【side:鍵野凪斗】
橘花とのユニット結成の情報解禁を、いよいよ間近に控えた日。
映画の稽古場での過酷なしごきを終え、汗を拭う暇もなく『ワン・テイク』のスタジオがあるビルへと滑り込む。
準備へ向かおうと同じフロアのロビーを通りかかった時、足がふと止まった。
『街の灯りが遠ざかる この窓辺から――……』
ポータブルキーボードを持ち込んだボイストレーナーの前に、本番用のきらびやかな衣装に身を包んだ橘花が立っていた。直前までハモリアレンジの微調整をしていたらしく、ピアノの単音に合わせて声を紡いでいる。
「やっぱり、すごくキーが高いですね……」
トレーナーに向かって屈託なく笑いながら音階のズレを修正している姿を、俺は少し離れた影から見つめていた。
橘花がこの前、夜の公園で言っていた「大人の顔色を窺うための、作り物の笑顔」。だけど、こうして傍から見ているぶんには、それが偽物だなんて一ミリも思えないほど自然で、眩しい。
珍しく緊張しているのか、ハミングで何度も旋律を確認しながら、誤魔化すようにそわそわと細い身体を揺らしている。
「でも、すごく綺麗に歌えてるよ。理央くん、大丈夫」
「そうですか? なんか、自分だけ音程ズレてる気がして落ち着かなくて」
「気にしすぎ。むしろ丁寧すぎるくらいだから」
プロのトレーナーに太鼓判を押されても、当の本人はまだ自信なさげに眉を下げている。その時、ふと泳いだ橘花の視線が、通路に立つ俺の姿を捉えた。
目をぱちぱちと瞬かせた後、見てわかるほど動揺して、ぷいっとすぐに顔を逸らされる。
(……なんだよ、その態度)
そもそも、俺がまだガキの時から、橘花理央は芸能界で「天才子役」だの「人生二周目」だのともてはやされていた。
テレビのインタビューでハキハキと大人顔負けの完璧な返事をするあいつを見かけるたびに、ウチの母親すら「あんたと同じ小学生だとは思えないわね」なんてため息をついていたくらいだ。
橘花を初めて『意識』したのは、中学生の頃のテレビ画面越しだった。
画面のなかに映ったその顔を見た瞬間、まるで心臓ごと引っこ抜かれるような、強い衝撃を受けたのを覚えている。整いすぎたパーツ、中性的で、どこか神聖な透明感を纏った横顔。同性だとか芸能人だとか、そんな理屈を吹き飛ばすほどの猛烈な一目惚れだった。
あんなに綺麗で、圧倒的な惹きつける力を持つ顔面に、これまでの人生で出会ったことなんて一度もない。画面の向こうの存在なのに、胸の奥が熱くなり、どうしようもなく目を奪われた。
それから役者だけでなくアイドルとしても活動を始めてからは……まぁ、あんな顔をしていれば爆発的に人気が出るのも納得しかなかった。
男であるはずの自分があれほど一目で狂わされた顔面は、いつ見ても、何度近くで直視しても狂わせる。
「可愛い」なんて陳腐な言葉で片づけられるものじゃない、完璧なまでの「美人」だ。
一方の俺が芸能界に進んだきっかけといえば、そんな橘花の重度のオタクだった妹の桃花が、勝手にボーイズコンテストに応募したのが始まりだ。書類審査からあれよあれよという間に話が進み、気づけば同じ事務所に所属することになっていた。
そして、ずっと画面の向こうにいた「橘花理央」と同じ世界に立ち、直接会った時の第一印象は、なんというか――。
(……テレビで見る時と、別人すぎねぇ?)
