歌番組での失態のあと、社長に半ば強制的に休みを取らされた。僕は渋々、その提案をのむしかなかった。あれ以上みっともないパフォーマンスはできないし、世間のほとぼりが冷めるまでは、無理にユニットの活動を続けない方がいい。そのことは、自分でも痛いほど分かっていたから。
あのストーカーに知られてしまった凪斗と僕の住まいは、ふたりとも不在のまま、荷物だけが事務所に回収された。そして僕は社長の自宅から、新しく手配されたセキュリティのより厳重なマンションへ仮住まいとして引っ越すことになった。
がらんとした新しい部屋。貝元さんが最低限の荷ほどきを手伝ってくれたけれど、殺風景で、とにかく広く感じる。きっと、凪斗と、部屋が汚いとか片付けろとか……ああだこうだ言い合いながら暮らす毎日に、いつの間にかすっかり慣れてしまっていたからだ。
『おやすみ、凪斗』
数日ぶりにトーク画面を開いて、凪斗にメッセージを送る。案の定、既読はつかない。
それでも、社長や貝元さんから聞かされた現実が、胸の奥を重く押さえつけていた。
凪斗の意識は、あの手術のあとすぐに戻っている。けれど、肩の傷は深く、長いリハビリが必要になる。事件そのものが心に残した傷も大きい。そして、怪我の影響で腕を思うように動かせず、これまでと同じようにステージをこなすのは、相当に難しいかもしれないということだった。
それを知ってから、凪斗がどれだけ絶望して、思い悩んでいるのかを想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。僕を守ったせいで、凪斗が大切にしてきたアイドルとしての未来まで傷つけてしまったと、暗い部屋の中でひとり膝を抱える。
(今、どんなことを考えて……過ごしているんだろう)
冷たいベッドの上で枕を抱き寄せ、顔を埋める。あの家で、凪斗がずっと使っていた枕だ。
事務所に荷物が送り返されたとき、そこから更に必要最低限のものをまとめるように言われた。僕は、貝元さんには内緒で、凪斗の枕と部屋着のパーカーを、こっそり段ボールに詰めたのだった。姿も見られず、声も聴けず、触れることもできないなら、せめて凪斗の気配が残る「何か」が欲しかった。
「っ、う……うぅっ……」
奥歯を噛みしめても、涙は次から次へと溢れて止まらない。
会いたい。会いたい。一目でいいから、ほんの少しでいいから、凪斗に触れて、名前を呼びたい。
どこにも安心できる場所がなくて、誰にも甘えられないまま、あの日からずっと、僕の心は冷たい涙の海を漂っている。いっそ沈んでしまえたら楽なのに、胸の底から大きな波が何度も押し寄せて、すべてを呑み込んでいく。溺れかけているみたいに、はくはくと浅い息を繰り返すことしか出来ない。
「凪斗……っ」
出るはずがないことは、分かっている。それでも、何かにすがらなければ正気を保てなくて、僕は震える指で通話ボタンを押した。静まり返った部屋に、コール音が響く。スマホを耳に当てて、ただ待った。
寝不足の日が続いて、食事もまともに喉を通らず、頭の中には霧がかかったようだった。いつもの自動音声が『お繋ぎできませんでした』と告げるのを、ぼんやり待っていた、その時。
『……理央』
聞き慣れた、けれど久しぶりの、低い声。名前を呼ばれた瞬間、しゃくり上げていた嗚咽が、ぴたりと止まった。間違いなく、凪斗の声だった。
「な、なぎと……?」
情けなく鼻をすすってしまう。スマホの向こうで、凪斗が重たげに身じろぎして、ごそ、と衣擦れの音をたてた。
『メッセージ、全然返せなくてごめんな』
「…………っ」
『おい、聞こえてる?』
「うん……うん、聞こえてるよ……っ」
溢れてきた涙を、袖口で乱暴にぬぐう。夢じゃないのか確かめたくて、「体は大丈夫なの?」「本当に話せるの?」と、矢継ぎ早に聞きたかった。
けれど、電話の向こうから届く凪斗の穏やかな声が、それをそっと押しとどめる。
『まだ、起き上がるだけでもしんどくてさ……』
「そっか。無理しないで、ゆっくり治して。僕、ずっと待ってるから。ずっと、待ってるからね」
『うん、分かってる。俺がいない分のステージも、一人で背負って頑張ってくれて、ありがとうな』
「……っ、ふ、うぅっ……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、涙がこぼれた。
分かってしまったのだ。これが、現実じゃないってことに。
だって、電話越しのはずなのに、暗い部屋の中に、凪斗の姿が見えてしまったから。白い病室のベッドの上で、痛む体を半分起こして、困ったように、愛おしそうに目を細めて笑う顔。それが鮮やかに浮かんで、消えてくれない。
「…………」
薄く目を開けた先にあったのは、どこまでも暗い、凪斗のいない部屋だった。画面には「通話キャンセル」の文字が浮かんでいる。その小さな光だけが、部屋をぼんやりと照らしていた。
(会いたい……会いたいよ、凪斗)
息が詰まりそうになりながら、凪斗の匂いが残るパーカーの袖を、顔に強く押し当てる。どこにも残っていないはずの温もりを胸に抱き寄せて、これ以上心が壊れてしまいませんように、と祈る。
