現役男子高校生で国民的人気アイドルの僕を「性格ブス」と呼ぶ男と同居することになりました

【side:鍵野凪斗】

 ドレッサーに押し付けた橘花の身体から、ようやく唇を離す。繋がっていた銀の糸が切れて、あいつの濡れた唇が微かに震えた。真っ白なステージ衣装の胸元を大きく上下させながら、涙目のまま、必死に酸素を求めて喉を鳴らしている。
 完全に暴走してしまった。勢いでがっつきすぎたせいで、いつもテレビで見せる完璧な笑顔も、俺を睨みつけてくるお高いプライドも、今のこいつにはひとかけらも残っていない。
 橘花は信じられないものを見るような目で俺を見上げ、そのままフリーズした。真っ赤になった顔を隠す気力すら湧かないのか、微かに開いた唇が小さく戦慄いている。言い返す言葉すら見つからなくてタジタジになっているその姿が、やっぱり……クソ可愛い。

 楽屋に戻る直前までのステージは、控えめに言っても最高だった。
 イントロが流れてマイクを握った瞬間、隣にいるあいつから放たれる「橘花理央」としての圧倒的なオーラを肌で感じた。負けてたまるかと声を重ねれば、二人の声が信じられないほどの精度で噛み合い、スタジオの熱気ごと空気を震わせていく。
 一人で歌うのとは全く違う、脳が痺れるようなあの重なりの快感。お互いの呼吸も視線も全部シンクロして、まるで一つの生き物になったみたいにステージを支配していくあの気持ち良さは、間違いなくあいつが相棒だからこそだった。
 その才能に改めてひれ伏したくなると同時に、「隣」を誰にも譲りたくないという衝動が、あの時点で限界近くまで膨らんでいく。

 楽屋で鏡の前に立つあいつの髪に白い紙吹雪が見えた時、ただそれをつまんで取ってやろうとしただけだった。
 それなのに、急に距離を詰めた俺に驚いた橘花は、身体を強張らせて、きゅっと静かに目を閉じた。
 その仕草ひとつで、気づいてしまった。

(こいつ、俺にキスされるって勘違いしてる……?)

 それまで頑なに保っていた理性が、派手な音を立ててぶっ壊れた。拒絶して逃げるんじゃなく、唇をきゅっと結んで目を閉じたあいつの顔が、ほんの少しだけ、俺の接触を「期待」しているみたいに見えてしまったから。あんな顔されたら、もう我慢が効くわけがなかった。
 気づけば髪の紙吹雪なんてどうでもよくなって、ドレッサーにあいつを追い詰め、強引に唇を奪っていた。
 ようやく絞り出された橘花の声は、情けないほどに掠れていた。天板を掴む指先が強張っている。まだキスの余韻が残っているのか、あいつの視線が、泳ぐように俺の唇と目を何度も往復した。

『付き合いたいとか、そういうのは求めてねぇよ』

 両手をドレッサーから離し、一歩後ろに下がって、あえていつも通りのぶっきらぼうなトーンで言い放った。そうでもしないと、またあの柔らかい身体を強引に抱きすくめて、さっきより酷いキスをしてしまいそうだったからだ。
 離れた途端、橘花はガクンと膝の力が抜けたように寄りかかり、自分の口元を衣装の袖でゴシゴシと乱暴に拭った。
 いつものツンとした態度を取り戻そうと必死なのが、余計に愛おしい。顔が耳の裏まで真っ赤なせいで、ちっとも威厳がない。

「でも……付き合わねぇからって、この気持ちは無かったことには出来ない」
「鍵野っ」

 床に転がっていた自分のリュックを片手で拾い上げると、あえて橘花の顔を見ずに背中を向けて、パイプ椅子の横を通り過ぎ、自分の心臓が、ステージの上よりも激しくドクドクと脈打っているのを隠すように、先に部屋を出て行く。
 ドアを閉める直前の背後からは、まだ混乱から抜け出せない橘花の、小さく息を吐く音が聞こえていた。

