サイレント・プラセボ  ―偽りのカルテと零度の 処刑人—

午後三時十五分。
地下一階の臨床検査室で、涼香はいつも通り顕微鏡のレンズを覗き込んでいた。
手元の時計が、静かにその時を刻む。

同じ時刻、三階の部長室。
手術を交代させられた苛立ちと、目に見えないプレッシャーで神経をすり減らした遠藤誠一郎は、荒い息を吐きながらデスクの引き出しを開けた。彼は無意識に、いつもの遮光瓶から一粒のカプセルを取り出し、デスクのミネラルウォーターで一気に飲み干した。

それが、涼香の計算した「完全犯罪」の執行スイッチだった。

カプセルが胃壁で溶け、飲んだ当人は苦しみ、死に至る。それを、涼香は計算していた。

「………もうそろそろ、始まるかな」

臨床検査室で呟く。手元の時計に目を落とし、計算し直す。計算などしなくても、涼香の今までの計算は間違ってなどいなかった。

「…完璧だ」

そう呟いた瞬間、三階部長室から苦しむ遠藤誠一郎の悲鳴が聞こえてきた。

「……やっとか」

悲鳴を聞き、後輩から同僚、先輩まで、騒ぎ始め、三階部長室まで殺到する。
「遠藤先生⁉」
「先生、鍵を開けてください!」
全員が部長室を開けようとするが、鍵が締まっており、開かない。それも、涼香の計算内だ。いつも遠藤誠一郎は、自分が鍵を持ち、自分が入れば確実に鍵を閉める。
「よ、予備の鍵を持ってきます!」
一番先輩の看護師が予備の鍵を取りに、走り去る。この手間取る間に、遠藤誠一郎は死に。
「氷室さん、なにがあった⁉」
同僚の佐藤が私に状況説明を促した。
他の人に聞いてほしかったが、周りはそれどころではない。怖くなって泣き出す後輩、それを宥める同僚や先輩。聞ける状態ではなかった。
「……私は、いつもの臨床検査室で調べていたんですが、急に上の階から悲鳴が聞こえてきたので、来てみれば、部長室から悲鳴が」
「そんなっ!」
すぐに、部長室のドアの前に立ち、先生、先生!とドアを叩く。『あの人、最近また検査のオーダーを乱発してるからなあ』と言っていた佐藤が心配しているとは。人の感情は難しい、と涼香は考えていた。


二時間後、やっと開かれた部長室の中には、目の光が消えた遠藤誠一郎が倒れていた。
これを見て、ホッとしている人が七割、心配しつつホッとしている人が三割。


これで、私の任務は完了した。もう、ここには用はない。


二週間後。やっと『天才心臓外科医』の遠藤先生が亡くなったというニュースが出回った。もちろん、涼香が毒を入れたことはバレていない。持病の発作で亡くなったと報道されている。
自殺をした小林看護師の遺族は、『……娘が自殺をした原因そのものがなくなってくれて、少し、ホッとしてます。でも、やっぱり、許せません』と話をしていた。
もちろん、もう涼香は第一総合病院にはいない。
病院での仕事を辞め、次の仕事に取り掛かっている。

また、面倒なことになりそうだな

ニュースを見た涼香は、またそう悟り、小さな溜息をついた。