カチ、カチ、カチ。
無機質なメトロノームのように、顕微鏡のステージを動かすレバーの音だけが、深夜の臨床検査室に響いていた。
第一総合病院の地下一階。地上からの光が一切届かないこの部屋で、氷室涼香(ひむろすずか)は接眼レンズから目を離さない。
レンズの向こう側では、無数の赤血球と白血球が、青と紫の染色液に染められて整然と並んでいる。異常な細胞の有無を識別し、データ化する。それが彼女の日常であり、彼女が院内で「ロボット」「血の通っていない鉄の女」と揶揄される所以だった。
「氷室さん、まだ残ってたの? 相変わらず執念深いっていうか、効率主義っていうか……」
夜勤の同僚である臨床検査技師の佐藤が、ため息混じりに缶コーヒーをデスクに置いた。涼香はレンズを見つめたまま、声音ひとつ変えずに返す。
「細胞には感情がありませんから。感情を持ち込むと、データのノイズになります。私はただ、明日の午前診までに、心臓外科から回ってきた三百件の血液像を処理しているだけです」
「三百件って……。それ、遠藤先生の派閥の患者でしょ? あの人、最近また検査のオーダーを乱発してるからなあ」
遠藤誠一郎。この病院の心臓外科部長であり、テレビの医療特番にも頻繁に出演する「天才心臓外科医」だ。だが、院内での評判は決して良くない。自分の命令は絶対であり、少しでも意に沿わない部下やナースがいれば、執拗な言葉の暴力で追い詰める独裁者だった。
「あ、そういえば聞いた? 3階のナースステーション、大変なことになってるよ」
佐藤が声を潜め、周囲を警戒するように肩をすくめる。涼香の手が、わずかに止まった。
「新人看護師の、小林さんの件ですか」
「そう、それ。昨日、遠藤先生の執刀したオペに、小林さんが器械出しとして入ったんだけどさ。手術中にトラブルがあったらしくて、遠藤先生、カンカンに怒って『あいつのせいで患者が危険に晒された』ってナースステーションで怒鳴り散らしたらしいの。小林さん、自分が薬剤の投与量を間違えたって思い込んで、さっきも更衣室で過呼吸起こしてたって」
涼香の脳裏に、数日前の記憶が蘇る。
* * *
三日前、涼香は検査室の廊下で、涙を溜めた小林とすれ違った。小林はまだ二十三歳の新人だった。
小林は涼香の姿を見るなり、縋るように声をかけてきた。
『氷室さん……私、遠藤先生に、患者さんのデータを見落としたって怒られて。私のせいで、患者さんの容態が急変したらどうしようって、怖くて、夜も眠れなくて……』
泣きじゃくる小林を前にして、涼香の心は一ミリも動かなかった。悲しいとも、可哀想だとも思わない。 涼香の瞳は、小林という「生体」を冷徹に観察していた。
――脈拍数は推定百二十以上。呼吸は浅く、過換気症候群の一歩手前。瞳孔は散大し、明らかな恐怖と軽度の精神錯乱状態にある。ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌過多。限界値を超えた実験動物と同じ状態。
それが、涼香が小林に対して下した客観的な診断データだった。
『私に感情のケアを求めないでください。私は精神科医でも、あなたの友人でもありません』
『え……』
『データの見落としを懸念するなら、泣く時間を確認作業に充てるべきです。あなたの現在のバイタルサインは、業務の正確性を著しく低下させています。非効率です。自席に戻り、深呼吸をしてください』
冷酷極まりない涼香の言葉に、小林は絶望したような顔をして、それ以上何も言わずに去っていった。
それが、小林と交わした最後の会話だった。
* * *
「……でさ、遠藤先生、あの小林さんの不注意だってことで上層部に報告書を出しちゃったみたいなんだよね。病院側も、看板医師の遠藤先生を守るために、事を荒立てたくないみたいだし」