僕はぐちゃぐちゃに濡れた顔のまま、もう一度、泣き疲れて目を閉じた。
***
その後、僕は社長と貝元さんに連れられて、心療内科で週に二度のカウンセリングを受けた。凪斗のことでただでさえ乱れていた生活は、食事をとる、水を飲むといった、生きていく上で最低限のことにさえ気力が湧かないほど荒れていた。外に出ることもできず、部屋の中で膝を抱えて蹲るだけの毎日。
夜になっても眠れない日が続き、ようやく数時間うとうとしたと思えば、握手会の日の悪夢を見て、冷や汗とともに飛び起きる。
そんな僕の状態を知るはずもないファンの人たちは、ユニットのSNSや事務所の公式ホームページに、「いつまでもふたりの活動再開を待っています」というメッセージを、何千件も届けてくれていた。その優しさが、壊れかけた今の僕には逆に痛くて、胸が引き裂かれそうだった。
(応えなきゃいけない。アイドルは、笑って、ステージに立って、待ってくれている人たちに「ありがとう」を返す仕事だ)
頭では分かっているのに、体が少しも言うことを聞いてくれない。その事実がまた、自分への失望になって降り積もっていく。
そして――休みに入って二週目の夕方、インターホンが鳴った。
貝元さんから連絡をもらっていた通り、モニターに映っていたのは、桜色の髪をふわりと揺らす悠里だった。画面越しでも分かる、いつもの人懐っこい笑顔。それを見ただけで、鉛のように重かった胸の奥が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
のろのろと玄関へ向かう。ここ数日、まともに歩いていなかったせいか、足取りもおぼつかない。
「理央ー! 会いたかったぁ」
「……悠里」
ドアを開けた途端、むぎゅっと抱きしめられる。勢いに押されて、思わず一歩よろめいた。悠里の肩口からは、ふわりと甘い香水の匂いがする。
デビュー直後のプロモーションの合間を縫って、日帰りで韓国から戻ってきたのだという。きっと、移動だけでもへとへとのはずなのに。
「おじさんに無理言って、連れてきてもらっちゃった」
悠里はいたずらっぽく笑って、僕の背中をぽんぽんと叩いた。そして、勝手知ったる顔でリビングへ上がり込むと、提げていたコンビニの袋をローテーブルの上にひっくり返す。
ミックスサンドと、プリンと、オレンジの炭酸。全部、僕が前に何気なく学校で「ピザの次に好きなんだ」と話したものばかりだった。そんなことを覚えていてくれたのか、と思うと、喉の奥が熱くなる。
「全部、理央の好きなやつ。ひと口でいいから、食べるところ見るまで帰らないからね」
「……ごめん、悠里。心配かけて」
「謝らないの」
ぴしゃりと言いながらも、悠里の声はやわらかかった。
渡されたプリンの蓋を、力の入らない指でどうにか剥がす。プラスチックのスプーンを差し込んで、ほんの少しだけすくった。何日も食べ物を受けつけなかった口の中に運ぶのは、少し怖かった。
舌の上に載せると、やさしい甘さが、ゆっくりと溶けていく。久しぶりに「味」というものを思い出した気がして、飲み込んだあとも、しばらく動けなかった。
悠里はその間何も言わず、ソファの隣に座って、炭酸のペットボトルのキャップをひねった。しゅわ、と小さな音が、静かな部屋に響く。
「……オレね、前から気づいてたんだ。鍵野くんの話をするとき、理央の顔が違うなって」
「えっ」
スプーンを持つ手が止まった。悠里は前を向いたまま、ペットボトルの水滴を指でなぞっている。
「学校でさ、『ヤキモチ?』って聞いたとき、全力で否定してたでしょ。あれ、バレバレだったからね」
くす、と笑う悠里の目が、少し潤んでいた。茶化すような口ぶりなのに、その横顔は、ずっとずっと、僕のことを見守ってくれていた人の眼差しだった。
何も言い返せずにいる僕に、悠里はゆっくりと向き直る。
「オレは、理央が誰を好きでもいいよ。理央が笑ってるなら、それで。……でもね、鍵野くんがいなくなったら理央の居場所が全部なくなっちゃう、みたいな顔はしないでほしいな」
「…………」
「あんな体験をして、どれほど辛い思いをしてるだろうってずっと心配だった。もちろん、鍵野くんの怪我の具合もね」
「僕より、凪斗の方が……」
「ほら、またそうやって……。だめだよ理央、もっと自分に優しくして」
図星だった。凪斗がいない世界には、もう自分の立つ場所なんてない。この数週間、僕はずっとそう思い込んで、暗い部屋の隅に縮こまっていたのだ。
悠里に心の中まで見透かしたように、まっすぐに目を合わせられると、かひゅぅ、と喉が鳴った。
息を吸っているはずなのに、またしても空気が届かない。胸の上に見えない手のひらを押し当てられているみたいで、吸っても吸っても足りなくなっていく。
呼吸が乱れ始めるのを、悠里は驚くことなくすぐに「あっ」と気付いて、背中を撫でながら目の前に手を出した。
シャツ越しに、大きくゆっくりと円を描く掌の体温が伝わってくる。慌てた様子は微塵もなかった。
