「みなさん、こんばんは。Sugar&Spice.の橘花理央です」
「鍵野凪斗です」
お馴染みの週末のゴールデン帯、日本中の誰もが知る音楽生放送番組。スタジオのひな壇に並んだ僕たちがマイクを通して挨拶した瞬間、観覧に選ばれたファンたちから、スタジオの天井を突き破らんばかりの歓声が上がった。客席は女性ファンで埋め尽くされ、色とりどりのLEDライトが仕込まれたうちわが激しく揺れている。『理央』『凪斗』と、地鳴りのようなコールが次々に僕たちの名前を叫んだ。
きらびやかな大型液晶モニターに囲まれたステージ。幾本ものレーザー照明が交錯し、本番特有の熱気と緊張感が肌にピリピリと刺さる。僕たちの隣には、トレードマークのサングラスをかけた大物司会者と、ハキハキとした進行で人気の女性アナウンサーがマイクを手に立っていた。
「さあ、今夜の一組目のゲストは、電撃的なユニット結成が今、世間を大騒ぎさせております! Sugar&Spice.のお二人です」
「よろしくお願いします」
司会者の紹介に、カメラを見据えて完璧なアイドルスマイルを浮かべる。
隣の鍵野は少し緊張を覗かせながらも、堂々とした佇まいで頭を下げた。
「いや~、それにしても理央くん」
「はい」
「このユニット結成が発表された時は本当にびっくりしたよ。あの『天才子役』の理央くんが、今をときめく超大型新人コンテスト王者の鍵野くんと組むっていうんだからさぁ。これ、どういう経緯で決まったの?」
「そうですね、元々は同じ事務所の先輩後輩だったんですけど、社長から『二人の声の相性が抜群だから、一緒に新しい世界を目指してみないか』って声をかけていただいて」
「うんうん」
「お互いに全く違う持ち味があるからこそ、二人でしか作れない音楽があるんじゃないかということで、このユニット名になりました」
「なるほどねぇ、砂糖とスパイス、甘さと刺激ってわけだ。素晴らしいね。でも、鍵野くんから見て、大先輩の理央くんと組むって聞いた時はどうだった?」
マイクを振られた鍵野は、少しだけ視線を僕に向けてから、テレビ用の端正なポーカーフェイスで語り出した。
「最初はやっぱり、プレッシャーしかなかったです。理央くんは小さいころからテレビの向こう側の人でしたから」
「うん、しかも大人気だしね」
「はい。実際に一緒にレッスンを重ねていくうちに、理央くんの仕事に対する妥協のない姿勢に圧倒されて……。今は、この人の隣に恥じない相棒でいたいと、それだけを思ってやってます」
あいつにしては珍しく、まっすぐな言葉だった。
台本にはない鍵野の本音が混ざっているのが分かって、胸の奥が小さく跳ねる。
「いやいや、でもその『相性の良さ』っていうのがさ、一昨日ネットにアップされたあの動画で証明されちゃったよね! あの反響、今すごいことになってるんでしょ?」
「はい! 一発撮りのパフォーマンスを披露する大人気YouTubeチャンネル『ワン・テイク』にSugar&Spice.のお二人が登場したのですが、なんと公開からわずか四八時間で、急上昇チャートでも堂々の一位を獲得しています」
女性アナウンサーがフリップを掲げながら興奮気味に伝えると、客席から「おめでとう」という割れんばかりの拍手と歓声が再び湧き起こる。
「あの動画、僕も見させてもらったけどさ、鳥肌が立ったよ。あの最後の、理央くんがちょっと感極まって涙ぐんだシーン。あれは演技なの? それともリアル?」
司会者の意地悪な質問に、スタジオ中がドッと沸く。あのレコーディングの後に廊下で鍵野に抱きしめられた記憶が一瞬フラッシュバックして耳が熱くなったけれど、そこはプロの笑顔で軽くいなしてみせた。
「あはは、お恥ずかしいです……。あれは本当の涙です。一発撮りというプレッシャーの中で、鍵野くんの歌声が隣から聴こえてきた瞬間、今までの色んな想いが一気に溢れてしまって……でも、隣に彼がいてくれたから、最後まで歌いきることができました」