 テレビ局の地下駐車場。貝元さんの車の後部座席に乗り込んでから、橘花はあからさまに様子がおかしかった。
 いつもなら「お疲れ様でした」と大人っぽい顔で労いの言葉をかけ、今日の反省点を細かく口にするはずのこいつが、助手席の貝元さんに話しかけられても生返事しか返さない。

「理央くん、今日の生放送、本当に素晴らしかったよ! SNSのトレンドも独占状態だし……理央くん?」
「……あ、はい。よかったです……」

 キャップを目深に被り、窓の外の暗闇を見つめたままの橘花の声は、蚊の鳴くように小さい。楽屋でのキスと告白を引きずって激しく動揺しているのが、丸わかりだった。

(このままじゃ、勘の鋭い貝元さんに速攻で不審がられる)

 そう察すると、俺は橘花の前に割り込むようにして、いつもより少し大きな声で受け答えを引き受けた。

「貝元さん。今度の握手会の詳細、もう一度確認させてください。休憩のタイミングとか、パーティションの配置ってどうなってましたっけ?」
「えっ? あ、うん。握手会はね、四時間ぶっ通しだから二時間目に十五分の小休憩を挟む予定で……」

 わざと仕事の話を掘り下げて盛り上げると、貝元さんはそっちに意識を引っ張られ、熱心に話し込み始めた。バックミラーに映る橘花は、帽子で隠れた影の中で、話を振られないよう小さく俯いて身を縮めている。

(……ったく、分かりやすすぎるだろ)

 心の中で苦笑しながらも、あいつのそんな初々しい姿に胸の奥がチリチリと甘く痛んだ。
 車がマンションの地下に到着し、貝元さんを見送ってから部屋へと戻る。ドアを開けてリビングに入った途端、何とも言えない気まずい空気が俺たちの間に流れた。橘花は俺と視線を合わせようともせず、そそくさと自分の荷物を整理し始めている。照明の下で見ると、あいつの耳の裏はまだほんのりと赤かった。
 さすがにこのままじゃ可哀想かと思い、俺は荷物を床に置いて声をかける。

「……おい。別に、家帰ってきたからって、変なことしねぇから安心しろよ」

 張り詰めた空気を緩めるつもりで言った言葉だった。
 だけど橘花は、荷物を抱えたままぴたりと動きを止め、真っ赤な顔を跳ね上げるようにして、拒絶の籠った声で弱々しく言った。

「……もう、したじゃん」

 上目遣いの涙目に、グサリと胸を刺される。確かにやった。それも、楽屋でほぼ無理矢理に押し付けて、かなり強引に。

「悪かった。……向こうの部屋、内側から鍵かかるからそこ使えよ。俺、今夜は……というか、しばらくはリビングので寝るから」
「リ、リビングって。どうやって」
「ソファーがあるだろ」

 俺なりの誠意のつもりだった。これ以上あいつを怖がらせたくなくて、自陣を明け渡す提案をした。だけど橘花は小さくため息を吐くと、抱え込んだ荷物に顎を埋めるようにして呟いた。

「……鍵野が、流石にそういう酷いことまでするとは思ってない」
「は? ……アンタ、俺のことどんだけ信用してんの?」
「信用っていうか、そういう人間だと思ってないって言うか」

 口の中でモゴモゴと言葉を濁す。さっきあんなキスをしておいて、それでも俺の根底にある一線を信じてくれているらしい。その健気さに調子が狂う。少し照れくさくなって、またしても俺の口は最悪の言葉を紡ぐ。

「てか、意識し過ぎ。キスシーンくらい、仕事じゃ普通にあるだろ」

 ただの、本当にただの照れ隠しだった。なのに橘花は、突然何かが決壊したように顔を紅潮させて怒鳴り散らした。

「最低!」
「だから……さっきはごめんって」
「鍵野と違って、僕は恋愛ドラマも映画も出てないんだよ。キスなんか、したことあるわけないだろ!!」

 部屋に響いた橘花の叫びが、俺の脳内で何度もリフレインする。

(キスなんか……したことない……?)