「理央、この手を見てて。上がったら、吸う。下がったら、吐く。手の動きと呼吸を連動させて」
「ゆ、ゆうり、っ」
「喋らなくていいよ。目だけ、俺の手に置いて。……そう、上手」
視界の中央で、悠里の細い指がゆっくりと持ち上がる。ぼやけた輪郭を必死に追いながら、釣られるように息を吸い込もうとして、途中でひっかかり、ひゅっと変な音が漏れた。
「大丈夫だよ。……しんどいよね、オレもよくレッスン中になったことあるから分かる。でも、絶対に収まるから。信じて」
手が、ふわりと下りていく。それに合わせて、震える唇から細く息を吐き出した。もう一度、手が上がる。吸う。下がる。吐く。最初は少しもうまくいかなかった。三度、四度と繰り返すうちに、ひっかかりが少しずつ小さくなっていく。
いつもあんなに明るく楽しそうな悠里が、過呼吸の対処の仕方まで分かっているなんて思っても見なかった。
その手の動きを見ながらゆっくりと呼吸を整えていくと、指先の痺れが潮が引くように薄れていく。胸を締めつけていた見えない手のひらが、ひとつ、またひとつと指を解いていく。すると、ようやく空気が降りてきた。
「ここにも、理央の居場所はあるよ。オレはこうしていつでも帰ってくるし、電話にも出るから。ずっと、友達だよ。忘れないでね」
「……っ、ごめん。ごめん、悠里……僕、いつも迷惑ばっかり」
「迷惑だなんて思ってないよ。だって、理央のことが親友として大好きだから」
泣くことには、もう慣れてしまっていたはずだった。
苦しくて、悔しくて、情けなくて――これまでは、いつも一人きりで冷たい涙を流すばかりだったから。
けれど、今頬を伝っていくこの涙は、それらとはまるで違っていた。どこか温かくて、まるでお湯が氷をじんわりと溶かしていくように、優しい熱が胸の奥いっぱいに広がっていく。
「今は鍵野くんの代わりに、俺がぎゅってしてあげるね」
凪斗よりずっと細くて、薄い体に包まれる。肩口に額を預けると、柔らかな匂いと、少し速い鼓動が伝わってきた。僕のために、悠里も必死だったのだと、そこで初めて気づいて――これまでとは違う種類の涙をこぼしていた。
***
悠里や貝元さんに支えられ、薬の力も借りて、少しずつ夜に眠れるようになった。ゼリーやお粥も、口に運べるようになってきた頃。ついに凪斗の担当医から面会の許可が下りて、僕と社長、貝元さんの三人は、凪斗の入院する病院の地下駐車場に来ていた。
本当は、もっと前に「凪斗がリハビリを始めて、精神的にも落ち着いてきたから、面会ができるわよ」と告げられていた。けれどそのときは、今度は僕のほうがすっかり底を突いてしまっていた。病室どころか、外の光を見るのも怖くて、一歩も足を踏み出せなかったのだ。
静まり返った車内。ブランケットの上に置いた自分の手が、微かに震えている。
「無理しなくてもいいのよ。でも、凪斗に会って心が落ち着くなら……」
「……行きます」
社長と貝元さんは、先に受付を済ませて「病室の外で待っているから、二人でゆっくり話してきなさい」と、僕の背中をそっと押してくれた。
静かに頷いて、ドアノブに手をかける。深呼吸をして、そっとドアを開けると、ベッドの上で上体を少しだけ起こして、じっとこちらを見つめている凪斗がいた。
「……理央」
本当なら、いつもみたいに「久しぶり」「大丈夫?」と笑いかけるはずだったのに。凪斗の顔を見た瞬間、声を出すより先に、涙が頬を伝っていた。口角がみるみる下がって、抑え込んでいた悲しみと恋しさが溢れ出す。
凪斗の肩に巻かれた白い包帯を見つけて、胸の奥が締めつけられる。僕はしゃくり上げながら、情けない声を漏らして泣いた。
「理央……ほら、こっち来いよ」
「……っ、う……」
促されるまま、足を引きずるようにして歩き、ベッドの端に腰を下ろす。
凪斗は、利き手ではないほうの手で僕の手首を掴んだ。節の立った指が、確かめるように、親指で肌をそっと撫でる。
「お前、痩せすぎだって。ちゃんと飯食べてねぇのかよ」
「お腹空いてない」
「……俺なんか、毎日微妙すぎる病院食だぞ。てか、泣きすぎて下瞼も腫れてんじゃん。ちゃんと眠れてる?」
ふるふる、と首を横に振る僕を、凪斗は戸惑ったような、どこか切なそうな顔で見つめている。自分がいない間に、僕がここまで追い詰められているとは、思ってもみなかったのだろう。
怪我をして痛みに耐えているのは凪斗のほうだ。僕は、あの時、凪斗に守られたのに。何もできずにいる自分の無力さが突き刺さる。自分だけが無傷で生き延びてしまった。その罪悪感が、胸の奥をずっと重く塞いていた。
子供みたいに泣くばかりの僕を見て、凪斗は珍しくおろおろしている。目にかかるほど伸びた前髪を、動かすたびに痛むはずの肩をかばいながら、指先でそっと分けてくれた。
「メッセージ、全然返せなくてごめんな」
「うん」
「本当は、電話もしたかったけどさ……怪我も地味に痛かったし」
「……凪斗」
「理央の声を聞いたら、絶対我慢できずにお互い泣く気しかしなかった。これ以上お互いに会いたくて辛くなるだけだって思って、それで……連絡できなくて」