そう言って隣を向くと、鍵野は不敵な笑みを浮かべ、カメラに向かって力強く頷いた。
「さあ、日本中で最もバズっているお二人に、今夜はその話題のデビュー曲を、なんとテレビ初披露していただきます! 準備はよろしいですか?」
「はい。皆さんの心に届くように、全力で歌います」
「ぶちかましてきます。よろしくお願いします」
スタジオの照明がゆっくりと暗転し、僕たちを照らすスポットライトだけが残る。
ひな壇からステージの中央、二本のマイクスタンドが並ぶ場所へと歩みを進める間、そっと隣を歩く鍵野の横顔を盗み見た。
(……良い顔してるじゃん)
イントロの美しいピアノの旋律が静かに流れ出す中、僕は深く息を吸い込み、そっとマイクを握り締めた。
***
割れんばかりの歓声に背を向けてステージの裏へと捌ける。急激に押し寄せてきた疲労感でまだ呼吸の整わない中、次に舞台袖で待機していたボーイズグループが「お疲れ様です!」と声を掛け合いながらバミリの位置へとついていく。
僕と鍵野は大道具さんのセットチェンジの動きを縫うようにして、自分たちの楽屋へと戻った。重い扉が閉まり、スタジオの喧騒が遠のく。
「……お疲れ」
楽屋に備え付けられた冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を投げて渡すと、鍵野は「おぅ」と受け取り、キャップをぐいっと力任せに捻った。上を向き、喉仏を上下させながらごくごくと音を立てて飲んでいく。
自分の耳からイヤモニを外し、鏡の前で一息ついてから振り返ると、ペットボトルを握ったまま、鍵野がじっと僕の顔を見つめていた。
「え、なに……」
「お疲れ、マジで最高だった。……悔しいけど、やっぱアンタの才能には敵わないなって、改めて思わされたわ」
いつもあんなに不遜で生意気な後輩が、まっすぐに、なんの嫌味もなく僕の歌を称賛してくれている。今まで大人たちから褒められたことなんて数えきれない程あるのに、なぜだか一番「嬉しい」なんて思ってしまった。
「何言ってるの。僕だって、鍵野の低音も、あの圧倒的なダンスも……自分にはないものばかりだから。その……正直、すごく尊敬してる。近くでいっぱい吸収して、自分の表現にも違う形で活かしたいなって――」
気恥ずかしさを誤魔化すように早口で捲し立てていると、ふ、と目の前が影で暗くなった。それが鍵野のかざした手だと分かった時には、もうその大きな手のひらが僕の髪に触れていて。そっと愛おしむように髪を撫でられ、同時にあいつの顔が、軽い屈み込みとともに至近距離まで迫る。
(なに……? なんで触って――)
ワン・テイクの時の抱擁や、学校の踊り場での会話、少しずつ重なっていったあいつへの特別な感情が一気に頭を駆け巡る。
心臓が壊れそうなほど暴れ出し、身体を強張らせて、息を詰めたまま目をぎゅっと閉じた――けれど。
いくら待っても予想していた唇は触れて来なくて、恐る恐る目を開く。至近距離にある鍵野の顔は、どこか悪戯っぽく、けれどひどく優しい笑みを浮かべていた。
「……髪についてた。ほら」
鍵野が目の前に差し出した長い指先。その上には、歌唱の最後にステージの天井から降ってきた演出用の紙吹雪が乗っていた。真っ白な、小さな四角が、鍵野の指の腹でポツンと浮いている。
「――あ」
恥ずかしさで、一気に顔が沸騰しそうになった。
すっかり勘違いして、勝手に身構えて目を閉じていた自分が、猛烈に、死ぬほど恥ずかしい。
慌てて一歩後ろに下がり、真っ赤になった顔を両手で隠しながら、鍵野から視線を逸らす。
「何その反応。ガチ照れ?」
低く弾んだ声が楽屋に響くと、鍵野は指先の紙吹雪を息で吹き飛ばしながら、面白そうに目を細めて覗き込んできた。
「きゅ、急に触るから何事かと……」
「あぁ、『気安く触らないで』だっけ?」
同居当初、警戒心の塊だった僕があいつに向けて放った冷たい言葉だ。それを今になってわざわざ意地悪く引っ張り出してくるなんて。
