あの打ち合わせから数日後、各SNSに新ユニットの公式アカウントが開設され、結成発表に向けたカウントダウンが始まった。
僕たち二人の名前はまだ一切出されず、投稿されるのはシルエット画像や意味深なフレーズばかりだ。それでも、先行公開された写真に写り込む耳の形や唇の輪郭だけでファンは敏感に反応し、タイムラインは瞬く間に大騒ぎになった。
ただ、夜な夜なエゴサをしてみた限り、「橘花理央と鍵野凪斗」という組み合わせを言い当てている人は、一人もいなかった。
(……まぁ、正反対だもんな。太陽と月、みたいに)
その潜伏期間にも、ファーストシングルに向けた歌のレッスンやレコーディングは着々と進んでいく。
鍵野とは、マンションで夜にちょこちょこ言葉を交わす機会こそあったものの、仕事の現場で顔を合わせることはほとんどなかった。レコーディングはパート別の録りで、インタビューも別日にそれぞれが呼ばれる形だったからだ。
鍵野には新舞台の過酷な稽古があり、僕にも歌番組の収録と、あの地獄のような『サギ☆ドル』第二話の撮影がある。お互い個人仕事で手一杯なのだから、すれ違いの生活は当然だった。別に、寂しさなんて感じていない。この生活こそ快適そのものだ。
「あ、理央くーん。そういえば社長が、ユニット名を決めたってさっき連絡が来たよ」
「え、やっと? ずーっと悩んでましたもんね。僕、最終的に『もうどれでもいいです』って言っちゃいました」
「あはは、理央くんらしいといえばらしいけど。……じゃあ、発表するよ」
スタジオに入る前、貝元さんは運転席から振り返って微笑んだ。手にはスマホ。画面には――。
「……Sugar&Spice.?」
「もともとはイギリスの古いことわざでね、『砂糖とスパイス、それに素敵な何もかも』っていう言葉が由来なんだ。君たちは正反対だろう? 理央くんが『Sugar』、王道の笑顔でみんなを癒やす存在。凪斗くんは『Spice』、クールでセクシー、ダンスやラップで刺激を与える存在。この正反対の二人が合わさって、無敵のユニットになるってわけ」
「この最後のドットは、どういう意味? ただの飾り?」
「このピリオドには、ふたつの意味を込めてる。ひとつは『これで完結している』という絶対的な関係性。英語のピリオドは終止符だからね。この二人以外にはあり得ない、誰も入り込めない完璧なバディだって意味だよ。もうひとつは、二つの物語の交差。『Sugar』という物語を生きてきた理央くんと、『Spice』という別の物語を生きてきた凪斗くん。それぞれ独立して完結していたはずの二つの人生が、『&』で奇跡的に繋がった。お互いのこれまでの歩みを尊重しながら、一緒に新しい未来を作ってほしい。どうかな? 君たち二人にしか背負えない、最高の名前だと思わない?」
「……最高の、名前……」
貝元さんの熱っぽい解説を聞きながら、僕は画面の文字をもう一度見つめた。僕たちのパブリックイメージを最大限に活かした、ファンが喜びそうな完璧なネーミング。
それなのに、胸の奥を小さな棘がチクリと刺した。
(誰も入り込めない、完璧なバディ?)
