar&Spice. First Live』のタイトルが浮かび上がると、白い光が暗闇を大きく照らした。その眩しさに目を瞬かせながら、僕はイヤモニにそっと左手を添える。耳の奥で、自分の心臓の音がとくん、とくんと響いていた。
ステージを照らすライトに包まれて、オルゴールのメロディが流れ出す。スタッフさんに足元をライトで照らしてもらいながら、そっと一歩を踏み出した。
暗がりの先には、青と水色のサイリウムの海が広がっていた。一面に灯る光が、息をするように淡く揺れている。会場の端から端までを埋めつくす光の粒のひとつひとつが、誰かの「会いたかった」なのだと思うと、胸の奥が締めつけられて、苦しくなった。
切ないバラードのイントロが、静寂のなかに溶けていく。歓声はふっと音を絞ったように止み、サイリウムの揺れもぴたりと止まった。何千という光が息を潜めて、僕の第一声を待っている。
「みなさん、こんばんは。Sugar&Spice.の橘花理央です」
本当なら、ステージの隣には凪斗がいるはずだった。ふたりで並んで、この景色を見るはずだった。凪斗はきっと、僕より先に「すげぇ」と笑って、それから照れ隠しみたいに僕の肩を小突くのだ。最高だな、と目を細めて。そう信じて疑わなかった。
(……凪斗と一緒に、この景色を見たかったな)
あれから僕は、少しずつ、本当に少しずつ、芸能活動を再開させていった。
事務所と自宅を往復してレッスンを受ける日々。凪斗とふたりで歌うはずだったアルバムの曲を覚え、振りを入れて、ライブを乗り切る体力をつけるためにジムに通い、規則正しい生活を送った。
家に帰るとくたくたで、貝元さんが日常的に支えてくれなければ、この日を迎えることはできなかったと思う。
夜は、不安よりも疲れのほうが勝つようになったけれど、たまに睡眠薬に頼る日もあった。プレッシャーに押しつぶされそうになって、宣伝のために出演した番組の収録後、テレビ局のトイレで吐いてしまったことも、一度や二度ではない。凪斗からの『今、リハビリ終わったところ。収録お疲れ』というメッセージに、いつもと変わらないトーンで『うん、ありがとう』と返し、冷たい個室の壁に額を押し当てていたこともある。
お互いにこれだけ頑張っているのだから、凪斗はきっと戻ってきてくれる。「やっぱりライブに出る」と言ってくれたら、笑顔で「うん」と受け入れよう。そんな日を、ずっと待ち望んでいた――けれど。
「今日は、シュガスパの記念すべきファーストライブにお越しいただき、ありがとうございます。凪斗くんがいないまま、みなさんを僕ひとりでお迎えするというのは……とっても不安だったんですが」
言いながら客席を見渡すと、前列で、もう大泣きしている女の子のファンと目が合った。頬を涙で濡らして、それでも僕から目を逸らさない。その手には、凪斗のファンサうちわが握られていた。胸がズキンと痛む。
本人がいなくても、凪斗推しのファンが、こうしてグッズを手に駆けつけてくれている。うちわも、タオルも、リストバンドも、ひとつひとつが凪斗の不在を静かに示していた。
「理央ーっ!」
「頑張れーっ!」
あちこちから飛んでくる声が、重なって、膨らんで、ステージを揺らす。サイリウムの海が、次の曲のイントロに合わせて大きくうねった。青と水色が混ざり合い、光の波になって押し寄せてくる。
本来なら、凪斗が左、僕が右に立つはずのフォーメーションだ。ステージの左半分が、ぽっかりと空いている。そこへ視線が吸い寄せられそうになるたびに、僕は意識して前だけを見た。振りの中で何度も、空いた左側へ体を向けかけて、そのたびにぎゅっと指先を握り込む。
数曲を歌い終えた頃には、足は鉛のように重く、息はとっくに上がっていた。額から伝った汗が顎の先で雫になり、ステージの床に落ちる。ライトの熱で、衣装の背中は肌に張りついていた。
「理央くん、理央くんっ!」
「こっち見て~!」
ステージの端から端まで駆けて、手を振って、笑って。
花道を進むたびに、ひとりひとりの顔を見ながら、僕は目を合わせて頷く。
