十年前――
葛葉が人間の家へ嫁ぐことは、ずっと以前から決まっていた。
不本意ではあるが葛葉自身が納得もし、むしろ今は早う迎えに来い、とさえ思っていた。
妖狐の姫に生まれた以上、婚儀一つで世の均衡を贖えるものなら、といった気概の覚悟だ。
だが無論、心情としては面白くはない。
森の奥で兄だけを相手に我がまま一つも言ってみたくなる。
「本当に、妾でなければならぬのか」
その姿だけを見れば、葛葉はまだ童女に近い。
妖狐の時は、人間のそれとは違う。
成長はとうに止まり、耳と尾を隠せば年端もいかぬ娘にしか見えない。
それでも葛葉は、すでに人間と同じく表すならば、齢二十を越えていた。
幼いのではなく、妖狐として、そのように童女姿に留まっている。
里の森の最奥部、古い槻の根が絡む御座所で、葛葉は扇を鳴らし、弄んでいた。
向かいに座る兄、高叢九郎助は、すでに何度も聞いた問いだと言わんばかりの顔をしている。
「ならぬ」
「判っておるわ。つまらぬ返しじゃ」
「面白くするための婚儀ではない」
それも判っている。
現世か幽世かを問わず、すべての事象には木火土金水の巡りがある。
葛葉は、五行の金を司る白狐の姫だった。
刃を生み飾りを生み、断つ力と価値を司るもの。
里の者たちが葛葉を姫として扱うのは、何も血筋だけではない。
その身に宿る金の妖力が、狐の里でも一際濃いからだ。
土を司る妖の一族は、古き係争の果てに滅ぼされた。
血は絶え、名は削られ、祀る社さえ土に還った。
以来、五行の中央は空位となっている。
今は、かつて人間と交わって残された血のみだ。
土は、五行の中央の座に君臨する。
木を根づかせ、火を受け、金を孕み、水を堰き、境を作る。
全妖が今の現世で思うように力を振る舞えなくなったのは、中心を欠いたまま、木火金水だけで巡りを保とうとしているからだ。
「土の妖は滅びたが、人間と交わって残された血だけは、まだ和泉国の素封家に残っている」
九郎助は、広げた地図の一点を指で押さえた。
「それを、童に取り戻せと」
「婚儀という形でな」
大納言和泉家の荘園のあたり。
山の気配を背に負い、海へ向かう風が低く抜ける土地である。
古い大木の楠が根を張り、泉の水面には人ならぬものの姿まで映すという場所。
そこに代々、土地の上に富を積み上げてきた人間の家があるという。
「ずいぶんと遠回りな奪い方じゃ」
葛葉は扇の陰で笑った。
気安い兄妹の間柄のこと、葛葉は直截なやり取りに慣れた娘だった。
「血は奪えば荒れる。穏やかな契りで移すのが最善だ」
「ならば、その素封家とやらは、妾を迎えて泣いて喜ぶべきじゃな」
葛葉は軽く笑った。
そう言わねば、どこか落ち着かなかった。
「家格を欲しがる倉橋家にとって悪い話ではない。かつて宮筋を迎えたこともある。次は妖を……というところだろう」
「つまり、あちらは妾の名が欲しい」
九郎助は、すぐには答えなかった。
下手に慰めれば、葛葉は余計に機嫌を損ねる。
だから結局、事実だけを選んだ。
「同じことじゃ。こちらは土が欲しい」
「身も蓋もないが、致し方あるまい……」
「政略による婚儀、望むところじゃわ!」
葛葉は妖狐の里の姫として生まれた。
愛だの、情だの、そういうものを期待していたわけではない。
それが我が身に課せられた義務だと、幼い頃から会話の端々から感づいていた。
ただ、差し出される側にも格というものを保っても罰は当たらないのではないか。
「相手は?」
「次期当主、星名」
「十六の小僧と聞いたが」
「人間であれば、妻を持っても可笑しくはない年齢だ」
「――ふん。童を迎えるには足りぬ」
九郎助は否定しなかった。
そこがまた、腹立たしい。
否定しないなら、せめて笑えばいい。
そうすればこちらも、いつものように兄を鼻であしらえた。
けれど、兄は笑わなかった。
