【side:橘花理央】
ワン・テイクのレコーディングを終えた数日後――僕と鍵野がそろって登校すると、学校中は文字通り天地がひっくり返ったような大騒ぎになった。
校門の前に停まった貝元さんの車を降りた瞬間から、クラスも学年も関係なく、ものすごい数の生徒が集まってくる。同じ芸能コースの生徒ばかりの学校のはずなのに、まるで花道を作るように人だかりが出来ていて、耳が痛くなるほどの黄色い声援が降ってきた。
(なんで学校に来てまで、こんな……仕事みたいなことをしなきゃいけないんだろう)
内心ぐったりと溜め息を吐きながらも、完璧な営業スマイルを貼り付け、軽く手を振って大歓声に応える。隣の鍵野も、いつものすました表情で適当に受け流しながら歩いていた。
「待って、理央くんと凪斗くんがまさかのユニット組むとか聞いてない! ビジュ強すぎない?」
「わかる、ガチで頭抱えた。スイプロの幹部、いよいよ他事務所の息の根を完全に止めにいくつもりだよね」
「しかもさ、社内でも極秘だったらしくて、同期のタレントたちすら寝耳に水だったって」
情報解禁の威力は凄まじく、授業中も休み時間も、周囲の視線が針のように突き刺さる。みんな机の下でスマホを隠しながら、今朝一斉に公開された僕たちのユニット結成のニュースや、真っ白なスタジオで撮ったアーティスト写真の画面をチラチラと見つめ、ひそひそと囁き合っていた。
いつもならこれくらい「見られる仕事」として割り切れるはずなのに、今日に限っては、何でもない風を装うのが少し難しかった。
「理央くん、一緒に飯食おう」
お昼休み、僕のクラスの教室の入り口に、鍵野がひょっこり姿を現した。完全にビジネス仲良しモードだ。
にこっといかにも爽やかな顔を浮かべているけれど、意訳するとこれは『ちょっとツラ貸せよ』だと僕には分かる。
周りの生徒たちが一斉に息を呑み、スマホを構える気配が伝わってきた。
「……いいよ」
座席から立ち上がり、カメラが回っている時と同じとびきり優しくて親しみやすい笑みを鍵野に返した。
「どこで食べる? 教室でもいいけど」
「いや、向こうが良い」
二人で騒がしい廊下を抜け、極力人の目を避けるようにして、三階の屋上へと続く階段の踊り場まで上がる。重い鉄扉の手前、普段は誰も来ない薄暗いその場所に、購買で買ったパンとジュースを片手に並んでしゃがみこむ。
パックのいちごオレにストローを刺し、小さく息を吐き出した。頭を過ぎるのは昨日のワン・テイクでの出来事だ。
あの時は、色んなことが重なりすぎて完全に限界だった。ドラマのプレッシャー、ストーカーへの怯え、一発撮りという独特の緊張感。そこから解放された瞬間に、自分でも制御できないほど感情が溢れて、あいつの前でみっともなく泣いてしまった――いや。本当は、それだけじゃなかった。
真っ白な空間でコンデンサーマイクに向かって歌っている間、紡がれる歌詞の一言一言が、僕がこれまで押し殺してきた生身の気持ちと、恐ろしいほどリンクしていくのを感じていた。そして何より、そこに重なった鍵野のハーモニーが綺麗すぎたのだ。
(……本当に、悔しい)
いちごオレのストローを小さく噛みしめる。
鍵野は生意気で、口が悪くて、僕の嫌なところを容赦なく突いてくる最低の後輩だ。それなのに、ユニットを組む相棒としては、物凄い安心感を僕に与えてくれた。取り繕うな、と言わんばかりに僕の素を暴いてきたくせに、本番の歌声は僕の繊細な歌い方にどこまでも細やかに寄り添い、下から優しく支えるような圧倒的な包容力に満ちていたから。