「い、今はそういう風には……」
「ふーん、何で? 俺の事、嫌いなんじゃねぇのかよ」
「きらい、とかは……思ってない。ただ、ムカつくというか……」
「何だそれ。マジでお姫様気質じゃん」
「いや、どちらかと言ったら僕は王子様でしょ」
「自分で言ってんのが、『可愛い』って気付いてねぇのな」
鍵野は呆れたように鼻で笑うと、持っていたペットボトルを近くの机にゴン、と手荒に置いた。その音が妙に大きく聞こえて、思わず肩が強張る。
「じゃあ、何期待して目ぇ閉じてたんだよ」
「な、っ……期待なんてしてない!」
「してただろ。顔、真っ赤だし」
逃げようと後ろに下がったけれど、すぐにドレッサーの机に腰が当たって退路を断たれた。完全に僕の動きを先回りするようにして、鍵野が両手を天板につき、左右から閉じ込める。ワン・テイクのロビーで抱きしめられた時と同じ、あの男らしい体躯が、圧倒的な質量を持って目の前に迫ってきた。
「……理央」
低く、どこか甘い声で僕の名前を呼ばれた。さっきまでからかうようだったあいつの瞳が、今は信じられないくらい獰猛で、熱い色を帯びて僕の瞳の奥を射抜いている。
「俺さ、お前を好きになるつもりなんてサラサラなかったんだわ」
「鍵野……?」
「ビジネスだの何だの言っておきながら……気づいたら、俺の前でだけ感情剥きだしにして怒ったり泣いたりしてるところばかり、目で追ってた。あの夜、公園でダンゴムシのっけて笑ってんの見た時も、クソ可愛いとか思っちまったし」
「え、なに――」
鍵野の大きな手が僕の顎を容赦なく捕らえ、上を向かせた。拒む隙なんて一瞬も与えられないまま、強引に、深く、唇を塞がれる。
「――っ、ん、」
驚きで息を吸おうとした瞬間に、舌が滑り込んでくる。あまりに強気で、有無を言わせない傲慢なキス。いつも僕の痛いところを突き刺してくるあいつの言葉そのもののような、激しい熱が広がっていく。
最初は、押し返そうとした。胸に当てた両手に力を込めて。けれど、その手は、いつの間にか凪斗のシャツを掴んでいた。
(……嫌じゃ、ない)
頭のどこかで、冷静な自分が「ここは楽屋だ」「誰かにバレたら大変なことになる」と叫んでいる。それでも、逃げようと思えば逃げられたはずだった。逃げなかったのは、僕だ。
自分から、ほんの少しだけ顎を上げた。応えるように、唇を開いた。
(や、ばい……頭ぼーっとする……)
深いキスが繰り返されるたびに脳の酸素が奪われ、見えている景色が霞んでいく。あんなに頑なに守ろうとしていたプライドも、完璧な「橘花理央」の仮面も、鍵野の圧倒的な強引さの前に跡形もなく溶かされていく。
呼吸が限界を迎える頃、ようやく唇が離された。繋がった銀の糸が切れるのを、ぼんやりと見つめることしかできない。鍵野にしがみついて涙目のまま、はぁ、はぁ、と激しく肩を上下させて息を吸い込んだ。
あまりの勢いに頭が追いつかなくてたじたじになっている僕を、鍵野は逃がさないとばかりにさらに顔を近づけてくる。
「プライド高くて、負けず嫌いで。本当は手が震えるくらい繊細なくせに強がってる、それを隠すところも全部ひっくるめて好き」
「ちょっ………待って、ストップ!」
「だから、アンタが隠してるもの、全部俺が剥ぎ取りたい。そういう姿は、これから俺の前でしか見せんな」
「な、に言って……」
「本当のことだろ。……付き合いたいとか、そういうのは求めてねぇよ。俺らアイドルだし、恋愛禁止だし、バレたら大変なことになるのくらい分かってる」
鍵野はそこで一度言葉を切り、僕の唇を親指の腹でゆっくりと、けれど強く擦った。
「……五億だろ、違約金。俺の勝手で、ここまでアンタが積み上げたものを全部ぶっ壊すわけにいかねぇじゃんか」
初めて呼び捨てにされたその響きと、目の前の男が放つ剥き出しの独占欲に、全身の血が逆流するような衝撃が走る。生意気な後輩に何もかもを暴かれ、心の奥底まで全部はぎ取られてしまったのに、僕の胸を占めていたのは、もうただの怒りなんてものではなくなっていた。
