イケメン棒読み演劇部員の練習に巻き込まれました

「とにかく時間がない。今から演劇の基礎の基礎を叩きこむから、死ぬ気でマスターしろ」
「先生〜! 演劇の基礎の基礎って、具体的にどんなのですかー?」
 黒板の前に立った俺に、床で胡座をかいている桐崎が「はーい」と手をあげて質問してくる。
 俺はそれに「いい質問だ」と、まるで大学の教授になったような気分で得意げに答えた。
 黒板の下にまだ残っていた白チョークを手に取り、緑の板の上に滑らせていく。
 書き終わった俺は振り返ってバンっと黒板を叩いた。
 
「演劇の基礎の基礎、それは――『腹式呼吸』だ」

 黒板に大きく書かれた『腹式呼吸』という文字を見て、桐崎がポカンとした表情になる。
「え、腹式呼吸なら俺もう出来るけど?」
「……んん?」
 俺は笑顔で首を傾げる。おかしいな、俺の耳が悪くなったのか?
 ――今、『腹式呼吸出来る』って言った?
「腹式呼吸、出来るのか?」
「ああ、出来るぞ!」
 桐崎はサッと立ち上がると、大きく口を開けてスゥッと息を吸う。嫌な予感がして咄嗟に耳を塞いだその時、
 
「アメンボ! アカイナ! アイウエオーーー!」

 まるで竜の雄叫び。ここが漫画の世界なら窓ガラスはガタガタと揺れ、何枚か割れていただろう。
 塞いでいたのに、耳の奥がキーンと鳴る。
「どうだ!」
「どうだじゃねぇこの馬鹿! それは腹式呼吸じゃねーんだよ!」
 わからない。なぜ桐崎がこんなに自信満々なのかが、俺には本当にわからない。
 ――これを、あと一週間で、主演に……?
 足から力が抜け、床に手をつきガックリと項垂れてしまう。
「織宮!? やっぱり体調悪かったのか!」
「ちげぇわ! お前……お前なぁ! それは腹式呼吸じゃなくて喉から無理やり出してるだけって、何回言わせるんだよこのド阿呆!」
 駆け寄って背中を撫でてくれた桐崎をジロリと睨む。未だにこめかみの辺りで耳鳴りがしている。
 
 俺はゆっくり起き上がり床に座ると、人差し指を真下に向けた。
「――寝転べ」
「ん?」
「『ん?』じゃねぇ。寝転べっつってんの」
 俺は至極笑顔で話しかけたつもりだが、桐崎は何故か「ヒィッ」と喉奥から引き攣るような声を漏らすと一瞬で床に仰向けに寝転んだ。
 
「……で、どうすんの?」
 寝転んだままこちらを見上げている桐崎の近くに移動し、お腹の上にそっと手を置く。
「はい、息吸って〜」
「息?」
「ほら、早く吸う!」
「は、はいっ!」
 桐崎がスゥッと大きく息を吸うと、お腹がポコリと膨らむ。
「はい、吐いて」
 俺の合図と共にフーっと息が吐かれ、桐崎のお腹が元に戻る。これを何度か繰り返す。
 
「……で、これなに?」
 ただ寝転がって呼吸をしているだけ、桐崎には何をしているのかサッパリだったのだろう。困惑したように眉を下げこちらを見る桐崎に、俺はニヤリと笑いかける。
「今お腹が膨らんだだろ?」
「ん? うん」
「これが腹式呼吸だ」
「これがぁ!?」
 
 桐崎の普段の様子を見ていると、息を吸う時お腹に力を込めすぎて胸の方が上がり、腹はへこんでいた。それでは駄目だ。
 腹式呼吸というのは、お腹に息をためてそれを吐き出す作業。
 そして、人は寝転がっていると、自然と腹式呼吸になるようになっている。

「とりあえずこれを繰り返してコツ掴んで、立ってるままでも出来るように練習しろ。話はそれからだ」
 桐崎の一番酷いのは発声方法だ。普段話している声は透き通って綺麗なのに、大きな声を出そうと無理をするから潰れてしまっている。発声練習をガチれば一瞬で化けると俺は睨んでいる。

 そして、
「あめんぼ、赤いな、あいうえお!」
「おお! いいじゃん!」
「まじ?」
 俺の睨み通り、桐崎は発声方法を変えるとすぐに伸びやかに綺麗なまま大きな声を出せるようになっていた。
 正直、呑み込みが早すぎて驚いた。桐崎は一瞬で腹式呼吸をマスターしてしまった。

「逆に今までなんでできてなかったんだよ……」
「いや、腹式呼吸ってお腹の空気を全部吐き切るっていう謎の先入観が強くて」
「ちゃんと勉強しろコノヤロウ」

 いやしかし、桐崎の努力はちゃんと分かっていた。今回の習得の早さは、桐崎の体幹の良さが関係していると思う。体幹トレーニングをしっかりしていたのだろう。

「よし、今日はもう帰るか」
「え、もう?」
「詰め込みすぎても良くないだろ。というか、今日と明日くらいは腹式呼吸で潰れると思ってたけど習得早かったからさ。今日は帰ってゆっくり休めよ」
「おう、そうする! 織宮まじサンキュー」
「ああ、お礼は内申点でいいぞ」

 そんな冗談を言いながら、俺たちは帰りの支度をして教室を出た。
 
 
**  
「にしても、織宮って色々詳しいな。もしかして演技やったことある?」
 旧校舎の廊下を歩いていると、桐崎が急にそんなことを言い出した。
「……いや、色々調べたんだよ。俺の内申点のためにな」
「ふーん、そっかぁ……」
 
 浮ついた声に隣を見ると、桐崎がその整った唇の口角を上げて、ニヤニヤと笑っていた。
 
「……何ニヤニヤしてんだよ」
「いや〜? 素直に『桐崎のため』って言えばいいのに、織宮はほんと素直じゃな——」
「なっ……!? お前の為なわけあるかぁぁ!!」
「いったぁ!? だから、そうやってすぐ脛蹴るのやめろよ!」
「知らん! 変なこと言い出したお前のせいだろ!」
 
 大股早歩きで門に向かう俺の後ろから「織宮待てよー!」と言いついてくる桐崎の声が聞こえた。