午後二時五十分。
主を失った院長室の鍵は、涼香が事前に複製したデジタルキーによって、音もなく解錠された。
重厚な革張りのソファ、大理石のデスク。権力を誇示するような空間に、涼香は迷いなく足を踏み入れる。目指すは、遠藤がサプリメントを保管しているデスクの右側、二段目の引き出しだ。
引き出しは施錠されていたが、涼香は白衣から取り出した薄い金属製のピックを鍵穴に差し込み、わずか数秒で無音のまま解錠した。
中には、海外製の遮光瓶に入った高価なビタミンサプリメント。
涼香は手袋をはめた手で蓋を開け、中に並ぶ茶色のカプセルの一つを、あらかじめ用意していた「特殊カリウム製剤」の入った全く同じ見た目のカプセルへと、精密ピンセットで入れ替える。
「作業完了。退室まで、あと三十秒――」
その時だった。廊下から、激しい足音が近づいてくる。
ガチャリ、とドアノブが回る。
予定よりも早すぎる。遠藤が執刀しているはずの手術は、涼香が仕掛けたデータのノイズによって、一時中断か執刀医の交代が行われたのだ。
逃げる猶予はない。ドアが開き、焦燥と怒りで顔を真っ赤にした遠藤誠一郎が室内に飛び込んできた。
「お前……!誰だ、そこで何をしている!」
遠藤の怒号が室内に響き渡る。普通の人間であれば、恐怖で硬直するか、言い訳を求めて視線を泳がせる場面だ。
しかし、氷室涼香の心拍数は、一分間に六十回。完全に平常時の数値を維持していた。
彼女の脳は、コンマ一秒で状況を分析し、最適な偽装データを構築する。
涼香はピンセットを袖口に隠し、デスクの上に、あらかじめ用意していた別の「緊急検査報告書」のファイルを、音もなく滑らせた。
そして、ロボットのようになめらかな動作で遠藤に向き直り、一礼する。
「心臓外科から至急で回ってきた、現在オペ中の患者の、追加の血液ガス分析データです。先ほど内戦でお呼びしましたが応答がなかったため、規律の基づき、私が直接お届けに上がりました。施錠されていなかったため、デスクに置かせていただこうとした次第です」
その声には、微塵の震えも、動揺もなかった。あまりにも堂々とした、淡々とした「業務報告」の態度。
遠藤は激しい呼吸のまま、涼香とデスクの上のファイルを交互に見つめる。遠藤は、先ほど自分が手術を中断せざるを得なくなった不審な検査データのことで頭がいっぱいだった。目の前にいるのが、ただの地味な「地階の検査技師」だと認識すると、彼はすぐに興味を失い、怒りの矛先を不条理な罵倒へと変えた。
「チッ、検査課のゴミが、ノックもせずに入ってくるな!さっさと置いて出ていけ!どいつもこいつも、私の足を引っ張りおって……!」
遠藤はファイルをひったくり、涼香を虫けらのように追い払う。
涼香は再び、深く一礼した。その瞳は、遠藤の激しい頸動脈の拍動、赤くなった顔面、焦燥による手の震えを、冷酷にデータとして記録している。
(収縮期血圧、推定百八十以上。標的の興奮状態は最高潮。サプリメントを摂取する条件は完全に整った)
涼香は静かにドアへ向かう。その足取りはどこまでも優雅で、静かだった。
そして、ドアノブに手をかけ、廊下へ出る寸前。
涼香は振り返り、感情の消えた零度の瞳で、怒りに震える老医師の背中を見つめた。
「遠藤先生」
「まだ何かあるのか!」
「いえ。先生、最近は大変お疲れのご様子ですから……お体には、くれぐれもお気をつけください」
それは、親切な言葉ではなかった。
これから執行される死刑宣告を、一足先に告げるような、底冷えする響き。
遠藤は一瞬、その声の異様な冷たさゾクリと背筋を凍らせ、振り返ろうとした。
しかし、その時にはすでに、ドアは音もなく閉まり、氷室涼香の姿は消えていた。