凪斗はいつだってそうだ。誰よりも冷静に周りを見て、先回りして、僕のことまで守ろうとする。そのくせ、自分が事件に巻き込まれた恐怖も戸惑いも、これからの不安も、奥底にずっと押し殺している。その強がりが、たまらなく愛おしくて、苦しかった。
僕はベッドの端から身を乗り出し、凪斗の脚の間にそっと両手をついて、行き場のない感情をぶつけるように、唇を重ねる。
凪斗は一瞬、驚いたように身体をこわばらせる。けれどすぐに観念したように、僕の背中を優しく撫で、しっかりと抱き寄せてくれた。
「……いや、だった?」
「なんでそうなるんだよ」
「こんなに会いたかったのは、僕だけなのかなって」
「っ、んなわけねぇじゃん。毎日、一秒だって理央のこと忘れた日なんかねぇのに」
切なさでいっぱいのキスのあと、凪斗は僕の目を見ないまま、そっと身体を離して呟く。
「……来月のファーストライブに間に合うように、リハビリも必死に頑張ってるんだけどさ。でも……今の状態じゃ、正直厳しいって、医者にも言われてるんだ」
「……そっか」
「理央とのこのユニットは、俺も続けたいよ。でも、今までみたいな激しいダンスも、全力のパフォーマンスも、もう以前のようにはできないと思う。たとえ周りの大人が『それでもいい』って言ってくれたとしても……」
「凪斗のプライドが、そんな半端な姿でステージに立つことを許せない、ってことだよね」
その悔しさも、プライドの高さも、同じアイドルだから痛いほど分かる。だからこそ僕は、「大丈夫、待ってるから」なんて安易な言葉を、口にできなかった。
きっとお互いの頭の片隅には、同じ言葉が浮かんでいる。最悪の結末、『ユニット解消』の文字が。
「……凪斗がもし、解消を選びたいなら、僕は『嫌だ』っていう我儘だけで引き止めることはしないよ。凪斗の意見を、ちゃんと尊重するから」
「理央……」
「すぐには決められないことだって、分かってる。でも、来月のライブは、やるか、やらないかの二択で……正直に言うと、僕ひとりでステージに立って、ファンを満足させてあげられる自信はない」
ここで「僕が全部背負うから、凪斗は安心して治療に専念してよ」と言えたら、どれほど格好よかっただろう。
けれど、今の僕に、そんな嘘はつけない。ひとりでセンターに立てば、隣にあるはずの体温の不在を、客席の全員が見てしまう。歌って、踊って、笑って――それを最後までやり遂げられるのか、想像するだけで足がすくんだ。
それでも、ライブまでの日数は残されていない。中止にするなら、事務所としても、ファンに対しても、一刻も早くアナウンスを出さなければならなかった。
「ユニット自体は、もう少し時間をかけて考えてもいいんじゃないかな。ライブのことは、僕も……社長と、貝元さんと相談して、決めようと思う」
「理央」
「ごめん。僕が走り続けなきゃいけないよね」
さんざん休んだあとで、いきなりライブを決行するなんて、あり得ない。その前に、お互いの怪我の状況や、心境を文面で発表する必要がある。今後の活動の方針も、ファンの人たちに説明しなければならない。プロモーションを兼ねた、音楽番組への出演だって。やることは山ほどある。
でも……今の僕は、ろくに眠れもしないし、カメラの前で笑える自信もない。限界なんて、とっくに超えている。
「このままじゃ、お互いに心も体もボロボロになる。ユニットどころじゃなくなる。だから、理央に無理はしてほしくない」
「分かるよ。分かってる……けど」
凪斗の言葉は、いつだって僕を守るためのものだ。そう分かるから、余計に胸が詰まる。
そっと顔を上げると、包帯の下で痛みに耐えながら、それでも僕のために穏やかに微笑んでいる凪斗がいた。
(――ああ、そうか)
凪斗は、こんな状態になってもなお、アイドルで、僕の相棒で、恋人なんだ。
誰かの代わりに頑張らなきゃ、という義務感で動こうとしていたから、体は少しも動かなかったのだと思う。『凪斗の分まで』なんて、そんな重たい鎧は要らなかった。ただ、凪斗が帰ってくる場所を、僕がどうにか守りたい。それだけでよかったのだ。
涙の残る目元を袖で乱暴に拭って、僕は凪斗の手を、両手でぎゅっと握り返す。
「二人でパシフィコの会場を埋めるのは、夢だったでしょ」
「……理央」
「ひとりでやり切れる自信がないのは、本当。今も怖いし、きっと今夜もちゃんと眠れない。でも……凪斗の顔を見たら、もう一回だけ走れる気がした」
恋人だけれど、その前に、同じユニットのアイドルとして。相棒として。凪斗がどんな決断をするとしても、それまでの時間稼ぎにしかならなかったとしても――このまま、終わっていいわけがない。
「凪斗が戻ってくる場所は、僕が絶対に守る。だから、ユニットを続けるかどうかは、凪斗が納得するまで、ゆっくり考えて」
ライブをどうするのか、本当の答えはまだ出せない。それでも、自分の口で「来月のステージについて相談したいです」と告げることから、始めなくちゃいけない。