「だが、結界は破れたのだ」
「妾の身一つ、供物として足るものなら」
「そうだな。……これは婚儀であって、婚儀だけではない」
葛葉の扇の骨が、手の中で鳴った。
兄が真剣な表情でこちらを見ている。
諌めようというのだろう。
心配と、気遣いと、少しばかりの当惑まで滲ませて。
「葛葉。相手が幼いからと侮るな。あの家を動かしているのは、今はまだ父親の方だ」
「では、その父親とやらが、妾を崇めればよいのじゃ」
葛葉は扇の端から、ちらりと目を覗かせ得意げに兄を見上げた。
まるで、いま自分がこの世で尤も理にかなったことを言ったと信じて疑わぬ顔だった。
「崇めは、……しないだろう」
「ならば、ひれ伏せるがよい」
「それも、ないだろう」
九郎助はそこで初めて、どう言えばこの妹の矜持を折らずに済むか考える顔をした。
葛葉は、そういう兄の顔が嫌いだった。
叱られる方がまだいい。鼻で笑われる方が、ずっと扱いやすい。
困ったものを見るように案じられると、世間知らずの小娘扱いされたようで腹が立つ。
「兄上。童は妖狐の姫じゃ」
「ああ」
「人間の家に下るのではない」
「……」
「あちらが、童を迎えるのじゃ」
言い切れば、それが真実になる気がした。
九郎助は暫く黙っていた。
やがて、妹を見る目だけが少し深くなる。
「そう思えるうちは、それでいい」
気に入らない言い方だった。
何がしか諦めに近い響きがある。
しかし、百数十年を生きる九郎助にとって、妹の葛葉はまだ幼く、何もかもが自明であるように思われた。
齢で見れば人間の娘より長く生きていようと、妹の誇りがどこで傷つき、どこで噛みつくか兄には判っている。
葛葉は、与えられた役目のみを大人しく果たせる性質の姫ではなかった。
婚儀の日、葛葉は金糸の打掛を纏った。
白無垢など、着てやるものかと思った。
妖狐姫が人身御供よろしく人間に嫁ぐのだ。
決して人間の家に染まる心算はない。
供奉の狐たちが朱の鳥居の下に並び、尾を垂れ、最後に深く頭を下げた。
見慣れた姿が一つ、また一つと退いていく。
まだ里を出てもいないのに、もう戻る場所が遠ざかっていくようだった。
兄だけが最後まで残り、心配そうな表情を浮かべている。
結界のあった端を越える寸前、足が止まる。
山の緑も、社の屋根も、狐火の通り道も、いつもと何も変わらない。
それなのに、一歩出れば、もう二度と同じ場所には帰れない気がした。
阿呆らしい。
葛葉は顎を上げる。
妖狐の姫が、嫁ぎ先を前にして怯むものか。
この里を守るために、童が選んで、選ばれてやるのだ。
結界を越えてしまえば、道中に難はない。
見渡す限りの森も川にも、何の思い入れもない。
狐火を踏み、風の筋を渡り、葛葉は人間の足なら幾日もかかる道を半日ほどで越えた。
和泉の荘園へ着く頃には、迎えの列が門前に揃っているはずだった。
古い家格を誇る素封家なら、礼も作法も心得ているだろう。
まして、迎えるのは妖狐の姫である。
門の外まで一族総出で出迎え、深く頭を垂れる。
そう、思っていた。
――だが、屋敷の門前に着いたとき、葛葉を待つ者は誰もいなかった。
門は閉じている。
番の男が一人、欠伸を噛み殺して立っているだけだった。
葛葉は暫く、その門を見上げた。
日取りはとうに交わしてある。
文も遣わした。先方は知っている筈だ。
迎えが遅れているのではない。
忘れられているのでもない。
最初から、迎えるつもりがないのだ。
扇を取り出して、ぱしりと手の中で鳴らす。
「開けよ」
門番の男が、漸くこちらを見る。
その目に驚きはあっても、畏れはない。
葛葉は薄く笑った。
ならば、こちらから乗り込んでやる。
伏さぬというなら、ひれ伏させればよい。
その時の葛葉は、まだ知らなかった。
この家では妖狐の姫という名さえ、都合のよい飾りに過ぎぬのだと。