認めざるを得なかった。僕はあいつの剥き出しの実力を認めて、その底知れない才能に、どうしようもなく焦がれてしまっているのだと。
「ワン・テイクの動画は明後日までにアップされるらしい。さっき貝元さんからLINE来てた」
「え、そうなんだ。割と短期間で仕上げられるんだね」
「まぁ、サムネと組み合わせるだけだし。社長もチェックしたらしいけど、大喜びだったってさ。とりあえず、お疲れってことで」
紙パック同士をこつんとぶつけて、鍵野が笑う。
奴もそれなりにプレッシャーを感じていたのか、何でもないふうに爽やかな笑みを向けられて、どう反応したらいいのか分からない。
(なんか、ずるくない? ……急に優しくしてくるし)
二人の間の雰囲気が、少しずつ、けれど確実に柔らかくなってきているのを感じる。僕の心の固いシャッターも少し開きかけているし、鍵野は同居初日の最悪だったあの時より、だいぶ僕に歩み寄ろうとしてくれている。
トップアイドルの「橘花理央」だけじゃなくて、ダンゴムシが好きだったあの夜の、歪んでいて情けない素の部分を含めて、理解してくれようとしているのが分かった。
それに引き換え、いつまでも無駄にプライドが高くて素直に歩み寄れない自分が、ちょっとだけ恥ずかしかったりする。
「次は歌番組の出演。ダンスのレッスンは、基本スケジュールが合わないから個人レッスンが中心で、本番の数時間前とかに合わせることになるらしい」
「うわ……社長と貝元さん、僕たちの努力次第なところに投げ過ぎでしょ。どんだけ大変か……」
「はぁ? アンタ、ダンスだってめちゃくちゃ軸しっかりしてブレねぇじゃん。余裕だろ」
「……そんなことないよ。ダンス・歌・演技のなかで言ったら、間違いなくダンスが一番苦手だし」
口を尖らせていちごオレを啜る。ダンスはいくら練習しても、自分の中で納得のいく表現にたどり着くのが一番難しい。だからこそ、天性のリズム感と圧倒的な体幹で誰もを魅了するダンスができる鍵野の、お荷物になってしまいそうで怖かった。
「あとは……ユニット結成記念の握手会だったか。スケジュール表見たけど、休憩入れても四時間ぶっ通しだってよ」
「うわ、死ぬ気しかしない。でも……」
「でも?」
「ファンの人たちに会えるのは、すごく楽しみ。みんな、短い時間の中で色々考えて、僕に認知してもらおうって必死になって言葉を紡いでくれるからさ。僕も出来るだけ、一分一秒を全力で応えたいんだよね」
「気持ちは分からなくもねぇけど、さすがに人数がなぁ……」
鍵野は焼きそばパンを齧りながら、しんどい、とでも言いたげに眉間に皺を寄せた。いかにも「アイドルあるある」な過酷さに渋い顔をする彼を見て、不意に口元から小さく笑みがこぼれる。
最初は、何もかもが正反対の人間だと思っていた。生意気で、合理主義で、僕の営業スマイルを冷めた目で見ていた鍵野。けれど、根底にあるファンへの想いや仕事に対する誠実さは同じ熱量なんだなと思えて、なんだか凄く嬉しかった。
張り詰めていた心のトゲが、また一本、すうっと溶けていくような安心感を覚える。
鍵野は焼きそばパンを咀嚼する手をふと止めると、少しだけ声を低くして僕を見つめてきた。
「でも、アンタ大丈夫なのか。その……ストーカーが、ファンに紛れ込んでたり、とかするかもしれねーじゃん」
あいつの口から出た単語に、踊り場のひんやりとした空気が一瞬だけ緊張を帯びる。せっかく穏やかになりかけていた胸の奥が、冷たい水で満たされるような感覚。
だけど心配をかけたくなくて、いつもの「大丈夫」という笑顔を作って答えた。