 ハッとして、胸の奥で心臓が暴れはじめた。いや、まさか。そんなわけない。だって、俺の思い違いでなければ……。

「いや、してただろ」
「してないよ。何を根拠にそんなこと言ってるの?」
「中学の時、あんたが出てた学園ドラマの予告で見た」
「えっと……それって『放課後、君のオレンジに染まる』のこと?」
「そう。幼馴染役の女優とその……あっただろ、するシーン」

 それは、まだ俺が事務所に所属する前のこと。中学二年の春クールに放送されていた、世間を騒がせた話題の学園恋愛ドラマだ。
 当時の次世代を担う若手俳優や人気アイドルを一つの教室に詰め込んだような群像劇。その中で、主役ではないものの橘花もしっかりと出演していた。
 少し影のあるダークな役柄で、クラスの人間関係を裏でかき回すような立ち位置だったはずだ。そして、物語のクライマックス手前、そのメイン回で幼馴染役にキスするシーンがあったのを鮮明に覚えている。本編の細かいストーリーはあやふやなままでも、そのワンカットだけは焼き付いていた。

「あれはさ、予告がオンエアされた時点で大騒ぎになったんだよ。相手の子もブレイク直前の清純派女優だったし、僕も当時から持ち上げられてたわけじゃん。そういう年頃の未成年同士が濃厚な絡みをするなんてって、事務所の電話がパンクするくらいクレームが殺到してさ。結局、本編の該当シーンはまるまるカットされたんだよ」
「いや、でも。予告で見たんだよ。だから、あれが――」
「鍵野って、顔のわりに頭悪い? カメラワークのトリックと遠近法のフリに決まってるでしょ。それ以降、僕の事務所の方針で、恋愛系やラブシーンのある役はすべてNGになったんだから」

 つまり――さっき楽屋で交わしたキスは、橘花理央にとってファーストキスだ。それを俺はあんなふうに強引で、傲慢な形で力任せに奪ってしまった。

(マジか。……嘘だろ、ヤバくね?)

 背筋に冷汗と、胃の腑がひっくり返るような罪悪感が押し寄せる。頭の中が真っ白になり、お高い仮面を剥ぎ取りたいだの、独占したいだの思っていた自分が、急にとんでもない大悪党に思えてきた。

「……ごめん、橘花。本当にごめん」

 本気で、心の底から頭を下げる。喉の奥がカラカラに乾くほど、実のところは動揺していた。
 だけど橘花はそんな俺の様子を見て、今度はひどく悲しそうな、今にも崩れてしまいそうな顔で唇を歪めた。

「なんで謝るの? ……そういう、ダサいことしないでよ」
「な、なんでだよ」

 橘花は荷物を床に落とし、自分の腕を強く抱きしめる。その身体が、微かに震えていた。

「謝られるとさ……訳が分からなくなる。……嘘じゃないの? 演技じゃないよね? 僕をコントロールするための、ビジネス恋人みたいなこと……考えてないよね……?」

 疑心暗鬼に震える、掠れた小さな声。大人たちの思惑やビジネスの都合、そしてストーカーの悪意に晒され続けてきた橘花の心は、俺の『好き』という真っ直ぐな言葉さえも、自分を陥れるための罠なんじゃないかと疑ってしまうほどに、深く傷つき、怯えているようだった。
 ……性格ブスでプライドが高いと決めつけていたのは、他ならぬ俺だ。その中身は驚くほど脆く、繊細な――ただの男子高校生だっていうのに。

(あぁ、クソ……)

 胸の奥が、張り裂けそうに愛おしさで満たされる。ビジネスなんかじゃない。嘘でも演技でもない。付き合わないと言ったのは、橘花のキャリアを守るための一線で、俺の気持ちはそんな軽いものじゃない。
 気づけば俺は再び一歩を踏み出し、震える橘花の身体を今度は壊れ物を扱うように、だけど逃がさないように優しく腕の中に引き寄せていた。

「かっ、鍵野……?」
「嘘じゃねぇよ。演技でもない」

 耳元で低く囁く。こいつの心が、その過去の傷も不安も全部ひっくるめて満たされるくらいに、心の底から一生をかけて愛してやりたいと思った。
 今度は顎を掴んだりしない。その怯えを溶かすように、そっと優しく唇を重ねた。楽屋での激しいものとは違う、お互いの体温を確かめ合うような、穏やかで深いキス。