葛葉が人間の家へ嫁ぐことは、ずっと以前から決まっていた。
不本意ではあるが葛葉自身が納得もし、むしろ今は早う迎えに来い、とさえ思っていた。
妖狐の姫に生まれた以上、婚儀一つで世の均衡を贖えるものなら、といった気概の覚悟だ。
だが無論、心情としては面白くはない。
森の奥で兄だけを相手に我がまま一つも言ってみたくなる。
「本当に、妾でなければならぬのか」
その姿だけを見れば、葛葉はまだ童女に近い。
妖狐の時は、人間のそれとは違う。
成長はとうに止まり、耳と尾を隠せば年端もいかぬ娘にしか見えない。
それでも葛葉は、すでに人間と同じく表すならば、齢二十を越えていた。
幼いのではなく、妖狐として、そのように童女姿に留まっている。
里の森の最奥部、古い槻の根が絡む御座所で、葛葉は扇を鳴らし、弄んでいた。
向かいに座る兄、高叢九郎助は、すでに何度も聞いた問いだと言わんばかりの顔をしている。
「ならぬ」
「判っておるわ。つまらぬ返しじゃ」
「面白くするための婚儀ではない」
それも判っている。
現世か幽世かを問わず、すべての事象には木火土金水の巡りがある。
葛葉は、五行の金を司る白狐の姫だった。
刃を生み飾りを生み、断つ力と価値を司るもの。
里の者たちが葛葉を姫として扱うのは、何も血筋だけではない。
その身に宿る金の妖力が、狐の里でも一際濃いからだ。
土を司る妖の一族は、古き係争の果てに滅ぼされた。
血は絶え、名は削られ、祀る社さえ土に還った。
以来、五行の中央は空位となっている。
今は、かつて人間と交わって残された血のみだ。
土は、五行の中央の座に君臨する。
木を根づかせ、火を受け、金を孕み、水を堰き、境を作る。
全妖が今の現世で思うように力を振る舞えなくなったのは、中心を欠いたまま、木火金水だけで巡りを保とうとしているからだ。
「土の妖は滅びたが、人間と交わって残された血だけは、まだ和泉国の素封家に残っている」
九郎助は、広げた地図の一点を指で押さえた。
「それを、童に取り戻せと」
「婚儀という形でな」
大納言和泉家の荘園のあたり。
山の気配を背に負い、海へ向かう風が低く抜ける土地である。
古い大木の楠が根を張り、泉の水面には人ならぬものの姿まで映すという場所。
そこに代々、土地の上に富を積み上げてきた人間の家があるという。
「ずいぶんと遠回りな奪い方じゃ」
葛葉は扇の陰で笑った。
気安い兄妹の間柄のこと、葛葉は直截なやり取りに慣れた娘だった。
「血は奪えば荒れる。穏やかな契りで移すのが最善だ」
「ならば、その素封家とやらは、妾を迎えて泣いて喜ぶべきじゃな」
葛葉は軽く笑った。
そう言わねば、どこか落ち着かなかった。
「家格を欲しがる倉橋家にとって悪い話ではない。かつて宮筋を迎えたこともある。次は妖を……というところだろう」
「つまり、あちらは妾の名が欲しい」
九郎助は、すぐには答えなかった。
下手に慰めれば、葛葉は余計に機嫌を損ねる。
だから結局、事実だけを選んだ。
「同じことじゃ。こちらは土が欲しい」
「身も蓋もないが、致し方あるまい……」
「政略による婚儀、望むところじゃわ!」
葛葉は妖狐の里の姫として生まれた。
愛だの、情だの、そういうものを期待していたわけではない。
それが我が身に課せられた義務だと、幼い頃から会話の端々から感づいていた。
ただ、差し出される側にも格というものを保っても罰は当たらないのではないか。
「相手は?」
「次期当主、星名」
「十六の小僧と聞いたが」
「人間であれば、妻を持っても可笑しくはない年齢だ」
「――ふん。童を迎えるには足りぬ」
九郎助は否定しなかった。
そこがまた、腹立たしい。
否定しないなら、せめて笑えばいい。
そうすればこちらも、いつものように兄を鼻であしらえた。
けれど、兄は笑わなかった。