「今回はいつも以上に荷物検査も厳重にやるって貝元さんが言ってたし、僕たちのすぐ目の前にSPが二人つくことになってるから。ブースの中もパーティションで区切られて、足元のマークより近くにはファンの方も来られない仕組みになってるんだよ」
「……対策の話じゃねぇよ」
鍵野は小さく溜め息を吐き、手に持っていたパンの袋をきゅっと握り込んだ。
「社長も貝元さんもその辺の手を抜くとは思ってねぇ。けど……アンタのメンタル的には大丈夫なのかって、それが気になってんだよ」
「……え、僕の事、心配してくれてるの?」
いちごオレのパックを握ったまま、目を丸くした。僕を「便利な餌」だと言い、ビジネスパートナーとして割り切ろうとしていたはずの鍵野。そのあいつが、システムや警備の安全ではなく、僕の「心」が削られていないかをまっすぐに案じてくれている。
不意を突かれた僕の言葉に、鍵野はハッとしたように顔をそむけ、耳の裏を少しだけ赤くしながら「ちげーよ」と、これ以上ないくらい不器用なぶっきらぼうさで毒づいた。
「でも、まぁ。何かあったら俺が隣に居るし……」
「居るし?」
「いや、言わせんなって」
「何でよ、何が言いたいのか分からないから聞いてる」
「……守ろうと思ってる。ビジネスパートナーとして」
「ぶはっ!」
あまりにも苦しい言い方に、耐えきれずに噴き出してしまう。「おいっ、笑うな!」と顔を真っ赤にして怒る鍵野をよそに、小さく肩を揺らし続けた。目を細めてお腹を抱えて笑う僕の手から、鍵野が「こぼすだろうが」とぶつぶつ文句を言いながらいちごオレの紙パックを取り上げる。そのやり取りすら、なんだか可笑しくて、愛おしい。
目尻に浮かんだ涙を指先でそっと拭うと、静かな沈黙が訪れた。コンクリートの壁に背中を預け、薄暗い階段の下を見つめる。
(いつも、鍵野に救われてばかりだな……)
僕が限界の時はいつだって、鍵野がぶっきらぼうな言葉と強引さで、張り詰めた糸を緩めてくれる。完璧な橘花理央じゃなくて、ただの僕でいさせてくれる。
心の中の天秤が、音を立てて鍵野の方へと大きく傾いていくのが分かった。もう、ビジネスパートナーという言葉の裏に、自分の本当の気持ちを隠し通すことなんて出来そうにない。
「……ありがとう」
口からこぼれ落ちたのは、営業スマイルでも反射のクセでもない、心の底からの感謝だった。
鍵野は取り上げたいちごオレのパックを突き返しながら、「早く食って教室戻るぞ」とふいに顔を背けた。
けれど、その横顔の耳元がまだほんのりと赤いままであるのを見て、僕は胸の奥が熱で満たされていくのを、ただ静かに感じていた。
***
ワン・テイクの動画が公開されて、三日目の夜。
帰りの車で貝元さんが「再生回数、もう八百万だって」と嬉しそうに教えてくれたけれど、数字はもう、あまり実感を持って頭に入ってこなかった。
家に帰ると、リビングの照明は半分だけ落とされている。ソファの上で、鍵野が眠っていて――アクション映画の台本を胸に伏せたまま、片腕をだらりと床へ垂らして。殺陣の稽古帰りなのだろう。Tシャツの袖からのぞく手首には、僕が巻いたものとは違う厚手の包帯があって、その端が中途半端にほどけかけている。
(……不器用なくせに、自分でやるからだよ)
放っておけばいい。そう思うのに、足は勝手にソファのそばへ向かっていた。ローテーブルの下から救急箱を引っ張り出し、床に膝をついて、ほどけた包帯をそっと外す。青黒かった痣は、前よりも少し薄くなっていた。
巻き直そう。ミイラみたいにぐるぐるではなく、今度はちゃんと、動画で調べた通りに。端をテープで留めたところで、頭の上から低い声が降ってきて、ばくばくと心臓が跳ねた。
