現役男子高校生で国民的人気アイドルの僕を「性格ブス」と呼ぶ男と同居することになりました

 貝元さんの荒い運転で搬送先の総合病院に着き、病院側の計らいで僕たちは地下の研修室の一角に通され、そこで凪斗の処置が終わるのを待つことになった。
 静まり返った殺風景な部屋では、時間の感覚がどんどん遠ざかっていく。壁の時計を見ても、針の数字が頭に入ってこない。
 どれくらい時間が経っただろうか。看護師長とともに現れた医師が告げたのは、最悪の事態こそ免れたものの、決して楽観できない凪斗の過酷な状態だった。

「刃物が深くまで達していましたが、どうにか一命は取り留めました。ただ、全治数か月の重傷です。出血量が多く、まだ麻酔から完全に覚醒していませんから、今夜は予断を許さない状態です。……肉体的なダメージはもちろんですが、今回の件が与えた精神的なショックを考慮しても、当面は入院による慎重な加療が必要かと存じます」
「……ありがとうございました」

 社長が深々と頭を下げ、手続きに必要な書類を受け取る。医師たちが静かに部屋を出ていくと、それまで押し黙っていた貝元さんが、警察から聞いたという事件の経緯をポツリポツリと話し始めた。

「犯人は、現場の設営を請け負っていた下請け会社の、元アルバイトだったらしい。辞めたときに臨時スタッフ用のパスを返却せず、それを勝手に複製して、日付を偽装して搬入の時間帯に紛れ込んだんだ。ファンの動線には厳重な身分証チェックがあったのに、スタッフはパスの有無を目視で確認するだけだった。……偽物のパスだと見抜けていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」

 否定して首を横に振りたかったのに、張り詰めた恐怖と喉のつかえで、声すら出ない。

「……社長。病院の正面玄関の周りには、すでにかなりの数のプレスや野次馬が押しかけてきています。どうしますか」

 貝元さんが青ざめた顔でタブレットを差し出す。花宮社長は険しい表情のまま一瞬だけ目を伏せ、すぐに冷徹で的確な判断を下した。

「とりあえず、私から手短に現状を伝えるわ。何が起きたのか、現時点で分かっている事実だけをね。もちろん、理央が無事であることも含めて。その後は警察と病院側の意向を最優先して、事務所として改めて正式な会見を開きましょう」

 話がまとまり、社長と貝元さんが立ち上がっても、僕の体は芯から冷え切ったようにこわばったままだった。膝も手も細かく震えて、自力で立つことすらできない。
 これほど近くにいるのに、凪斗の顔を見られないなんて。たとえ意識がなくても、一目でいいから、顔を見て安心したいのに。

「……理央、病院を出たら、当面の間はアタシの家で寝泊まりさせる。今後の仕事はすべてリスケして、少なくとも一か月は活動を休止するから」
「え……?」
「あんな事件の直後に、あなた一人で元の生活に戻れるわけがないでしょう。岩手のご親族にも、すぐに電話を入れるわ」

 怒っているような口ぶりなのに、その奥には深い心配が滲んでいた。頭が真っ白になって、返事もできないまま、引きずられるようにして病院の廊下を歩く。
 やがて、分厚い自動ドアの向こうに、ぞっとするような白い光の気配を感じた。一歩、外へ踏み出した瞬間――。
 静けさを裂くように、何十ものフラッシュが一斉に焚かれた。

「――出てきたぞ! こっちだ!」
「花宮社長、鍵野さんの容体は! 意識不明の重体というのは本当ですか!」
「現場のスタッフを装って男が侵入したという情報もありますが!」

 フラッシュの残像で視界が真っ白に染まり、耳をつんざくような声とシャッター音が、津波のように押し寄せる。幾重にも突き出されたマイクやレコーダーが身体をかすめ、殺気立った記者の群れが、警備員たちを押し退けてなだれ込んできた。

「社長の私から、現在お伝えできる限りのことを説明させていただきます。……本日、弊社所属のタレントが出演いたしました握手会の会場において、重大な事件が発生いたしました。ご来場のお客様、関係者の皆様に多大なるご心配とご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます」