震えの残る声で、それでもはっきりとそう告げると、凪斗は驚いたように目を見開いた。そして、ずっと張り詰めていたものがほどけたみたいに、くしゃりと顔を歪めて笑った。
あのストーカーに知られてしまった凪斗と僕の住まいは、ふたりとも不在のまま、荷物だけが事務所に回収された。そして僕は社長の自宅から、新しく手配されたセキュリティのより厳重なマンションへ仮住まいとして引っ越すことになった。
がらんとした新しい部屋。貝元さんが最低限の荷ほどきを手伝ってくれたけれど、殺風景で、とにかく広く感じる。きっと、凪斗と、部屋が汚いとか片付けろとか……ああだこうだ言い合いながら暮らす毎日に、いつの間にかすっかり慣れてしまっていたからだ。
『おやすみ、凪斗』
数日ぶりにトーク画面を開いて、凪斗にメッセージを送る。案の定、既読はつかない。
それでも、社長や貝元さんから聞かされた現実が、胸の奥を重く押さえつけていた。
凪斗の意識は、あの手術のあとすぐに戻っている。けれど、肩の傷は深く、長いリハビリが必要になる。事件そのものが心に残した傷も大きい。そして、怪我の影響で腕を思うように動かせず、これまでと同じようにステージをこなすのは、相当に難しいかもしれないということだった。
それを知ってから、凪斗がどれだけ絶望して、思い悩んでいるのかを想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。僕を守ったせいで、凪斗が大切にしてきたアイドルとしての未来まで傷つけてしまったと、暗い部屋の中でひとり膝を抱える。
(今、どんなことを考えて……過ごしているんだろう)
冷たいベッドの上で枕を抱き寄せ、顔を埋める。あの家で、凪斗がずっと使っていた枕だ。
事務所に荷物が送り返されたとき、そこから更に必要最低限のものをまとめるように言われた。僕は、貝元さんには内緒で、凪斗の枕と部屋着のパーカーを、こっそり段ボールに詰めたのだった。姿も見られず、声も聴けず、触れることもできないなら、せめて凪斗の気配が残る「何か」が欲しかった。
「っ、う……うぅっ……」
奥歯を噛みしめても、涙は次から次へと溢れて止まらない。
会いたい。会いたい。一目でいいから、ほんの少しでいいから、凪斗に触れて、名前を呼びたい。
どこにも安心できる場所がなくて、誰にも甘えられないまま、あの日からずっと、僕の心は冷たい涙の海を漂っている。いっそ沈んでしまえたら楽なのに、胸の底から大きな波が何度も押し寄せて、すべてを呑み込んでいく。溺れかけているみたいに、はくはくと浅い息を繰り返すことしか出来ない。
「凪斗……っ」
出るはずがないことは、分かっている。それでも、何かにすがらなければ正気を保てなくて、僕は震える指で通話ボタンを押した。静まり返った部屋に、コール音が響く。スマホを耳に当てて、ただ待った。
寝不足の日が続いて、食事もまともに喉を通らず、頭の中には霧がかかったようだった。いつもの自動音声が『お繋ぎできませんでした』と告げるのを、ぼんやり待っていた、その時。
『……理央』
聞き慣れた、けれど久しぶりの、低い声。名前を呼ばれた瞬間、しゃくり上げていた嗚咽が、ぴたりと止まった。間違いなく、凪斗の声だった。
「な、なぎと……?」
情けなく鼻をすすってしまう。スマホの向こうで、凪斗が重たげに身じろぎして、ごそ、と衣擦れの音をたてた。
『メッセージ、全然返せなくてごめんな』
「…………っ」
『おい、聞こえてる?』
「うん……うん、聞こえてるよ……っ」
溢れてきた涙を、袖口で乱暴にぬぐう。夢じゃないのか確かめたくて、「体は大丈夫なの?」「本当に話せるの?」と、矢継ぎ早に聞きたかった。
けれど、電話の向こうから届く凪斗の穏やかな声が、それをそっと押しとどめる。
『まだ、起き上がるだけでもしんどくてさ……』
「そっか。無理しないで、ゆっくり治して。僕、ずっと待ってるから。ずっと、待ってるからね」
『うん、分かってる。俺がいない分のステージも、一人で背負って頑張ってくれて、ありがとうな』
「……っ、ふ、うぅっ……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、涙がこぼれた。
分かってしまったのだ。これが、現実じゃないってことに。
だって、電話越しのはずなのに、暗い部屋の中に、凪斗の姿が見えてしまったから。白い病室のベッドの上で、痛む体を半分起こして、困ったように、愛おしそうに目を細めて笑う顔。それが鮮やかに浮かんで、消えてくれない。
「…………」
薄く目を開けた先にあったのは、どこまでも暗い、凪斗のいない部屋だった。画面には「通話キャンセル」の文字が浮かんでいる。その小さな光だけが、部屋をぼんやりと照らしていた。
(会いたい……会いたいよ、凪斗)
息が詰まりそうになりながら、凪斗の匂いが残るパーカーの袖を、顔に強く押し当てる。どこにも残っていないはずの温もりを胸に抱き寄せて、これ以上心が壊れてしまいませんように、と祈る。
僕はぐちゃぐちゃに濡れた顔のまま、もう一度、泣き疲れて目を閉じた。
