サイレント・プラセボ  ―偽りのカルテと零度の 処刑人—

ターゲットを「処理」すると決めてからの氷室涼香の行動は、迅速かつ完璧に計算されていた。復讐という感情に突き動かされているわけではない。壊れた機械の部品を交換するように、彼女は淡々と作業を進めていた。

翌日、涼香はシフトの合間を縫って、遠藤誠一郎の行動パターンのログを収集し始めた。
心臓外科部長という立場上、遠藤のスケジュールは秘書課の共有カレンダーに記録されている。しかし、涼香が求めたのは、カレンダーには載らない「無意識のルーティーン」だった。
院内の防犯カメラの映像データ、および院長室のスマートロックの開閉履歴を、独自の端末で密かに同期させる。
抽出されたデータは、一つの明確な規則性を示していた。

「毎日、午後三時」

遠藤はどれほど多忙であっても、午後三時からの十五分間だけは必ず院長室に戻り、鍵を閉めて一人の時間を過ごす。目的は、彼が極秘裏に処方させている持病の高度高血圧薬と、海外製の高級ビタミンサプリメントの管理を誰にも任せず、デスクの引き出しに自ら保管していた。
「侵入経路、および執行のタイミングは、午後三時の直前。所要時間は百二十秒あれば足りる」
涼香は地下一階の試薬保管庫の前に立っていた。
指紋認証錠を解錠し、冷気があふれる室内へと足を踏み入れる。棚の最奥、劇薬指定された薬品が並ぶケースから、彼女は一本の未開封のバイアルを取り出した。
塩化カリウム。
心停止を誘発する極薬であり、医療現場では最も厳重な管理が求められる。涼香は事前に、システム上の「廃棄予定リスト」のデータを書き換え、この一本が最初から存在しなかったかのように帳簿を処理していた。

検査室に戻った涼香は、マイクロピペットと超微量天秤を使い、抽出したカリウムを特殊な有機化合物と配合していく。
体内の酸素と反応し、数時間後に完全分解される特殊製剤。顕微鏡のレンズ越しに、その無色透明の液体がカプセルに充填されていく様子を、涼香はただ冷たく見つめていた。

「これで、バグを消去する準備は整った」

しかし、ただ殺すだけでは「完全犯罪」として美しくない。遠藤が自らの焦りから、さらに墓穴を掘るよう、涼香は最初の仕掛けを起動することにした。

午後一時。遠藤が次のオペに向けて準備を始める時間帯。
涼香は、遠藤が執刀予定の患者の「術前血液検査データ」を、病院のサーバー内でほんのわずかだけ改ざんした。電解質濃度を、臨床的には問題ないが、遠藤のような神経質な医師が見れば「一瞬、手術を躊躇する」絶妙な数値へと書き換えたのだ。

狙い通り、心臓外科医局のデスクでデータをチェックした遠藤の顔が、怒りと焦りで歪むのを、廊下の監視カメラ越しに涼香は確認した。
遠藤は小林看護師の一件以来、自分の医療ミスが露呈することを異常なほど恐れている。この微細なデータのブレは、彼の精神的な自滅を加速させる極上のスパイスだった。

「焦りなさい、遠藤先生。人間は混乱した時ほど、自ら破滅の選択肢を選ぶものですから」

午後二時四十五分。遠藤が予定通り、焦りを抱えたままオペ室へと入っていく。
涼香は白衣のポケットに、あの透明なカプセルを忍ばせ、静かにエレベーターへと乗り込んだ。目指すは、主のいない院長室だ。