「ん……待っ、……」

 橘花が小さく鼻を鳴らす。驚いて拒絶されるかと思ったのに、橘花の細い両手が、迷いながら俺の背中へと回された。服越しに伝わってくる指先の震えと、ぎゅっと俺の背中の布地を掴む強さが、何よりも確かな「答え」のように思えて、俺はその細い身体をさらに強く抱きしめ返す。

「ねぇ……さっき、付き合わないって言ってたけど」

 俺の胸元に顔を埋めたまま、橘花がぽそりと呟いた。

「鍵野にこうやってキスだけされるとか……都合のいいセフレみたいに扱われるのは、嫌だよ」

 その言葉に、全身の血が逆流するような衝撃を受けて、俺の動きがピタリと止まった。
 橘花が、名残惜しそうに俺の胸からゆっくりと顔を離す。目元はまだほんのりと赤く濡れて、まつげには涙の余韻が滲んでいた。だけどその唇の端は、どこか悪戯っぽく、綺麗で儚い弧を描いている。

「それは……万が一、週刊誌とかにバレた時のリスクを考えて――」

 言い訳しようとした俺を遮るように、橘花は冷めた声音でまっすぐに視線を突き刺してきた。

「……で、鍵野凪斗は、男としての責任から逃げるわけ? 国民的アイドルのファーストキスを奪っておいて、『好きだ』って散々かき回したくせに、『でも付き合えない』『お前のことは俺が守りたい』って、都合よく二回もキスしてさ」
「ち、ちがう。そういうつもりじゃ……!」
「僕からネタとして週刊誌に売ってやろうか」

 ふふ、と。涙目のまま、困ったように優しく、橘花が小さく微笑む。
 頭を殴られたような衝撃だった。さっきまで、自分がファーストキスだったことをあんなに恥ずかしがって、傷ついて、疑心暗鬼になって震えていたくせに。俺の慌てぶりに少しだけ安心したのか、今度は俺をからかうように、ちょっと背伸びをしてそんな可愛い冗談を言ってみせる。泣き虫のくせに、やっぱり強がる。

(本当に、どこまで愛おしいんだよ)

 週刊誌に売る、なんて、こいつが本気で言うわけがない。でも、その愛くるしい笑顔を見た瞬間、俺の中で張り巡らせていた「理性」だの「一線」だの「アイドルのルール」だの、くだらないブレーキは全部綺麗に消し飛んでいた。
 そっと引き寄せて、三度目の、今度は優しく包み込むようなキスをする。驚かせないように、でも俺の全部を伝えるための、温かくて丁寧なキスだ。

「……っ」

 唇を離すと、橘花はすっかりとろんと蕩けた瞳で俺を呆然と見上げていた。その耳元に、少し声を落として、真っ直ぐな言葉を囁く。

「付き合わないなんて、格好つけたこと言って悪かった」

 橘花の頬を両手で挟み込み、親指の腹でその白く柔らかな肌を包む。
 もう、ビジネスパートナーなんて言葉の裏に隠れるのはやめだ。バレたら大変なことになる? バレなきゃいいだけだ。
 もしバレたら、その時は俺が違約金も、こいつの人生の責任も全部背負う。

「俺の恋人になって。誰にも渡したくねぇし、考えただけでそんなん無理」

 心臓が、今日一番の音を立てて跳ねた。
 橘花は一瞬だけ弾かれたように目を見開いたけれど、すぐにその綺麗な瞼をこれ以上ないくらい細めて、俺の胸に額を寄せてきた。

「……最初から、そう言えって、言ってるんだよ。馬鹿……っ」

 背中に回されたあいつの手の強さが、さっきよりもずっと愛おしく俺の身体を縛りつけていた。言葉とは裏腹に、シャツを掴む指先はまだ微かに震えていて、その健気さがたまらなく愛おしい。
 細い肩を抱きすくめ、髪にそっと顎を乗せる。テレビの前の誰も知らない、俺だけの――本物の橘花理央。
 この先どんな未来が待っていようと、この腕の中の温もりだけは、絶対に離さないと心に誓った。