現役男子高校生で国民的人気アイドルの僕を「性格ブス」と呼ぶ男と同居することになりました

 満を持してリリースしたユニットのファーストシングルは、初日から各種音楽チャートを席巻し、瞬く間に週間ランキングの首位を獲得した。
 CDショップの特設ブースには連日長蛇の列ができ、SNSのトレンドは『Sugar&Spice.』の名前で埋め尽くされている。蓋を開けてみれば、社長が描いていた強気な見込みさえ大きく上回る、業界関係者が驚くほどの大ヒットだった。

「橘花さん、鍵野さん。開場五分前になります」

 そして今日は、その初回限定盤の特典である握手会の日。
 単独のイベントなら何度か経験がある。けれど、凪斗とふたりでユニットを結成してからは初めての、ふたり揃ってのファン交流の場だ。部ごとに時間が厳密に決められていて、一枚の握手券で話せるのは、たったの十秒。その短い十秒に、いかにアイドルとしての笑顔と感謝を詰め込めるかが肝心だった。
 ステージの上からでも、客席のファンの顔を見ることはできる。でも、こうして直接言葉を交わせる機会は、多忙なスケジュールもあり年間を通しても滅多にない。だからこそ、画面の向こうや遠くからいつも応援してくれる全員に、できる限りの感謝を返したかった。

「理央、着替え終わったか」
「あ、うん。ネックレスの金具に、ちょっと手こずってて……」

 小さな留め具を合わせようと、鏡を覗き込みながら指先に力を込める。けれど、焦れば焦るほど爪先から滑って、なかなかうまくいかない。
 手こずる僕に気づいたのだろう。凪斗は「貸して」と低く言って、音もなく背後に歩み寄ってきた。

「じっとしてて」

 冷やりとした指先が、首筋に触れる。思わず肩をびくりと揺らすと、凪斗は慣れた手つきで、細いチェーンの端と金具を器用に噛み合わせた。

「ありがとう……」

 鏡越しに目が合う。背後から覆いかぶさるような体勢のまま、凪斗は愛おしそうに目を細めて、静かに息を吐いた。首元にぴたりと納まったペンダントトップが、微かな体温を帯びていく。

「握手会終わったら、速攻で家に帰る」
「ふふ、朝からそればっかり。小学生みたいだね」
「モチベは大事だろ。ご褒美がなきゃ頑張れねーの、俺は」

 その一言をさっきと同じようにいじりたいけれど、僕も――少しだけ、いや、すごく期待しているから、何も言い返せない。
 ふっと笑ってみせると、凪斗はそのまま僕の肩に顎を乗せ、耳元に顔を寄せて、食むようなキスをした。

 会場の入口では、荷物検査とボディチェックが念入りに行われていた。ただ、前日から続く設営の都合で、今日はスタッフの出入りがいつもより多いらしい。「搬入は午前で終わるから大丈夫です」と、貝元さんが誰かに説明しているのが聞こえた。
 時間通りに握手会が始まると、広い会場は一気に熱気を帯びた。
 数十人のスタッフが場内を巡回し、きびきびと警備と整列にあたる。タイムキーパーである「剥がし」のスタッフが、絶妙なタイミングで声をかけていく。パーティションで区切られたレーンに、ファンたちが途切れることなく次々とやってきた。
 入って右側に僕、そのすぐ隣に凪斗。長い机をはさんだ向こう側で、ひとりひとりとしっかり手を重ね合わせる。

「理央くんのおかげで毎日頑張れます!」
「ありがとう。そう言ってもらえると、僕も頑張れるよ」

 年齢層は驚くほど幅広かった。目を輝かせている小学生の女の子がいたかと思えば、次は制服姿の女子高生が、真っ赤になりながら手を差し出してくる。母親と同じくらいの年齢の女性や、おばあちゃんほど歳の離れた年配の方もいて、誰もが緊張を隠せない面持ちで、僕たちの名前を呼んでくれた。
 そのほとんどは女性だったけれど、たまに気恥ずかしそうに列に並ぶ男性ファンもいる。そんな同世代くらいの男子から「マジでかっこいいです、応援してます」とストレートに言われると、黄色い歓声とはまた違う、熱い嬉しさが胸の奥を突き抜けた。

(十秒って、本当にあっという間だ……)

 名残惜しそうに手を離していくファン一人ひとりの顔と言葉を、零さないように心に刻みながら、僕は次から次へと笑顔を向け続ける。隣の凪斗も、低い声で丁寧に応えながら、ファンが寂しくならないよう、最後までしっかりと手を握っているのが気配で分かった。

