玻璃燈が、異国の花のように咲いていた。
高い天井から垂れる水晶硝子の房が、砕けた光を床へ、肩へ、指先へと散らしている。
滑るような楽の音に乗り、人と人とが円を描く。
絹の洋礼装が翻り、香が混じり、笑みが重なる。
そのすべてが、眩しいほど遠かった。
――鹿鳴館。
誰かがそう囁いたのは、つい先ほど。
ここはその名を持たず、ただ似ているというだけだ。
息を吸うたび、異国の匂いが肺に満ちる。
蘇る記憶にむせ返り、何かが遠くなる。
――長く、置かれていた。
眠り、と呼ぶには軽い。
触れられず、触れられぬまま。
祈られ、ただ在るものとして据えられていた時間。
葛葉は数年間、稲荷地蔵であった。
石像として社に安置され、祈られ、祀られてきた。
皮膚の裏側に、まだ石の名残がある。
指先が、思い出したように硬くなる気がして来る。
一つ、息を吸う。
今はもう動く筈だ。
歩くことも、息をすることも、瞬きをすることも、すべて自分のものだ。
それで足りる。
――足りることにする。
「……母上」
隣から呼びかけられ、顔を向ける。
整った顔立ちの青年が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
石像であった一年を除けば、まだ生まれて七年の子にすぎない。
童子丸は、葛葉の妖力を余すところなく吸い上げて育った。
溢れんばかりの妖気を抱えた身は、目覚めてから一息に伸びた。
今では青年と見紛うほどの姿をしている。
それでも、葛葉にとっては大切な子である。
否、地蔵であったときのことや、その後の七年など、考えるだに値しない。
息子の目元に残る俤を辿りそうになる気持ちを、慌てて振り払う。
それは追ってはならぬ、浸ってはならぬ追憶だ。
この子は、あの夜の果てに残されたもの。
それでいい。
それ以上は――思い出したくもない。
「疲れてはおらぬ。人間との社交を続けよ」
短く返す。
童子丸は、妖の姫であった葛葉の血を半分継ぎ、もう半分を人間としてこの世に受けた子である。
人間の社会に潜伏するのだ。
足がかりは、堅く築いておかねばならない。
かつて葛葉が嗤われたように、この子まで嗤われることのないように。
青年は言い付けをよく噛み砕いてから、頷いた。
どこか探るような眼差しだが、直接問い糺して来る気配はない。
音楽が変わる。
輪の流れが解け、新しい組み合わせが生まれ始めた。
と、そのとき。
ふいに視線が、背を撫でた気がした。
振り向きかけて、止める。
その必要はない、と言い聞かせる。
ここに居る筈がないのだから。
「やはり、顔色が優れません。……参りましょう」
青年が、傍らで帰宅を促した。
頷きかけた、その刹那。
足音が一つ、近づく。
床を打つ革靴の音。
思わず見やると――
――覚えがある。
いや、違う。
あれから十年だ。
なにしろ、十年。
人間の時間とは、妖にとっての時間ほど軽く流れるものではない。
「……失礼」
声が降りる。
どこかで聞いた響き。
顔を上げる。
視線が合う。
――違う。
まず、そう思う。
自分に言い聞かせる。
違う筈なのに、どこか記憶と重なっていた。
あの男はもっと頼りなく、掴みどころがなかった。
放っておけば風に流されそうな、少年に近い顔をしていた。
だが、目の前の男は。
隙のない仕立ての燕尾服に身を包み、背筋を通し、揺るがぬ眼差しを持つ。
輪郭は削られ、線は固くなり、もう誰にも預けかからぬ意志の強い顔をしている。
だが、喉が乾き、呼吸がひどく意識され始めた。
「お相手を」
――差し出された手。
舞踏の誘いだった。
広間では、すでに幾組もの男女が楽の音に合わせて円を描いている。
差し出された手を取れば、そのまま輪の中へ入ることになる。
礼として受ければいい、それだけのことだ。
よしんば本人だとして、気付きはしまい。
なぜなら葛葉もまた、あの頃の妖狐姫ではない。
石像の呪縛が解けたとき、狐耳も尾も失われ、姿は人間の女へ移ろっていた。
童子丸を抱えて逃げ出したときにも、誰一人として、かつての花嫁だとは悟らなかった。
目を覚ました場所が星名の抱屋敷であったことには驚いた。
けれど逃げ出す折も、誰にも姿を知られぬよう、首尾よく遂せた筈だ。
振り返らず、音を立てず、一目散に。
そのまま出て、――上手く隠れてきたのだ。
だから、気付いている筈はないのだ。
そう結論づけるまでに、一拍を要した。
指を重ねる。
温度が伝わる。
――温かい。