「……うまくなったな」
「お、起きて……っ、いつから」
「膝ついたあたり。寝たふりしてみた」
「性格悪すぎ」
「アンタにだけは言われたくねぇんだけど」
いつもの応酬。なのに鍵野は、笑いながらも、手首をすぐに引っ込めなかった。僕の指がまだ、そこに触れたままだったからだ。離すタイミングを、お互いに見失っている。
「……あのさ、言いそびれたことがあんだけど」
「うん」
「ワン・テイクの後、廊下で。勝手に抱きしめて、悪かった」
「…………」
「カメラ、引きだったから顔は多分映ってねぇけど。嫌だったなら、これからはそういうの――」
言えるわけがない、と思った。あのとき、鍵野の胸に額を預けて、衣装のシャツを掴んだのは僕のほうだ。嫌だったなら、とっくに突き飛ばしている。
「嫌じゃ、なかった。……ただ、びっくりしただけ」
からかわれるかと身構えたのに、返ってきたのは「そうか」という短い相槌と、ほんの少し緩んだ口元だけだった。
……そっちのほうが、ずっと心臓に悪い。
「俺さ、お前の隣で歌ってて、初めて『楽だ』って思った。ダンスでも芝居でも、いつも一人で全部背負ってるつもりだったから」
「……僕も。鍵野と歌ってる間だけは、どう見られてるかなんて、考えなかった」
言ってしまってから、顔が熱くなる。鍵野は「ふーん」とだけ言って視線を逸らしたけれど、耳の縁が赤い。
「もう寝るわ。お前も早く風呂入れよ」
立ち上がった鍵野が、すれ違いざまに、ぽん、と僕の頭に手を置いた。ほんの一秒。
自室のドアを閉めてから、気づいた。今の一秒が、終わらなければいいと思ってしまったこと。
(ビジネスパートナー、のはずだったのに?)
膝を抱えて、まだ温かい気がする頭にそっと触れる。
この気持ちに付ける名前に、僕はもう、気づきかけていた。
ワン・テイクのレコーディングを終えた数日後――僕と鍵野がそろって登校すると、学校中は文字通り天地がひっくり返ったような大騒ぎになった。
校門の前に停まった貝元さんの車を降りた瞬間から、クラスも学年も関係なく、ものすごい数の生徒が集まってくる。同じ芸能コースの生徒ばかりの学校のはずなのに、まるで花道を作るように人だかりが出来ていて、耳が痛くなるほどの黄色い声援が降ってきた。
(なんで学校に来てまで、こんな……仕事みたいなことをしなきゃいけないんだろう)
内心ぐったりと溜め息を吐きながらも、完璧な営業スマイルを貼り付け、軽く手を振って大歓声に応える。隣の鍵野も、いつものすました表情で適当に受け流しながら歩いていた。
「待って、理央くんと凪斗くんがまさかのユニット組むとか聞いてない! ビジュ強すぎない?」
「わかる、ガチで頭抱えた。スイプロの幹部、いよいよ他事務所の息の根を完全に止めにいくつもりだよね」
「しかもさ、社内でも極秘だったらしくて、同期のタレントたちすら寝耳に水だったって」
情報解禁の威力は凄まじく、授業中も休み時間も、周囲の視線が針のように突き刺さる。みんな机の下でスマホを隠しながら、今朝一斉に公開された僕たちのユニット結成のニュースや、真っ白なスタジオで撮ったアーティスト写真の画面をチラチラと見つめ、ひそひそと囁き合っていた。
いつもならこれくらい「見られる仕事」として割り切れるはずなのに、今日に限っては、何でもない風を装うのが少し難しかった。
「理央くん、一緒に飯食おう」
お昼休み、僕のクラスの教室の入り口に、鍵野がひょっこり姿を現した。完全にビジネス仲良しモードだ。
にこっといかにも爽やかな顔を浮かべているけれど、意訳するとこれは『ちょっとツラ貸せよ』だと僕には分かる。