主を失った院長室の鍵は、涼香が事前に複製したデジタルキーによって、音もなく解錠された。
重厚な革張りのソファ、大理石のデスク。権力を誇示するような空間に、涼香は迷いなく足を踏み入れる。目指すは、遠藤がサプリメントを保管しているデスクの右側、二段目の引き出しだ。
引き出しは施錠されていたが、涼香は白衣から取り出した薄い金属製のピックを鍵穴に差し込み、わずか数秒で無音のまま解錠した。
中には、海外製の遮光瓶に入った高価なビタミンサプリメント。
涼香は手袋をはめた手で蓋を開け、中に並ぶ茶色のカプセルの一つを、あらかじめ用意していた「特殊カリウム製剤」の入った全く同じ見た目のカプセルへと、精密ピンセットで入れ替える。
「作業完了。退室まで、あと三十秒――」
その時だった。廊下から、激しい足音が近づいてくる。
ガチャリ、とドアノブが回る。
予定よりも早すぎる。遠藤が執刀しているはずの手術は、涼香が仕掛けたデータのノイズによって、一時中断か執刀医の交代が行われたのだ。
逃げる猶予はない。ドアが開き、焦燥と怒りで顔を真っ赤にした遠藤誠一郎が室内に飛び込んできた。
「お前……!誰だ、そこで何をしている!」
遠藤の怒号が室内に響き渡る。普通の人間であれば、恐怖で硬直するか、言い訳を求めて視線を泳がせる場面だ。
しかし、氷室涼香の心拍数は、一分間に六十回。完全に平常時の数値を維持していた。
彼女の脳は、コンマ一秒で状況を分析し、最適な偽装データを構築する。
涼香はピンセットを袖口に隠し、デスクの上に、あらかじめ用意していた別の「緊急検査報告書」のファイルを、音もなく滑らせた。
そして、ロボットのようになめらかな動作で遠藤に向き直り、一礼する。
「心臓外科から至急で回ってきた、現在オペ中の患者の、追加の血液ガス分析データです。先ほど内戦でお呼びしましたが応答がなかったため、規律の基づき、私が直接お届けに上がりました。施錠されていなかったため、デスクに置かせていただこうとした次第です」
その声には、微塵の震えも、動揺もなかった。あまりにも堂々とした、淡々とした「業務報告」の態度。
遠藤は激しい呼吸のまま、涼香とデスクの上のファイルを交互に見つめる。遠藤は、先ほど自分が手術を中断せざるを得なくなった不審な検査データのことで頭がいっぱいだった。目の前にいるのが、ただの地味な「地階の検査技師」だと認識すると、彼はすぐに興味を失い、怒りの矛先を不条理な罵倒へと変えた。
「チッ、検査課のゴミが、ノックもせずに入ってくるな!さっさと置いて出ていけ!どいつもこいつも、私の足を引っ張りおって……!」
遠藤はファイルをひったくり、涼香を虫けらのように追い払う。
涼香は再び、深く一礼した。その瞳は、遠藤の激しい頸動脈の拍動、赤くなった顔面、焦燥による手の震えを、冷酷にデータとして記録している。
(収縮期血圧、推定百八十以上。標的の興奮状態は最高潮。サプリメントを摂取する条件は完全に整った)
涼香は静かにドアへ向かう。その足取りはどこまでも優雅で、静かだった。
そして、ドアノブに手をかけ、廊下へ出る寸前。
涼香は振り返り、感情の消えた零度の瞳で、怒りに震える老医師の背中を見つめた。
「遠藤先生」
「まだ何かあるのか!」
「いえ。先生、最近は大変お疲れのご様子ですから……お体には、くれぐれもお気をつけください」
それは、親切な言葉ではなかった。
これから執行される死刑宣告を、一足先に告げるような、底冷えする響き。
遠藤は一瞬、その声の異様な冷たさゾクリと背筋を凍らせ、振り返ろうとした。
しかし、その時にはすでに、ドアは音もなく閉まり、氷室涼香の姿は消えていた。