当たり前のことが、妙に遠くなっていく。
引き寄せられ、輪の中へ。
距離が近い。吐息が触れる。
「……覚えが、ある」
低く落ちた声。
星名の言葉は、問いではなかった。
「その、目の形が」
確かめるためでもない。
ただ、抑えきれずに零れて独り言ちたもののようだった。
視線が外れない。
逃げるなら、今だった。
礼をして手を引けばいい。
扇で口元を隠し、知らぬふりをして、ただの舞踏会の一幕にしてしまえばいい。
なのに、指が動かない。
星名の手が、葛葉の手を包んだまま離れなかった。
握り締められたわけではない。痛いほどでもない。
ただ、ほんの少しだけ、帰すまいとする力が宿っている。
その熱が、十年を越えて来る。
あの頃の頼りない少年とは違う。
目の前の男は背筋を通し、幾つもの思惑を見慣れた男の顔をしている。
もう――容易く情を窺わせる年頃でもない。
それでも、眼だけがあの夜と同じだった。
見つけてしまった、と言いたげな眼。
失くしたものに、漸く触れたような眼。
葛葉も同じことを感じていた。
似た特徴を見ては、必死に否定していた。
――違う。
違う、と。
思い込まなければならぬ。
だが、互いに目が離れない。
音楽に合わせて足が運ばれる。
形は整っている。乱れはない。
それでも、呼吸が苦しい。
昔は、こちらを見もしなかった。
話しかけても上の空で、葛葉が何を好み、何を嫌うかすら知ろうとしなかった少年。
父親に反発するように学問へ逃げ込み、屋敷の中のことに背を向けたような顔をしていた。
そのくせ誰かに直接傷つけられた訳ではなく、近付かれれば扱いに困って目を逸らす。
なのに葛葉の言葉遣いだけは「尊大だ」と言って直そうとした。
自分もまた、何に苛立っているのか判らぬ年頃だったくせに。
葛葉は妖狐の姫の生まれだ。
尊大になって当然の育ちだったし、今だって息子に同じ轍を踏ませないよう、こうして人間に紛れて生活を作り上げてきた――それなのに。
――今更、そんな眼で見るな。
「……誰かに似ている、と言われたことは」
「い、否、……いえ……」
星名は、葛葉の賢しらぶった口調を殊に嫌っていた。
だから、かつての話しぶりは意図して捨てた。
他にも多くのものを犠牲にしたという思いがある。
あの家で何度、言葉を呑み込んだだろう。
もう少し、こちらへ歩み寄ってくれてもいいではないかと、願ってばかりだった。
言葉を探すように、男が続ける。
けれど、ふと眼が細まった。
疑いではない。
追っているのだ。
――葛葉が時折、気にしてしまう視線の先を。
「……あの男は」
抑えてはいる。
だが、抑えきれていない何かが星名の眼の奥に宿っていた。
男の視線は葛葉を離れ、青年へ落ちたままだ。
童子丸は動かず、ただ母を案じる目でこちらを見ている。
一歩、踏み出す気配。
楽の音は、すでに止んでいた。
磨かれた床を打つ靴音だけが、一つ、また一つと近付いて来る。
葛葉は動けなかった。
星名――。
呼んでしまえば終わる。
制止の名を口にした瞬間、知己であると露見する。
否。
もう、とっくに気付いているのかもしれない。
思考ばかりが乱れ、身体は追いつかない。
見ていることしかできなかった。
――止めよ、星名。
胸の内で幾度命じても、男の足は止まらない。
星名は、青年の前に立つ。
間が生まれた。
言葉がないまま、互いに相手を測る。
葛葉でないと気付かぬ程度に、二人は似ている。
輪郭だけでなく、立ち方まで。
それが、余計に厄介だ。
「……随分と」
星名が、童子丸に向かって口を開いた。
「あのご婦人と、親しいようだな」
問いではなかった。
探るための断定だった。
その無遠慮さに、童子丸の眉間がぴくりと動く。
ただの好奇心ではない。踏み込む気配がある。
母を測り、奪う機会を探すような、男の欲がある。
「そのご婦人の名も知らぬ方に、答える義理はございません」
「……名を知らぬ、か」
低く、星名が繰り返す。
知らぬ筈がない。
その眼はとうに、昔の輪郭へ触れている。
それでも口にしないのは、確かめたいからか。
それとも、口にした瞬間にすべてが崩れると知っているからか。
星名の視線が、童子丸へ落ちる。
そこに、ほんの少し、別の色が差した。
嫉妬にも似ていた。
だがそれより深い、十年分の空白を前にした男の色だった。
それなのに、次の瞬間には笑っている。
礼儀正しい、隙のない笑みだった。
「失礼。では、私が先に名乗るべきだった。私は――倉橋星名だ」
やはり、葛葉の見間違えではなかった。