「鍵野凪斗です」
お馴染みの週末のゴールデン帯、日本中の誰もが知る音楽生放送番組。スタジオのひな壇に並んだ僕たちがマイクを通して挨拶した瞬間、観覧に選ばれたファンたちから、スタジオの天井を突き破らんばかりの歓声が上がった。客席は女性ファンで埋め尽くされ、色とりどりのLEDライトが仕込まれたうちわが激しく揺れている。『理央』『凪斗』と、地鳴りのようなコールが次々に僕たちの名前を叫んだ。
きらびやかな大型液晶モニターに囲まれたステージ。幾本ものレーザー照明が交錯し、本番特有の熱気と緊張感が肌にピリピリと刺さる。僕たちの隣には、トレードマークのサングラスをかけた大物司会者と、ハキハキとした進行で人気の女性アナウンサーがマイクを手に立っていた。
「さあ、今夜の一組目のゲストは、電撃的なユニット結成が今、世間を大騒ぎさせております! Sugar&Spice.のお二人です」
「よろしくお願いします」
司会者の紹介に、カメラを見据えて完璧なアイドルスマイルを浮かべる。
隣の鍵野は少し緊張を覗かせながらも、堂々とした佇まいで頭を下げた。
「いや~、それにしても理央くん」
「はい」
「このユニット結成が発表された時は本当にびっくりしたよ。あの『天才子役』の理央くんが、今をときめく超大型新人コンテスト王者の鍵野くんと組むっていうんだからさぁ。これ、どういう経緯で決まったの?」
「そうですね、元々は同じ事務所の先輩後輩だったんですけど、社長から『二人の声の相性が抜群だから、一緒に新しい世界を目指してみないか』って声をかけていただいて」
「うんうん」
「お互いに全く違う持ち味があるからこそ、二人でしか作れない音楽があるんじゃないかということで、このユニット名になりました」
「なるほどねぇ、砂糖とスパイス、甘さと刺激ってわけだ。素晴らしいね。でも、鍵野くんから見て、大先輩の理央くんと組むって聞いた時はどうだった?」
マイクを振られた鍵野は、少しだけ視線を僕に向けてから、テレビ用の端正なポーカーフェイスで語り出した。
「最初はやっぱり、プレッシャーしかなかったです。理央くんは小さいころからテレビの向こう側の人でしたから」
「うん、しかも大人気だしね」
「はい。実際に一緒にレッスンを重ねていくうちに、理央くんの仕事に対する妥協のない姿勢に圧倒されて……。今は、この人の隣に恥じない相棒でいたいと、それだけを思ってやってます」
あいつにしては珍しく、まっすぐな言葉だった。
台本にはない鍵野の本音が混ざっているのが分かって、胸の奥が小さく跳ねる。
「いやいや、でもその『相性の良さ』っていうのがさ、一昨日ネットにアップされたあの動画で証明されちゃったよね! あの反響、今すごいことになってるんでしょ?」
「はい! 一発撮りのパフォーマンスを披露する大人気YouTubeチャンネル『ワン・テイク』にSugar&Spice.のお二人が登場したのですが、なんと公開からわずか四八時間で、急上昇チャートでも堂々の一位を獲得しています」
女性アナウンサーがフリップを掲げながら興奮気味に伝えると、客席から「おめでとう」という割れんばかりの拍手と歓声が再び湧き起こる。
「あの動画、僕も見させてもらったけどさ、鳥肌が立ったよ。あの最後の、理央くんがちょっと感極まって涙ぐんだシーン。あれは演技なの? それともリアル?」
司会者の意地悪な質問に、スタジオ中がドッと沸く。あのレコーディングの後に廊下で鍵野に抱きしめられた記憶が一瞬フラッシュバックして耳が熱くなったけれど、そこはプロの笑顔で軽くいなしてみせた。
「あはは、お恥ずかしいです……。あれは本当の涙です。一発撮りというプレッシャーの中で、鍵野くんの歌声が隣から聴こえてきた瞬間、今までの色んな想いが一気に溢れてしまって……でも、隣に彼がいてくれたから、最後まで歌いきることができました」
そう言って隣を向くと、鍵野は不敵な笑みを浮かべ、カメラに向かって力強く頷いた。