「今度赤ちゃんが生まれるんですけど、しばらくは遠征に行けないので、家から応援してますね」
「えっ、赤ちゃん? おめでとうございます」
「楽しみですね。パワー送っときます!」

 ふっくらとしたお腹を優しく撫でる女性に、凪斗が笑いながら手をかざす。
 ――その時だった。スタッフの制止を振り切り、時間を無視して列へ割り込んでくる男の姿が見えた。
 グレーのパーカーに、黒いズボン。首からは『STAFF』の関係者パスを下げている。僕がきょとんと目を向けると、男は肩を上下させながら、口元にねっとりとした笑みを浮かべた。

「会いたかったよ、理央……。ずっと、ずっと、この日を待ってた……」
「えっ……?」
「どうして勝手に引っ越したんだよ。仕事終わりにポストへ手紙を届けに行ったら、理央の家から業者が家具を運び出していくのが見えたんだ。おかしいだろ? 次に引っ越す時は、俺が理央のために買ったあのマンションで、ふたりで暮らすって決めたじゃないか……なのに、なのに!」

 あまりに支離滅裂で、狂気に満ちた言葉だった。ぽかんと固まる僕の隣で、凪斗も、目の前で握手をしていた女性も、息を呑んで目を丸くしている。
 助けを求めて周囲のスタッフに目配せを送るけれど、会場の喧騒と整列の慌ただしさに紛れて、誰もこの異常な事態にまだ気づいていない。

「許さない、絶対に許さない……。あんなに愛してるって伝えたのに。二十四時間、三百六十五日、ずっとずっと俺は理央のことだけを考えて生きているのにさ……! よりによって、この鍵野凪斗と同じ家に住んでるんだろ⁉ 毎朝同じ車で、学校へ行く日も同じ制服で降りてくる。夜も同じマンションに入っていく。全部見てたんだよ! この間なんか、夜中にピザ屋の前で手まで繋いで……ふざけやがって。俺の理央をこれ以上誘惑するなあぁっ!」

 男は狂ったように叫ぶと、パーカーのポケットから、銀色に光る刃物を取り出した。
 ガタン、と凄まじい音を立てて長机が押し退けられる。最前列にいた女性の悲鳴が、会場に響き渡った。
 反射的に体が動いていた。必死に手を伸ばし、大きなお腹を守るようにうずくまる女性の背中へ、自分の体を覆いかぶせる。
 次の瞬間、低い唸り声と、床を激しく転がる金属の音が響いた。

「――おい! なんだ、何が起きてる⁉」
「警備! カメラ止めて、警察呼べ!」
「そこの男を取り押さえろ!」

 ようやく異変に気づいたスタッフたちの怒号と悲鳴が、会場中で交錯する。
 誰かが落としたのか、パイプ椅子が倒れる甲高い金属音。ブースの仕切りが軋み、順番待ちの列がうねるように崩れていく。さっきまで握手会の熱気で満ちていたはずの空気が、一瞬にして冷たく張りつめたものに変わっていた。

 不思議と、衝撃も痛みも感じなかった。
 視界の端を、何かが横切ったことだけは覚えている。照明を弾いて、細く鋭く光った――そう認識するよりも早く、誰かの体が僕の前に割り込んできていた。
 泣きながら片手で口元を押さえる女性と、その体を庇い続ける僕。腕の中で、彼女の肩が小刻みに震えているのが伝わってくる。
 振り返った先には、床に片手をついてもう片方の腕を大きく広げ、僕と女性を文字通り身を挺して守る凪斗の姿があった。背を丸めたその体越しに、荒く上下する呼吸が見える。

「……凪斗?」

 その肩のあたりから、シャツの布地がみるみるうちに赤く染まっていく。
 最初は、小さな染みだった。それが白い生地の繊維を伝って、じわり、じわりと広がっていく。衣装の袖口を伝い落ちた雫が、床に黒い点を作った。ひとつ、またひとつ。

「うわぁあああ! 離せ、離せよ! 俺は理央の婚約者だぞ、邪魔するな! 迎えに来たんだ、離せっ!」

 獣じみた叫び声が、鼓膜を引き裂く。
 駆けつけた警備員たちが男の腕を捻り上げ、数人がかりで背中にのしかかっていく。それでも男は髪を振り乱し、頬を床に押しつけられたまま、血走った目だけをこちらへ向けていた。