***
その後、僕は社長と貝元さんに連れられて、心療内科で週に二度のカウンセリングを受けた。凪斗のことでただでさえ乱れていた生活は、食事をとる、水を飲むといった、生きていく上で最低限のことにさえ気力が湧かないほど荒れていた。外に出ることもできず、部屋の中で膝を抱えて蹲るだけの毎日。
夜になっても眠れない日が続き、ようやく数時間うとうとしたと思えば、握手会の日の悪夢を見て、冷や汗とともに飛び起きる。
そんな僕の状態を知るはずもないファンの人たちは、ユニットのSNSや事務所の公式ホームページに、「いつまでもふたりの活動再開を待っています」というメッセージを、何千件も届けてくれていた。その優しさが、壊れかけた今の僕には逆に痛くて、胸が引き裂かれそうだった。
(応えなきゃいけない。アイドルは、笑って、ステージに立って、待ってくれている人たちに「ありがとう」を返す仕事だ)
頭では分かっているのに、体が少しも言うことを聞いてくれない。その事実がまた、自分への失望になって降り積もっていく。
そして――休みに入って二週目の夕方、インターホンが鳴った。
貝元さんから連絡をもらっていた通り、モニターに映っていたのは、桜色の髪をふわりと揺らす悠里だった。画面越しでも分かる、いつもの人懐っこい笑顔。それを見ただけで、鉛のように重かった胸の奥が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
のろのろと玄関へ向かう。ここ数日、まともに歩いていなかったせいか、足取りもおぼつかない。
「理央ー! 会いたかったぁ」
「……悠里」
ドアを開けた途端、むぎゅっと抱きしめられる。勢いに押されて、思わず一歩よろめいた。悠里の肩口からは、ふわりと甘い香水の匂いがする。
デビュー直後のプロモーションの合間を縫って、日帰りで韓国から戻ってきたのだという。きっと、移動だけでもへとへとのはずなのに。
「おじさんに無理言って、連れてきてもらっちゃった」
悠里はいたずらっぽく笑って、僕の背中をぽんぽんと叩いた。そして、勝手知ったる顔でリビングへ上がり込むと、提げていたコンビニの袋をローテーブルの上にひっくり返す。
ミックスサンドと、プリンと、オレンジの炭酸。全部、僕が前に何気なく学校で「ピザの次に好きなんだ」と話したものばかりだった。そんなことを覚えていてくれたのか、と思うと、喉の奥が熱くなる。
「全部、理央の好きなやつ。ひと口でいいから、食べるところ見るまで帰らないからね」
「……ごめん、悠里。心配かけて」
「謝らないの」
ぴしゃりと言いながらも、悠里の声はやわらかかった。
渡されたプリンの蓋を、力の入らない指でどうにか剥がす。プラスチックのスプーンを差し込んで、ほんの少しだけすくった。何日も食べ物を受けつけなかった口の中に運ぶのは、少し怖かった。
舌の上に載せると、やさしい甘さが、ゆっくりと溶けていく。久しぶりに「味」というものを思い出した気がして、飲み込んだあとも、しばらく動けなかった。
悠里はその間何も言わず、ソファの隣に座って、炭酸のペットボトルのキャップをひねった。しゅわ、と小さな音が、静かな部屋に響く。
「……オレね、前から気づいてたんだ。鍵野くんの話をするとき、理央の顔が違うなって」
「えっ」
スプーンを持つ手が止まった。悠里は前を向いたまま、ペットボトルの水滴を指でなぞっている。
「学校でさ、『ヤキモチ?』って聞いたとき、全力で否定してたでしょ。あれ、バレバレだったからね」
くす、と笑う悠里の目が、少し潤んでいた。茶化すような口ぶりなのに、その横顔は、ずっとずっと、僕のことを見守ってくれていた人の眼差しだった。
何も言い返せずにいる僕に、悠里はゆっくりと向き直る。
「オレは、理央が誰を好きでもいいよ。理央が笑ってるなら、それで。……でもね、鍵野くんがいなくなったら理央の居場所が全部なくなっちゃう、みたいな顔はしないでほしいな」
「…………」
「あんな体験をして、どれほど辛い思いをしてるだろうってずっと心配だった。もちろん、鍵野くんの怪我の具合もね」
「僕より、凪斗の方が……」
「ほら、またそうやって……。だめだよ理央、もっと自分に優しくして」
図星だった。凪斗がいない世界には、もう自分の立つ場所なんてない。この数週間、僕はずっとそう思い込んで、暗い部屋の隅に縮こまっていたのだ。
悠里に心の中まで見透かしたように、まっすぐに目を合わせられると、かひゅぅ、と喉が鳴った。
息を吸っているはずなのに、またしても空気が届かない。胸の上に見えない手のひらを押し当てられているみたいで、吸っても吸っても足りなくなっていく。
呼吸が乱れ始めるのを、悠里は驚くことなくすぐに「あっ」と気付いて、背中を撫でながら目の前に手を出した。
シャツ越しに、大きくゆっくりと円を描く掌の体温が伝わってくる。慌てた様子は微塵もなかった。
「理央、この手を見てて。上がったら、吸う。下がったら、吐く。手の動きと呼吸を連動させて」
「ゆ、ゆうり、っ」