「さあ、日本中で最もバズっているお二人に、今夜はその話題のデビュー曲を、なんとテレビ初披露していただきます! 準備はよろしいですか?」
「はい。皆さんの心に届くように、全力で歌います」
「ぶちかましてきます。よろしくお願いします」
スタジオの照明がゆっくりと暗転し、僕たちを照らすスポットライトだけが残る。
ひな壇からステージの中央、二本のマイクスタンドが並ぶ場所へと歩みを進める間、そっと隣を歩く鍵野の横顔を盗み見た。
(……良い顔してるじゃん)
イントロの美しいピアノの旋律が静かに流れ出す中、僕は深く息を吸い込み、そっとマイクを握り締めた。
***
割れんばかりの歓声に背を向けてステージの裏へと捌ける。急激に押し寄せてきた疲労感でまだ呼吸の整わない中、次に舞台袖で待機していたボーイズグループが「お疲れ様です!」と声を掛け合いながらバミリの位置へとついていく。
僕と鍵野は大道具さんのセットチェンジの動きを縫うようにして、自分たちの楽屋へと戻った。重い扉が閉まり、スタジオの喧騒が遠のく。
「……お疲れ」
楽屋に備え付けられた冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を投げて渡すと、鍵野は「おぅ」と受け取り、キャップをぐいっと力任せに捻った。上を向き、喉仏を上下させながらごくごくと音を立てて飲んでいく。
自分の耳からイヤモニを外し、鏡の前で一息ついてから振り返ると、ペットボトルを握ったまま、鍵野がじっと僕の顔を見つめていた。
「え、なに……」
「お疲れ、マジで最高だった。……悔しいけど、やっぱアンタの才能には敵わないなって、改めて思わされたわ」
いつもあんなに不遜で生意気な後輩が、まっすぐに、なんの嫌味もなく僕の歌を称賛してくれている。今まで大人たちから褒められたことなんて数えきれない程あるのに、なぜだか一番「嬉しい」なんて思ってしまった。
「何言ってるの。僕だって、鍵野の低音も、あの圧倒的なダンスも……自分にはないものばかりだから。その……正直、すごく尊敬してる。近くでいっぱい吸収して、自分の表現にも違う形で活かしたいなって――」
気恥ずかしさを誤魔化すように早口で捲し立てていると、ふ、と目の前が影で暗くなった。それが鍵野のかざした手だと分かった時には、もうその大きな手のひらが僕の髪に触れていて。そっと愛おしむように髪を撫でられ、同時にあいつの顔が、軽い屈み込みとともに至近距離まで迫る。
(なに……? なんで触って――)
ワン・テイクの時の抱擁や、学校の踊り場での会話、少しずつ重なっていったあいつへの特別な感情が一気に頭を駆け巡る。
心臓が壊れそうなほど暴れ出し、身体を強張らせて、息を詰めたまま目をぎゅっと閉じた――けれど。
いくら待っても予想していた唇は触れて来なくて、恐る恐る目を開く。至近距離にある鍵野の顔は、どこか悪戯っぽく、けれどひどく優しい笑みを浮かべていた。
「……髪についてた。ほら」
鍵野が目の前に差し出した長い指先。その上には、歌唱の最後にステージの天井から降ってきた演出用の紙吹雪が乗っていた。真っ白な、小さな四角が、鍵野の指の腹でポツンと浮いている。
「――あ」
恥ずかしさで、一気に顔が沸騰しそうになった。
すっかり勘違いして、勝手に身構えて目を閉じていた自分が、猛烈に、死ぬほど恥ずかしい。
慌てて一歩後ろに下がり、真っ赤になった顔を両手で隠しながら、鍵野から視線を逸らす。
「何その反応。ガチ照れ?」
低く弾んだ声が楽屋に響くと、鍵野は指先の紙吹雪を息で吹き飛ばしながら、面白そうに目を細めて覗き込んできた。
「きゅ、急に触るから何事かと……」
「あぁ、『気安く触らないで』だっけ?」
同居当初、警戒心の塊だった僕があいつに向けて放った冷たい言葉だ。それを今になってわざわざ意地悪く引っ張り出してくるなんて。
「い、今はそういう風には……」