 夜の冷たい空気の中、フラッシュを浴びながら、花宮社長が気丈に声明を読み上げる。その隣で、僕はキャスケットを目深にかぶり、大きな立体マスクで顔のほとんどを隠したまま、アスファルトの一点を見つめてうつむいていた。

「未成年が刃物による怪我をしています。タレントを守る安全という観点から事務所、そしてご自身の落ち度はどのように考えていらっしゃいますか?」
「全てわたくしの責任です。もちろん、鍵野本人を含め、ご家族ともこれから話し合いを行っていくなかで、事務所としての責任と説明を全うしてまいります」
「会場には警備員が配置されていたと伺いました。一体どのようにして刃物が持ち込まれたのかなど、ご説明していただけませんか」
「内容につきましては、警察の捜査に影響を及ぼす恐れがありますので、お答えを控えさせていただきます。所属タレントのプライバシーにも関わることです。何卒、ご理解を賜りたく存じます」
「来場者の方に怪我はなかったのでしょうか?」
「鍵野は、居合わせたお客様と、橘花を身を挺して守りました。そのことを、事務所の人間として、ひとりの大人として、誇りに思うと同時に……本来、未成年である彼らにそんなことをさせてはならなかったと、痛感しております」

 シャッター音と、矢継ぎ早に飛ぶ怒号のような質問。現場の混乱と恐怖が、まだ頭の中で生々しく反響している。そんな中、プレスの一角から、ひとりの女性記者がするりと抜け出してきた。『西日新報』と書かれたプレスカードを下げたその人は、他の記者のような強引さではなく、怯える僕を気遣うように、そっとマイクを差し出した。

「橘花さん……。突然こんなことになって、本当につらいと思います。でも、会場の外にも、全国の画面の向こうにも、たくさんのファンが『シュガスパ』のふたりを心配しています。どうか、皆さんに、今の気持ちを一言だけでも聞かせてくれませんか」

 答えようと口を開きかけた瞬間、社長が険しい顔で僕の前に立ちはだかった。

「橘花も今回の件で大きなショックを受けており、まだ心の整理がついていませんので、これ以上の質問は控えていただきたいのですが……」
「そのほかにも、鍵野さんはファンの方を庇って刺されたという説明でしたが、こちらに関しては――」
「お相手は一般の方ですので、事務所として誠心誠意の対応をしてまいります。被害に遭われた方のプライバシーへの配慮も含め、これ以上のご負担となるような過度な報道はなさらないようお願いいたします」

 鋭い眼光でマスコミを牽制し、僕を車へ促そうとする社長。けれど僕は、その腕をそっと制して、一歩前へ出た。
 震える指先で、目深に被っていたキャスケットを取る。顔を覆っていたマスクも外した。冷たい夜風が、むき出しになった頬をなでる。カメラのレンズから目を背けたい衝動を必死にこらえて、その先にある無数の光と、画面の向こうにいるはずのファンを見つめた。

「先程、お医者さまから、一命を取り留めたと聞いて……ほっとしています」

 情けないほど震えた声だった。それでも、絞り出した言葉は、静まり返った記者たちにしっかりと届いていく。

「突然のことで、僕自身もまだ、不安な気持ちでいっぱいです。でも、今僕にできることは……凪斗くんが、また安心して戻って来られる場所を守ることだと思っています。ふたりの場所がなくなってしまわないように、ひとりになっても、ユニットとしてのお仕事に、これまで以上に向き合っていきます。どうか……あたたかく見守っていただけると、嬉しいです」

 言い終えた瞬間、ひときわ激しくフラッシュが焚かれる。
 けれど、僕はもう俯かなかった。

 ***

「本日スタジオにお招きしているのは、『Sugar&Spice.』の橘花理央さんです。現在、活動休止中の鍵野さんとのユニット曲を、ソロバージョンで歌唱していただきます」
「よろしくお願いいたします」