あの薄暗い寝室の記憶が、鮮烈に蘇る。涙の痕をなぞった鍵野の指の熱。「手のかかるやつ」と呟いた、微かな吐息。
カメラの回っていないところで醜態をさらし合っている僕たちの関係は、社長の言うような「奇跡の繋がり」なんて美しいものじゃない。もっと泥臭くて、歪で、気まずくて。
それでも、この名前のとおりに「Sugar」と「Spice」として舞台に立つ自分たちを想像すると、なぜか嫌な気分はしなかった。
「……うん。いいと思います。社長にしては、珍しくセンスいいかも」
いつものように少し意地悪く笑ってみせると、貝元さんは満足そうにハンドルを握り直した。
***
スタジオに入った途端、何十人もの大人の視線が僕たち二人に集まった。
「それでは撮影を始めさせていただきます! 今回、新商品のイメージキャラクターを務めていただく、橘花理央さんと鍵野凪斗さんです!」
スタッフの威勢のいい声に合わせて、笑顔でぺこりと頭を下げる。隣の鍵野も、いかにも表向きの爽やかな笑みを浮かべて一礼した。
『Sugar&Spice.』の結成公式発表前だというのに、水面下の需要は凄まじかった。互いの個人仕事の合間を縫って、大手企業のCM出演が次々に決まっていく。「ワン・テイク」出演後の大反響を見越して、ゴールデン帯の主要な歌番組の出演スケジュールも、びっしり埋まっていた。
あの地獄のようなクランクインから数日。ドラマ第二話の撮影も午後に控えている。それなのに、台本を開く時間さえ満足に取れないほど、僕たちのスケジュールは過密を極めていた。
(……久しぶりに会うと、なんか変な感じするな)
鍵野と顔を合わせるのは、二週間ぶりだった。
一人きりのマンションは快適そのものだったけれど、帰ってきたあいつに散らかしているところを見つかれば、機嫌が悪くなるのは目に見えている。だから、いない間も掃除や洗濯に気を遣う羽目になり、離れていても鍵野の存在が頭の片隅から消えなかった。
そんな期間を経た、スタジオでの再会。カメラとスタッフに囲まれている手前、気軽に話しかけるわけにもいかない。
お互い所在なさげに正面のディレクターを見つめ、目線だけで「久しぶり」を交わすことさえできずにいた。
「では、本日の流れをご説明します。最初に、橘花さんと鍵野さん、お一人ずつのソロカットを撮影します。次に、本商品の日焼け止めをお互いの頬に塗り合っていただく、メインのカット。最後に、お二人で商品名を揃えて言っていただきます」
「分かりました、よろしくお願いします」
ソロのカットは、どちらもプロの手際でスムーズに進んだ。
瑞々しい光があふれる白い背景の前で、僕はカメラに向かって完璧なウィンクと笑顔を披露し、鍵野は持ち前の鋭い視線と物憂げな表情でレンズを射抜く。モニターを確認するクライアントからは、早くも満足そうな歓声が上がった。
「はーい、それではお二人揃ってのカットにいきましょう! 立ち位置はそのまま、お互いに向き合ってください」
照明が切り替わり、肌の質感をより柔らかく引き出す光が僕たちを照らす。指示されるまま、鍵野と正面から向き合った。手を伸ばせば相手の体に触れられる距離だ。
二週間ぶりに間近で見る鍵野は、地方ロケで少し日に焼けたのと、稽古でさらに体が絞られたせいなのか、以前より男らしさが増して見えた。気後れしそうになるのをこらえて、顎を引く。
「じゃあ、まずは鍵野さんから橘花さんの頬に塗るカットいきます。橘花さんは少しカメラ側に顔を傾けて、鍵野さんは優しい手つきでお願いしますね」
演出の指示に、心の中で「最悪だ」と悪態をついた。