いつもニコニコしていて、穏やかそうで、優しそうなのが芸能人としての「橘花理央」の姿。
けれど、仕事をしていない時、たまたま事務所の廊下ですれ違った時のあいつは違った。スマホを片手にすんとした顔をして、この世の何もかもが面白くないとでも言いたげな冷たい表情をしている。「声をかけるな」というオーラを全身から放っていた。
(生の芸能人ってやっぱり疲れてんだな、でも、マジで人形みたいに綺麗な顔してんな……)
そう思った。思った、のだが。あろうことか、緊張とビビりが入り混じってこんがらがった俺の口から出たのは、最悪な言葉だった。
『……へえ、生で見たら、テレビよりなんか覇気ないっていうか、人形みたい。……じゃ、お先しまーす』
ただの痛烈な皮肉にしか聞こえないセリフをぶつけられた橘花は、見たこともないくらい驚いた顔をして、それから猛烈に不機嫌そうに顔を逸らした。
それっきり、完全に心のシャッターを下ろされた。後から社長には死ぬほど「理央のご機嫌取りはあたしたちでも大変なのに」と怒られたけれど、俺としては悪気なんてなかったのだ。ただ『顔が綺麗だ』と言いたかっただけなのに、自分の言葉の足らなさと不器用さのせいで、第一印象は最悪。底に落ちた。
(……どう言い訳したとしても、あれは絶対に俺が悪い)
何度考えても、あの時の自分に説教してやりたくなる。
電子ピアノの音が止まり、スタジオへの移動を促すスタッフの声が響く。
俺は小さく息を吐いてポケットに手を突っ込むと、まだ背を向けたままの「相棒」を見つめてからメイクルームへと向かった。
サムネイル撮影用の簡易スタジオに移動すると、何もない空間の中に同色の机がぽつんと置かれていた。指示されたのは、そこに二人で頬杖をつきながら寄り添うようにしてカメラを見つめる構図。お互いの顔が数センチの距離まで近づく。
「もう少し顔を寄せて貰えますか? 橘花さんが少し首を傾ける感じで」
「分かりました」
「次は、お互いに見つめ合って。切なげな……愛しい人への想いを込めて見つめる感じで」
平然と応じる橘花は、さすがプロの優等生というべきか、ほんの数回角度を修正しただけで完璧なアングルを決めてみせる。モニター越しのあいつは、文句のつけようがないほど儚くて綺麗だ。
(……マジで勘違いしそう。熱っぽい目ェしてくんじゃねーよ)
けれど、腕がかすかに触れ合うこの至近距離だからこそ、その身体からは「早く終われよ」とでも言いたげな張り詰めた拒絶のオーラが伝わってくる。苦笑しそうになるのを咳払いで誤魔化し、カメラに向けて表情を作り直した。
「鍵野さん、もう少し肩の力抜いてもらえます? ちょっと硬いです」
「……あ、はい」
「視線の先に居る愛しい相手がまさかの『ブス』だもんね」
橘花が小声で茶化してくる。誰にも聞こえないぎりぎりの声量なのが更に腹立たしい。
「うっせ。さっきまで緊張してたくせに」
「緊張なんかしてない」
「してただろうが。トレーナーの前で」
橘花がぴくっと固まる。やっぱり図星だったらしい。
「オッケーです。では、このまま本番の録音に向かいます」
「宜しくお願いしまーす」
スタッフの声に促され、隣のメインスタジオへと入る。
コンデンサーマイクが二本並ぶ空間。ヘッドホンを装着した橘花は、ふう、と大きく深呼吸をして瞼を閉じた。唇の緊張を解くように小さくリップロールをしている。
すでにドキュメンタリー用のカメラも回り始めている。
「大丈夫か」と声を掛けようか迷うほど、あいつの顔はガチガチに強張っていた。その緊張をどうにかほぐしてやりたい、という焦燥感が胸を掠める。
(なんか、声かけた方がいいのか? いや、余計なお世話か)
迷っているうちに、橘花はすっと瞳を開くと、小さな、けれど芯のある声でマイクに向かって「お願いします」と言った。その瞬間、纏う空気が一変する。さっきロビーでそわそわしていた奴と同一人物だとは思えないほど、極限まで集中しきって、一瞬で曲の世界観へと没入している。