 司会者の視線が、ほんの一瞬だけ、気遣うように僕の顔の上で止まった。けれど次の瞬間には、カメラ向けの穏やかな笑顔に切り替わっている。
 大丈夫。まだ大丈夫。呪文のように心の中で繰り返しながら、僕は現場に戻った。社長の「もう少し休むべきよ」という制止を、振り切るようにして。
 休んだのは、たったの一週間。そこから先は、雑誌の撮影も、単独インタビューも、歌番組の収録も、リスケした分を取り戻すように、必死にスケジュールを詰め込んだ。移動の車内で台本を開き、楽屋では弁当に手をつける間もなく衣装合わせ。マネージャーの貝元さんが何か言いたげにこちらを窺っているのは分かっていたけれど、気づかないふりを続けた。
 そうじゃないと――テレビをつけても、スマホを見ても、街の中を歩いていても、どこにいてもあの事件のことを想い出してしまうほど報道が過熱していたからだ。

『大人気アイドルユニット・Sugar&Spice. 握手会襲撃事件』
『容疑者の男は十年来の橘花さんのファン 家宅捜索で刃物数十本みつかる』
『所属事務所スイプロ・花宮社長が今月末にも記者会見を開くと声明を発表』

 車の窓越しに見える電光掲示板、楽屋に置かれた週刊誌、手元のスマホ画面。どこを向いても、僕たちの顔と、見出しの文字が目に飛び込んでくる。通知を切っても、SNSのアプリを消しても、世界のほうが勝手に追いかけてくるみたいだった。
 自分を追い込んで忙しくしていないと、わずかな隙間時間にさえ、頭の中が凪斗のことでいっぱいになってしまう。連絡も取れず、声も聴けず、顔を見ることも叶わない。そんな現実を思い知るたびに、ずぶずぶと、深い泥沼に引きずり込まれそうになるからだ。
 笑って、踊って、歌って――いつも通りの自分でいなければならない。そうしていなければ、凪斗がいつか目を覚まして、また当たり前のように隣で笑ってくれる未来を、信じ続けられなくなってしまう。

「CM明け、五秒前です!」

 フロアディレクターの声に、スタジオの空気がぴんと張りつめる。足元のテープの印に立つと、頭上の照明の熱が、じりじりと肌に染みてきた。カメラのレンズが黒く光ってこちらを向く。
 イヤモニの奥で、聞き慣れたイントロが流れはじめる。本来なら二人で重ねるはずのパートが、がらんどうのように空いていた。そこに、凪斗の声が入るはずだった。

『あなたがくれた光が 私の……』

 生放送のスタジオ。眩しい照明の下で声を震わせた瞬間、視界がふっと歪んだ。溢れそうになる涙を隠すように、イヤモニに手をあてて、片手でさっと顔を覆う。
 喉の奥がキュッと締め付けられて、音程が危うく揺らぐ。一瞬で息を呑み込み、無理やり口角を上げて、サビを歌い直した。よりによって、誤魔化しのきかない生放送。それでも何とか最後まで声を張り上げて、一曲を歌い終える。
 最後の音が消えたあとの、ほんの数秒の沈黙。やがて、スタジオにまばらな拍手が広がっていく。僕は深く頭を下げ、上げた拍子にこぼれそうになったものを、まばたきで必死に押し戻した。

(笑わないと。笑わないと……まだ、終わっていないんだから)

 歌い終えた直後、スタッフ側の気遣いで、その後のバラエティコーナーのひな壇は免除された。僕はそそくさとスタジオの袖へ引っ込み、楽屋のドアを閉める。
 直ぐにスマホを手に取って、SNSを開いた。案の定、『理央くん』『ミュージックステージ』のハッシュタグが、トレンドの欄に並んでいる。タップすると、さっきのステージの僕を心配する投稿が、ものすごい勢いで伸びていた。

『理央くん絶対無理してる』
『休ませてあげてほしい』
『事務所、鬼すぎない?』
『歌の途中、声が震えてた……』
『見るのつらい。どうか無理しないで』

 スクロールするたびに、僕のコンディションを気遣う声や、事務所への不満、そして何より、凪斗の不在を惜しむ言葉が目に飛び込んでくる。
 スマホの画面を消して、鏡の前に座り込んだ。ファンが求める「完璧なアイドル・橘花理央」と、崩れそうな心を必死に繋ぎ止めているだけの、本当の自分。その乖離に耐えられなくなりそうで、僕はもう一度、凪斗とのトーク画面を開いた。