「理央! 俺のことを見れば分かるだろ? 恋人同士なんだから!」

 暴れる男の声を聞きながら、僕は血に染まっていく凪斗の身体へ、震える手を伸ばした。指先が、まるで凍えたみたいに言う事を聞いてくれない。

「凪斗……凪斗っ!」
「……理央? 怪我は……」
「待って、動かないで。誰か……誰か、救急車呼んでください!」

 掠れた声が裏返る。半泣きになりながら、スタッフに向かって必死に声を張り上げた。
 目の前では、何人もの屈強な警備員に床へねじ伏せられた男が、それでもなお、狂ったように僕の名前を叫び続けていた。何度も、何度も。名前を呼ばれるたびに、背筋を冷たいものが這い上がる。

「っ、……なか……」
「え……?」

 苦しそうに息を吐きながら、凪斗が微かに視線を動かす。額に浮いた汗が、こめかみを伝って顎の先で滴になっていた。

「ファンの子……。おなか、無事だったか……?」

 はっとして振り返ると、顔面蒼白になりながらも、震える手でお腹を抱え、何度も無言で頷く女性の姿があった。
 僕はほっと息を吐き、再び凪斗の冷たくなりかけた手をしっかりと握り締める。

「大丈夫だって……。無事だったよ」
「……なら、よかった……」
「僕も無事だから。それより凪斗が、血が……っ!」

 会場のスピーカーから流れていたファーストシングルの音源が、ぶつりと不自然に切れる。その直後、緊急事態と握手会の中止を告げるアナウンスが、硬い声で響き渡った。

「どういうこと?」
「なんか、悲鳴が聞こえたよね。女の人の」
「すみません、何が起こってるのか説明して貰えませんか?」

 どよめきとパニックが広がるなか、マネージャーの貝元さんが、見たこともないほど血の気の引いた顔で、スタッフたちに指示を飛ばしながら駆け寄ってくる。

「救急車がもうすぐ此処へ来るから! 凪斗くん、それ以上動くな!」
「あー……貝元さん、すいません。……無傷で、二人とも助けたかったんすけど」

 いつもの軽い口調を無理に作ろうとして、語尾が掠れて消えていく。唇の端に浮かべた笑みが、痛みに歪んで崩れていた。

「凪斗、お願い、もう喋らないでよ……っ!」

 震える手で衣装の上着を脱ぎ、凪斗の肩口の傷に強く押し当てる。布越しに、脈打つたびに熱いものが押し返してくるのがわかった。
 指の間からこぼれていく温かい血の感触に、涙で視界が滲む。生地はあっという間に重く湿り、鉄に似た匂いが鼻を突いた。それでも今は、必死に体重をかけて圧迫して止血することしかできない。

 そのあとのことは――もう、途切れ途切れにしか覚えていない。
 サイレンの音が遠くからけたたましく響き、近づくにつれて耳を覆いたくなるほどの音量になっていく。警察官が雪崩れ込むように会場へ入ってくると、男は数人に押さえつけられたまま引き起こされ、ほぼ同時に到着した救急隊員が、ストレッチャーを押し込んできた。
 「聞こえますか、お名前言えますか」と呼びかける隊員の声に、凪斗の瞼が重たげに上下する。
 意識を失いかけている凪斗が車内に乗せられる直前まで、僕はその手を両手で包み込んで離さなかった。乾きかけた血が指に貼りつき、小さく引きつれる。

「貝元さん、僕も救急車に乗せて、病院に行かせてください……! お願い!」
「ダメだ、理央くん! 今は何より君自身の安全を確保しなきゃならない」
「凪斗が無事だって、自分の目で確かめるまで離れない! 離してよ……っ!」

 絶叫する僕の目の前で、隊員たちの処置を受けながら、凪斗の顔からどんどん血の気が引いていく。
 やがて、後部ドアが閉じられ、救急車はサイレンを鳴らして走り出した。

「凪斗……っ!」

 追いかけようとした足からフッと力が抜け、ぺたん、と床に崩れ落ちた。
 震える僕の肩を、貝元さんが荒々しく支え起こす。パトカーや救急車の赤色灯が壁を激しく明滅させるなか、ブルーシートで遮蔽された通路を抜けて、出口へと引っ張られた。
 視界の端で、赤い光が何度も何度も瞬く。
 自分の両手を見下ろすと、掌も袖も、凪斗の血で染まっていた。