「喋らなくていいよ。目だけ、俺の手に置いて。……そう、上手」
視界の中央で、悠里の細い指がゆっくりと持ち上がる。ぼやけた輪郭を必死に追いながら、釣られるように息を吸い込もうとして、途中でひっかかり、ひゅっと変な音が漏れた。
「大丈夫だよ。……しんどいよね、オレもよくレッスン中になったことあるから分かる。でも、絶対に収まるから。信じて」
手が、ふわりと下りていく。それに合わせて、震える唇から細く息を吐き出した。もう一度、手が上がる。吸う。下がる。吐く。最初は少しもうまくいかなかった。三度、四度と繰り返すうちに、ひっかかりが少しずつ小さくなっていく。
いつもあんなに明るく楽しそうな悠里が、過呼吸の対処の仕方まで分かっているなんて思っても見なかった。
その手の動きを見ながらゆっくりと呼吸を整えていくと、指先の痺れが潮が引くように薄れていく。胸を締めつけていた見えない手のひらが、ひとつ、またひとつと指を解いていく。すると、ようやく空気が降りてきた。
「ここにも、理央の居場所はあるよ。オレはこうしていつでも帰ってくるし、電話にも出るから。ずっと、友達だよ。忘れないでね」
「……っ、ごめん。ごめん、悠里……僕、いつも迷惑ばっかり」
「迷惑だなんて思ってないよ。だって、理央のことが親友として大好きだから」
泣くことには、もう慣れてしまっていたはずだった。
苦しくて、悔しくて、情けなくて――これまでは、いつも一人きりで冷たい涙を流すばかりだったから。
けれど、今頬を伝っていくこの涙は、それらとはまるで違っていた。どこか温かくて、まるでお湯が氷をじんわりと溶かしていくように、優しい熱が胸の奥いっぱいに広がっていく。
「今は鍵野くんの代わりに、俺がぎゅってしてあげるね」
凪斗よりずっと細くて、薄い体に包まれる。肩口に額を預けると、柔らかな匂いと、少し速い鼓動が伝わってきた。僕のために、悠里も必死だったのだと、そこで初めて気づいて――これまでとは違う種類の涙をこぼしていた。
***
悠里や貝元さんに支えられ、薬の力も借りて、少しずつ夜に眠れるようになった。ゼリーやお粥も、口に運べるようになってきた頃。ついに凪斗の担当医から面会の許可が下りて、僕と社長、貝元さんの三人は、凪斗の入院する病院の地下駐車場に来ていた。
本当は、もっと前に「凪斗がリハビリを始めて、精神的にも落ち着いてきたから、面会ができるわよ」と告げられていた。けれどそのときは、今度は僕のほうがすっかり底を突いてしまっていた。病室どころか、外の光を見るのも怖くて、一歩も足を踏み出せなかったのだ。
静まり返った車内。ブランケットの上に置いた自分の手が、微かに震えている。
「無理しなくてもいいのよ。でも、凪斗に会って心が落ち着くなら……」
「……行きます」
社長と貝元さんは、先に受付を済ませて「病室の外で待っているから、二人でゆっくり話してきなさい」と、僕の背中をそっと押してくれた。
静かに頷いて、ドアノブに手をかける。深呼吸をして、そっとドアを開けると、ベッドの上で上体を少しだけ起こして、じっとこちらを見つめている凪斗がいた。
「……理央」
本当なら、いつもみたいに「久しぶり」「大丈夫?」と笑いかけるはずだったのに。凪斗の顔を見た瞬間、声を出すより先に、涙が頬を伝っていた。口角がみるみる下がって、抑え込んでいた悲しみと恋しさが溢れ出す。
凪斗の肩に巻かれた白い包帯を見つけて、胸の奥が締めつけられる。僕はしゃくり上げながら、情けない声を漏らして泣いた。
「理央……ほら、こっち来いよ」
「……っ、う……」
促されるまま、足を引きずるようにして歩き、ベッドの端に腰を下ろす。
凪斗は、利き手ではないほうの手で僕の手首を掴んだ。節の立った指が、確かめるように、親指で肌をそっと撫でる。
「お前、痩せすぎだって。ちゃんと飯食べてねぇのかよ」
「お腹空いてない」
「……俺なんか、毎日微妙すぎる病院食だぞ。てか、泣きすぎて下瞼も腫れてんじゃん。ちゃんと眠れてる?」
ふるふる、と首を横に振る僕を、凪斗は戸惑ったような、どこか切なそうな顔で見つめている。自分がいない間に、僕がここまで追い詰められているとは、思ってもみなかったのだろう。
怪我をして痛みに耐えているのは凪斗のほうだ。僕は、あの時、凪斗に守られたのに。何もできずにいる自分の無力さが突き刺さる。自分だけが無傷で生き延びてしまった。その罪悪感が、胸の奥をずっと重く塞いていた。
子供みたいに泣くばかりの僕を見て、凪斗は珍しくおろおろしている。目にかかるほど伸びた前髪を、動かすたびに痛むはずの肩をかばいながら、指先でそっと分けてくれた。
「メッセージ、全然返せなくてごめんな」
「うん」
「本当は、電話もしたかったけどさ……怪我も地味に痛かったし」
「……凪斗」
「理央の声を聞いたら、絶対我慢できずにお互い泣く気しかしなかった。これ以上お互いに会いたくて辛くなるだけだって思って、それで……連絡できなくて」