『おはよう。今から収録頑張って来るね!』
『ただいま。今日は長距離移動ロケがあって疲れた』

 既読はつかないまま、画面の右側にばかり、白い吹き出しが積み重なっていく。いつか「お疲れ」と返事をくれるんじゃないか。そう期待しているのに、事件から一週間以上が経った今も、既読がつくことはなく、凪斗からの連絡はひとつもない。もし今日の生放送を見ていたら、凪斗はなんて言うだろう。「よく頑張ったな」って、あの大きな手で、頭を撫でてくれるだろうか。

 コンコン、とノックの音がして、楽屋のドアが開いた。

「理央くん? 着替え終わったかな。迎えに来たよ。今日も社長の家に……」
「か、貝元さん……っ」

 心配そうに顔を覗かせた貝元さんの顔を見た途端、膝の力が抜け、立っていることさえできなくなった。

「理央くん、ちょっと……!」
「ぼ、僕……さっきの生放送で、音程も……歌詞も、飛んじゃって……っ」
「大丈夫だよ、ほら、落ち着いて。ゆっくり息を吸って」
「なぎ、凪斗に会いたい……。おねが、おねがいします、凪斗に……っ!」

 すがるように貝元さんの袖を掴む。けれど、返ってきたのは、申し訳なさそうに目を伏せる表情だけだった。
 その瞬間、胸の奥で蓋をしていたものが、一気に溢れ出した。かひゅっ、と喉が鳴る。
 息を吸ったはずなのに、少しも入ってこない。もう一度、慌てて吸う。それでも足りない。吸っても吸っても、肺の底に空気が届かない感覚だった。
 心臓が、耳のすぐ後ろでうるさく暴れている。どく、どく、と自分の脈が頭蓋骨の中で反響して、貝元さんの声に重なった。

「理央くん? ……理央くん、聞こえてる?」

 返事をしようとして、声が出ない。口を開けても、出てくるのは、ひゅうひゅうと擦れた音だけだ。
 息が、吐けない。吸うばかりで、吐き方が分からなくなっていく。胸が風船みたいに張りつめて、肋骨の内側から押し広げられるように苦しい。指先が、じんと痺れてきた。
 両手を見下ろすと、いつの間にか指が内側へ丸まり、勝手にこわばっている。開こうとしても、自分の手じゃないみたいに動かない。唇のまわりまでもがピリピリとしびれて、感覚が遠のいていく。

「理央くん、大丈夫だ、ゆっくり、ゆっくりでいい。まず吐いて……っ」

 貝元さんの声が、水の底から響いているみたいに遠い。視界の端が、じわじわと暗くなっていく。鏡に映る自分の顔が、ぐにゃりと歪んで二重にぶれた。
 死んじゃうのかもしれない、と本気で思った。怖い。怖い。息ができない。

(凪斗も、こんな風に苦しかったのかな?)

 そう考えた途端に、胸がさらに締めつけられて、涙が勝手に、ぼろぼろとこぼれ落ちた。

「だれか、……っ、貝元さ、……っ、たすけ……」
「理央くん、僕の手を握って。ほら、これを見て。一緒に、数えよう。ゆっくり、吐くよ。……ふぅーっ、ふぅーっ、て」

 背中に、大きな手のひらが添えられた。もう片方の手が、強張った僕の指を、一本ずつ包み込むように開いていく。
 貝元さんは、僕の目の高さまでしゃがみ込み、何度も、同じ調子で繰り返してくれた。

「吐いて……そう、もっとゆっくり。吸うのは、鼻から。……うん、上手だね」

 どれくらい、そうしていただろう。
 痺れが、少しずつ手の先から引いていく。ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら、ようやく、吐いた息の分だけ、空気が胸に入ってくるのを感じた。
 気づけば、僕は床にぺたりと座り込んで、貝元さんのスーツの袖を強く握りしめていた。

「……っ、すみ、ません……」
「謝らなくていい。君は何も悪くないからね」

 貝元さんの手が、震える僕の背中を、静かに何度もさすってくれる。その声も、かすかに震えていた。

「ごめん、理央くん。気づいてやれなくて……本当に、ごめん」

 首を横に振ろうとして、まだ力が入らない。代わりに、ぼたぼたと涙が床に落ちた。