やがて、ステージがふっと暗転した。真っ暗な会場に、ざわめきと、次の曲を待つ手拍子が満ちていく。僕はその音に追い立てられるように、急いで舞台袖へと捌けた。
「橘花さん、こちらです!」
暗がりのなか、スタッフさんのペンライトの小さな光を頼りに走る。待っていた貝元さんがペットボトルとタオルを差し出してくれたけれど、手が震えて、キャップがうまく開かなかった。
「理央くん、無理しないで。ほら」
貝元さんが代わりに開けてくれた水を、ひと息に流し込む。椅子に腰を下ろすなり、メイクさんが駆け寄ってきて、汗でよれた目元をパフで手早く押さえてくれる。ヘアメイクさんの指が、汗で束になった前髪をコームでほぐしながら整えていった。
「シャツの上から羽織ってください」
スタイリストさんが差し出してくれたのは、白を基調にした衣装だった。袖を通すと、さらりとした生地が、火照った肌に心地いい。胸元には、青と水色を淡くグラデーションさせたリボンが結ばれている。ふたりのメンバーカラーが寄り添うようにほどけ合っていて、ひと目で「僕たちのための衣装」だと分かった。
本当は、凪斗と色違いで着るはずだった衣装だ。そっと指でリボンの端をなぞると、絹のようなつるりとした手触りがした。
少しやつれた頬も、隠しきれないクマも、ファンデーションの下にまだ残っている。それでも、あの日の病室で泣いていた僕よりは、ずっとましな顔をしていると思った。
貝元さんが、気合を入れるように僕の背中を軽く叩く。
「理央、いってらっしゃい」
「……はい」
立ち上がると、膝がかすかに笑った。それでも、ちゃんと歩き出す。
ステージの中央に立つと、さっきまでの熱が嘘のように、静かな光が僕ひとりを包み込んだ。ひと筋のスポットライトが、足元に小さな円を描いている。その外側の暗闇では、青と水色のサイリウムが、ゆるやかに揺れていた。
ざわめきがすっと引いていく。何千人もの息づかいが、一斉に僕へ向かうのが分かった。
「……次が最後の曲になります。この曲は、凪斗くんと僕が、ふたりで初めて一緒にレコーディングした曲です。今日はひとりですが、ふたりで歌っているつもりで歌います。聴いてください。『星空のDearest』」
ピアノの旋律が、静寂にほどけていく。一音一音が、水面に落ちる雫のように、会場の隅々へ広がっていった。
この曲だけは、凪斗のパートを原曲の音源の声に任せるという演出だった。僕のパートを歌い終え、小さな間のあと――スピーカーから、少し低くて優しい声が流れ出す。ライブモニターには、ドキュメンタリーのために撮り下ろされていた密着映像が数カット映し出された。
レッスンで汗を拭う横顔、レコーディングブースで照れくさそうに笑う顔、僕の隣でふざけながら肩をぶつけて、いたずらっぽくおどける仕草。
『すれ違う言葉が 棘になって刺さるのに 嫌いになれない むしろ愛しくて』
凪斗のパートに入った途端、客席のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。前列の女の子はハンカチで顔を覆っていて、その隣の子は、凪斗のうちわを胸に抱きしめたまま、ぎゅっと目を閉じて聴いている。
(……みんな、ありがとう)
声には出さず、心の中で何度も繰り返した。
サビの手前で、客席のサイリウムが、ひとつ、またひとつと光を落としていく。気づけば会場は、暗闇に包まれていた。その暗闇のなかで、モニターの光だけが、画面の中の凪斗を淡く浮かび上がらせている。
『届かない願いだと知っていても この胸の痛みは あなたの名前を呼ぶ
ずっとそばにいて そう言えなかった夜に 瞬く星屑が涙に濡れていく』
ラストのサビで、僕は空いたままの隣へ、そっと左手を差し出した。
指先が、何もない空間をなぞる。いつもなら、そこで凪斗の手が、僕の手を握り返してくれるはずだった。
誰もいないはずの空間に、ふっと温もりが触れた気がして――最後の一音を、僕は涙といっしょに、まっすぐ客席の向こうへ届ける。