周りの生徒たちが一斉に息を呑み、スマホを構える気配が伝わってきた。
「……いいよ」
座席から立ち上がり、カメラが回っている時と同じとびきり優しくて親しみやすい笑みを鍵野に返した。
「どこで食べる? 教室でもいいけど」
「いや、向こうが良い」
二人で騒がしい廊下を抜け、極力人の目を避けるようにして、三階の屋上へと続く階段の踊り場まで上がる。重い鉄扉の手前、普段は誰も来ない薄暗いその場所に、購買で買ったパンとジュースを片手に並んでしゃがみこむ。
パックのいちごオレにストローを刺し、小さく息を吐き出した。頭を過ぎるのは昨日のワン・テイクでの出来事だ。
あの時は、色んなことが重なりすぎて完全に限界だった。ドラマのプレッシャー、ストーカーへの怯え、一発撮りという独特の緊張感。そこから解放された瞬間に、自分でも制御できないほど感情が溢れて、あいつの前でみっともなく泣いてしまった――いや。本当は、それだけじゃなかった。
真っ白な空間でコンデンサーマイクに向かって歌っている間、紡がれる歌詞の一言一言が、僕がこれまで押し殺してきた生身の気持ちと、恐ろしいほどリンクしていくのを感じていた。そして何より、そこに重なった鍵野のハーモニーが綺麗すぎたのだ。
(……本当に、悔しい)
いちごオレのストローを小さく噛みしめる。
鍵野は生意気で、口が悪くて、僕の嫌なところを容赦なく突いてくる最低の後輩だ。それなのに、ユニットを組む相棒としては、物凄い安心感を僕に与えてくれた。取り繕うな、と言わんばかりに僕の素を暴いてきたくせに、本番の歌声は僕の繊細な歌い方にどこまでも細やかに寄り添い、下から優しく支えるような圧倒的な包容力に満ちていたから。
認めざるを得なかった。僕はあいつの剥き出しの実力を認めて、その底知れない才能に、どうしようもなく焦がれてしまっているのだと。
「ワン・テイクの動画は明後日までにアップされるらしい。さっき貝元さんからLINE来てた」
「え、そうなんだ。割と短期間で仕上げられるんだね」
「まぁ、サムネと組み合わせるだけだし。社長もチェックしたらしいけど、大喜びだったってさ。とりあえず、お疲れってことで」
紙パック同士をこつんとぶつけて、鍵野が笑う。
奴もそれなりにプレッシャーを感じていたのか、何でもないふうに爽やかな笑みを向けられて、どう反応したらいいのか分からない。
(なんか、ずるくない? ……急に優しくしてくるし)
二人の間の雰囲気が、少しずつ、けれど確実に柔らかくなってきているのを感じる。僕の心の固いシャッターも少し開きかけているし、鍵野は同居初日の最悪だったあの時より、だいぶ僕に歩み寄ろうとしてくれている。
トップアイドルの「橘花理央」だけじゃなくて、ダンゴムシが好きだったあの夜の、歪んでいて情けない素の部分を含めて、理解してくれようとしているのが分かった。
それに引き換え、いつまでも無駄にプライドが高くて素直に歩み寄れない自分が、ちょっとだけ恥ずかしかったりする。
「次は歌番組の出演。ダンスのレッスンは、基本スケジュールが合わないから個人レッスンが中心で、本番の数時間前とかに合わせることになるらしい」
「うわ……社長と貝元さん、僕たちの努力次第なところに投げ過ぎでしょ。どんだけ大変か……」
「はぁ? アンタ、ダンスだってめちゃくちゃ軸しっかりしてブレねぇじゃん。余裕だろ」
「……そんなことないよ。ダンス・歌・演技のなかで言ったら、間違いなくダンスが一番苦手だし」