佐藤の愚痴が続く。涼香は顕微鏡に向き直り、静かに言った。
「小林さんの投薬ミス、という客観的な証拠は出ているのですか」
「さあ? でも、あの遠藤先生が言ってるんだから間違いないでしょ。あの人に逆らえる人なんて、この病院にはいないしね。じゃ、俺、仮眠室行くから。氷室さんも、ほどほどにね」
佐藤が部屋を出ていき、重い防音扉が閉まる。
静寂が戻った検査室で、涼香はスマートフォンの画面に目を落とした。時刻は午前一時を回っている。
その時、画面の上部にニュースの速報ポップアップが、冷たく明滅した。
『本日未明、第一総合病院の敷地内で、同院に勤務する女性看護師(23)が死亡しているのが見つかりました。屋上から飛び降りたとみられ、警察は自殺の可能性も含めて――』
小林が、死んだ。
涼香は小さく息を吐いた。その表情には、やはり悲しみも、怒りも、同情すらも浮かんでいない。
ただ、絶対的な零度の冷徹さだけが、その美しい横顔を満たしていた。
「データが、完全に破損した」
小林という生体データが、この世界から永久に消去された。原因は、遠藤誠一郎という強大なストレス因子の注入によるもの。 涼香は白衣のポケットから、自分のスマートフォンとは別の、ロゴの入っていない黒い端末を取り出した。彼女のもう一つの顔――法で裁けない医療界の膿を隠密に排除する「処刑人」としての端末だ。
涼香は深夜の病院の静寂を利用し、検査室のメインPCに向き合った。ログインIDを入力する。もちろん、自身のIDではない。昨日、システム管理室のゴミ箱から回収した、特権管理者のアクセスログから解析したマスターパスワードだ。
彼女の指先が、驚くべき速度でキーボードを叩き始める。画面に映し出されたのは、病院の基幹システム。一般の検査技師にはアクセス権のない、遠藤医師の「手術ログ」と「カルテの変更履歴」のバックヤードだ。
涼香の脳内で、冷酷な計算が始まる。
――小林さんがミスをする確率は、過去の彼女の提出データから逆算して0.3%未満。対して、遠藤医師が過去三年間で隠蔽したと推測される医療ミスの件数は、不自然な心不全死の統計から見て二桁を超える。
画面のスクロールを追う涼香の瞳が、ある一点で止まった。
昨日行われた、遠藤が執刀した心臓弁膜症手術のタイムラインだ。
「……見つけた」
術中の血圧急降下の記録。そのわずか数分前、人工心肺装置のログに、不自然な手動操作の記録が残っていた。
遠藤は、自らの操作ミスで主動脈の縫合時に針をブレさせ、大出血を誘発していたのだ。それを隠蔽するため、彼は手術後にカルテのタイムスタンプを書き換え、小林が「指示以上の薬剤を投与したせいで血圧が狂った」というシナリオを捏造した。
権力に守られた老医師の保身が、二十三歳の若い命を屋上から突き落とした。それが、データの示す紛れもない真実だった。 画面のブルーライトに照らされた涼香の顔に、怒りの色は一切ない。ただ、淡々と結論だけを下す。
「遠藤誠一郎。あなたの存在は、この病院の、ひいては社会の致命的なバグです」
涼香はデスクの最も奥にある、指紋認証付きの小さな隠しケースを取り出した。中には、数日前に「使用期限切れによる廃棄処理」として、帳簿上から完全に消去したはずの、無色透明の特殊なカリウム製剤の小瓶が入っている。
体内に注入されれば、数時間後に通常の酵素によって完全に分解され、司法解剖をしてもただの「急性心不全」にしか見えなくなる、完全犯罪のための凶器。
「泣く必要はありません。バグは、修正すればいいだけのこと」
静かな呟きとともに、冷徹な暗殺者としての秒針が、チクタクと音を立てて動き始めた。 ターゲットは確定した。