高い天井から垂れる水晶硝子の房が、砕けた光を床へ、肩へ、指先へと散らしている。
滑るような楽の音に乗り、人と人とが円を描く。
絹の洋礼装が翻り、香が混じり、笑みが重なる。
そのすべてが、眩しいほど遠かった。
――鹿鳴館。
誰かがそう囁いたのは、つい先ほど。
ここはその名を持たず、ただ似ているというだけだ。
息を吸うたび、異国の匂いが肺に満ちる。
蘇る記憶にむせ返り、何かが遠くなる。
――長く、置かれていた。
眠り、と呼ぶには軽い。
触れられず、触れられぬまま。
祈られ、ただ在るものとして据えられていた時間。
葛葉は数年間、稲荷地蔵であった。
石像として社に安置され、祈られ、祀られてきた。
皮膚の裏側に、まだ石の名残がある。
指先が、思い出したように硬くなる気がして来る。
一つ、息を吸う。
今はもう動く筈だ。
歩くことも、息をすることも、瞬きをすることも、すべて自分のものだ。
それで足りる。
――足りることにする。
「……母上」
隣から呼びかけられ、顔を向ける。
整った顔立ちの青年が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
石像であった一年を除けば、まだ生まれて七年の子にすぎない。
童子丸は、葛葉の妖力を余すところなく吸い上げて育った。
溢れんばかりの妖気を抱えた身は、目覚めてから一息に伸びた。
今では青年と見紛うほどの姿をしている。
それでも、葛葉にとっては大切な子である。
否、地蔵であったときのことや、その後の七年など、考えるだに値しない。
息子の目元に残る俤を辿りそうになる気持ちを、慌てて振り払う。
それは追ってはならぬ、浸ってはならぬ追憶だ。
この子は、あの夜の果てに残されたもの。
それでいい。
それ以上は――思い出したくもない。
「疲れてはおらぬ。人間との社交を続けよ」
短く返す。
童子丸は、妖の姫であった葛葉の血を半分継ぎ、もう半分を人間としてこの世に受けた子である。
人間の社会に潜伏するのだ。
足がかりは、堅く築いておかねばならない。
かつて葛葉が嗤われたように、この子まで嗤われることのないように。
青年は言い付けをよく噛み砕いてから、頷いた。
どこか探るような眼差しだが、直接問い糺して来る気配はない。
音楽が変わる。
輪の流れが解け、新しい組み合わせが生まれ始めた。
と、そのとき。
ふいに視線が、背を撫でた気がした。
振り向きかけて、止める。
その必要はない、と言い聞かせる。
ここに居る筈がないのだから。
「やはり、顔色が優れません。……参りましょう」
青年が、傍らで帰宅を促した。
頷きかけた、その刹那。
足音が一つ、近づく。
床を打つ革靴の音。
思わず見やると――
――覚えがある。
いや、違う。
あれから十年だ。
なにしろ、十年。
人間の時間とは、妖にとっての時間ほど軽く流れるものではない。
「……失礼」
声が降りる。
どこかで聞いた響き。
顔を上げる。
視線が合う。
――違う。
まず、そう思う。
自分に言い聞かせる。
違う筈なのに、どこか記憶と重なっていた。
あの男はもっと頼りなく、掴みどころがなかった。
放っておけば風に流されそうな、少年に近い顔をしていた。
だが、目の前の男は。
隙のない仕立ての燕尾服に身を包み、背筋を通し、揺るがぬ眼差しを持つ。
輪郭は削られ、線は固くなり、もう誰にも預けかからぬ意志の強い顔をしている。
だが、喉が乾き、呼吸がひどく意識され始めた。
「お相手を」
――差し出された手。
舞踏の誘いだった。
広間では、すでに幾組もの男女が楽の音に合わせて円を描いている。
差し出された手を取れば、そのまま輪の中へ入ることになる。
礼として受ければいい、それだけのことだ。
よしんば本人だとして、気付きはしまい。
なぜなら葛葉もまた、あの頃の妖狐姫ではない。
石像の呪縛が解けたとき、狐耳も尾も失われ、姿は人間の女へ移ろっていた。
童子丸を抱えて逃げ出したときにも、誰一人として、かつての花嫁だとは悟らなかった。
目を覚ました場所が星名の抱屋敷であったことには驚いた。
けれど逃げ出す折も、誰にも姿を知られぬよう、首尾よく遂せた筈だ。
振り返らず、音を立てず、一目散に。
そのまま出て、――上手く隠れてきたのだ。
だから、気付いている筈はないのだ。
そう結論づけるまでに、一拍を要した。
指を重ねる。
温度が伝わる。
――温かい。
当たり前のことが、妙に遠くなっていく。