鍵野の大きな手のひらに、白い日焼け止めのクリームが絞り出される。その手が、ゆっくりと僕の顔へ近づいてきた。睫毛が震えそうになるのを、必死に耐える。
「……動くなよ」
スタッフには聞こえないほどの、ごく小さな呟き。
次の瞬間、鍵野の少し硬くて温かい指先が、僕の左頬に触れた。ひんやりしたクリームの感触のすぐ後から、指の体温が肌に伝わってくる。鍵野の指は、驚くほど慎重に、ゆっくりと頬の上を滑った。至近距離にある瞳が、まっすぐ僕を見つめている。いつもの意地悪な目ではなく、真剣で、吸い込まれそうなほど深い光を宿していた。
(な、にこれ……早く終わってよ)
顔が赤くなっていないだろうか。メイクで隠れていればいいけれど、手のひらまで熱くなっていくのが自分でも分かった。
「はい、カット! 素晴らしいです、鍵野さんの表情も最高! では次、チェンジして橘花さんからお願いします!」
ディレクターの声で、ようやく鍵野の指が離れた。さっきまで触れられていた場所が、嘘みたいに熱い。鍵野はふっと視線を外し、少しだけ耳を赤くしたまま、ぶっきらぼうに小声で、クリームのチューブを僕の手元へ押しつけてきた。
「……ほら。次、アンタの番だろ」
「言われなくても分かってる」
今度は僕が、クリームを指先に取る番だった。一歩踏み出し、鍵野の顔へ手を伸ばす。綺麗に整った輪郭が、すぐ目の前にある。白く瑞々しいクリームを人差し指の腹に絞り出すと、レンズの奥でカメラマンの目がすっと座るのが分かった。
「はい、カメラ回りまーす。よーい……アクション!」
ディレクターの声に合わせて、鍵野の頬へ指を近づける。少し首を傾げてからかうような甘い視線を向け、僕の指先が肌に触れるか触れないか、というときだった。鍵野の大きな手が滑り込んできた。驚いて動きを止めた僕の、ほんの少し無防備になった鼻先を、鍵野のクリームで白くなった人差し指が、ちょん、と不意打ちで突いた。
「えっ!?」
完全に素の、間の抜けた声が出た。鼻の頭に、ひんやりした異物の感触。何が起きたのか分からず目を丸くする僕を見て、鍵野はこれ以上ないほど悪戯っぽく、少年のような屈託のない笑みを浮かべ、カメラに向き直った。
「あはは。監督ー、今の反応、可愛くないっすか?」
スタジオが一瞬で沸き立った。機材の陰に控えていた女性スタッフたちが、声を押し殺しながら顔を真っ赤にして、一斉に口元を押さえている。
勝手に台本にないアドリブを挟むな、これじゃ最初から撮り直しじゃないか。そう噛みつこうとした、そのときだった。
「あ、それめちゃくちゃいいですね~! ちょっとモニターで確認してみてもいいですか」
クライアントの広報担当者が、興奮を隠しきれない様子で声を上げた。すぐに監督や脚本家が集まり、モニターの前に人だかりができる。あんな思いつきのアドリブが、大企業の広告に採用されていいはずがない。駅のビル広告にだってなるんだから、絶対に反対したい。
けれど、モニターを見つめる大人たちの顔には、どれも「良いですね」と言わんばかりの笑みが浮かんでいた。
「お互いに塗り合う綺麗な感じより、鍵野くんが少しリードして、塗り方を教えてるみたいな距離感のほうが、二人のキャラクターが引き立ちますね」
「そうですね。この商品は、日焼け止めを使ったことのない若い男性もターゲットにしていますし」
「頬と鼻のラフなやりとりは、今ので撮れているので、次は鏡の前で、おでこを橘花さん自身に押さえてもらうような、プライベート感のある画を追加しませんか?」
脚本家が現場の空気を察して、その場で構成を書き換えていく。急な段取りの変更自体は、場数を踏んだ僕にとっては、どうということもない。