イントロの静かなピアノがヘッドホンに流れ、橘花のソロから曲が始まる。パートが二番まで滞りなく進むと、その目がじっと俺を捉えた。
『あなたがくれた全ての時間が 私の光だった』
度肝を抜かれた。この前のリビングでの練習とは、声の艶も、乗っている感情の重さもまるで違う。
橘花の剥き出しの覚悟に当てられて、俺の声も自然と熱を帯びる。負けてたまるか、と喉を震わせた。そしてやってくる、二人の声が重なるサビ。
『最後の我が儘を 夜空に投げたら 静かに夜が明ける』
やっぱり、こいつと歌う瞬間だけは、脳のバグかと思うほど何もかもが噛み合う。計算し尽くされた橘花の高音を、俺の低音が下から支え、押し上げる。
一発録りのプレッシャーすら燃料にするみたいに、二つの声は一つの巨大なうねりになって、スタジオの壁を震わせていった。
息を吸うタイミングも、ビブラートの揺れ幅も、お互いの細胞が理解し合っているみたいにピタリとシンクロする。鳥肌が止まらない。最高にゾクゾクする、完璧なステージだった。
『Good-bye, my dearest... 愛しい人』
最後の音が静かにフェードアウトし、ピアノの伴奏が止まる。
その瞬間、橘花の両手が小刻みに震えているのが見えた。自分自身を落ち着かせるように、祈るような仕草で左右の手をきゅっと握り込んでいる。
本来なら、ここでカメラが止まるはずだった。けれど赤いランプは点いたまま、終了の合図は一向にかからない。
ディレクターたちも、橘花から溢れ出る何かに圧倒されたように、息を呑んで見守っていた。
「はぁ……」
涙目になりながら何度も息を吐き出し、録音ルームのガラスの向こうにいるスタッフたちの顔を見つめて、いつものようにふわりと微笑む。
終了の合図がないのを悟ると、今この瞬間、求められているものに応えるように、橘花は潤んだ目で視線を彷徨わせている。
「理央くん、これ。良かったら使って」
「……あはは、ありがとう。さすが鍵野くん」
俺は衣装のポケットに入れたままだったハンカチを、マイク越しに差し出す。橘花は泣き笑いのようないびつな笑みを浮かべながらそれを受け取ると、メイクが崩れないようにそっと目元を押さえた。
「……この曲は、大切な人への思いを込めた歌詞……なんですけど。このワン・テイクさんで歌わせて頂くまでに、お仕事でも、日常でもいろんなことがあって……。そういう時に支えてくれた人たちのことを思い浮かべながら、歌わせていただきました」
その姿は、俺と家にいる時のトゲトゲした態度とも違っていた。これまで見たどんな姿よりも自然体で、ひどく綺麗で、思わず目を釘付けにされてしまう。カメラの前で自分の弱さを曝け出したあいつの勇気に、胸の奥が熱く震えていた。
こんな姿を見せられたら、意地でも守ってやりたくなるに決まってる。
「オッケーです! 素晴らしいテイクでした!」
ディレクターの興奮した声が響き、スタジオの緊張が緩む。けれど、その合図がかかった瞬間のことだった。橘花はヘッドホンを外すと、俺にハンカチを返すことも忘れてさっと背中を向け、誰よりも早い足取りでスタジオの出口へと向かった。
「すみません、お手洗いに行ってきます」
きっと限界だったんだ。カメラの前で「完璧な橘花理央」として感情をすべて出し切った反動で、心が悲鳴を上げている。
ロビーに出ると、興奮冷めやらぬスタッフがクライアントと熱い握手を交わしているところだった。すれ違いざまに声をかけられたが、その言葉を置き去りにしたまま、前を行く細い背中をただ必死に追いかける。
「理央くん、待って」
ビジネスライクに割り切るとか、周囲にスタッフの目があるからとか、そんな計算じゃない。
今にも折れてしまいそうなあいつの心が、純粋に心配で、ただ放っておけなかった。 ロビーを抜けた先、自販機が並ぶ薄暗い廊下の角を曲がると、そこに橘花がいた。壁にぽつんと凭れかかるようにして、目元を両手の甲で何度も、何度も拭っている。涙がどうしても止められないみたいだった。さっき貸したハンカチは、もう涙を吸いすぎて使い物にならなくなってポケットに突っ込まれている。