「ふーん、何で? 俺の事、嫌いなんじゃねぇのかよ」
「きらい、とかは……思ってない。ただ、ムカつくというか……」
「何だそれ。マジでお姫様気質じゃん」
「いや、どちらかと言ったら僕は王子様でしょ」
「自分で言ってんのが、『可愛い』って気付いてねぇのな」
鍵野は呆れたように鼻で笑うと、持っていたペットボトルを近くの机にゴン、と手荒に置いた。その音が妙に大きく聞こえて、思わず肩が強張る。
「じゃあ、何期待して目ぇ閉じてたんだよ」
「な、っ……期待なんてしてない!」
「してただろ。顔、真っ赤だし」
逃げようと後ろに下がったけれど、すぐにドレッサーの机に腰が当たって退路を断たれた。完全に僕の動きを先回りするようにして、鍵野が両手を天板につき、左右から閉じ込める。ワン・テイクのロビーで抱きしめられた時と同じ、あの男らしい体躯が、圧倒的な質量を持って目の前に迫ってきた。
「……理央」
低く、どこか甘い声で僕の名前を呼ばれた。さっきまでからかうようだったあいつの瞳が、今は信じられないくらい獰猛で、熱い色を帯びて僕の瞳の奥を射抜いている。
「俺さ、お前を好きになるつもりなんてサラサラなかったんだわ」
「鍵野……?」
「ビジネスだの何だの言っておきながら……気づいたら、俺の前でだけ感情剥きだしにして怒ったり泣いたりしてるところばかり、目で追ってた。あの夜、公園でダンゴムシのっけて笑ってんの見た時も、クソ可愛いとか思っちまったし」
「え、なに――」
鍵野の大きな手が僕の顎を容赦なく捕らえ、上を向かせた。拒む隙なんて一瞬も与えられないまま、強引に、深く、唇を塞がれる。
「――っ、ん、」
驚きで息を吸おうとした瞬間に、舌が滑り込んでくる。あまりに強気で、有無を言わせない傲慢なキス。いつも僕の痛いところを突き刺してくるあいつの言葉そのもののような、激しい熱が広がっていく。
最初は、押し返そうとした。胸に当てた両手に力を込めて。けれど、その手は、いつの間にか凪斗のシャツを掴んでいた。
(……嫌じゃ、ない)
頭のどこかで、冷静な自分が「ここは楽屋だ」「誰かにバレたら大変なことになる」と叫んでいる。それでも、逃げようと思えば逃げられたはずだった。逃げなかったのは、僕だ。
自分から、ほんの少しだけ顎を上げた。応えるように、唇を開いた。
(や、ばい……頭ぼーっとする……)
深いキスが繰り返されるたびに脳の酸素が奪われ、見えている景色が霞んでいく。あんなに頑なに守ろうとしていたプライドも、完璧な「橘花理央」の仮面も、鍵野の圧倒的な強引さの前に跡形もなく溶かされていく。
呼吸が限界を迎える頃、ようやく唇が離された。繋がった銀の糸が切れるのを、ぼんやりと見つめることしかできない。鍵野にしがみついて涙目のまま、はぁ、はぁ、と激しく肩を上下させて息を吸い込んだ。
あまりの勢いに頭が追いつかなくてたじたじになっている僕を、鍵野は逃がさないとばかりにさらに顔を近づけてくる。
「プライド高くて、負けず嫌いで。本当は手が震えるくらい繊細なくせに強がってる、それを隠すところも全部ひっくるめて好き」
「ちょっ………待って、ストップ!」
「だから、アンタが隠してるもの、全部俺が剥ぎ取りたい。そういう姿は、これから俺の前でしか見せんな」
「な、に言って……」
「本当のことだろ。……付き合いたいとか、そういうのは求めてねぇよ。俺らアイドルだし、恋愛禁止だし、バレたら大変なことになるのくらい分かってる」
鍵野はそこで一度言葉を切り、僕の唇を親指の腹でゆっくりと、けれど強く擦った。
「……五億だろ、違約金。俺の勝手で、ここまでアンタが積み上げたものを全部ぶっ壊すわけにいかねぇじゃんか」
初めて呼び捨てにされたその響きと、目の前の男が放つ剥き出しの独占欲に、全身の血が逆流するような衝撃が走る。生意気な後輩に何もかもを暴かれ、心の奥底まで全部はぎ取られてしまったのに、僕の胸を占めていたのは、もうただの怒りなんてものではなくなっていた。