けれど、あの不意打ちのせいで、画面の中の鍵野が「不器用だけど余裕のある先輩」、僕が「翻弄されて顔を赤くする初心な後輩」という構図になってしまうのが、正直、めちゃくちゃ気に入らない。
「守るから、魅せるへ。AURA GLOW、UVセラムヴェール!」
最後に商品ロゴを掲げるカットを撮り終え、スタジオの端から「オッケーです! お疲れ様でした――!」と明るい声が響いた。
その瞬間、さっきまで至近距離で見つめ合っていた甘い空気は嘘のように消え、僕たちはすん、と事務的で無愛想な顔に戻った。カメラの前の鮮やかな笑顔など、微塵も残っていない。
スタジオの隅からそれを見ていた貝元さんは、タブレットを片手に、「やれやれ」と苦笑いするばかりだった。
僕たち二人の名前はまだ一切出されず、投稿されるのはシルエット画像や意味深なフレーズばかりだ。それでも、先行公開された写真に写り込む耳の形や唇の輪郭だけでファンは敏感に反応し、タイムラインは瞬く間に大騒ぎになった。
ただ、夜な夜なエゴサをしてみた限り、「橘花理央と鍵野凪斗」という組み合わせを言い当てている人は、一人もいなかった。
(……まぁ、正反対だもんな。太陽と月、みたいに)
その潜伏期間にも、ファーストシングルに向けた歌のレッスンやレコーディングは着々と進んでいく。
鍵野とは、マンションで夜にちょこちょこ言葉を交わす機会こそあったものの、仕事の現場で顔を合わせることはほとんどなかった。レコーディングはパート別の録りで、インタビューも別日にそれぞれが呼ばれる形だったからだ。
鍵野には新舞台の過酷な稽古があり、僕にも歌番組の収録と、あの地獄のような『サギ☆ドル』第二話の撮影がある。お互い個人仕事で手一杯なのだから、すれ違いの生活は当然だった。別に、寂しさなんて感じていない。この生活こそ快適そのものだ。
「あ、理央くーん。そういえば社長が、ユニット名を決めたってさっき連絡が来たよ」
「え、やっと? ずーっと悩んでましたもんね。僕、最終的に『もうどれでもいいです』って言っちゃいました」
「あはは、理央くんらしいといえばらしいけど。……じゃあ、発表するよ」
スタジオに入る前、貝元さんは運転席から振り返って微笑んだ。手にはスマホ。画面には――。
「……Sugar&Spice.?」
「もともとはイギリスの古いことわざでね、『砂糖とスパイス、それに素敵な何もかも』っていう言葉が由来なんだ。君たちは正反対だろう? 理央くんが『Sugar』、王道の笑顔でみんなを癒やす存在。凪斗くんは『Spice』、クールでセクシー、ダンスやラップで刺激を与える存在。この正反対の二人が合わさって、無敵のユニットになるってわけ」
「この最後のドットは、どういう意味? ただの飾り?」
「このピリオドには、ふたつの意味を込めてる。ひとつは『これで完結している』という絶対的な関係性。英語のピリオドは終止符だからね。この二人以外にはあり得ない、誰も入り込めない完璧なバディだって意味だよ。もうひとつは、二つの物語の交差。『Sugar』という物語を生きてきた理央くんと、『Spice』という別の物語を生きてきた凪斗くん。それぞれ独立して完結していたはずの二つの人生が、『&』で奇跡的に繋がった。お互いのこれまでの歩みを尊重しながら、一緒に新しい未来を作ってほしい。どうかな? 君たち二人にしか背負えない、最高の名前だと思わない?」
「……最高の、名前……」
貝元さんの熱っぽい解説を聞きながら、僕は画面の文字をもう一度見つめた。僕たちのパブリックイメージを最大限に活かした、ファンが喜びそうな完璧なネーミング。
それなのに、胸の奥を小さな棘がチクリと刺した。
(誰も入り込めない、完璧なバディ?)