「だが、結界は破れたのだ」
「妾の身一つ、供物として足るものなら」
「そうだな。……これは婚儀であって、婚儀だけではない」
葛葉の扇の骨が、手の中で鳴った。
兄が真剣な表情でこちらを見ている。
諌めようというのだろう。
心配と、気遣いと、少しばかりの当惑まで滲ませて。
「葛葉。相手が幼いからと侮るな。あの家を動かしているのは、今はまだ父親の方だ」
「では、その父親とやらが、妾を崇めればよいのじゃ」
葛葉は扇の端から、ちらりと目を覗かせ得意げに兄を見上げた。
まるで、いま自分がこの世で尤も理にかなったことを言ったと信じて疑わぬ顔だった。
「崇めは、……しないだろう」
「ならば、ひれ伏せるがよい」
「それも、ないだろう」
九郎助はそこで初めて、どう言えばこの妹の矜持を折らずに済むか考える顔をした。
葛葉は、そういう兄の顔が嫌いだった。
叱られる方がまだいい。鼻で笑われる方が、ずっと扱いやすい。
困ったものを見るように案じられると、世間知らずの小娘扱いされたようで腹が立つ。
「兄上。童は妖狐の姫じゃ」
「ああ」
「人間の家に下るのではない」
「……」
「あちらが、童を迎えるのじゃ」
言い切れば、それが真実になる気がした。
九郎助は暫く黙っていた。
やがて、妹を見る目だけが少し深くなる。
「そう思えるうちは、それでいい」
気に入らない言い方だった。
何がしか諦めに近い響きがある。
しかし、百数十年を生きる九郎助にとって、妹の葛葉はまだ幼く、何もかもが自明であるように思われた。
齢で見れば人間の娘より長く生きていようと、妹の誇りがどこで傷つき、どこで噛みつくか兄には判っている。
葛葉は、与えられた役目のみを大人しく果たせる性質の姫ではなかった。
婚儀の日、葛葉は金糸の打掛を纏った。
白無垢など、着てやるものかと思った。
妖狐姫が人身御供よろしく人間に嫁ぐのだ。
決して人間の家に染まる心算はない。
供奉の狐たちが朱の鳥居の下に並び、尾を垂れ、最後に深く頭を下げた。
見慣れた姿が一つ、また一つと退いていく。
まだ里を出てもいないのに、もう戻る場所が遠ざかっていくようだった。
兄だけが最後まで残り、心配そうな表情を浮かべている。
結界のあった端を越える寸前、足が止まる。
山の緑も、社の屋根も、狐火の通り道も、いつもと何も変わらない。
それなのに、一歩出れば、もう二度と同じ場所には帰れない気がした。
阿呆らしい。
葛葉は顎を上げる。
妖狐の姫が、嫁ぎ先を前にして怯むものか。
この里を守るために、童が選んで、選ばれてやるのだ。
結界を越えてしまえば、道中に難はない。
見渡す限りの森も川にも、何の思い入れもない。
狐火を踏み、風の筋を渡り、葛葉は人間の足なら幾日もかかる道を半日ほどで越えた。
和泉の荘園へ着く頃には、迎えの列が門前に揃っているはずだった。
古い家格を誇る素封家なら、礼も作法も心得ているだろう。
まして、迎えるのは妖狐の姫である。
門の外まで一族総出で出迎え、深く頭を垂れる。
そう、思っていた。
――だが、屋敷の門前に着いたとき、葛葉を待つ者は誰もいなかった。
門は閉じている。
番の男が一人、欠伸を噛み殺して立っているだけだった。
葛葉は暫く、その門を見上げた。
日取りはとうに交わしてある。
文も遣わした。先方は知っている筈だ。
迎えが遅れているのではない。
忘れられているのでもない。
最初から、迎えるつもりがないのだ。
扇を取り出して、ぱしりと手の中で鳴らす。
「開けよ」
門番の男が、漸くこちらを見る。
その目に驚きはあっても、畏れはない。
葛葉は薄く笑った。
ならば、こちらから乗り込んでやる。
伏さぬというなら、ひれ伏させればよい。
その時の葛葉は、まだ知らなかった。
この家では妖狐の姫という名さえ、都合のよい飾りに過ぎぬのだと。