凪斗はいつだってそうだ。誰よりも冷静に周りを見て、先回りして、僕のことまで守ろうとする。そのくせ、自分が事件に巻き込まれた恐怖も戸惑いも、これからの不安も、奥底にずっと押し殺している。その強がりが、たまらなく愛おしくて、苦しかった。
僕はベッドの端から身を乗り出し、凪斗の脚の間にそっと両手をついて、行き場のない感情をぶつけるように、唇を重ねる。
凪斗は一瞬、驚いたように身体をこわばらせる。けれどすぐに観念したように、僕の背中を優しく撫で、しっかりと抱き寄せてくれた。
「……いや、だった?」
「なんでそうなるんだよ」
「こんなに会いたかったのは、僕だけなのかなって」
「っ、んなわけねぇじゃん。毎日、一秒だって理央のこと忘れた日なんかねぇのに」
切なさでいっぱいのキスのあと、凪斗は僕の目を見ないまま、そっと身体を離して呟く。
「……来月のファーストライブに間に合うように、リハビリも必死に頑張ってるんだけどさ。でも……今の状態じゃ、正直厳しいって、医者にも言われてるんだ」
「……そっか」
「理央とのこのユニットは、俺も続けたいよ。でも、今までみたいな激しいダンスも、全力のパフォーマンスも、もう以前のようにはできないと思う。たとえ周りの大人が『それでもいい』って言ってくれたとしても……」
「凪斗のプライドが、そんな半端な姿でステージに立つことを許せない、ってことだよね」
その悔しさも、プライドの高さも、同じアイドルだから痛いほど分かる。だからこそ僕は、「大丈夫、待ってるから」なんて安易な言葉を、口にできなかった。
きっとお互いの頭の片隅には、同じ言葉が浮かんでいる。最悪の結末、『ユニット解消』の文字が。
「……凪斗がもし、解消を選びたいなら、僕は『嫌だ』っていう我儘だけで引き止めることはしないよ。凪斗の意見を、ちゃんと尊重するから」
「理央……」
「すぐには決められないことだって、分かってる。でも、来月のライブは、やるか、やらないかの二択で……正直に言うと、僕ひとりでステージに立って、ファンを満足させてあげられる自信はない」
ここで「僕が全部背負うから、凪斗は安心して治療に専念してよ」と言えたら、どれほど格好よかっただろう。
けれど、今の僕に、そんな嘘はつけない。ひとりでセンターに立てば、隣にあるはずの体温の不在を、客席の全員が見てしまう。歌って、踊って、笑って――それを最後までやり遂げられるのか、想像するだけで足がすくんだ。
それでも、ライブまでの日数は残されていない。中止にするなら、事務所としても、ファンに対しても、一刻も早くアナウンスを出さなければならなかった。
「ユニット自体は、もう少し時間をかけて考えてもいいんじゃないかな。ライブのことは、僕も……社長と、貝元さんと相談して、決めようと思う」
「理央」
「ごめん。僕が走り続けなきゃいけないよね」
さんざん休んだあとで、いきなりライブを決行するなんて、あり得ない。その前に、お互いの怪我の状況や、心境を文面で発表する必要がある。今後の活動の方針も、ファンの人たちに説明しなければならない。プロモーションを兼ねた、音楽番組への出演だって。やることは山ほどある。
でも……今の僕は、ろくに眠れもしないし、カメラの前で笑える自信もない。限界なんて、とっくに超えている。
「このままじゃ、お互いに心も体もボロボロになる。ユニットどころじゃなくなる。だから、理央に無理はしてほしくない」
「分かるよ。分かってる……けど」
凪斗の言葉は、いつだって僕を守るためのものだ。そう分かるから、余計に胸が詰まる。
そっと顔を上げると、包帯の下で痛みに耐えながら、それでも僕のために穏やかに微笑んでいる凪斗がいた。
(――ああ、そうか)
凪斗は、こんな状態になってもなお、アイドルで、僕の相棒で、恋人なんだ。
誰かの代わりに頑張らなきゃ、という義務感で動こうとしていたから、体は少しも動かなかったのだと思う。『凪斗の分まで』なんて、そんな重たい鎧は要らなかった。ただ、凪斗が帰ってくる場所を、僕がどうにか守りたい。それだけでよかったのだ。
涙の残る目元を袖で乱暴に拭って、僕は凪斗の手を、両手でぎゅっと握り返す。
「二人でパシフィコの会場を埋めるのは、夢だったでしょ」
「……理央」
「ひとりでやり切れる自信がないのは、本当。今も怖いし、きっと今夜もちゃんと眠れない。でも……凪斗の顔を見たら、もう一回だけ走れる気がした」
恋人だけれど、その前に、同じユニットのアイドルとして。相棒として。凪斗がどんな決断をするとしても、それまでの時間稼ぎにしかならなかったとしても――このまま、終わっていいわけがない。
「凪斗が戻ってくる場所は、僕が絶対に守る。だから、ユニットを続けるかどうかは、凪斗が納得するまで、ゆっくり考えて」
ライブをどうするのか、本当の答えはまだ出せない。それでも、自分の口で「来月のステージについて相談したいです」と告げることから、始めなくちゃいけない。
震えの残る声で、それでもはっきりとそう告げると、凪斗は驚いたように目を見開いた。そして、ずっと張り詰めていたものがほどけたみたいに、くしゃりと顔を歪めて笑った。