無機質なメトロノームのように、顕微鏡のステージを動かすレバーの音だけが、深夜の臨床検査室に響いていた。
第一総合病院の地下一階。地上からの光が一切届かないこの部屋で、氷室涼香(ひむろすずか)は接眼レンズから目を離さない。
レンズの向こう側では、無数の赤血球と白血球が、青と紫の染色液に染められて整然と並んでいる。異常な細胞の有無を識別し、データ化する。それが彼女の日常であり、彼女が院内で「ロボット」「血の通っていない鉄の女」と揶揄される所以だった。
「氷室さん、まだ残ってたの? 相変わらず執念深いっていうか、効率主義っていうか……」
夜勤の同僚である臨床検査技師の佐藤が、ため息混じりに缶コーヒーをデスクに置いた。涼香はレンズを見つめたまま、声音ひとつ変えずに返す。
「細胞には感情がありませんから。感情を持ち込むと、データのノイズになります。私はただ、明日の午前診までに、心臓外科から回ってきた三百件の血液像を処理しているだけです」
「三百件って……。それ、遠藤先生の派閥の患者でしょ? あの人、最近また検査のオーダーを乱発してるからなあ」
遠藤誠一郎。この病院の心臓外科部長であり、テレビの医療特番にも頻繁に出演する「天才心臓外科医」だ。だが、院内での評判は決して良くない。自分の命令は絶対であり、少しでも意に沿わない部下やナースがいれば、執拗な言葉の暴力で追い詰める独裁者だった。
「あ、そういえば聞いた? 3階のナースステーション、大変なことになってるよ」
佐藤が声を潜め、周囲を警戒するように肩をすくめる。涼香の手が、わずかに止まった。
「新人看護師の、小林さんの件ですか」
「そう、それ。昨日、遠藤先生の執刀したオペに、小林さんが器械出しとして入ったんだけどさ。手術中にトラブルがあったらしくて、遠藤先生、カンカンに怒って『あいつのせいで患者が危険に晒された』ってナースステーションで怒鳴り散らしたらしいの。小林さん、自分が薬剤の投与量を間違えたって思い込んで、さっきも更衣室で過呼吸起こしてたって」
涼香の脳裏に、数日前の記憶が蘇る。
* * *
三日前、涼香は検査室の廊下で、涙を溜めた小林とすれ違った。小林はまだ二十三歳の新人だった。
小林は涼香の姿を見るなり、縋るように声をかけてきた。
『氷室さん……私、遠藤先生に、患者さんのデータを見落としたって怒られて。私のせいで、患者さんの容態が急変したらどうしようって、怖くて、夜も眠れなくて……』
泣きじゃくる小林を前にして、涼香の心は一ミリも動かなかった。悲しいとも、可哀想だとも思わない。 涼香の瞳は、小林という「生体」を冷徹に観察していた。
――脈拍数は推定百二十以上。呼吸は浅く、過換気症候群の一歩手前。瞳孔は散大し、明らかな恐怖と軽度の精神錯乱状態にある。ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌過多。限界値を超えた実験動物と同じ状態。
それが、涼香が小林に対して下した客観的な診断データだった。
『私に感情のケアを求めないでください。私は精神科医でも、あなたの友人でもありません』
『え……』
『データの見落としを懸念するなら、泣く時間を確認作業に充てるべきです。あなたの現在のバイタルサインは、業務の正確性を著しく低下させています。非効率です。自席に戻り、深呼吸をしてください』
冷酷極まりない涼香の言葉に、小林は絶望したような顔をして、それ以上何も言わずに去っていった。
それが、小林と交わした最後の会話だった。
* * *
「……でさ、遠藤先生、あの小林さんの不注意だってことで上層部に報告書を出しちゃったみたいなんだよね。病院側も、看板医師の遠藤先生を守るために、事を荒立てたくないみたいだし」