口を尖らせていちごオレを啜る。ダンスはいくら練習しても、自分の中で納得のいく表現にたどり着くのが一番難しい。だからこそ、天性のリズム感と圧倒的な体幹で誰もを魅了するダンスができる鍵野の、お荷物になってしまいそうで怖かった。
「あとは……ユニット結成記念の握手会だったか。スケジュール表見たけど、休憩入れても四時間ぶっ通しだってよ」
「うわ、死ぬ気しかしない。でも……」
「でも?」
「ファンの人たちに会えるのは、すごく楽しみ。みんな、短い時間の中で色々考えて、僕に認知してもらおうって必死になって言葉を紡いでくれるからさ。僕も出来るだけ、一分一秒を全力で応えたいんだよね」
「気持ちは分からなくもねぇけど、さすがに人数がなぁ……」
鍵野は焼きそばパンを齧りながら、しんどい、とでも言いたげに眉間に皺を寄せた。いかにも「アイドルあるある」な過酷さに渋い顔をする彼を見て、不意に口元から小さく笑みがこぼれる。
最初は、何もかもが正反対の人間だと思っていた。生意気で、合理主義で、僕の営業スマイルを冷めた目で見ていた鍵野。けれど、根底にあるファンへの想いや仕事に対する誠実さは同じ熱量なんだなと思えて、なんだか凄く嬉しかった。
張り詰めていた心のトゲが、また一本、すうっと溶けていくような安心感を覚える。
鍵野は焼きそばパンを咀嚼する手をふと止めると、少しだけ声を低くして僕を見つめてきた。
「でも、アンタ大丈夫なのか。その……ストーカーが、ファンに紛れ込んでたり、とかするかもしれねーじゃん」
あいつの口から出た単語に、踊り場のひんやりとした空気が一瞬だけ緊張を帯びる。せっかく穏やかになりかけていた胸の奥が、冷たい水で満たされるような感覚。
だけど心配をかけたくなくて、いつもの「大丈夫」という笑顔を作って答えた。
「今回はいつも以上に荷物検査も厳重にやるって貝元さんが言ってたし、僕たちのすぐ目の前にSPが二人つくことになってるから。ブースの中もパーティションで区切られて、足元のマークより近くにはファンの方も来られない仕組みになってるんだよ」
「……対策の話じゃねぇよ」
鍵野は小さく溜め息を吐き、手に持っていたパンの袋をきゅっと握り込んだ。
「社長も貝元さんもその辺の手を抜くとは思ってねぇ。けど……アンタのメンタル的には大丈夫なのかって、それが気になってんだよ」
「……え、僕の事、心配してくれてるの?」
いちごオレのパックを握ったまま、目を丸くした。僕を「便利な餌」だと言い、ビジネスパートナーとして割り切ろうとしていたはずの鍵野。そのあいつが、システムや警備の安全ではなく、僕の「心」が削られていないかをまっすぐに案じてくれている。
不意を突かれた僕の言葉に、鍵野はハッとしたように顔をそむけ、耳の裏を少しだけ赤くしながら「ちげーよ」と、これ以上ないくらい不器用なぶっきらぼうさで毒づいた。
「でも、まぁ。何かあったら俺が隣に居るし……」
「居るし?」
「いや、言わせんなって」
「何でよ、何が言いたいのか分からないから聞いてる」
「……守ろうと思ってる。ビジネスパートナーとして」
「ぶはっ!」
あまりにも苦しい言い方に、耐えきれずに噴き出してしまう。「おいっ、笑うな!」と顔を真っ赤にして怒る鍵野をよそに、小さく肩を揺らし続けた。目を細めてお腹を抱えて笑う僕の手から、鍵野が「こぼすだろうが」とぶつぶつ文句を言いながらいちごオレの紙パックを取り上げる。そのやり取りすら、なんだか可笑しくて、愛おしい。
目尻に浮かんだ涙を指先でそっと拭うと、静かな沈黙が訪れた。コンクリートの壁に背中を預け、薄暗い階段の下を見つめる。
(いつも、鍵野に救われてばかりだな……)