あの薄暗い寝室の記憶が、鮮烈に蘇る。涙の痕をなぞった鍵野の指の熱。「手のかかるやつ」と呟いた、微かな吐息。
カメラの回っていないところで醜態をさらし合っている僕たちの関係は、社長の言うような「奇跡の繋がり」なんて美しいものじゃない。もっと泥臭くて、歪で、気まずくて。
それでも、この名前のとおりに「Sugar」と「Spice」として舞台に立つ自分たちを想像すると、なぜか嫌な気分はしなかった。
「……うん。いいと思います。社長にしては、珍しくセンスいいかも」
いつものように少し意地悪く笑ってみせると、貝元さんは満足そうにハンドルを握り直した。
***
スタジオに入った途端、何十人もの大人の視線が僕たち二人に集まった。
「それでは撮影を始めさせていただきます! 今回、新商品のイメージキャラクターを務めていただく、橘花理央さんと鍵野凪斗さんです!」
スタッフの威勢のいい声に合わせて、笑顔でぺこりと頭を下げる。隣の鍵野も、いかにも表向きの爽やかな笑みを浮かべて一礼した。
『Sugar&Spice.』の結成公式発表前だというのに、水面下の需要は凄まじかった。互いの個人仕事の合間を縫って、大手企業のCM出演が次々に決まっていく。「ワン・テイク」出演後の大反響を見越して、ゴールデン帯の主要な歌番組の出演スケジュールも、びっしり埋まっていた。
あの地獄のようなクランクインから数日。ドラマ第二話の撮影も午後に控えている。それなのに、台本を開く時間さえ満足に取れないほど、僕たちのスケジュールは過密を極めていた。
(……久しぶりに会うと、なんか変な感じするな)
鍵野と顔を合わせるのは、二週間ぶりだった。
一人きりのマンションは快適そのものだったけれど、帰ってきたあいつに散らかしているところを見つかれば、機嫌が悪くなるのは目に見えている。だから、いない間も掃除や洗濯に気を遣う羽目になり、離れていても鍵野の存在が頭の片隅から消えなかった。
そんな期間を経た、スタジオでの再会。カメラとスタッフに囲まれている手前、気軽に話しかけるわけにもいかない。
お互い所在なさげに正面のディレクターを見つめ、目線だけで「久しぶり」を交わすことさえできずにいた。
「では、本日の流れをご説明します。最初に、橘花さんと鍵野さん、お一人ずつのソロカットを撮影します。次に、本商品の日焼け止めをお互いの頬に塗り合っていただく、メインのカット。最後に、お二人で商品名を揃えて言っていただきます」
「分かりました、よろしくお願いします」
ソロのカットは、どちらもプロの手際でスムーズに進んだ。
瑞々しい光があふれる白い背景の前で、僕はカメラに向かって完璧なウィンクと笑顔を披露し、鍵野は持ち前の鋭い視線と物憂げな表情でレンズを射抜く。モニターを確認するクライアントからは、早くも満足そうな歓声が上がった。
「はーい、それではお二人揃ってのカットにいきましょう! 立ち位置はそのまま、お互いに向き合ってください」
照明が切り替わり、肌の質感をより柔らかく引き出す光が僕たちを照らす。指示されるまま、鍵野と正面から向き合った。手を伸ばせば相手の体に触れられる距離だ。
二週間ぶりに間近で見る鍵野は、地方ロケで少し日に焼けたのと、稽古でさらに体が絞られたせいなのか、以前より男らしさが増して見えた。気後れしそうになるのをこらえて、顎を引く。
「じゃあ、まずは鍵野さんから橘花さんの頬に塗るカットいきます。橘花さんは少しカメラ側に顔を傾けて、鍵野さんは優しい手つきでお願いしますね」
演出の指示に、心の中で「最悪だ」と悪態をついた。
鍵野の大きな手のひらに、白い日焼け止めのクリームが絞り出される。その手が、ゆっくりと僕の顔へ近づいてきた。睫毛が震えそうになるのを、必死に耐える。
「……動くなよ」
スタッフには聞こえないほどの、ごく小さな呟き。