『You are my dearest... 遠い星空の向こう』
余韻のなかで、会場が割れんばかりの拍手に包まれる。深く頭を下げ、顔を上げたところで、ライトが少しだけ明るくなった。
ライブ終わりの最後の挨拶だ。社長や貝元さんが用意してくれた文面は、きちんと頭に入っている。けれど、ステージの高揚感に背中を押されて、自分の言葉で話したくなった。大人が用意した、ありきたりな言葉じゃなくて。この数か月間と、凪斗と出会ってからの半年間を、僕自身の言葉で伝えたかった。
「シュガスパを凪斗くんと結成してから、この半年は、短いようで長いようで……でも、今になってみると、やっぱり短かったって思います。ユニットとして完璧な姿をみなさんに見せたかった。記念すべき初ライブをひとりで行うことになって、悲しい思いをさせてしまったと思います」
ふう、と息を吐く。もし社長も貝元さんも反対なら、すぐにマイクの音声を切られるかもしれない。
そう思って袖に目をやると、ふたりは何も言わず、腕組みをして見守ってくれていた。もう一度、客席に向き直る。
「これだけは言わせてください。僕も凪斗くんも、シュガスパのことが、そしてファンの皆さんのことが大好きです。アイドルとして、ユニットとして、本当に幸せです。だからこそ、今見ているこの景色を……凪斗くんと」
一緒に見たかったです。そう言いかけて、言葉に詰まる。
演技でもなんでもない、計算なんかひとつもない涙がとめどなく溢れてきて、僕は思わず顔を背けた。
すると、客席から一気に声援とコールが沸き起こる。
早く言い切って、頭を下げなきゃいけない。俯いたまま手の甲で涙を拭っていると、声援に満ちていた場内に、どよめきのような声が広がった。
ざわ、と空気が揺れる。悲鳴にも似た歓声が、波のように客席の後方から押し寄せてくる。何事かと顔を上げた瞬間、力強く体を抱きしめられた。
口を開きかけるより先に、僕の手の中のコンデンサーマイクへ、大きな手がそっと伸びる。かち、と電源を落とした小さな感触が、指先に伝わった。
「理央」
割れんばかりの拍手と歓声のなか、衣装ではなく私服姿の凪斗が、ぎゅっと僕の体を抱きしめている。
耳元で名前を呼ぶ、聞き慣れた低い声。シャツ越しに伝わる体温と、少しだけ速い鼓動。凪斗がいつも使っている香水の匂いがして、それだけで膝から力が抜けそうになった。
「……凪斗?」
信じられない気持ちで、おそるおそる顔を上げた。すると凪斗も、僕の顔を確かめるように、そっと両手で頬を包み込んでくる。親指が、涙で濡れた目尻をやさしく拭っていった。
肩には、まだ動かしづらいのか、庇うような角度がある。それでも凪斗は、いつもの少し意地悪な、それでいてどうしようもなく優しい目で、僕だけを見ていた。
「な、なんで。ライブも観に来られないって……」
「驚かせてごめん。でも、ここで来なかったら、やっぱり一生後悔するって思ったから」
こんな演出は聞いていない。
社長も貝元さんも、凪斗は今日の午前中もリハビリがあって、たとえスケジュールを調整したとしても、ステージに立つことなんてまだ到底できない、と言っていた。だから、後日ライブの映像を見せる。凪斗本人すら、三日前の電話でも「出られない」と、あんなに何度も謝ってきたくせに。
ちらりと袖へ目をやると、社長と貝元さんが、悪戯が成功した子供みたいな顔で、揃って笑っていた。腕組みをして見守っていたのは、反対していなかったからじゃない。この瞬間を、知っていたからだ。
「ほ、ほんと有り得ない。何考えてんの?」
嬉しいけれど、腹立たしい。震える声で責めるように言ったのに、語尾はみっともなく掠れて、涙に溶けていく。
凪斗は僕の泣き顔を見つめながら困ったように、くしゃりと笑った。
「ごめんって。お前が一人で頑張ってるの、病室でずっと見てた。会見も、番組も。でも、ライブを逃すのは、やっぱり無理だった」
「だからって、こんなサプライズにしなくても……っ」