僕が限界の時はいつだって、鍵野がぶっきらぼうな言葉と強引さで、張り詰めた糸を緩めてくれる。完璧な橘花理央じゃなくて、ただの僕でいさせてくれる。
心の中の天秤が、音を立てて鍵野の方へと大きく傾いていくのが分かった。もう、ビジネスパートナーという言葉の裏に、自分の本当の気持ちを隠し通すことなんて出来そうにない。
「……ありがとう」
口からこぼれ落ちたのは、営業スマイルでも反射のクセでもない、心の底からの感謝だった。
鍵野は取り上げたいちごオレのパックを突き返しながら、「早く食って教室戻るぞ」とふいに顔を背けた。
けれど、その横顔の耳元がまだほんのりと赤いままであるのを見て、僕は胸の奥が熱で満たされていくのを、ただ静かに感じていた。
***
ワン・テイクの動画が公開されて、三日目の夜。
帰りの車で貝元さんが「再生回数、もう八百万だって」と嬉しそうに教えてくれたけれど、数字はもう、あまり実感を持って頭に入ってこなかった。
家に帰ると、リビングの照明は半分だけ落とされている。ソファの上で、鍵野が眠っていて――アクション映画の台本を胸に伏せたまま、片腕をだらりと床へ垂らして。殺陣の稽古帰りなのだろう。Tシャツの袖からのぞく手首には、僕が巻いたものとは違う厚手の包帯があって、その端が中途半端にほどけかけている。
(……不器用なくせに、自分でやるからだよ)
放っておけばいい。そう思うのに、足は勝手にソファのそばへ向かっていた。ローテーブルの下から救急箱を引っ張り出し、床に膝をついて、ほどけた包帯をそっと外す。青黒かった痣は、前よりも少し薄くなっていた。
巻き直そう。ミイラみたいにぐるぐるではなく、今度はちゃんと、動画で調べた通りに。端をテープで留めたところで、頭の上から低い声が降ってきて、ばくばくと心臓が跳ねた。
「……うまくなったな」
「お、起きて……っ、いつから」
「膝ついたあたり。寝たふりしてみた」
「性格悪すぎ」
「アンタにだけは言われたくねぇんだけど」
いつもの応酬。なのに鍵野は、笑いながらも、手首をすぐに引っ込めなかった。僕の指がまだ、そこに触れたままだったからだ。離すタイミングを、お互いに見失っている。
「……あのさ、言いそびれたことがあんだけど」
「うん」
「ワン・テイクの後、廊下で。勝手に抱きしめて、悪かった」
「…………」
「カメラ、引きだったから顔は多分映ってねぇけど。嫌だったなら、これからはそういうの――」
言えるわけがない、と思った。あのとき、鍵野の胸に額を預けて、衣装のシャツを掴んだのは僕のほうだ。嫌だったなら、とっくに突き飛ばしている。
「嫌じゃ、なかった。……ただ、びっくりしただけ」
からかわれるかと身構えたのに、返ってきたのは「そうか」という短い相槌と、ほんの少し緩んだ口元だけだった。
……そっちのほうが、ずっと心臓に悪い。
「俺さ、お前の隣で歌ってて、初めて『楽だ』って思った。ダンスでも芝居でも、いつも一人で全部背負ってるつもりだったから」
「……僕も。鍵野と歌ってる間だけは、どう見られてるかなんて、考えなかった」
言ってしまってから、顔が熱くなる。鍵野は「ふーん」とだけ言って視線を逸らしたけれど、耳の縁が赤い。
「もう寝るわ。お前も早く風呂入れよ」
立ち上がった鍵野が、すれ違いざまに、ぽん、と僕の頭に手を置いた。ほんの一秒。
自室のドアを閉めてから、気づいた。今の一秒が、終わらなければいいと思ってしまったこと。
(ビジネスパートナー、のはずだったのに?)
膝を抱えて、まだ温かい気がする頭にそっと触れる。
この気持ちに付ける名前に、僕はもう、気づきかけていた。