佐藤の愚痴が続く。涼香は顕微鏡に向き直り、静かに言った。
「小林さんの投薬ミス、という客観的な証拠は出ているのですか」
「さあ? でも、あの遠藤先生が言ってるんだから間違いないでしょ。あの人に逆らえる人なんて、この病院にはいないしね。じゃ、俺、仮眠室行くから。氷室さんも、ほどほどにね」
佐藤が部屋を出ていき、重い防音扉が閉まる。
静寂が戻った検査室で、涼香はスマートフォンの画面に目を落とした。時刻は午前一時を回っている。
その時、画面の上部にニュースの速報ポップアップが、冷たく明滅した。
『本日未明、第一総合病院の敷地内で、同院に勤務する女性看護師(23)が死亡しているのが見つかりました。屋上から飛び降りたとみられ、警察は自殺の可能性も含めて――』
小林が、死んだ。
涼香は小さく息を吐いた。その表情には、やはり悲しみも、怒りも、同情すらも浮かんでいない。
ただ、絶対的な零度の冷徹さだけが、その美しい横顔を満たしていた。
「データが、完全に破損した」
小林という生体データが、この世界から永久に消去された。原因は、遠藤誠一郎という強大なストレス因子の注入によるもの。 涼香は白衣のポケットから、自分のスマートフォンとは別の、ロゴの入っていない黒い端末を取り出した。彼女のもう一つの顔――法で裁けない医療界の膿を隠密に排除する「処刑人」としての端末だ。
涼香は深夜の病院の静寂を利用し、検査室のメインPCに向き合った。ログインIDを入力する。もちろん、自身のIDではない。昨日、システム管理室のゴミ箱から回収した、特権管理者のアクセスログから解析したマスターパスワードだ。
彼女の指先が、驚くべき速度でキーボードを叩き始める。画面に映し出されたのは、病院の基幹システム。一般の検査技師にはアクセス権のない、遠藤医師の「手術ログ」と「カルテの変更履歴」のバックヤードだ。
涼香の脳内で、冷酷な計算が始まる。
――小林さんがミスをする確率は、過去の彼女の提出データから逆算して0.3%未満。対して、遠藤医師が過去三年間で隠蔽したと推測される医療ミスの件数は、不自然な心不全死の統計から見て二桁を超える。
画面のスクロールを追う涼香の瞳が、ある一点で止まった。
昨日行われた、遠藤が執刀した心臓弁膜症手術のタイムラインだ。
「……見つけた」
術中の血圧急降下の記録。そのわずか数分前、人工心肺装置のログに、不自然な手動操作の記録が残っていた。
遠藤は、自らの操作ミスで主動脈の縫合時に針をブレさせ、大出血を誘発していたのだ。それを隠蔽するため、彼は手術後にカルテのタイムスタンプを書き換え、小林が「指示以上の薬剤を投与したせいで血圧が狂った」というシナリオを捏造した。
権力に守られた老医師の保身が、二十三歳の若い命を屋上から突き落とした。それが、データの示す紛れもない真実だった。 画面のブルーライトに照らされた涼香の顔に、怒りの色は一切ない。ただ、淡々と結論だけを下す。
「遠藤誠一郎。あなたの存在は、この病院の、ひいては社会の致命的なバグです」
涼香はデスクの最も奥にある、指紋認証付きの小さな隠しケースを取り出した。中には、数日前に「使用期限切れによる廃棄処理」として、帳簿上から完全に消去したはずの、無色透明の特殊なカリウム製剤の小瓶が入っている。
体内に注入されれば、数時間後に通常の酵素によって完全に分解され、司法解剖をしてもただの「急性心不全」にしか見えなくなる、完全犯罪のための凶器。
「泣く必要はありません。バグは、修正すればいいだけのこと」
静かな呟きとともに、冷徹な暗殺者としての秒針が、チクタクと音を立てて動き始めた。 ターゲットは確定した。