「おい、大丈夫か」
廊下に響かないよう、控えめに声を掛ける。あいつは大袈裟なほどびくっと肩を震わせ、メイクが崩れるのも気にせずぐいっと力任せに瞼を擦りながら、慌てて顔を背けた。
「……あ、これ、演技だから。ああいう予期しないハプニングシーンみたいなのがあった方が、ドキュメンタリー動画もバズると思うし。全然平気」
はは、と口元だけで乾いた笑いを作ってみせる。自分の弱さをどこまでも認めようとしない、みっともないほどの強がりに、胸の奥がチリチリと苛立った。全然平気な顔には見えない。
その本音をぐっと堪えて、俺が何も言わずにそっと近づくと、橘花はこれ以上近づくなとばかりに顔を思い切り背けた。ふー……と必死に息を吐いて、呼吸を整えようと喉を震わせている。
その細い肩を見ていたら、言葉が勝手に口から滑り落ちていた。
「アンタ、割と限界なんじゃねぇの。自分の個人仕事にプラスして、ドラマの撮影にユニットの活動。あとはストーカーのせいで俺の家で暮らしてるストレス。どう考えてもハードなこと続きで、全然息抜き出来てるように見えねぇんだけど」
「……何言ってるの? 僕の事バカにしてる? これくらいハードなスケジュール、芸能界にいたら当たり前で……」
「ふぅん。じゃあ何、毎回仕事がひとつ終わる度、プレッシャーから解放されたって思うとこんなに手を震わせんの?」
「そ、それは……」
橘花はぐっと言葉に詰まり、むっとした顔で俺を睨みつけてきた。テレビでは絶対にファンに見せない、深く刻まれた眉間の皺。唇をきゅっと固く結ぶ子供っぽい仕草。そのひとつひとつが、本当にどこまでも嘘が下手くそだなと、呆れると同時に愛おしくなる。
その時、廊下の向こうから「お疲れ様でしたー」というスタッフたちの話し声が近づいてくるのが聞こえた。録音を終えた連中が、ぞろぞろとこっちに向かって歩いてきている。
「こっち来いよ」
橘花の薄い肩を引き寄せ、もう片方の手で柔らかい髪に覆われた後頭部をそっと抱き寄せる。
「ちょっ、何して――」
腕の中でパニックを起こして暴れようとする橘花の耳元に、俺は低く声を落とした。
「いいから。多分、引きで撮られてる。すっげーブス顔曝したくなかったら、このまま大人しくしとけ」
廊下の遠く、ロビーの境目に密着取材のカメラマンが立っているのが視界の端に見えていた。俺たちが人気のない所で話し合っているのに気づいて、レンズを向けてきている。
泣き腫らして鼻の頭まで真っ赤になった橘花の顔を周囲から隠すように、自分の身体で覆って強く抱きしめる。小さく上下するあいつの細い背中を、落ち着かせるようにそっと手のひらで撫でた。微かにシャンプーの香りがする髪が、首筋に触れてくすぐったい。
「俺、アンタのこと支えるって言ったつもりだったけど。頼りになんねぇってこと?」
「ち、ちがう。そこまでは……」
「じゃあ、こんなところで泣くなよ。別に理由は今すぐ話さなくてもいいからさ、しんどい時はちゃんと教えてほしい」
傍目には、緊張感の走るレコーディングが無事に終わって互いの健闘を労い合っているか、あるいは俺が感極まった橘花を優しく慰めているように見えるだろう。実際、身動きが取れないほど近距離で抱き寄せているのは事実だ。
腕の中の橘花は、最初は拒絶するように身を強張らせていたけれど、やがて気力を失ったように俺の胸元に額を預け、震える小さな手で衣装のシャツをきゅっと掴んできた。
言葉では頑なに弱音を吐かず、意地を張るくせに、こうして身体だけは俺の体温にすがり、甘えてくる。そのアンバランスさがたまらなくもどかしい。
ドクドクと、互いの激しい心臓の音が重なり合う狭い空間。熱を帯びた息づかいが少しずつ穏やかになっていくのを、俺はただじっと、肌の触れ合う温度で受け止めることしかできなかった。