引き寄せられ、輪の中へ。
距離が近い。吐息が触れる。
「……覚えが、ある」
低く落ちた声。
星名の言葉は、問いではなかった。
「その、目の形が」
確かめるためでもない。
ただ、抑えきれずに零れて独り言ちたもののようだった。
視線が外れない。
逃げるなら、今だった。
礼をして手を引けばいい。
扇で口元を隠し、知らぬふりをして、ただの舞踏会の一幕にしてしまえばいい。
なのに、指が動かない。
星名の手が、葛葉の手を包んだまま離れなかった。
握り締められたわけではない。痛いほどでもない。
ただ、ほんの少しだけ、帰すまいとする力が宿っている。
その熱が、十年を越えて来る。
あの頃の頼りない少年とは違う。
目の前の男は背筋を通し、幾つもの思惑を見慣れた男の顔をしている。
もう――容易く情を窺わせる年頃でもない。
それでも、眼だけがあの夜と同じだった。
見つけてしまった、と言いたげな眼。
失くしたものに、漸く触れたような眼。
葛葉も同じことを感じていた。
似た特徴を見ては、必死に否定していた。
――違う。
違う、と。
思い込まなければならぬ。
だが、互いに目が離れない。
音楽に合わせて足が運ばれる。
形は整っている。乱れはない。
それでも、呼吸が苦しい。
昔は、こちらを見もしなかった。
話しかけても上の空で、葛葉が何を好み、何を嫌うかすら知ろうとしなかった少年。
父親に反発するように学問へ逃げ込み、屋敷の中のことに背を向けたような顔をしていた。
そのくせ誰かに直接傷つけられた訳ではなく、近付かれれば扱いに困って目を逸らす。
なのに葛葉の言葉遣いだけは「尊大だ」と言って直そうとした。
自分もまた、何に苛立っているのか判らぬ年頃だったくせに。
葛葉は妖狐の姫の生まれだ。
尊大になって当然の育ちだったし、今だって息子に同じ轍を踏ませないよう、こうして人間に紛れて生活を作り上げてきた――それなのに。
――今更、そんな眼で見るな。
「……誰かに似ている、と言われたことは」
「い、否、……いえ……」
星名は、葛葉の賢しらぶった口調を殊に嫌っていた。
だから、かつての話しぶりは意図して捨てた。
他にも多くのものを犠牲にしたという思いがある。
あの家で何度、言葉を呑み込んだだろう。
もう少し、こちらへ歩み寄ってくれてもいいではないかと、願ってばかりだった。
言葉を探すように、男が続ける。
けれど、ふと眼が細まった。
疑いではない。
追っているのだ。
――葛葉が時折、気にしてしまう視線の先を。
「……あの男は」
抑えてはいる。
だが、抑えきれていない何かが星名の眼の奥に宿っていた。
男の視線は葛葉を離れ、青年へ落ちたままだ。
童子丸は動かず、ただ母を案じる目でこちらを見ている。
一歩、踏み出す気配。
楽の音は、すでに止んでいた。
磨かれた床を打つ靴音だけが、一つ、また一つと近付いて来る。
葛葉は動けなかった。
星名――。
呼んでしまえば終わる。
制止の名を口にした瞬間、知己であると露見する。
否。
もう、とっくに気付いているのかもしれない。
思考ばかりが乱れ、身体は追いつかない。
見ていることしかできなかった。
――止めよ、星名。
胸の内で幾度命じても、男の足は止まらない。
星名は、青年の前に立つ。
間が生まれた。
言葉がないまま、互いに相手を測る。
葛葉でないと気付かぬ程度に、二人は似ている。
輪郭だけでなく、立ち方まで。
それが、余計に厄介だ。
「……随分と」
星名が、童子丸に向かって口を開いた。
「あのご婦人と、親しいようだな」
問いではなかった。
探るための断定だった。
その無遠慮さに、童子丸の眉間がぴくりと動く。
ただの好奇心ではない。踏み込む気配がある。
母を測り、奪う機会を探すような、男の欲がある。
「そのご婦人の名も知らぬ方に、答える義理はございません」
「……名を知らぬ、か」
低く、星名が繰り返す。
知らぬ筈がない。
その眼はとうに、昔の輪郭へ触れている。
それでも口にしないのは、確かめたいからか。
それとも、口にした瞬間にすべてが崩れると知っているからか。
星名の視線が、童子丸へ落ちる。
そこに、ほんの少し、別の色が差した。
嫉妬にも似ていた。
だがそれより深い、十年分の空白を前にした男の色だった。
それなのに、次の瞬間には笑っている。
礼儀正しい、隙のない笑みだった。
「失礼。では、私が先に名乗るべきだった。私は――倉橋星名だ」
やはり、葛葉の見間違えではなかった。