「だって、先に言ったら、理央は絶対『無理しないで』って言うだろ。それに、俺の顔見たら、きっとさっきの歌も歌えなくなってた」
僕の頬を包んでいた手が、そっと下りてきて、左手をぎゅっと握る。さっき、何もない空間に差し出したのと、同じ手を。
「さっき、理央が手を伸ばしてたの、袖から見えた」
「……っ」
「ここにアイドルとして立つのは、まだ無理だけどさ。握り返すくらいなら、できると思って」
喉の奥から、嗚咽が漏れた。
あの日、握手会で僕を庇ってくれた。病室で、僕の手首を確かめるように撫でてくれた。その温もりが、いま、僕の指先を包んでいる。
客席から、波のように悲鳴にも似た歓声が上がる。サイリウムが再び一斉に灯り、青と水色が、僕たちを包み込むように大きく揺れた。何千人ものファンが、泣きながら、笑いながら、ふたつの名前を呼んでいる。
「理央ー!」
「凪斗くーん! おかえりーっ!」
前列の女の子は、うちわを高く掲げたまま、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。さっきまで凪斗の不在を照らしていたうちわが、今はまっすぐに、本人へ向けられている。
凪斗は一度だけ客席へ向き直ると、照れくさそうに片手を上げた。それだけで、会場がさらに大きく揺れる。
それから僕のほうへ向き直り、耳元で小さく囁いた。
「……ただいま、理央」
「おかえり……凪斗」
口にした瞬間、喉の奥が熱くなる。何度も頭の中で「凪斗が退院して来たら」と練習した言葉だったのに。
凪斗は照れくさそうに笑って、それから、ふっと表情を引き締める。
「マイクの電源を入れる前に、一個だけ……今ここで、理央に答えてほしいことがある」
「な、なに?」
「俺も、理央と同じ家に帰りたい」
一拍、息が止まった。
冗談めかした響きは、どこにもなかった。まっすぐに僕を見つめる瞳が、返事を待っている。
「……うん、僕はずっと待ってるよ」
「それで、これからもずっと、今の言葉を聞かせてほしい。『おかえり』って、理央に迎えてほしいんだ」
「……っ、本当にバカ。最初からずっと、そのつもりだってば……!」
言葉にした途端、堪えていたものが一気に決壊した。
僕は凪斗の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくり、包帯の下で痛んでいるはずの肩を気遣う余裕もなくしがみつく。
凪斗は何も言わず、僕の背中を何度も、何度もさすってくれた。
やがて、ステージの下に控えていたスタッフさんが、そっと凪斗にマイクを差し出す。
凪斗はそれを受け取ると、僕の手を握ったまま、客席を見渡した。歓声が、ふっと静まる。
「みなさん、驚かせてしまってすみません。鍵野凪斗です。……今日は、ステージで踊ることも、歌うこともできません。前みたいに、全力のパフォーマンスをお見せできるまでには、きっと、まだ時間がかかります。でも、俺はステージに戻ってきたい。理央くんと一緒に、もう一度、みなさんの前に立ちたい。だから、それまで待っていてもらえませんか」
一瞬の静寂のあと、会場が割れた。
拍手と歓声、泣き声と笑い声。サイリウムの光がゆらゆらと揺れて、本物の星空が降ってきたみたいだった。
「待ってるー!」
「ずっと待ってるよー!」
凪斗がほっとしたように息を吐く。その横顔を見上げながら、僕は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、スタッフさんからもう一本のマイクを受け取った。電源を入れ直すと、小さくノイズが走る。
「僕も、凪斗くんが戻ってくる場所を、これからも守ります。だから……」
隣を見る。凪斗は頷きながら、やさしく目を細めた。
「次は、必ずふたりでここに立つ事をお約束します」
その言葉に、会場中がもう一度大きく波打つ。
空いていたはずの左隣には、いま、凪斗の体温がある。
この握り合った手の温もりがあれば、もう一度だけ、いや、何度だって――走り出せる気がした。