次の瞬間、鍵野の少し硬くて温かい指先が、僕の左頬に触れた。ひんやりしたクリームの感触のすぐ後から、指の体温が肌に伝わってくる。鍵野の指は、驚くほど慎重に、ゆっくりと頬の上を滑った。至近距離にある瞳が、まっすぐ僕を見つめている。いつもの意地悪な目ではなく、真剣で、吸い込まれそうなほど深い光を宿していた。
(な、にこれ……早く終わってよ)
顔が赤くなっていないだろうか。メイクで隠れていればいいけれど、手のひらまで熱くなっていくのが自分でも分かった。
「はい、カット! 素晴らしいです、鍵野さんの表情も最高! では次、チェンジして橘花さんからお願いします!」
ディレクターの声で、ようやく鍵野の指が離れた。さっきまで触れられていた場所が、嘘みたいに熱い。鍵野はふっと視線を外し、少しだけ耳を赤くしたまま、ぶっきらぼうに小声で、クリームのチューブを僕の手元へ押しつけてきた。
「……ほら。次、アンタの番だろ」
「言われなくても分かってる」
今度は僕が、クリームを指先に取る番だった。一歩踏み出し、鍵野の顔へ手を伸ばす。綺麗に整った輪郭が、すぐ目の前にある。白く瑞々しいクリームを人差し指の腹に絞り出すと、レンズの奥でカメラマンの目がすっと座るのが分かった。
「はい、カメラ回りまーす。よーい……アクション!」
ディレクターの声に合わせて、鍵野の頬へ指を近づける。少し首を傾げてからかうような甘い視線を向け、僕の指先が肌に触れるか触れないか、というときだった。鍵野の大きな手が滑り込んできた。驚いて動きを止めた僕の、ほんの少し無防備になった鼻先を、鍵野のクリームで白くなった人差し指が、ちょん、と不意打ちで突いた。
「えっ!?」
完全に素の、間の抜けた声が出た。鼻の頭に、ひんやりした異物の感触。何が起きたのか分からず目を丸くする僕を見て、鍵野はこれ以上ないほど悪戯っぽく、少年のような屈託のない笑みを浮かべ、カメラに向き直った。
「あはは。監督ー、今の反応、可愛くないっすか?」
スタジオが一瞬で沸き立った。機材の陰に控えていた女性スタッフたちが、声を押し殺しながら顔を真っ赤にして、一斉に口元を押さえている。
勝手に台本にないアドリブを挟むな、これじゃ最初から撮り直しじゃないか。そう噛みつこうとした、そのときだった。
「あ、それめちゃくちゃいいですね~! ちょっとモニターで確認してみてもいいですか」
クライアントの広報担当者が、興奮を隠しきれない様子で声を上げた。すぐに監督や脚本家が集まり、モニターの前に人だかりができる。あんな思いつきのアドリブが、大企業の広告に採用されていいはずがない。駅のビル広告にだってなるんだから、絶対に反対したい。
けれど、モニターを見つめる大人たちの顔には、どれも「良いですね」と言わんばかりの笑みが浮かんでいた。
「お互いに塗り合う綺麗な感じより、鍵野くんが少しリードして、塗り方を教えてるみたいな距離感のほうが、二人のキャラクターが引き立ちますね」
「そうですね。この商品は、日焼け止めを使ったことのない若い男性もターゲットにしていますし」
「頬と鼻のラフなやりとりは、今ので撮れているので、次は鏡の前で、おでこを橘花さん自身に押さえてもらうような、プライベート感のある画を追加しませんか?」
脚本家が現場の空気を察して、その場で構成を書き換えていく。急な段取りの変更自体は、場数を踏んだ僕にとっては、どうということもない。
けれど、あの不意打ちのせいで、画面の中の鍵野が「不器用だけど余裕のある先輩」、僕が「翻弄されて顔を赤くする初心な後輩」という構図になってしまうのが、正直、めちゃくちゃ気に入らない。
「守るから、魅せるへ。AURA GLOW、UVセラムヴェール!」
最後に商品ロゴを掲げるカットを撮り終え、スタジオの端から「オッケーです! お疲れ様でした――!」と明るい声が響いた。
その瞬間、さっきまで至近距離で見つめ合っていた甘い空気は嘘のように消え、僕たちはすん、と事務的で無愛想な顔に戻った。カメラの前の鮮やかな笑顔など、微塵も残っていない。
スタジオの隅からそれを見ていた貝元さんは、タブレットを片手に、「やれやれ」と苦笑いするばかりだった。



